米屋の旗まで、敵にしないでください
「町の旗が、西軍への合図に見えるそうです!」
知らせを持ってきた男は、息を切らしていた。
俺は、しばらく黙った。
米屋の旗。
油屋の旗。
紙屋の旗。
昨日、焼け残った町に立てた十枚の旗である。
どれも商売を知らせるために作ったものだ。
それが、西軍への合図だという。
「……何の合図ですか」
俺が尋ねると、男は首を振った。
「分かりません!」
「いつ合図するのですか」
「それも分かりません!」
「誰に?」
「ですから、分かりません!」
俺は、深く息を吐いた。
なるほど。
何も分からないが、とにかく怪しいらしい。
応仁の乱が始まってから、こういう話が増えた。
旗を立てれば怪しい。
旗を下ろせば、もっと怪しい。
旗を作れば敵に協力している。
旗を作らなければ味方に協力しない。
いったい、どうすればよいのだろう。
俺は帳面を閉じた。
「……分かりました。参りましょう」
男は、ほっとした顔をした。
「ありがとうございます!」
俺は、少しだけ苦笑した。
礼を言うのは、まだ早い。
旗を守れるかどうか、俺にも分からないのだから。
◇
応仁二年、1468年。
京では、東軍と西軍の戦が続いていた。
町のあちらこちらには、焼け落ちた家がある。
兵たちは互いの動きを警戒し、通りを行き交う者まで疑う。
そんな中、焼け残った町人たちが、少しずつ商売を再開し始めた。
米屋。
油屋。
紙屋。
菓子屋。
古道具屋。
俺たち旗屋は、共同注文を受け、それぞれの店の旗を十枚作った。
布も、色も、できるだけ簡素にした。
高価なものではない。
だが、灰色になった町に旗が立った時、そこには久しぶりに活気が戻った。
小さな子どもが旗を見上げ、通りを歩く者が足を止めた。
ここに米がある。
ここに油がある。
ここに人がいる。
そのことを知らせるための旗だった。
それなのに、今、その旗を下ろせと言われている。
俺は、千吉を呼んだ。
「一緒に来てくれ」
千吉は頷いた。
「はい」
佐吉が、少し心配そうに言った。
「親方。お気をつけて」
俺は笑った。
「大丈夫ですよ。今回は、町の旗の話ですから」
佐吉は、何とも言えない顔をした。
そして、静かに答えた。
「……親方」
「何でしょう」
「今の京では、それが一番安心できないのです」
俺は、何も言えなかった。
◇
町へ着くと、旗はまだ立っていた。
だが、通りの雰囲気が違った。
店先にいた人々が、落ち着かない様子で周囲を見ている。
米屋の主人が、俺を見つけて駆け寄ってきた。
「旗屋さん!」
「どうされました」
「東軍の兵が、旗を下ろせと!」
俺は頷いた。
「その方は、どちらに?」
米屋が指さした先に、数人の武士が立っていた。
先頭の男は、年若い。
まだ三十にもなっていないように見える。
だが、その顔には疲れが浮かんでいた。
俺は近づき、深く頭を下げた。
「旗屋弥三郎と申します」
男が、俺を見た。
「旗屋?」
「はい。この町の旗を仕立てた者です」
男の表情が険しくなった。
「……そなたか」
嫌な予感がした。
「この旗は、西軍への合図ではないかと疑われている」
俺は頷いた。
「そのように伺いました」
男は、米屋の旗を指した。
「あれを見ろ」
俺は振り返った。
白地に、黒く米俵が描かれている。
実に分かりやすい米屋の旗だった。
「……米俵ですね」
男は頷いた。
「そうだ」
俺は、少し安心した。
「では、問題ないのでは」
男は、厳しい顔で言った。
「米俵が三つ並んでおる!」
俺は、もう一度旗を見た。
確かに、三つ並んでいる。
「……はい」
「三つの印が、敵に何かを知らせているのではないか」
俺は、しばらく黙った。
そして、静かに尋ねた。
「……何を、でしょう」
男は、少しだけ眉をひそめた。
「それを調べているのだ!」
俺は、天井を仰ぎたくなった。
いや、ここには天井がない。
仕方なく、空を見た。
今日も京の空は、薄く煙っていた。
◇
「恐れながら」
俺は、できるだけ穏やかに言った。
「米俵を三つ描いたのは、絵として分かりやすいからでございます」
男は、俺を見た。
「なぜ、二つではない」
「……少し寂しかったので」
「四つでは?」
「布からはみ出しました」
男は黙った。
俺も黙った。
千吉が、隣で口を押さえていた。
笑っているのかもしれない。
今は、やめてほしい。
男は、しばらく旗を見つめた。
そして、低い声で言った。
「だが、敵の間者は、そういう何気ない印を使うことがある」
俺は頷いた。
「そうでしょう」
「では、怪しいではないか」
俺は、静かに首を振った。
「何気ない印が合図に使われることはあるでしょう。ですが、何気ない印がすべて合図であるとは限りません」
男の眉が動いた。
俺は続けた。
「この旗は、米屋が米を売っていることを知らせるために作ったものです」
男は黙った。
「もし疑いがあるなら、どのような危険があるのか、一緒に確かめさせてください」
男は、しばらく俺を見つめた。
そして言った。
「……面倒な旗屋だな」
俺は、深く頭を下げた。
「よく言われます」
◇
話を聞くうちに、事情が分かってきた。
この一帯では、最近、西軍の斥候が近くまで入り込んだという噂があった。
夜になると、遠くから灯火が見える。
時には、屋根の上で布が揺れている。
それを見て、東軍の兵たちは警戒を強めていた。
つまり、町の旗が怪しまれたのは、旗そのものに何か問題があったからではない。
すでに周囲が疑いの目で見られていたからだ。
俺は、静かに頷いた。
「……なるほど」
若い武士は、腕を組んだ。
「分かったか」
「はい」
「ならば、旗を下ろせ」
俺は、少し考えた。
そして言った。
「一つ、ご提案があります」
男の顔が曇った。
「……何だ」
俺は、通りを見回した。
店先には、商売を再開した町人たちが立っている。
皆、こちらを見ていた。
俺は、ゆっくり言った。
「軍勢の合図と誤解されるおそれがあるなら、旗の掲げ方を変えてはいかがでしょう」
男は、眉をひそめた。
「掲げ方?」
「はい」
俺は、米屋の旗を指した。
「今は、長い竿を使って高く掲げています。遠くからもよく見えます」
「それが問題だ」
「でしたら、店先の低い位置に取り付ける形に変えます」
男は、少し考えた。
俺は続けた。
「通りを歩く者には見える。ただし、遠くの陣からは目立ちにくい」
千吉が、すぐに言った。
「親方。それなら、短い竿と横木で作れます」
俺は頷いた。
「そうだな」
米屋の主人も、恐る恐る口を開いた。
「……それなら、店の場所は分かりますかね」
俺は頷いた。
「はい。道を歩く人には十分分かります」
若い武士は、しばらく考えていた。
そして言った。
「……一度、見せてみろ」
俺は、深く頭を下げた。
「承知しました」
◇
その日のうちに、千吉と店へ戻った。
佐吉に事情を話すと、しばらく考えてから頷いた。
「なるほど。高く掲げる旗から、店先に掛ける旗へ変えるのですね」
「はい」
「それなら、できます」
千吉が、作業台へ布を広げた。
「長い竿を使わず、横木に通せるようにすればいいんですね」
俺は頷いた。
「そうだ」
佐吉は、少しだけ笑った。
「軍旗は高く掲げるものですからね」
俺は、顔を上げた。
「そうですね」
「ですが、町の旗は、必ずしも高く掲げる必要はありません」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
旗は、誰に見せたいかによって形が変わる。
軍旗は、遠くの兵に見せたい。
町の旗は、近くを歩く客に見せたい。
同じ旗でも、役割が違う。
俺は、少しだけ笑った。
「……佐吉さん」
「はい」
「やはり、旗屋の仕事は面白いですね」
佐吉も笑った。
「ええ。久しぶりに、そう思います」
◇
翌日。
俺たちは、短い竿を取り付けた見本を持って町へ向かった。
米屋の旗だった。
白地に、三つの米俵。
ただし、高く掲げるのではなく、店の軒先に下げられる形になっている。
若い武士が、腕を組んで見つめた。
「……なるほど」
俺は頭を下げた。
「いかがでしょう」
男は、少し離れた場所まで歩いた。
そこから旗を眺める。
また近づく。
そして、しばらく考えた。
「……遠くからは、確かに分かりにくい」
俺は頷いた。
「はい」
「だが、通りからは見える」
「はい」
男は、米屋の主人を見た。
「これで商売はできるか」
米屋は、慌てて頭を下げた。
「はい!」
男は、しばらく考えた。
そして言った。
「……この形なら、この持ち場では差し支えないだろう」
俺は、ようやく息を吐いた。
「ありがとうございます」
男は、すぐに続けた。
「ただし、ほかの場所でも認められるとは限らぬぞ」
俺は頷いた。
「承知しております」
「また、不審な合図に使われていると分かれば、撤去させる」
「はい」
俺は、深く頭を下げた。
完全な許しではない。
だが、少なくとも今、この町の旗は残せる。
それで十分だった。
◇
その日の午後。
十枚の旗を、すべて店先に掛け直した。
米屋。
油屋。
紙屋。
菓子屋。
古道具屋。
どの店も、高く掲げる旗から、軒先に掛ける旗へ変わった。
少し地味になったかもしれない。
だが、通りを歩く人々には十分見える。
米屋の主人が、旗を見上げた。
「……これなら、また商売ができます」
俺は頷いた。
「はい」
主人は、少し笑った。
「旗屋さん。何度もありがとうございます」
俺は、頭を下げた。
「こちらこそ」
千吉が、隣で言った。
「親方」
「何だ」
「旗を下ろしたのに、旗を残せましたね」
俺は、少し考えた。
そして笑った。
「……そうだな」
その言い方が、妙に気に入った。
旗を下ろす。
だが、なくすわけではない。
掲げ方を変えれば、残せるものもある。
俺は、静かに頷いた。
父上。
どうやら、また一つ勉強になりました。
◇
ところが、店へ戻ると別の問題が待っていた。
「親方」
佐吉が、少し困った顔で言った。
「町の旗の掛け直しですが、代金はどうしましょう」
俺は、顔を上げた。
「……代金?」
「はい」
俺は、しばらく考えた。
十枚の旗を作り直したわけではない。
だが、横木を用意し、縫い直し、取り付けまで行った。
当然、仕事として手間がかかっている。
俺は帳面を開いた。
「……そうですね」
佐吉は、静かに続けた。
「町の方々からは、最初の代金をいただいております」
「はい」
「ですが、今回の変更は、追加の仕事です」
俺は頷いた。
その通りだった。
俺は、しばらく考えた。
そして言った。
「……今回は、店で負担しましょう」
佐吉は、少し驚いた。
「よろしいのですか」
俺は頷いた。
「はい」
千吉も、顔を上げた。
「親方。以前、代金なしの仕事を増やしすぎないと決めましたよね」
俺は、少し笑った。
「よく覚えているな」
「はい」
俺は、帳面を見つめた。
そして答えた。
「だから、今回は店の負担として、きちんと記録する」
佐吉が頷いた。
「なるほど」
「何も記さずに無償で働くのではなく、どれだけ費用がかかったか把握するんだ」
千吉は、少し考えた。
「……では、次からは?」
俺は頷いた。
「最初の注文の時に、掲げる場所や安全面まで確かめる。追加の変更が必要なら、事前に費用を相談する」
佐吉は、静かに笑った。
「弥一郎様が聞かれたら、喜ばれたでしょうね」
俺は、少しだけ胸が熱くなった。
「……そうですね」
◇
その夜。
俺は帳面を開いた。
『町人共同注文 旗十枚』
『掲示方法変更』
『高掲示から軒先掲示へ』
『費用 店負担』
そして、その下に、
『今後は掲示場所と用途を事前確認』
と書き加えた。
俺は、筆を置いた。
父の帳面を開いてみる。
そこには、こんな一行があった。
『旗の使い道を、よく聞くこと』
俺は、しばらくその文字を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……父上」
返事はない。
だが、今日は不思議と寂しくなかった。
父が教えてくれたことを、仕事の中で思い出せたからだ。
俺は、静かに帳面を閉じた。
◇
翌朝。
俺は店先に、新しい札を掛けた。
『旗は、高く掲げなくても結構です』
その下に、
『用途に合わせて、お仕立てします』
新九郎殿が、それを読んだ。
そして、しばらく黙った。
「弥三郎」
「何でしょう」
「……それは旗屋として、少し弱気ではないか」
俺は、少し笑った。
「そうでしょうか」
「旗は、高く掲げてこそ旗だろう」
俺は首を振った。
「必ずしも、そうではありません」
新九郎殿は、眉をひそめた。
「なぜだ」
俺は、町の方角を指した。
「店先に掛ける旗もあります」
「うむ」
「人を安全に通すための白い旗もあります」
「そうだな」
「亡くなった方の形見として、畳んで残す旗もあります」
新九郎殿は、静かに頷いた。
俺は続けた。
「旗は、どれだけ高く掲げるかではなく、何のために使うかが大切なのだと思います」
新九郎殿は、しばらく俺を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
「……弥一郎に似てきたな」
俺も、少し笑った。
「最近、よく言われます」
新九郎殿は頷いた。
「よいことだ」
その声は、いつもより優しかった。
◇
ところが、その日の夕方。
町の米屋が、再び店へ駆け込んできた。
俺は、少し身構えた。
「……今度は、何でしょう」
米屋は、息を切らしながら答えた。
「旗屋さん!」
「はい」
「……旗は、残せました!」
俺は、少し安心した。
「それはよかったです」
だが、米屋の顔は険しかった。
「でも……」
俺は、胸が冷たくなった。
「……でも?」
米屋は、ゆっくり言った。
「東軍の兵が、今度は町の店を調べ始めたんです」
俺は、眉をひそめた。
「店を?」
「はい」
「何を調べているのですか」
米屋は、しばらく黙った。
そして、静かに答えた。
「どの店が、西軍にも物を売っているかです」
俺は、何も言えなかった。
米屋。
油屋。
紙屋。
町の店は、誰かのために商売しているわけではない。
暮らすために、物を売っている。
だが、武士の側から見れば、敵に物を売る店は敵を助ける店なのかもしれない。
俺は、かつて出会った嘉兵衛一家を思い出した。
東軍にも西軍にも米を売り、西軍から追い出されそうになった家族。
あの時、俺は一家を安全な場所へ移すことができた。
だが、今度は町そのものが同じ問題に直面している。
俺は、静かに息を吐いた。
そして、帳面を開いた。
『町人共同注文 十店舗』
その下に、もう一行を書き加えた。
『取引先について、東軍より調査』
筆を止める。
旗を残すことはできた。
だが、その旗の下で商売を続けられるとは限らない。
俺は、米屋を見た。
そして、静かに言った。
「……まず、何を尋ねられているのか、詳しく教えてください」
米屋は、深く頷いた。
京の町では、今日も戦が続いている。
そして、戦はついに、町人たちの商売そのものへ踏み込もうとしていた。
俺は、祖父と父の札を見上げた。
『初代 弥太郎』
『二代目 弥一郎』
二人の声は、もう聞こえない。
だが、俺は少しだけ笑った。
父上。
お祖父様。
今度の相手は、旗を下ろせと言っているのではありません。
商売をする相手まで選べと言っているのです。
俺は、ゆっくり店の戸を開けた。
また、難しい仕事が始まる。
遅くなりました汗




