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本日も主君が変わりました ~昨日の敵が今日の味方な室町時代~  作者: さかもち
第三部 昨日の味方は、今日の敵です
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55/61

父上、店を守るにも銭が要るのです

父が亡くなってから、七日が過ぎた。


店は、いつも通り開けている。


佐吉は布を裁ち、千吉は針を動かし、俺は帳面をつける。


朝には注文を確かめ、昼には仕立てを見て、夕方には納品の手配をする。


何も変わらない。


少なくとも、仕事の上では。


ただ、一つだけ変わったことがある。


「親方、今日の注文は?」


佐吉にそう尋ねられ、俺は顔を上げた。


「山名家の旗が八枚。明後日までだ」


「代金は?」


「半金をいただいている」


「承知しました」


佐吉が作業へ戻る。


俺は帳面に目を落とした。


以前なら、この後ろから父の声がした。


――納期は大丈夫か。


――支払いを忘れるなよ。


――その家紋は、どちらの畠山家だ。


そんな声が、もう聞こえない。


俺は、しばらく筆を止めていた。


すると、千吉が言った。


「親方」


「何だ」


「……帳面、上下が逆です」


俺は、手元を見た。


確かに逆だった。


「……知っていた」


千吉は黙った。


佐吉も黙った。


そして、二人とも笑った。


俺も笑った。


父上。


どうやら、まだ一人前の親方にはなれていないようです。


          ◇


応仁二年、1468年。


京では、東軍と西軍の戦が続いていた。


細川勝元殿と山名宗全殿の対立から始まった争いは、もはや二人の話し合いだけでは収まらない。


畠山家。


斯波家。


各地の守護大名。


そして、将軍家の後継をめぐる思惑。


さまざまな事情が絡み合い、都には数え切れないほどの軍勢が集まっている。


その軍勢を支えるため、旗の注文も絶えなかった。


ただし、注文が多いことと、店が儲かることは別の話である。


俺は、そのことを嫌というほど思い知らされていた。


「親方」


千吉が、一通の書状を持ってきた。


「細川家からです」


「新しい注文か?」


「いえ。先月の旗の代金についてです」


俺は、少し嫌な予感がした。


書状を開く。


そこには、短く書かれていた。


『残金は、戦況が落ち着き次第支払う』


俺は、静かに書状を畳んだ。


「……千吉」


「はい」


「戦況が落ち着くのは、いつだ」


千吉は、少し考えた。


「分かりません」


「俺もだ」


俺は、深くため息をついた。


戦が終われば払う。


落ち着いたら払う。


勝ったら払う。


最近、武士たちの支払いには、ずいぶんと便利な言葉が増えている。


だが、布屋は戦が終わるまで代金を待ってくれない。


糸屋も待ってくれない。


職人たちの飯も、待ってくれない。


俺は帳面を開いた。


そこには、未払いの代金が並んでいた。


細川家。


山名家。


畠山政長方。


畠山義就方。


そして、名前を見てもどこの家臣なのか思い出せない者までいる。


「……佐吉さん」


「はい」


「少し、相談があります」


佐吉が顔を上げた。


「何でしょう」


俺は帳面を差し出した。


「どうやら、旗屋が戦より先に負けそうです」


          ◇


その日の午後、俺たちは店の銭を数えた。


佐吉が布の仕入れを書き出す。


千吉が未納品の注文を調べる。


俺は受け取った代金と、これから支払う銭を照らし合わせた。


作業台の上には、三つの帳面が並んだ。


初代・弥太郎の帳面。


二代目・弥一郎の帳面。


そして、俺の帳面。


父の帳面を開くと、懐かしい字が並んでいた。


『半金前払い』


『残金は納品時』


『支払いを渋る客には、笑顔で催促』


俺は、思わず笑った。


「……父上らしい」


千吉が覗き込んだ。


「何ですか」


俺は、その一行を指した。


千吉も笑った。


「笑顔で催促、ですか」


「ああ」


「親方にも、できますか」


俺は、少し考えた。


「……笑顔は難しいな」


佐吉が笑った。


「では、私が参りましょうか」


俺は首を振った。


「いえ。俺が行きます」


佐吉は、少し驚いた顔をした。


「親方が?」


「はい」


俺は、父の帳面を閉じた。


「今までは、父上が代わりに考えてくださることもありました。ですが、もうそうはいきません」


二人は、静かに俺を見た。


俺は続けた。


「店のことは、俺が責任を持ちます」


口にしてみると、思っていたより重い言葉だった。


          ◇


翌朝、俺はまず細川家の担当者を訪ねた。


屋敷の一部は、戦に備えて慌ただしい様子だった。


兵が出入りし、使者が走り回っている。


俺は、顔なじみの庄兵衛殿を見つけた。


「庄兵衛殿」


「おお、弥三郎殿!」


久しぶりに見る顔だった。


「今日は何のご用で?」


俺は、深く頭を下げた。


「先月の旗の残金について、お話がございます」


庄兵衛殿の笑顔が、少し曇った。


「……その件か」


「はい」


「戦が落ち着けば、必ず」


俺は頷いた。


「承知しております」


庄兵衛殿は、安心したように笑った。


だが、俺は続けた。


「では、具体的にいつ頃でしょう」


笑顔が消えた。


「……いつ頃?」


「はい」


「今は戦の最中だぞ」


「存じております」


「軍勢を動かすにも、銭が要る」


「はい」


俺は、静かに答えた。


「旗を作るにも、銭が要ります」


庄兵衛殿は黙った。


俺は続けた。


「布を仕入れ、糸を買い、職人たちに働いてもらっております。代金が入らなければ、次の旗をお作りできません」


庄兵衛殿は、しばらく考えた。


そして言った。


「……次の注文を断るということか」


俺は頷いた。


「恐れ入りますが、未払い分が整理できるまで、新たな注文はお受けできません」


庄兵衛殿は、目を見開いた。


「弥三郎殿。今、細川家の注文を断るのか」


俺は、深く頭を下げた。


「はい」


長い沈黙が落ちた。


やがて庄兵衛殿は、困ったように笑った。


「……父君によく似てこられたな」


俺は顔を上げた。


「父を、ご存じで?」


「何度も叱られた」


俺は、思わず笑った。


庄兵衛殿も笑った。


「分かった。残金の一部だけでも、早く支払えるよう掛け合おう」


俺は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


帰り道、俺は少しだけ胸を張った。


父上。


今日は、笑顔で催促できました。


最後の方だけですが。


          ◇


次に訪ねたのは、山名家の担当者だった。


重房殿である。


細川家と山名家がまだ協力していた頃、同じ会合の旗をそれぞれ注文してきた男だ。


あの時は、互いの旗を少しでも大きくしたいと言い張っていた。


今では、両家は敵同士になっている。


俺は、重房殿に頭を下げた。


「残金について、お話がございます」


重房殿は、すぐに顔をしかめた。


「……また銭か」


「はい」


「細川家にも同じことを言っているのか」


俺は頷いた。


「今朝、申し上げてまいりました」


重房殿の目が丸くなった。


「細川家にも?」


「はい」


「敵の陣へ行ったのか」


「はい」


重房殿は、しばらく俺を見つめた。


そして、腹を抱えて笑い始めた。


「ははは! 弥三郎殿!」


俺は、少し驚いた。


「何でしょう」


「そなた、命知らずだな!」


俺は、思わず言った。


「命知らずではありません。銭が足りないだけです」


重房殿は、さらに笑った。


「ははは! それは困った!」


俺は頷いた。


「本当に困っております」


しばらくして、重房殿は真顔になった。


「……分かった。こちらも一部を支払おう」


俺は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


重房殿は、少し笑った。


「だが、弥三郎殿」


「はい」


「細川家より先に払ったと、あちらへ伝えてくれ」


俺は、深くため息をついた。


「……その件は、お引き受けできません」


重房殿は、また笑った。


          ◇


店へ戻ると、千吉が待っていた。


「親方。どうでしたか」


俺は、受け取った銭を見せた。


「少しだけ、いただいてきた」


千吉の顔が明るくなった。


「よかったですね!」


佐吉も頷いた。


「これで、布の仕入れができます」


俺は、静かに頷いた。


「はい」


そして、帳面を開いた。


受け取った銭を記す。


未払い分も、残したままにする。


俺は、少し考えた。


そして、父の帳面の最後に書かれていた言葉を思い出した。


――店を頼む。


あの言葉は、きっと旗を作れという意味だけではなかったのだ。


店で働く人々の暮らしを守れ。


次の注文を受けられるようにしろ。


そして、無理な仕事を引き受けて、店を潰すな。


そういうことだったのだろう。


俺は、ゆっくり筆を置いた。


          ◇


その夜、佐吉と千吉を呼んだ。


「これから、店の仕事を少し変えたいと思います」


佐吉が顔を上げた。


「どのように?」


俺は、帳面を広げた。


「まず、軍旗の注文は原則として半金を先にいただき、残金は納品時に精算します」


千吉が頷いた。


「今までも、そうしていましたね」


「そうだ。だが、最近は例外が増えすぎた」


佐吉も頷いた。


「確かに」


俺は続けた。


「それから、未払いが続く家からは、新しい注文を受けません」


千吉が、少し心配そうな顔をした。


「……武士の方々が怒りませんか」


「怒るだろうな」


「大丈夫でしょうか」


俺は、少し考えた。


「分からん」


千吉は、困った顔をした。


俺は続けた。


「だが、怒られるのが怖いからといって、何でも引き受けていたら店が潰れる」


佐吉は、静かに頷いた。


「その通りです」


俺は、もう一枚の紙を取り出した。


「それから、職人たちの暮らしを優先します」


千吉が顔を上げた。


「私たちの?」


「そうだ」


俺は続けた。


「食べ物が足りなくなった時に、旗の注文を優先して皆を働かせるようなことはしません」


佐吉は、長い間俺を見つめていた。


そして、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


俺は、少し照れくさくなった。


「礼を言われることではありません」


だが、その時だった。


千吉が、静かに言った。


「親方」


「何だ」


「……一つだけ、よろしいですか」


俺は頷いた。


「何だ」


千吉は、少し考えた。


そして言った。


「町の人たちのための白い旗や、家族の面会の手伝いは、どうするんですか」


俺は、言葉に詰まった。


そうだった。


最近、俺たちは代金を取らない仕事も増やしていた。


町人を通すための白い旗。


離ればなれになった家族の面会。


亡くなった人の知らせ。


どれも大切だ。


だが、銭にはならない。


俺は、しばらく考えた。


そして答えた。


「……続けたいと思っている」


千吉は頷いた。


「はい」


「ただし、店を潰さない範囲でだ」


佐吉も、静かに頷いた。


「それがよろしいでしょう」


俺は、深く息を吐いた。


父上。


あなたがいなくなって、ようやく分かったことがあります。


人を助けるには、まず助ける側が立っていなければならない。


そして、店を続けるには、きちんと銭をいただかなければならない。


当たり前のことなのに、今まで何度も忘れかけていました。


          ◇


翌朝。


俺は店先に、新しい札を掛けた。


『軍旗のご注文、半金前払い』


その下に、


『残金は納品時にお願いします』


さらに、もう一枚。


『未払い分のあるお客様は、先にご精算ください』


新九郎殿が、それを読んだ。


そして、しばらく黙った。


「弥三郎」


「何でしょう」


「……とうとう、まともな商売人になったな」


俺は、少しだけ胸を張った。


「はい」


新九郎殿は、頷いた。


「よいことだ」


俺は、少し安心した。


だが、新九郎殿は続けた。


「……弥太郎殿が見たら、寂しがるかもしれんが」


俺は、顔を上げた。


「なぜです」


新九郎殿は笑った。


「お前の祖父は、無理な注文ほど面白がっていたからな」


俺は、深くため息をついた。


「……お祖父様には、もう少し商売を真面目に考えていただきたかったです」


新九郎殿は、腹を抱えて笑った。


「ははは! まったくだ!」


俺も、少しだけ笑った。


その時、店の奥から佐吉の声がした。


「親方!」


「はい!」


「新しい注文です!」


俺は帳面を開いた。


「どちらのお家でしょう」


佐吉は、少し困った顔をした。


「……それが」


俺は、顔を上げた。


「何でしょう」


佐吉は、静かに答えた。


「武家ではありません」


俺は、少し驚いた。


「……では?」


佐吉は、書状を差し出した。


そこには、町人たちの名が並んでいた。


俺は、目を見開いた。


          ◇


注文主は、焼け残った町に住む商人たちだった。


米屋。


油屋。


紙屋。


そして、細々と商売を続ける者たち。


彼らが、共同で旗を作りたいという。


俺は、すぐに代表者を店へ招いた。


やってきたのは、年配の米屋だった。


「旗屋さん」


「はい」


「町の者で、旗を作ってもらいたいのです」


俺は帳面を開いた。


「どのような旗でしょう」


米屋は、少し考えた。


そして答えた。


「……商売を再開したことを知らせる旗です」


俺は、顔を上げた。


「商売の再開?」


「はい」


男は続けた。


「戦で店を焼かれた者もおります。ですが、何とか商売を始めようとしている者もいます」


俺は、静かに頷いた。


「そうですか」


「ただ、どこに店があるのか分からない。焼けた町では、以前の目印もなくなってしまいました」


俺は、息を呑んだ。


なるほど。


軍勢の旗ではない。


町の店の場所を知らせる旗なのだ。


米屋は、少し笑った。


「旗があれば、遠くからでも店が分かるでしょう」


俺は、ゆっくり頷いた。


「……はい」


男は続けた。


「それに、旗が立っていれば、まだ町が生きているように見える気がするのです」


俺は、何も言えなかった。


胸の奥が、熱くなった。


父が、最後に言っていた。


――店を続けろ。


俺は、ようやくその言葉の意味が分かったような気がした。


店を続ける。


商売を続ける。


人が暮らす場所を残す。


それは、武士の旗を作ることだけではない。


町の旗を作ることでも、できるのだ。


          ◇


「……何枚でしょう」


俺が尋ねると、米屋は答えた。


「まず、十枚ほど」


俺は頷いた。


「承知しました」


男は、少しだけ心配そうな顔をした。


「ただ、銭が十分にありません」


俺は、帳面を見た。


先ほど掛けたばかりの札。


『半金前払い』


『残金は納品時』


俺は、少し考えた。


そして答えた。


「……では、必要な旗の大きさや布を相談しましょう」


男は、顔を上げた。


「相談?」


「はい。費用を抑えられる作り方を考えます」


俺は、静かに続けた。


「ただし、代金はきちんといただきます」


男は、少し驚いた。


そして、笑った。


「……それで構いません」


俺も笑った。


「ありがとうございます」


男は、深く頭を下げた。


俺も、頭を下げた。


その時、店の奥から千吉が言った。


「親方!」


「何だ」


「……これは、久しぶりの仕事ですね」


俺は、顔を上げた。


千吉は笑っていた。


「戦のためではない旗です」


俺は、静かに頷いた。


「ああ」


佐吉も、少しだけ笑った。


「弥一郎様も、喜ばれたでしょうね」


俺は、胸の奥が熱くなった。


そして、静かに答えた。


「……そうですね」


          ◇


数日後。


町人たちの旗が完成した。


米屋の旗。


油屋の旗。


紙屋の旗。


それぞれ、商売の印を分かりやすく描いた。


派手なものではない。


布も、できるだけ無駄を出さずに仕立てた。


だが、十枚の旗が並ぶと、思った以上に明るく見えた。


俺は、完成した旗を見つめた。


千吉が言った。


「親方。軍旗より、ずっと楽しそうですね」


俺は、少し笑った。


「……そうだな」


佐吉も頷いた。


「久しぶりに、旗を作るのが楽しかったです」


その言葉に、俺は少し驚いた。


佐吉は、長年この店で働いている。


その佐吉が、今、久しぶりに楽しかったと言った。


俺は、静かに頷いた。


「……俺もです」


          ◇


納品の日。


俺たちは、町人たちと一緒に旗を立てた。


焼け残った柱。


修理した屋根。


新しく作った小さな店先。


そこに、旗が一本ずつ立っていく。


米屋。


油屋。


紙屋。


小さな菓子屋。


そして、古道具を売る店。


風が吹くと、旗が揺れた。


色とりどりの布が、灰色の町に浮かび上がった。


俺は、しばらくその光景を見つめていた。


戦の旗は、敵と味方を分ける。


だが、町の旗は、人を呼ぶ。


ここに米がある。


ここに油がある。


ここに紙がある。


そして、ここに人がいる。


俺は、胸の奥が熱くなった。


その時、米屋が俺に言った。


「旗屋さん」


「はい」


「……ありがとうございます」


俺は頭を下げた。


「こちらこそ」


米屋は、少し笑った。


「これで、また商売ができます」


俺は、静かに頷いた。


「はい」


その言葉が、何より嬉しかった。


          ◇


店へ戻った夜。


俺は、帳面を開いた。


『町人共同注文 商売再開の旗十枚』


『代金 全額精算』


『納品完了』


俺は、筆を置いた。


そして、少し考えた。


父が亡くなってから、初めて心から楽しいと思えた仕事だった。


俺は、静かに呟いた。


「……父上」


返事はない。


当然だ。


もう、父はいない。


だが、今日は少しだけ話しかけたくなった。


「戦の旗ではない仕事を、いただきました」


俺は、帳面を見つめた。


「町の人たちが、また商売を始めるそうです」


そして、静かに笑った。


「……よい仕事でした」


返事はない。


だが、父ならきっと、こう言っただろう。


――そうか。


――よかったな。


俺は、ゆっくり帳面を閉じた。


          ◇


翌朝。


俺は店先に、新しい札を掛けた。


『町の旗も、お作りします』


その下に、小さく一行。


『戦の旗でなくても、大歓迎です』


新九郎殿が、それを読んだ。


そして、しばらく黙った。


「弥三郎」


「何でしょう」


「……ようやく、旗屋らしくなったな」


俺は、少し笑った。


「はい」


新九郎殿は、静かに頷いた。


「弥一郎も、喜ぶだろう」


俺は、深く頷いた。


「……そう思います」


京の町では、今日も戦が続いている。


だが、焼け残った場所には、少しずつ人が戻り始めている。


そして、町には新しい旗が立った。


戦のためではない旗。


人を呼ぶための旗。


暮らしを続けるための旗。


俺は、祖父と父の札を見上げた。


『初代 弥太郎』


『二代目 弥一郎』


その下に、三代目として新しい札を掛けた。


『町の灯を、旗にします』


俺は、静かに頭を下げた。


父上。


お祖父様。


どうやら、この店には、まだ作るべき旗があるようです。


俺は、店の戸を開けた。


今日も、仕事を始めよう。


          ◇


ところが、その日の午後。


店へ、一人の男が駆け込んできた。


「旗屋弥三郎殿!」


俺は、顔を上げた。


「はい!」


男は、息を切らしていた。


「大変だ!」


俺は、少し身構えた。


「何がございました」


男は、必死の顔で言った。


「昨日、旗を立てた町が……!」


俺は、胸が冷たくなった。


「……どうした」


男は、震える声で答えた。


「東軍の兵に、旗を下ろせと言われている!」


俺は、息を呑んだ。


「なぜです!」


男は、顔を上げた。


そして、静かに言った。


「町の旗が、西軍への合図に見えるというのです!」


俺は、何も言えなかった。


米屋。


油屋。


紙屋。


ただ、商売を再開したことを知らせるために立てた旗。


その旗まで、敵への合図だと疑われている。


俺は、ゆっくり帳面を閉じた。


そして、深く息を吐いた。


父上。


どうやら、戦のない旗を作るだけでも、今の京では戦に巻き込まれてしまうようです。


俺は、立ち上がった。


「……分かりました。参りましょう」


店の戸を開ける。


遠くには、今日も戦の煙が上がっている。


だが、俺が守りたいのは、もう軍勢の旗だけではない。


焼けた町に立ち上がった、十枚の小さな旗。


そして、その下で商売を続けようとしている人々だ。

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