お客様の敵まで、当店の敵にはできません
「西軍にも米を売ったことがあるか」
東軍の武士は、そう尋ねたという。
米屋の主人は、正直に答えた。
「ございます」
すると、武士は帳面を取り出した。
「いつ、どれだけ売った」
米屋は覚えている範囲で答えた。
「それで、どうなったのですか」
俺が尋ねると、主人は顔を曇らせた。
「今後、西軍へ米を売ることは許さぬと言われました」
「……そうですか」
「それから、もう一つ」
「何でしょう」
「西軍に売った分についても、詳しく調べると」
俺は、しばらく黙った。
米を売る。
代金を受け取る。
その取引が、今では罪を疑われる理由になるらしい。
「ほかのお店もですか」
米屋は頷いた。
「油屋も、紙屋も。皆、調べられています」
俺は、深く息を吐いた。
「……なるほど」
米屋は、俺を見た。
「旗屋さん。どうしたらよいのでしょう」
俺は、答えられなかった。
戦が始まってから、何度も似た話を聞いた。
敵に物を売るな。
敵の旗を作るな。
敵と話すな。
そして今度は、敵に売ったことまで問題にする。
俺は、静かに帳面を閉じた。
「まず、何を命じられているのか、確かめましょう」
米屋は首を傾げた。
「……それで、何か変わりますか」
俺は、少しだけ笑った。
「変わるかもしれません」
父が生きていれば、きっと同じことを言っただろう。
ただし、最後にこう付け加えるはずだ。
――相手を怒らせるなよ。
俺は、心の中で頷いた。
父上。
今回は、そこも気をつけます。
◇
応仁二年、1468年。
京の町は、戦が続くほど不自由になっていた。
最初に失われたのは、道だった。
東軍と西軍の陣ができ、自由に行き来できなくなった。
次に失われたのは、家だった。
火が広がり、多くの町人が住む場所を失った。
そして今、失われようとしているのは、商売だった。
誰に売ってよいのか。
誰から買ってよいのか。
何を運んでよいのか。
それを武士が決めようとしている。
もちろん、軍勢にとって物資は重要だ。
米がなければ、兵は戦えない。
油がなければ、夜の明かりに困る。
紙がなければ、書状も命令も書けない。
だから敵方へ物資が渡ることを警戒する。
その理屈は、俺にも分かる。
だが、町人にとって米は商売の品であると同時に、毎日の食べ物だ。
油は、兵だけが使うわけではない。
紙も、武士だけのものではない。
俺は、作業台に置かれた旗を見た。
今、仕立てているのは山名家の旗だった。
その隣には、細川家から修繕を頼まれた旗がある。
俺は、思わず呟いた。
「……うちも、同じだな」
千吉が顔を上げた。
「何がですか」
俺は、二つの旗を指した。
「東軍にも、西軍にも売っている」
千吉は、しばらく考えた。
そして、静かに答えた。
「……そうですね」
俺たちは顔を見合わせた。
そして、同時に黙った。
どうやら、町の商人たちだけの問題ではなさそうだった。
◇
翌朝。
俺は、東軍の担当者を訪ねた。
町の商売について調査しているという武士である。
名を大庭重房といった。
四十ほどの男で、鋭い目をしていた。
「旗屋弥三郎とは、そなたか」
「はい」
「町人の商売について、話があるそうだな」
「はい」
俺は、深く頭を下げた。
「このたびの調査について、詳しく伺いたく参りました」
大庭殿は頷いた。
「敵方への物資の流出を防ぐためだ」
「承知しております」
「ならば、何が分からぬ」
俺は、少し考えた。
「西軍に物を売ることを禁じるというのは、今後のことでしょうか」
「当然、今後もだ」
「これまでの取引は?」
大庭殿は、俺を見た。
「調べる」
「すべて、罰せられるのでしょうか」
「事情による」
俺は、静かに頷いた。
「では、町人たちには、何をしてはいけないのか、具体的に知らせていただけませんか」
大庭殿の眉が動いた。
「……何?」
「禁じられる品物、場所、期間。それから、生活のための取引と軍への納入について、どのように扱われるのか」
大庭殿は、しばらく俺を見つめた。
そして言った。
「旗屋が、ずいぶん細かいことを聞くのだな」
俺は頭を下げた。
「商売柄、条件が分からないと困りますので」
大庭殿は、少しだけ笑った。
「なるほど。そなたらしい」
俺は驚いた。
「……私を、ご存じで?」
「ああ。町では少し知られた男だそうだな」
嫌な予感がした。
大庭殿は続けた。
「東軍にも西軍にも旗を作り、町人を通し、敵味方の家族を会わせている旗屋だと聞いた」
俺は、静かに頷いた。
「……はい」
「では、そなた自身も調べねばならぬな」
俺は、心の中で天井を仰いだ。
やはり、そうなった。
◇
「弥三郎」
大庭殿は、机に肘を置いた。
「そなたは、山名家にも旗を売っているな」
俺は頷いた。
「はい」
「細川家にも?」
「はい」
「畠山家の両方にも?」
「……はい」
大庭殿は、呆れた顔をした。
「よく、それで商売ができるな」
俺は、少し考えた。
「最近は、あまりできておりません」
大庭殿は、思わず笑った。
俺も少し笑った。
だが、すぐに表情を引き締めた。
「恐れながら、私どもは以前から複数のお家よりご注文をいただいております」
大庭殿は頷いた。
「知っている」
「ただし、今後の取引について禁令が出されるのであれば、それに従わなければなりません」
大庭殿は、少し驚いた顔をした。
「……従うのか」
俺は頷いた。
「この町で商売を続ける以上、無視はできません」
「では、西軍の注文を断るのだな」
俺は、少しだけ息を整えた。
「正式な命令の内容を確かめてから、判断いたします」
大庭殿は、しばらく俺を見ていた。
そして、深くため息をついた。
「……面倒な男だ」
俺は頭を下げた。
「よく言われます」
◇
店へ戻った俺は、佐吉と千吉に事情を説明した。
「今後、西軍との取引が難しくなるかもしれません」
佐吉は、静かに頷いた。
「そうですか」
千吉が尋ねた。
「では、山名家の旗は?」
俺は、作業台を見た。
十枚の旗。
すでに半分ほど仕上がっている。
「……まだ、どうなるか分からない」
千吉は黙った。
佐吉が、静かに言った。
「親方。もし西軍へ納められなくなったら、代金はどうなりますか」
俺は、息を呑んだ。
そうだった。
すでに半金を受け取っている。
仕事も進めている。
だが、納品できなくなれば、残金は入らない。
場合によっては、受け取った半金を返さなければならないかもしれない。
俺は、深く息を吐いた。
「……困りますね」
佐吉は頷いた。
「はい」
千吉も、少しだけ笑った。
「旗屋らしい悩みになりましたね」
俺は、思わず笑った。
「本当だな」
最近、人の通行や面会ばかり考えていた。
だが、今度は本業そのものが危うくなっている。
俺は、静かに帳面を開いた。
山名家。
細川家。
畠山家。
注文主の名前が並んでいる。
その横に、新しい欄を作った。
『納品可能か確認』
佐吉が、それを見て頷いた。
「よいと思います」
俺は、少しだけ笑った。
父上。
ようやく、あなたの帳面の大切さが身に染みています。
◇
その日の夕方。
町の商人たちが、店に集まった。
米屋。
油屋。
紙屋。
菓子屋。
古道具屋。
先日、旗を作った店の主人たちだった。
皆、不安そうな顔をしている。
俺は、事情を説明した。
東軍の調査は、敵方への物資の流出を防ぐためだということ。
ただし、どのような取引が禁じられるのか、まだ詳しい条件は確認できていないこと。
そして、勝手な判断で動けば、かえって危険になること。
米屋が、静かに尋ねた。
「……旗屋さん」
「はい」
「では、私たちは西軍の者へ米を売ってはいけないのですか」
俺は、少し考えた。
「東軍の命令が及ぶ場所では、禁じられる可能性があります」
米屋は、顔を曇らせた。
「そうですか」
油屋が言った。
「でも、敵か味方かなんて、どうやって見分けるんです」
紙屋も頷いた。
「着物を見ただけでは分かりません」
菓子屋が、ぽつりと言った。
「腹が減っている人が来たら、売ってはいけないんでしょうか」
その言葉に、皆が黙った。
俺も、答えられなかった。
戦をしている武士なら、敵味方を区別する理由がある。
だが、店へ来る客は、必ずしも武士とは限らない。
米を買いに来た母親。
油を買いに来た老人。
紙を求める子ども。
その人たちが、どちらの陣に住んでいるかで、売るかどうか決めなければならないのか。
俺は、深く息を吐いた。
◇
しばらくして、古道具屋の主人が口を開いた。
「旗屋さん。一つ、聞いてもよろしいですか」
俺は頷いた。
「はい」
「あなたは、東軍にも西軍にも旗を作っているのでしょう」
「はい」
「それで、どちらかから怒られたことは?」
俺は、少し考えた。
「……何度もあります」
皆が笑った。
俺も笑った。
だが、古道具屋は続けた。
「それでも、商売を続けてきた」
俺は頷いた。
「はい」
「どうしてですか」
俺は、しばらく黙った。
そして、静かに答えた。
「……お客様を選ばないことと、何でも売ることは違うからです」
皆が、俺を見た。
俺は続けた。
「東軍の方でも、西軍の方でも、注文を伺います。ですが、危険な使い方や、ほかの人を欺くための仕事はお断りすることもあります」
米屋が頷いた。
「なるほど」
「それから、誰に何を納めたのか、できるだけ記録を残しています」
油屋が、少し考えた。
「……記録ですか」
俺は頷いた。
「はい。ただし、帳面を見せればすべて安全になるわけではありません。取引の内容を、自分たちでも説明できるようにするためです」
紙屋が、静かに言った。
「では、私たちも……」
俺は頷いた。
「はい。何を、誰に、どのくらい売ったのか。分かる範囲で整理しておくとよいと思います」
菓子屋が、少し心配そうに尋ねた。
「でも、相手の名前を聞かないこともあります」
俺は、少し笑った。
「その場合は、無理に思い出そうとしなくてよいでしょう。分からないことは、分からないと記しておけばよいと思います」
皆が、静かに頷いた。
◇
その夜。
俺は、父の帳面を開いた。
そこには、こんな一行があった。
『注文主を確かめること』
その下に、
『使い道を聞くこと』
そして、さらに一行。
『ただし、客の心までは分からぬ』
俺は、しばらくその文字を見つめた。
父上。
あなたは、昔から分かっていたのですね。
帳面をつけても、相手の心までは分からない。
だから、記録を残す。
だから、説明できるようにする。
そして、必要なら断る。
俺は、静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
返事はない。
だが、父の字がそこにある。
それだけで、少し心が落ち着いた。
◇
翌日。
東軍から、新しい書状が届いた。
俺は、すぐに開いた。
そこには、軍勢へ直接渡る物資について、取引を厳しく制限する旨が記されていた。
ただし、町人の日常生活に必要な小さな取引まで一律に禁じるものではない、という説明も添えられていた。
俺は、ようやく息を吐いた。
「……なるほど」
千吉が尋ねた。
「親方。どうでしたか」
俺は頷いた。
「町の人たちに伝えよう」
佐吉も、顔を上げた。
「これで少し安心ですね」
俺は、静かに頷いた。
「はい。ただ、軍への納入は慎重にしなければなりません」
千吉が、少し考えた。
「……ということは、うちの旗も?」
俺は頷いた。
「そうだ」
そして、山名家の旗を見た。
途中まで仕上がった十枚。
俺は、静かに息を吐いた。
今後の納品について、改めて確認しなければならない。
だが、少なくとも、何を考えるべきかは分かった。
◇
その日の午後。
俺は、町の商人たちを集め、書状の内容を伝えた。
米屋は、ほっとした顔をした。
「……では、普通のお客さんには、これまで通り売ってよいのですね」
俺は頷いた。
「ただし、軍への大量納入などは、制限に触れる可能性があります。疑わしい場合は、事前に確認してください」
油屋も頷いた。
「分かりました」
紙屋が、少し笑った。
「これなら、商売を続けられそうです」
俺も、少しだけ笑った。
「はい」
だが、その時、菓子屋が口を開いた。
「……旗屋さん」
「何でしょう」
「もし、お腹を空かせた西軍の子どもが来たら、どうすればいいでしょう」
俺は、しばらく考えた。
そして答えた。
「……その子が誰なのかより、まず何を求めているのかを見てください」
菓子屋は、顔を上げた。
俺は続けた。
「ただし、危険な状況なら、無理に一人で対応しないでください」
菓子屋は、静かに頷いた。
「……分かりました」
その言葉が、少しだけ嬉しかった。
◇
数日後。
町には、再び商売の声が戻り始めた。
米屋が店を開く。
油屋が桶を並べる。
紙屋が商品を広げる。
菓子屋から、甘い匂いが漂う。
そして、それぞれの軒先には、俺たちが作った旗が掛かっている。
高く掲げることはできない。
だが、通りを歩く人々には見える。
ここに店がある。
ここに人がいる。
そして、ここで暮らしが続いている。
俺は、その光景を見ながら静かに頷いた。
父上。
少しずつですが、町が戻ってきています。
◇
店へ戻ると、千吉が待っていた。
「親方」
「何だ」
「山名家の旗の件ですが……」
俺は、少し身構えた。
「どうなった」
千吉は、書状を差し出した。
そこには、納品先の変更について書かれていた。
俺は、目を落とした。
「……町の外?」
千吉が頷いた。
「はい」
俺は、しばらく考えた。
東軍の支配が及ぶ場所から、西軍の陣へ直接旗を運ぶのは難しい。
だから、別の場所で受け取るという。
だが、そこへ運ぶこと自体が許されるかは、まだ分からない。
俺は、静かに頷いた。
「……確認が必要だな」
千吉も頷いた。
「はい」
その時、佐吉が言った。
「親方。もし納品できなかったら?」
俺は、少し考えた。
そして答えた。
「その時は、事情を説明して、契約を整理しましょう」
佐吉は、静かに頷いた。
「承知しました」
俺は、少しだけ笑った。
「旗屋らしい仕事に戻りましたね」
千吉も笑った。
「本当ですね」
◇
翌朝。
俺は店先に、新しい札を掛けた。
『取引先についてのご相談、承ります』
その下に、小さく一行。
『ただし、武家の命令に反する取引はお引き受けできません』
新九郎殿が、それを読んだ。
そして、しばらく黙った。
「弥三郎」
「何でしょう」
「……お前、とうとう商売の相談所になったな」
俺は、少し笑った。
「そうですね」
「旗屋は、いつやるんだ」
「ちゃんとやっています」
新九郎殿は、少し考えた。
そして笑った。
「ははは! なら、いい!」
俺も笑った。
久しぶりに、店の中へ明るい声が響いた。
◇
だが、その日の夕方。
町の米屋が、また店へやってきた。
俺は、少しだけ嫌な予感がした。
「……今度は、何でしょう」
米屋は、静かに言った。
「旗屋さん。実は、困ったことになりました」
俺は、深く息を吐いた。
「……お聞きします」
米屋は、懐から一枚の紙を取り出した。
そこには、米の注文が書かれていた。
俺は、目を落とした。
「……大量ですね」
米屋は頷いた。
「はい」
「どちらからの注文ですか」
米屋は、しばらく黙った。
そして答えた。
「東軍の兵です」
俺は、顔を上げた。
「東軍なら、問題ないのでは?」
米屋は、首を振った。
「それが……」
俺は、嫌な予感がした。
「……何でしょう」
米屋は、低い声で言った。
「代金は、戦が終わってから払うそうです」
俺は、ゆっくり目を閉じた。
……来た。
また、あの言葉だ。
戦が終わったら払う。
勝ったら払う。
落ち着いたら払う。
俺は、深くため息をついた。
父上。
どうやら、武士の方々は、戦の勝ち負けより先に、商売の支払い方を学ぶ必要があるようです。
俺は、静かに帳面を開いた。
「……では、まず注文の条件を確認しましょう」
米屋は、少し安心したように頷いた。
だが、俺はまだ知らなかった。
今回の注文が、単なる代金の問題では終わらないことを。
そして、京の町に残る商人たちが、これまで以上に難しい選択を迫られることを。




