今日の味方は誰ですか?
武士になれば、もう少し格好いい仕事ができると思っていた。
馬に乗るとか。
刀を抜くとか。
敵将と一騎討ちするとか。
少なくとも――
朝から晩まで、旗を塗り直す仕事ではない。
「弥太郎。そこ、まだ白が残っているぞ」
「昨日まで白だったんですから、少しくらい残っていてもよくないですか?」
「よくない」
即答だった。
俺は筆を止めた。
目の前には、二十七本の旗が並んでいる。
昨日、俺が一日かけて白くした旗だ。
それを今日は、朝から赤く塗っている。
俺の名は弥太郎。
二十一歳。
一応、武士である。
ただし、人を斬った回数より旗を塗り直した回数の方が多い。
「六郎殿」
「何だ」
俺の上役、土岐六郎は振り向きもしない。
「確認してもいいですか」
「何をだ」
「これ、昨日まで白でしたよね」
「ああ」
「一昨日は?」
「赤」
「その前は?」
六郎は少し考えた。
「白だったと思う」
「その前」
「赤だ」
俺は筆を置いた。
「もう両面にしません?」
六郎がようやくこちらを見る。
「何をだ」
「表が赤、裏が白です」
「馬鹿者」
「ですよね」
「風が吹いたらどうする」
なるほど、敵味方が風向きで決まる軍勢になってしまう。
さすがにそれは困る。
俺は再び筆を取った。
時は建武三年。
京。
世の中が、ものすごくややこしい。
鎌倉幕府は滅んだ。
後醍醐天皇が政治を始めた。
と思ったら、武士たちの不満が溜まった。
足利尊氏様が動いた。
新田義貞様も動いた。
朝廷も動いた。
気づけば昨日の味方が今日の敵になり、今日の敵が明日の味方になっている。
正直、よく分からない。
「六郎殿」
「今度は何だ」
「結局、今日は誰の味方なんです?」
六郎は少し黙った。
「足利殿だ」
「尊氏様ですね」
「ああ」
「じゃあ朝廷の敵?」
「今はそうなる」
「今は?」
「細かいことを気にするな」
「そこ、一番気にした方がよくないですか」
六郎は無視した。
俺は旗を塗りながらため息をつく。
歴史というものは、もっと立派な人たちが、立派な理由で、立派に戦うものだと思っていた。
実際にその中へ入ってみると違った。
皆、朝一番で言う。
「今日は誰につく?」
そしてその答えは大抵、夕方まで持たない。
「六郎殿!」
廊下の向こうから声がした。
若い武士が走ってくる。
ものすごく慌てている。
この時代、慌てて走ってくる使者は大体ろくな知らせを持ってこない。
「何だ」
六郎が立ち上がる。
「新田方が動きました!」
六郎の顔が引き締まる。
俺も筆を止めた。
「それだけか」
「それと――」
若武者が一度、息を呑んだ。
俺は思った。
やめろ。
その「それと」は絶対に良くない。
「殿が、新田方へつくとのことです!」
沈黙。
俺は旗を見る。
今、ちょうど半分ほど赤くしたところだ。
六郎を見る。
六郎も旗を見る。
若武者も旗を見る。
三人で見る。
俺が聞いた。
「……白に戻します?」
六郎は天井を見上げた。
「まだ待て」
「はい」
「確認してからだ」
「はい」
「筆は洗うな」
「分かりました」
これが、この時代を生きる知恵である。
◇
その日の夜、宴が開かれた。
理由は、新しい味方を迎えるため。
俺は末席に座っていた。
そして、向かいに座る男をじっと見ていた。
知っている。
ものすごく知っている。
三日前、俺を殺そうとした男だ。
「弥太郎殿!」
男は満面の笑みで盃を差し出してきた。
「飲め!」
「いや、その前に確認したいことがあるんですけど」
「何だ!」
「三日前、俺に槍を向けましたよね」
「向けた!」
「川まで追いかけましたよね」
「追った!」
「『逃がすな!』って叫びましたよね」
「叫んだ!」
「で、今日は?」
男―― 赤松孫七は、胸を張った。
「味方だ!」
「切り替えが早いなあ」
孫七は豪快に笑った。
「戦だからな!」
「その一言で全部済ませようとしてません?」
「細かいことを気にするな!」
さっきも同じようなことを聞いた気がする。
武士というのは、都合が悪くなると皆「細かいことを気にするな」と言うのだろうか。
孫七は俺の肩を叩く。
「いやあ、あの時は惜しかった!」
「何がです」
「あと半歩だった!」
「俺が死ぬところがですか?」
「そうだ!」
「笑って言うな!」
周囲の武士たちがどっと笑った。
俺だけ笑えない。
孫七は全く気にせず、また酒を注いでくる。
「まあ今日は仲間だ!」
俺は盃を受け取った。
そして聞く。
「明日は?」
孫七の手が止まった。
周囲も一瞬だけ静かになった。
「……縁起でもないことを言うな」
「この時代で一番大事な質問だと思うんですけど」
「明日のことは明日考えればいい!」
「それで昨日も敵だったんでしょうが」
俺たちの横に座っていた老武士が、酒を飲みながら笑った。
「若いの」
「はい」
「敵味方など、あまり気にするな」
「いや、気にしないと死にません?」
「気にしすぎても死ぬ」
「どうすればいいんです」
老武士は盃を置いた。
「戦場では旗を見る」
「旗?」
「一番多い旗の側につけ」
俺は絶句した。
「忠義は?」
「生きて帰ってから考えろ」
「そんなものですか」
「そんなものだ」
この人は長生きしそうだと思った。
ものすごく。
その時、上座で主君が立ち上がった。
宴席が静まる。
「皆の者!」
全員が姿勢を正した。
「我らは本日より、新田殿と共に戦う!」
「おお!」
歓声が上がる。
「我らの志は一つ!」
「おお!」
「忠義を胸に!」
「おお!」
俺は孫七を見る。
孫七も俺を見る。
目が合った。
三日前まで敵だったよな。
たぶん、お互い同じことを考えている。
だが、誰も言わない。
こういう時は言わない方がいいらしい。
主君が盃を掲げる。
「新田殿と共に――」
その瞬間、障子が勢いよく開いた。
「申し上げます!」
宴席の空気が止まった。
使者が飛び込んでくる。
「何事だ!」
主君が聞く。
使者は肩で息をしながら叫んだ。
「新田方、敗走!」
静寂。
使者は続けた。
「足利方が京へ進軍しております!」
誰も動かない。
主君は盃を掲げたまま固まっている。
俺は孫七を見る。
孫七も俺を見る。
誰かが小さく咳をした。
やがて主君が口を開いた。
「……皆の者」
「はい」
「先ほどの話だが」
来た。
絶対に来る。
「我らの志は――」
主君は一度言葉を止めた。
そして、とても真剣な顔で言った。
「もう一度、考えよう」
孫七が俺へ顔を寄せる。
「弥太郎」
「何です」
「旗は何色だ」
俺は答えた。
「まだ乾いてません」
孫七が心底安心した顔をした。
「よかったな」
俺も頷いた。
「はい」
その夜、俺は人生で初めて思った。
もしかすると、刀鍛冶より旗屋の方が儲かるんじゃないか。
◇
翌朝、俺は再び二十七本の旗の前に立っていた。
六郎殿が言う。
「白だ」
「はい」
「昨日の赤は全部消せ」
「はい」
俺は筆を取った。
だが、その直後、廊下から足音。
俺は反射的に筆を止めた。
六郎殿も止まった。
二人で顔を見合わせる。
使者が飛び込んできた。
「六郎殿!」
六郎殿は深いため息をついた。
俺は聞いた。
「情勢、変わりました?」
使者は驚いた顔をする。
「なぜ分かった」
俺は筆を置いた。
そして、昨日より少しだけ悟った声で言った。
「この時代、使者が走ってくる時は大体そうなんです」
窓の外を見る。
空は青い。
それだけは昨日と同じだった。
俺は思う。
帝は一人。
主君も一人。
味方も一つ。
そんな分かりやすい世の中ならよかったのに。
もちろん。
この時の俺は、まだ知らない。
この先、本当に帝が二人になることを。
足利尊氏様と、その弟・足利直義様が戦うことを。
父と子が敵になり。
昨日の敵と同盟し。
その同盟相手と、また戦う。
そんな時代が来ることを。
もし知っていたら――
たぶん俺は、武士を辞めていた。
いや、違うな。
旗屋を始めていた。
その方が、絶対に儲かる。




