弟は帳簿を見ている
「帳簿の手伝いだ」
そう言われた時。
俺は、正直少し安心した。
戦場ではない。
矢も飛んでこない。
槍も飛んでこない。
馬にも踏まれない。
人を斬る必要もない。
帳簿。
紙。
筆。
数字。
安全。
少なくとも、俺はそう思った。
「弥太郎」
「はい」
「顔が死んでるぞ」
孫七が笑っている。
俺は目の前の紙を見る。
もう一度見る。
やっぱり分からない。
「……戦場に戻りたい」
「早いな」
「何なんですか、これ」
「帳簿だろ」
「それは見れば分かります」
問題は中身だ。
誰がどこで戦った。
誰が何人兵を出した。
誰が功を立てた。
誰がどこの土地を持っていた。
その土地を誰が欲しがっている。
誰に何を与える。
誰から何を取り上げる。
さらに、
「これは昔から自分の土地だった」
という訴え。
「いや、父の代にこちらへ渡された」
という反論。
「その証文は偽物だ」
という再反論。
俺は紙を置いた。
「旗より難しい」
孫七が笑う。
「お前、旗なら何でも分かるもんな」
「褒められてる気がしない」
「でも安全だろ」
「今のところは」
俺は部屋の奥を見る。
そこには、
足利直義様がいる。
何枚もの書状。
帳簿。
訴状。
文書。
それを一枚ずつ確認している。
顔が怖い。
いや、怒っているわけじゃない。
真剣すぎて怖い。
横にいる役人が言う。
「こちらの所領ですが――」
直義様。
「前例は」
「ございます」
「確認したか」
「はい」
「なら、それに従う」
次。
「こちらは?」
「双方が所有を主張しております」
「証文は」
「両方に」
「古い方は」
「こちらです」
「では詳細を調べる」
次。
次。
次。
ずっと続く。
俺は思った。
この人、いつ休むんだろう。
◇
昼。
俺はようやく筆を置いた。
「孫七」
「何だ」
「飯」
「食うか」
「食べないと死ぬ」
最近、俺たちの間ではこれが合言葉になりつつある。
庭先に座って握り飯を食べる。
久しぶりに静かだ。
戦場じゃない。
叫び声もない。
使者が走ってくる音もない。
いい。
平和だ。
「弥太郎」
「何です」
「お前、こういう仕事向いてるんじゃないか」
「嫌です」
「即答」
「旗の方がいい」
「武士は?」
「……一応続けます」
孫七が笑う。
その時、後ろから声。
「何を続けるのだ」
俺の背中が伸びた。
振り返る。
直義様。
いつからいたんですか。
「武士です」
俺は答える。
直義様が俺を見る。
「旗屋ではないのか」
「まだ違います」
「まだ?」
「皆さん、それ言うんですよね」
直義様が少しだけ笑った。
珍しい。
この人も笑うんだ。
孫七が慌てて姿勢を正す。
「直義様もお食事ですか」
「そうだ」
直義様が腰を下ろす。
俺たちと同じ握り飯。
意外だった。
もっとこう、偉い人は豪華なものを食べると思っていた。
俺が見ていると、直義様が言う。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「普通なんですね」
「何が」
「飯が」
直義様が握り飯を見る。
「飯は飯だろう」
孫七が吹き出しそうになる。
俺も危なかった。
この人、たまに妙なところで面白い。
◇
俺は聞いた。
「直義様」
「何だ」
「ずっとあれをやってるんですか」
「あれ?」
「帳簿とか、訴えとか、土地とか」
直義様は頷く。
「必要だからな」
「戦より大変じゃないです?」
「種類が違う」
「でも終わらないですよね」
「終わらん」
即答。
「嫌になりません?」
孫七が俺の脇腹を小突いた。
「聞くなよ」
でも直義様は怒らなかった。
「なる時もある」
意外だった。
「あるんですか」
「人間だからな」
その言い方が少し面白い。
直義様は続けた。
「だが、誰かがやらねばならん」
「何でそこまで」
「決めなければ争いになる」
俺は少し黙った。
直義様は言う。
「土地がある」
「はい」
「二人が自分のものだと言う」
「はい」
「放っておけば?」
俺は考える。
「戦う?」
「そうだ」
「じゃあ決める」
「ああ」
「でも、負けた方は怒りますよね」
「怒る」
「結局揉めません?」
直義様は少し笑った。
「だから難しい」
なるほど。
俺は思った。
戦場では、
敵が見える。
向こうから槍を持ってくる。
分かりやすい。
でも政治では、誰も自分が悪いとは思っていない。
むしろ、全員が自分こそ正しいと思っている。
正成殿が言っていた。
正しいと思う者同士が戦う時が、一番厄介だ。
あの言葉を、また思い出した。
◇
午後。
足利尊氏様が来た。
「直義」
嫌な予感。
俺ですら分かった。
直義様は顔を上げない。
「何です」
「一つ頼みがある」
「嫌です」
「まだ何も言っていない」
「兄上の『一つ頼みがある』は、大体ろくなものではありません」
俺は孫七を見る。
孫七も俺を見る。
兄弟の会話を聞くのは楽しい。
安全な場所からなら。
尊氏様は一枚の書状を出した。
「この者に土地を与えたい」
直義様の手が止まる。
「どこを」
尊氏様が答える。
直義様。
「駄目です」
「早い」
「そこには既に領主がおります」
「半分なら」
「土地は餅ではありません」
俺は吹き出しそうになる。
孫七が肩を震わせている。
尊氏様は真面目な顔で言う。
「この者は命を懸けて戦った」
「分かっています」
「なら報いたい」
「私もそう思います」
尊氏様が少し嬉しそうな顔をする。
「なら」
「土地がないのです」
尊氏様の顔が戻る。
「何とかならんか」
直義様。
「なりません」
「そこを何とかするのが、お前の仕事だろう」
直義様はゆっくり顔を上げた。
怖い。
「兄上」
「何だ」
「ないものは出せません」
尊氏様が俺を見る。
「弥太郎」
来た。
絶対来ると思った。
「はい」
「お前ならどうする」
直義様が即座に言う。
「この男を政治判断に使わないでください」
「面白い意見を言う」
「面白さで土地を配らないでください」
俺は逃げたい。
でも尊氏様が見ている。
直義様も見ている。
孫七はなぜか楽しそう。
「ええと」
俺は考えた。
「尊氏様の気持ちは分かります」
尊氏様が頷く。
「ほら」
直義様が嫌そうな顔。
俺は続ける。
「命懸けで戦ったのに何もなかったら、次から戦いたくなくなります」
「そうだろう」
「でも」
直義様が俺を見る。
「ない土地は配れないと思います」
今度は直義様が少し頷く。
尊氏様が腕を組む。
俺は言った。
「……どっちも正しいから困ってるんですよね?」
沈黙。
尊氏様と直義様が顔を見合わせる。
俺は思った。
また余計なこと言ったか。
でも尊氏様は笑った。
「そうだな」
直義様もため息をつく。
「それが分かっているなら、兄上も少しは遠慮してください」
「でも皆に報いたい」
「そこです」
尊氏様。
「何が」
直義様。
「兄上は人に与えすぎます」
尊氏様は少し考える。
「悪いことか?」
直義様。
「国を治める上では、悪いことになる場合があります」
尊氏様は困った顔をした。
本当に分かっていない顔だった。
俺はその時、少しだけ理解した。
尊氏様は、人を喜ばせたい。
直義様は、国を壊したくない。
たぶん、どちらも本気だ。
だから、どちらも譲れない。
◇
その日の夕方。
また問題が起きた。
「直義様!」
役人が走ってくる。
俺は反射的に筆を止める。
最近、走ってくる人間を見るだけで嫌な予感がする。
「何だ」
直義様が聞く。
「所領争いです!」
「どこだ」
地名が出る。
直義様が立ち上がる。
「双方を呼べ」
役人が言いにくそうにする。
「それが」
嫌な「それが」だ。
「既に双方、兵を集めております」
直義様の顔が変わった。
「止めろ」
「はい!」
「決着が出るまで動くなと伝えろ」
「従いますでしょうか」
「従わせろ」
役人が走っていく。
俺は言った。
「直義様」
「何だ」
「大変ですね」
「今さら気づいたか」
「戦場より安全だと思ってました」
直義様は少し笑った。
「矢は飛んでこない」
「はい」
「だが、失敗すれば後で何千本も飛んでくる」
俺は黙った。
確かに。
土地一つ。
判断一つ。
それが戦になる。
戦になれば、俺たちはまた旗を作る。
俺は思った。
もしかして。
戦というものは、戦場で始まるわけではないのかもしれない。
その前に、誰かが何かを決めて。
誰かが納得できなくて。
誰かが怒って。
少しずつ始まる。
そう考えると。
目の前の帳簿が、急に怖く見えた。
◇
夜、尊氏様と直義様が、二人で話していた。
俺は少し離れた場所で紙を整理していた。
聞くつもりはない。
でも聞こえる。
「直義」
「何です」
「苦労をかけるな」
俺は手を止めた。
直義様も少し黙った。
「今さらです」
「そう言うな」
「兄上が勝手に約束を増やすからです」
「悪かった」
「本当に思ってます?」
「思っている」
直義様はため息。
でも声は少し柔らかかった。
尊氏様が言う。
「お前がいるから、俺は戦える」
直義様は何も言わない。
「俺には、お前のようなことはできん」
「知っています」
「即答だな」
「事実です」
尊氏様が笑う。
直義様も、ほんの少しだけ笑った。
俺は思った。
仲がいい。
やっぱり。
なんだかんだ言っても、兄弟なんだ。
尊氏様が前で戦う。
直義様が後ろで国を支える。
六郎殿が言っていた。
どちらも必要。
だからうまくいく。
俺もそう思った。
その時は。
◇
翌日。
俺は帳簿仕事から解放された。
「終わった……」
屋敷を出た瞬間、俺は空を見上げた。
孫七が横で笑う。
「そんなに嫌だったか」
「旗が恋しいです」
「武士は?」
「一応続けます」
「いつまで一応なんだ」
そこへ六郎殿が来た。
「弥太郎」
「はい」
「戻ったか」
「はい」
「どうだった」
俺は少し考えた。
「直義様って、すごいですね」
六郎殿が少し驚く。
「ほう」
「戦ってないのに、ずっと戦ってるみたいでした」
六郎殿は頷く。
「そういう仕事だ」
「尊氏様とも、全然違う」
「ああ」
「でも、二人だからいいんでしょうね」
六郎殿は少し黙った。
俺は気になった。
「何です」
「いや」
「何かあります?」
六郎殿は答えなかった。
その代わり、
「高師直殿を知っているか」
と聞いた。
俺は顔をしかめた。
「名前は」
「どんな人かは?」
「怖い人」
孫七が言う。
「強い人」
六郎殿。
「どちらも間違っていない」
「何で急に師直殿なんです?」
六郎殿は遠くを見る。
「直義殿と、考えが合わん」
俺は笑った。
「そんな人、いくらでもいるでしょう」
六郎殿は何も言わなかった。
その日の夕方。
高師直殿が、屋敷へ来た。
俺は偶然、廊下にいた。
向こうから師直殿。
反対側から直義様。
二人が歩いてくる。
そして、ちょうど俺の目の前で止まった。
直義様。
「師直」
師直殿。
「直義様」
声は静か。
礼儀もある。
でも。
怖い。
ものすごく怖い。
何も起きていないのに、間にいる俺だけが死にそうだった。
師直殿が言う。
「また戦場の者に細かい命令を出されたそうで」
直義様の表情が少し硬くなる。
「決まりは守ってもらう」
「戦場では、決まり通りに敵は動きません」
「国は戦場だけではない」
「国がなくなれば決まりもありません」
直義様。
「決まりがなければ国とは呼べぬ」
二人。
黙る。
俺は思った。
逃げたい。
心の底から。
その時。
師直殿が俺を見る。
「お前」
「はい!」
「何をしている」
「通りかかりました!」
「そうか」
「はい!」
直義様も俺を見る。
「弥太郎」
「はい!」
「何をそんなに怯えている」
俺は二人を見る。
そして、正直に答えた。
「どっちも正しいこと言ってるからです」
沈黙。
しまった。
また言った。
師直殿が、ほんの少しだけ笑った。
直義様は額を押さえた。
「お前は本当に……」
「すみません」
俺は頭を下げた。
でも、心の中では思っていた。
正しい者同士が戦う時が、一番厄介だ。
正成殿の言葉。
その意味を。
俺は、少しずつ理解し始めていた。
ただこの時の俺は、まだ知らない。
今、俺の目の前にいる二人が、やがて本当に敵になることを。
そして、その間に立たされる尊氏様が、この国を巻き込むほど苦しむことを。
もちろん。
俺自身も、思い切り巻き込まれることを。
もし知っていたら。
俺はこの場で、二人に言っていたと思う。
お願いですから仲良くしてください。
本当に。




