帝が二人になるらしい
「帝が二人になるらしい」
朝飯を食べていたら、孫七がそんなことを言った。
俺は味噌汁を飲む手を止めた。
「何が?」
「帝だ」
「聞こえてました」
「じゃあ何だ」
「意味が分からないんです」
孫七は握り飯を頬張りながら、平然としている。
「そのままだ」
「そのままだったら困るんですよ」
帝は一人。
これは俺でも知っている。
太陽が東から昇るとか、腹が減ったら飯を食うとか、そのくらい当たり前の話だと思っていた。
ところが孫七は、二つ目の握り飯に手を伸ばしながら言う。
「京と吉野で一人ずつになるとか」
「待ってください」
俺は箸を置いた。
「一人ずつ?」
「らしい」
「合わせて二人?」
「そうだ」
「帝って、合わせて数えるものなんですか?」
「俺に聞くな」
こういう時だけ逃げる。
「六郎殿!」
少し離れた場所で朝飯を食べていた六郎殿を見る。
「何だ」
「帝って二人いていいんですか」
六郎殿は、味噌汁を飲んだ。
「よくはない」
「ですよね」
「だが、なる」
「なるんですか」
「なる」
説明になっていない。
俺は頭を抱えた。
ここ数日だけでも、主君が変わり、敵が味方になり、味方が敵になった。
今度は帝まで増えるらしい。
「この国、大丈夫なんですかね」
俺が言うと、孫七が笑った。
「今さらだろ」
「今さらだから聞いてるんです」
六郎殿が言った。
「余計なことを考えるな。今日の仕事をしろ」
「今日の仕事って何です」
六郎殿は俺を見る。
嫌な予感。
「旗だ」
やっぱり。
「何色です」
「白」
「昨日も白でした」
「今日は印が違う」
「色だけじゃなくなった!」
俺は天を仰いだ。
旗の仕事が、日々高度化している。
このままでは本当に旗屋になってしまう。
その時、寺の方から大きな声が聞こえた。
「正統は後醍醐天皇にある!」
「いや、京の帝こそ正統!」
僧侶が二人、ものすごい勢いで言い争っている。
孫七が俺の肩を叩いた。
「ほら」
「何がほらですか」
「帝が二人」
「実況しないでください」
俺たちは旗を抱えたまま、何となくそちらを見る。
「神器は!」
「即位は!」
「先帝の御意志は!」
「朝廷の継承は!」
難しい言葉が飛び交っている。
俺には半分も分からない。
孫七なんて、たぶん一割も分かっていない。
「弥太郎」
「何です」
「どっちが正しい?」
「俺に聞きます?」
「お前、考えるの好きだろ」
「好きで考えてるわけじゃないです」
僧侶たちの議論は激しくなる。
俺は少し考えた。
「分かりません」
「正直だな」
「そもそも、俺たちが決めることじゃないでしょう」
「じゃあ誰が決める」
俺は答えられなかった。
誰が決めるんだろう。
帝。
公家。
武士。
神様。
それとも、最後に勝った方?
考えれば考えるほど分からない。
その時だった。
「そこの若者」
声を掛けられた。
振り返る。
一人の男が立っていた。
粗末ではないが、華美でもない。
静かな目をしている。
孫七が小声で言った。
「……おい」
「何です」
「あれ」
「誰です」
孫七の顔が引きつる。
「楠木正成殿だ」
俺は姿勢を正した。
「え」
知っている。
名前くらいは当然知っている。
少ない兵で大軍を翻弄したとか。
奇策を使わせたら天下一品だとか。
朝廷への忠義が厚いとか。
もっとこう、見るだけで人が震えるような男を想像していた。
だが目の前の正成殿は、思ったよりずっと静かだった。
「何を話していた」
「帝が二人になるらしいという話です」
孫七が答えた。
俺は横を見る。
「素直に言うんですね」
「事実だろ」
正成殿は少しだけ笑った。
「それで、どう思う」
またそれか。
偉い人は、どうして俺に答えにくい質問ばかりするんだ。
「分かりません」
俺は正直に答えた。
正成殿は怒らなかった。
「そうか」
「ただ」
「ただ?」
俺は少し考えた。
「どちらが正しいかより、これ以上戦が増えるのは嫌ですね」
孫七が俺を見る。
六郎殿も少し離れたところからこちらを見ている。
俺は続けた。
「帝が一人でも大変なのに、二人になったら、その分だけ味方と敵も増えそうですし」
正成殿は少し黙った。
そして言った。
「もっともだ」
孫七が俺の脇腹を小突いた。
「褒められたぞ」
「痛いです」
正成殿は遠くを見る。
京の町。
その向こう。
もっと遠く。
「戦は、始めるより終わらせる方が難しい」
俺はその言葉を覚えた。
この時は、何となく。
後になって、何度も思い出すことになる。
◇
数日後、俺たちは、足利尊氏様のいる陣へ旗を運ぶことになった。
「緊張しますね」
「何が」
六郎殿は平然としている。
「尊氏様ですよ」
「そうだな」
「もっと何かないんですか」
「旗を落とすな」
「そこじゃないです」
孫七はなぜか一緒についてきた。
「俺も見たい」
「見世物じゃないですよ」
「天下人になるかもしれん男だぞ」
「まだ分からないでしょう」
「だから見たいんだ」
この男、意外と歴史好きなのかもしれない。
陣へ入る。
武士たちが行き交っている。
兵。
馬。
武具。
緊張感。
だが、その中心にいた尊氏様は、思ったより柔らかい雰囲気だった。
大柄。
よく笑う。
そして、やたら人に声を掛けている。
「おお、傷はもういいのか」
「はい!」
「そうか、それはよかった」
別の家臣には、
「家族は無事か」
さらに別の者には、
「恩賞の件は忘れておらん」
孫七が小声で言う。
「人気あるわけだな」
俺も頷く。
分かる。
怖いから人が従っている感じではない。
この人のためなら、と思わせる何かがある。
その尊氏様が、俺たちの旗を見た。
「これは?」
六郎殿が頭を下げる。
「新しい旗にございます」
「ほう」
尊氏様は一本手に取る。
そして俺を見る。
「作ったのはお前か?」
「はい」
緊張した。
「名は?」
「弥太郎と申します」
「そうか」
尊氏様は旗を見る。
「丁寧な仕事だ」
それだけで、少し嬉しくなった。
単純だな、俺。
「ありがとうございます」
尊氏様は笑った。
「旗は大事だ」
孫七が隣で頷く。
尊氏様は続けた。
「戦場では、皆が何を信じて進めばいいかを示してくれる」
俺は思った。
少し格好いい話になった。
だが孫七が余計なことを言った。
「弥太郎は、一番多い旗の側につけばいいと言ってました」
「言ってない!」
尊氏様が大笑いした。
「それも一つの生き方だな」
「尊氏様まで!」
俺は顔を覆った。
その時、後ろから声。
「兄上」
空気が変わった。
尊氏様が振り返る。
「直義」
現れたのは、弟の足利直義様。
姿勢が真っ直ぐ。
表情も硬い。
尊氏様とは雰囲気がかなり違う。
「また勝手に陣中を歩き回られて」
「いいだろう、少しくらい」
「よくありません」
「皆の顔を見るのも大事だ」
「兄上がいなくなる度に、こちらが探すことになります」
尊氏様が俺を見る。
「弟は細かくてな」
直義様が即座に返す。
「兄上が大雑把すぎるのです」
俺は孫七を見る。
孫七も俺を見る。
何となく分かった。
この兄弟、いつもこんな感じなんだろう。
尊氏様が俺を指差した。
「弥太郎と言ったな」
「はい」
「お前はどう思う」
また来た。
「何がでしょう」
「俺と直義、どちらが正しい」
絶対に答えてはいけない質問だ。
直義様までこちらを見る。
逃げたい。
俺は考えた。
そして、最近お気に入りの逃げ道を使うことにした。
「飯を食わせてくださる方です」
沈黙。
尊氏様が大笑いした。
孫七も笑う。
直義様だけが額を押さえた。
「兄上。こういう者を面白がるのはおやめください」
「面白いではないか」
「政治は面白さでするものではありません」
「難しい顔ばかりしていても人はついてこぬぞ」
「兄上が笑っている間に、こちらが帳簿を合わせているのです!」
「ああ、それは助かっている」
「そういうところです!」
俺は思わず笑いそうになった。
仲が悪いわけではない。
むしろ、仲がいいから言えるやり取りに見えた。
この時は。
◇
帰り道、孫七が言った。
「尊氏様、いい人だな」
「そうですね」
「直義様は怖い」
「真面目なだけでしょう」
「お前、直義様の方が好きそうだな」
「何でです」
「細かいから」
「俺を何だと思ってるんですか」
六郎殿が前を歩きながら言った。
「どちらも必要だ」
俺たちは顔を上げる。
「尊氏様のような人が人を集める」
「はい」
「直義様のような人が、それをまとめる」
「はい」
「だからうまくいく」
孫七が言った。
「じゃあ安心ですね」
六郎殿は答えなかった。
俺は、その沈黙が少し気になった。
◇
その日の夕方、寺の近くを通る。
また僧侶たちが議論していた。
南朝。
北朝。
正統。
神器。
俺はもう聞き流すつもりだった。
だが、その横を楠木正成殿が歩いていくのが見えた。
俺は声を掛ける。
「正成殿!」
正成殿が立ち止まった。
「何だ」
「この前の話です」
「帝のことか」
「はい」
俺は少し迷った。
「結局、どちらが正しいと思われます?」
孫七が「聞くのか」と小声で言う。
正成殿は少し黙った。
そして、
「私は後醍醐天皇に仕えている」
と答えた。
「だから、私にとっての答えは決まっている」
俺は頷く。
「でも」
正成殿は続けた。
「それと、皆が同じ答えを持つかどうかは別だ」
俺は少し驚いた。
「違っていいんですか」
「違うから戦になる」
ああ、そうか。
簡単な話だった。
皆が同じ答えなら、そもそも戦にはならない。
正成殿は言った。
「弥太郎」
「はい」
「正しいと思う者同士が戦う時が、一番厄介だ」
その言葉を聞いた時。
なぜか、尊氏様と直義様の顔が頭に浮かんだ。
仲良く言い争っていた兄弟。
まさかな。
俺はすぐにその考えを消した。
兄弟だ。
同じ足利だ。
さすがにあの二人が戦うなんて、あるわけがない。
この頃の俺は、まだ歴史というものを甘く見ていた。
◇
数日後、六郎殿が言った。
「弥太郎」
「はい」
「旗を用意しろ」
「何本です」
「多めに」
嫌な言い方だ。
「戦ですか」
「ああ」
「どちらへ?」
六郎殿は一瞬だけ黙った。
「湊川だ」
俺は何となく、胸の奥がざわついた。
少し前に聞いた、正成殿の言葉を思い出す。
――戦は、始めるより終わらせる方が難しい。
孫七が明るく言った。
「また忙しくなるな!」
俺は答えなかった。
旗を広げる。
白。
赤。
家紋。
印。
いつもの仕事。
なのに、その日はなぜか、筆が少しだけ重かった。
俺はまだ知らない。
次に会う楠木正成殿が、最後になることを。




