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まともな人からいなくなる

「弥太郎」


「はい」


「それ、持っていけ」


六郎殿が指差した先には、旗があった。


多い。


嫌な予感がするくらい多い。


「何本です?」


「四十」


「多いですね」


「戦だからな」


「最近、その一言で何でも済ませてません?」


六郎殿は答えなかった。


横では孫七が槍の穂先を眺めている。


「弥太郎」


「何です」


「湊川って遠いのか」


「知りませんよ」


「お前、何でも知ってそうなのに」


「俺を何だと思ってるんですか」


「旗に詳しい人」


「武士です」


「まだ?」


「まだって何ですか」


孫七が笑う。


俺はため息をついた。


向かう先は湊川(みなとがわ)。


そして、そこには楠木正成(くすのきまさしげ)殿がいる。


数日前、俺は正成殿と話した。


正しいと思う者同士が戦う時が、一番厄介だ。


そう言っていた。


今思えば、あれは自分自身にも向けた言葉だったのかもしれない。


その時の俺は、そんなことまで考えていなかった。


          ◇


軍議の場。


俺たちは少し離れた場所で旗を整理していた。


もちろん、俺みたいな下っ端が軍議に参加できるわけではない。


でも声くらいは聞こえる。


正成殿の声。


落ち着いている。


「正面から戦うべきではありません」


俺は思わず手を止めた。


孫七も聞き耳を立てる。


「都を一度離れ、敵を引き入れます」


別の武将が言った。


「都を捨てると?」


「一時的にです」


正成殿は続ける。


「敵は遠征してきています。補給には限りがある。こちらが時間を使えば、相手の方が苦しくなります」


分かる。


俺でも分かる。


孫七が小声で言った。


「それでよくないか」


「ですよね」


「戦わなくて済むし」


「そこも大事ですね」


ところが軍議の空気は、そう単純ではなかった。


「帝が都を離れるなど!」


「武士の面目が立たぬ!」


「足利方をここで迎え撃つべきだ!」


俺は旗を持ったまま固まった。


孫七が俺を見る。


「弥太郎」


「何です」


「話、聞いてた?」


「聞いてました」


「なら、正成殿のでよくないか?」


「俺に聞かないでください」


でも俺もそう思った。


正成殿は、少しだけ間を置いた。


「面目より、勝つことが大切です」


誰かが言う。


「武士に面目を捨てろと申すか!」


正成殿は静かに答えた。


「負ければ、面目も何も残りません」


孫七が小さく言った。


「その通りだな」


俺も頷いた。


その瞬間、六郎殿が俺たちを見る。


「聞き耳を立てるな」


「聞こえるんです」


「黙って旗を畳め」


「はい」


でも、気になる。


結局、正成殿の案は、通らなかった。


          ◇


軍議が終わった後。


正成殿は一人で外へ出てきた。


いつもと同じ顔。


怒ってもいない。


悔しそうにも見えない。


でも、何となく少し疲れているように見えた。


俺は迷った。


声をかけるか。


やめるか。


迷って。


結局、声をかけた。


「正成殿」


「弥太郎か」


覚えていた。


それだけで少し嬉しい。


「はい」


「旗の準備か」


「はい」


正成殿は、並んだ旗を見る。


「多いな」


「戦ですから」


「そうだな」


俺は聞きたいことがあった。


でも、聞いていいのか分からない。


正成殿が俺を見る。


「何だ」


「え」


「顔に書いてある」


「そんなに分かりやすいですか」


「分かりやすい」


孫七にもよく言われる。


俺は少し迷った。


それでも聞いた。


「正成殿」


「何だ」


「勝てないと思ってるんですか」


少し離れたところで、六郎殿がこちらを見る。


目が怖い。


たぶん「聞くな」と言っている。


もう遅い。


正成殿は怒らなかった。


しばらく黙っていた。


やがて、


「難しい」


と答えた。


「難しい?」


「勝てぬ、と決まったわけではない」


「はい」


「だが、望む形の戦ではない」


俺は分かったような、分からないような顔をしたと思う。


正成殿は少し笑った。


「戦にも、やり方がある」


「はい」


「敵が強いなら、強いまま戦わない」


「弱くしてから?」


「そうだ」


「じゃあ、やっぱり退いた方が」


正成殿は少し遠くを見る。


「そう思う」


「なら何で」


口に出してから、しまったと思った。


でも正成殿は、やっぱり怒らなかった。


「弥太郎」


「はい」


「人は、正しいと思うことだけを選べるわけではない」


前にも似たことを聞いた。


でも今度は、少し意味が違って聞こえた。


「仕えている者がいる」


正成殿は言う。


「守りたいものがある」


「はい」


「それが自分の考えと違うこともある」


俺は黙った。


「それでも行くんですか」


「行く」


迷いのない答えだった。


「怖くないんですか」


「怖い」


少し驚いた。


正成殿は続ける。


「怖くない者など、そう多くはない」


「でも行く」


「ああ」


俺には、分からなかった。


分からないのに、何となく胸に残った。


孫七が後ろからやって来た。


「正成殿!」


「何だ」


「聞いてもいいですか」


嫌な予感。


「何だ」


「戦が終わったら何したいです?」


俺は孫七を見る。


何を聞いてるんだ。


正成殿も少し驚いた顔をした。


でも考えた。


「そうだな」


少しだけ笑う。


「家に帰りたい」


孫七は笑った。


「それだけですか」


「それだけで十分だ」


俺もつられて笑った。


その瞬間だけ正成殿は歴史に名を残す武将ではなく、ただ、家に帰りたい一人の男に見えた。


          ◇


出陣の日。


空は薄曇りだった。


軍勢が動く。


馬。


槍。


甲冑。


旗。


俺たちが作ったものもある。


作っていないものもある。


その中に、楠木の旗が見えた。


孫七が言う。


「格好いいな」


「何がです」


「正成殿」


俺も見る。


確かに派手ではない。


でも、目で追ってしまう。


正成殿は周囲の兵に声をかけている。


一人ひとり。


たぶん、全員の顔を覚えているわけではない。


それでも声をかける。


兵たちの顔が少し変わる。


六郎殿が言った。


「人はな」


「はい」


「ああいう者についていく」


俺は尊氏様を思い出した。


あの人も、人に声をかけていた。


「尊氏様みたいですね」


六郎殿は少し考えた。


「似ているところはある」


「敵なのに」


「敵だから似ていないわけではない」


俺は何も言えなかった。


敵。


味方。


正しい。


間違っている。


最近、その境目がどんどん分からなくなってきた。


正成殿がこちらに気づいた。


俺たちを見る。


ほんの少しだけ手を上げた。


俺も反射的に頭を下げる。


それが、最後だった。


          ◇


戦の知らせは、断片的に届いた。


足利方が進む。


朝廷方が押される。


楠木軍が戦う。


また使者。


さらに使者。


戦況は悪い。


俺たちは後方で旗や物資を運んでいた。


孫七が落ち着かない。


「弥太郎」


「何です」


「正成殿、大丈夫かな」


「俺に聞かないでください」


「でも」


「俺だって気になりますよ」


それ以上、二人とも何も言わなかった。


夕方。


一人の武士が戻ってきた。


顔が違った。


戦場から戻ってきた人間の顔だった。


六郎殿が近づく。


「どうした」


武士はしばらく口を開かなかった。


俺の胸がざわつく。


やめてくれ。


聞きたくない。


そう思った。


「楠木殿が」


武士が言う。


「討たれました」


音が消えた気がした。


孫七が何も言わない。


俺も言えない。


六郎殿だけが、


「そうか」


と答えた。


たった二文字。


それだけ。


でも、それ以上の言葉はなかった。


          ◇


夜。


俺は一人で旗を塗っていた。


明日のため。


また必要になる。


今日、人が死んでも明日は来る。


そして明日の軍勢には、また旗がいる。


筆を持つ。


白い布。


赤い染料。


手が止まる。


正成殿の顔が浮かんだ。


「家に帰りたい」


そう言っていた。


帰れなかった。


俺は筆を置いた。


六郎殿が来た。


「弥太郎」


「はい」


「休め」


「でも、明日までに」


「俺がやる」


「六郎殿が?」


「何だ」


「塗れるんですか」


「お前より下手だ」


思わず笑いそうになった。


でも、笑えなかった。


「六郎殿」


「何だ」


「正成殿は、正しかったんですかね」


六郎殿は答えなかった。


しばらくして言った。


「分からん」


「分からない?」


「ああ」


俺は意外だった。


六郎殿なら何か答えてくれると思っていた。


「ただ」


六郎殿は言う。


「戦は、正しい者から生き残るわけではない」


俺は旗を見る。


「嫌ですね」


「ああ」


六郎殿も旗を見る。


「嫌なものだ」


しばらく二人で黙っていた。


          ◇


翌朝、使者が来た。


「弥太郎!」


俺は振り返る。


「何です」


「旗を急げ!」


「何色です?」


使者が答える。


俺は頷く。


もう驚かなかった。


筆を持つ。


塗る。


昨日と同じ。


いつもの仕事。


でも何かが違った。


俺は少しだけ、歴史というものが嫌いになっていた。


人が死んでも、次の頁へ進んでしまうから。


楠木正成。


後の世では、


忠臣だとか。


名将だとか。


英雄だとか。


いろんな呼び方をされるらしい。


でも俺にとっては、話を聞いてくれて、質問に答えてくれて、勝てない戦を避けた方がいいと言って、それでも最後には戦場へ行って、


「家に帰りたい」


と笑った人だった。


それで十分だった。


孫七が隣に来た。


しばらく何も言わない。


やがて言った。


「弥太郎」


「何です」


「飯、食うか」


俺は少し笑った。


「食べましょう」


どんな時でも腹は減る。


たぶん正成殿も、それは知っていた。


俺たちは並んで座り、冷えた握り飯を食べた。


空は今日も青かった。


昨日と同じ色だった。


人間の旗だけが、また変わっていた。

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