新田義貞は間が悪い
楠木正成殿が死んだ。
その知らせを聞いてから、数日。
俺は少しだけ静かになった。
孫七に言わせれば、
「元からそんなにうるさくない」
らしい。
失礼な話だ。
「弥太郎」
「何です」
「旗、逆だぞ」
俺は手元を見る。
本当だ。
上下を間違えていた。
「……疲れてるんですかね」
孫七が言う。
「正成殿のことか」
俺は答えなかった。
すると孫七は、それ以上聞かなかった。
こういうところだけは妙に気が利く。
六郎殿がやってくる。
「準備しろ」
「何のです?」
「新田方へ行く」
俺は顔を上げた。
「新田?」
「新田義貞殿だ」
その名を聞いて、孫七の顔が少し明るくなった。
「おお」
「知ってるんですか」
「当たり前だろ」
「何した人です?」
「鎌倉を落とした」
「それは知ってます」
「じゃあ聞くな」
確かに。
新田義貞。
鎌倉幕府を倒す大きな役割を果たした男。
名前だけなら、誰でも知っている。
俺も、もっと早く会うことになると思っていた。
「どんな人なんですかね」
孫七が言った。
「強い」
「それだけ?」
「華がある」
「見たことあるんですか」
「ない」
「何で分かるんです」
「噂」
「信用できないなあ」
六郎殿が言う。
「見れば分かる」
「六郎殿は会ったことあるんです?」
「ああ」
「どんな人です」
六郎殿は少し考えた。
「前に出る人だ」
それだけ言った。
よく分からない。
でも、何となく気になった。
◇
新田方の陣へ入って、六郎殿の言っていた意味が分かった。
新田義貞殿は、目立つ。
別に派手な格好をしているわけじゃない。
大声で威張っているわけでもない。
なのに、どこにいるかすぐ分かる。
周りの視線が集まる。
声を掛ければ兵が笑う。
馬に乗れば、皆が自然にそちらを見る。
孫七が小声で言った。
「華があるな」
「噂、合ってましたね」
「だろ」
「偶然でしょう」
義貞殿は兵の一人一人に声を掛けていた。
正成殿とは少し違う。
正成殿は静かに相手を見る人だった。
義貞殿は、相手の気分を持ち上げる人だ。
「お前、この前の傷はどうだ」
「もう大丈夫です!」
「なら次も頼むぞ」
「はい!」
そんなやり取りが続く。
俺は思った。
なるほど。
これは人気が出る。
義貞殿がこちらに気づく。
「それは?」
六郎殿が頭を下げる。
「旗にございます」
義貞殿が俺を見る。
「作ったのは?」
「俺です」
言ってから、もう少し丁寧に言えばよかったと思った。
「……私です」
義貞殿は笑った。
「どっちでもいい」
「ありがとうございます?」
褒められたのか分からない。
義貞殿は一本持ち上げる。
「軽いな」
「風を受けすぎないようにしてます」
「なるほど」
少しだけ嬉しい。
最近、旗のことを褒められると素直に嬉しくなってきた。
武士としてどうなんだろう。
義貞殿が言う。
「名は?」
「弥太郎です」
「覚えた」
本当に覚える気があるかは分からない。
でも、この人に言われると何となく嬉しい。
孫七が横から口を挟む。
「この男、旗屋になるつもりです」
「まだなりません!」
義貞殿が笑う。
「いいじゃないか。戦がある限り旗は要る」
俺は嫌な顔をした。
「縁起悪くないですか、それ」
義貞殿は一瞬止まって、また笑った。
「確かにな」
◇
その日の軍議。
俺たちはまた少し離れた場所で旗を整理していた。
孫七が言う。
「また聞こえるな」
「聞こえても聞くなって言われてます」
「でも聞こえる」
「そうなんですよね」
義貞殿の声。
力がある。
「ここで押す」
別の武将。
「敵の動きが不明です」
「なら動かれる前に行く」
別の者。
「増援の可能性も」
「来る前に崩せばいい」
孫七が小声で言う。
「強気だな」
「前に出る人って言ってましたね」
「なるほど」
六郎殿がまたこちらを見る。
「聞くな」
「聞こえるんです」
「旗を畳め」
「はい」
でも義貞殿の話は、聞いていて気持ちいい。
迷いがない。
行けると思ったら行く。
兵もついていく。
正成殿とは違う。
正成殿は、一歩引いて全体を見る。
義貞殿は、自分が前へ出て流れを作る。
どちらが正しいとかじゃない。
ただ違う。
その違いが面白かった。
◇
翌朝。
出陣。
義貞殿は馬上にいた。
朝日を背にして、妙に格好いい。
孫七が言う。
「絵になるな」
「本当に」
「俺もあんな風になりたい」
「まず姿勢からですね」
「失礼だな」
義貞殿が剣を上げる。
兵たちの声が上がる。
すごい。
空気が一気に変わる。
俺まで、何となく勝てる気がしてきた。
「行けるんじゃないですか」
俺が言う。
六郎殿が横で答える。
「そう思わせるのも大将の仕事だ」
なるほど。
格好いい。
その直後。
伝令が走ってくる。
「申し上げます!」
嫌な予感。
もうこの声だけで分かる。
義貞殿が振り返る。
「何だ!」
「敵方に増援!」
一瞬。
兵たちがざわつく。
義貞殿はすぐに言った。
「数は!」
「想定より多く!」
孫七が小声で言う。
「間が悪いな」
「まだ始まったばかりですよ」
「でも悪い」
義貞殿は少しだけ顔をしかめた。
でも、すぐに前を見る。
「構わん。行くぞ!」
兵たちが応じる。
また空気が戻る。
俺は思った。
強いな。
普通なら、嫌な知らせ一つで空気が変わる。
この人は戻せる。
だから皆がついていくんだ。
◇
戦は、思ったより苦しかった。
敵が多い。
動きも速い。
伝令が何度も来る。
「右翼、押されています!」
「援軍が遅れています!」
「敵、迂回!」
孫七が言った。
「またか」
「何がです」
「悪い知らせしか来ない」
「使者ってそういうものでは」
「たまには『全部順調です』って来いよ」
確かに。
一度くらい聞いてみたい。
その時。
また伝令。
「義貞殿!」
俺と孫七が同時に見る。
伝令が叫ぶ。
「味方の一部が退いております!」
孫七。
「ほら」
俺。
「本当に間が悪いな……」
義貞殿は怒鳴る。
「俺が行く!」
周囲が止める。
「危険です!」
「だから行く!」
馬を走らせる。
俺は思わず追いかける視線。
ああ。
これが「前に出る人」か。
怖くても、状況が悪くても、自分が行く。
格好いい。
でも。
見ている側としては、ものすごく心配だ。
「弥太郎」
孫七が言う。
「何です」
「正成殿とは真逆だな」
「そうですね」
「正成殿なら一回退く」
「たぶん」
「義貞殿は前に行く」
「はい」
「どっちがいいんだろうな」
俺は答えられなかった。
前なら、正解を探したと思う。
でも、最近は少し違う。
正解なんて、後からしか分からないこともある。
正成殿を見て、そう思うようになった。
◇
数日。
また数日。
戦況は動く。
義貞殿は戦う。
勝つ時もある。
押される時もある。
でも、なぜか大事なところで状況が悪くなる。
援軍が遅れる。
敵が増える。
味方が崩れる。
天候まで悪い。
孫七が言った。
「弥太郎」
「何です」
「義貞殿、何かに嫌われてないか」
「何かって」
「時代」
「規模が大きいなあ」
でも。
少し分かる。
義貞殿が弱いわけじゃない。
むしろ強い。
人もついてくる。
本人も勇敢だ。
それなのに、噛み合わない。
ほんの少しずつ。
何かがずれる。
その小さなずれが、戦では命取りになる。
◇
ある夕方、俺は義貞殿と二人になる機会があった。
正確には、俺が旗を直していたところへ義貞殿が来ただけだ。
「また直してるのか」
「はい」
「大変だな」
「皆さんがあまり変わらなければ楽なんですけど」
義貞殿が笑う。
「耳が痛い」
俺は旗の紐を結び直す。
少し迷ってから聞いた。
「義貞殿」
「何だ」
「怖くないんですか」
「何が」
「負けること」
義貞殿は少しだけ驚いた顔をした。
でもすぐに笑った。
「怖い」
まただ。
正成殿と同じ答え。
強い人は、怖くないわけじゃないらしい。
「でも前に出るんですね」
「ああ」
「何でです?」
義貞殿は少し考えた。
「後ろにいる方が怖いからだ」
「後ろが?」
「自分が行けば、少なくとも何かできる」
「はい」
「待っているだけは性に合わん」
なるほど。
この人らしい。
「正成殿とは違いますね」
俺が言うと、義貞殿は少し黙った。
「そうだな」
怒るかと思った。
でも義貞殿は続けた。
「正成は、よく見えていた」
「はい」
「俺はあいつほど先を見られん」
少し意外だった。
「でも」
義貞殿は笑う。
「俺には俺のやり方がある」
その顔は、
やっぱり格好よかった。
◇
その後、義貞殿は北へ向かった。
戦はまだ続く。
俺たちは別の任務で京へ戻ることになった。
別れ際、義貞殿が俺に言った。
「弥太郎」
「はい」
「次に会う時も、旗を作ってるのか」
俺は笑った。
「たぶん」
「武士は?」
「一応続けます」
「そうか」
義貞殿は笑った。
「なら、いい旗を頼む」
「縁起でもないです」
「何でだ」
「また戦う気満々じゃないですか」
義貞殿は豪快に笑った。
それが、俺が最後に見た笑顔だった。
◇
しばらくして、知らせが届いた。
越前。
戦。
新田義貞殿。
討死。
俺は、その場で何も言えなかった。
孫七が横にいた。
珍しく何も言わない。
六郎殿が目を閉じた。
俺は思った。
まただ。
正成殿の時と同じ。
人が死ぬ。
知らせが届く。
そして次の命令が来る。
「弥太郎」
「はい」
「旗を用意しろ」
六郎殿が言う。
俺は頷く。
「何本です」
「三十」
「何色です」
答えを聞く。
俺は布を広げた。
筆を取る。
でも、義貞殿の声が頭に残っていた。
――俺には俺のやり方がある。
正成殿は、退くことを考えた。
義貞殿は、前へ出た。
二人とも死んだ。
じゃあ、どちらが正しかったんだろう。
分からない。
たぶん、俺みたいな人間が簡単に決めていい話じゃない。
孫七が隣に座る。
「弥太郎」
「何です」
「義貞殿、格好よかったな」
「はい」
「間は悪かったけど」
俺は少し笑った。
「最後まで言います?」
「本人も笑うと思うぞ」
「そうですかね」
「たぶんな」
俺も、そう思いたかった。
俺は旗に色を入れる。
正成殿。
義貞殿。
名前は残る。
でも俺が覚えているのは、もっと小さなことだった。
正成殿が、家に帰りたいと言ったこと。
義貞殿が、待っている方が怖いと言ったこと。
歴史には、たぶん載らない。
でも俺には、そっちの方が大事だった。
俺は筆を動かす。
その時、また使者が走ってきた。
「弥太郎!」
俺は顔を上げる。
「今度は何です」
「足利方からだ!」
孫七が言う。
「また尊氏様か」
使者は首を振った。
「いや」
一呼吸。
「弟君の、足利直義様からだ」
俺と孫七は顔を見合わせた。
「直義様?」
「何の用です?」
使者が答える。
「旗ではない」
俺は少し安心した。
「よかった」
「帳簿の手伝いだ」
俺は固まった。
孫七が笑い出す。
「弥太郎!」
「何です」
「お前、直義様に気に入られたんじゃないか」
俺は嫌な予感しかしなかった。
戦場より、帳簿の方が安全だと思うだろう。
俺もそう思っていた。
この時までは。
後になって知る。
戦場には戦場の地獄があり。
政には政の地獄がある。
そして、足利直義という男は。
その地獄のど真ん中にいた。




