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本日も主君が変わりました ~昨日の敵が今日の味方な室町時代~  作者: さかもち
第三部 昨日の味方は、今日の敵です
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父上、店はまだ閉めませんから

父が倒れた。


そう聞いて、俺が最初にしたことは、帳面を閉じることだった。


細川家の軍旗二十枚。


納期は今日。


代金は半金を受け取り済み。


そんなことが、頭の中を一瞬だけよぎった。


そして、すぐに消えた。


「父上!」


奥の部屋へ駆け込むと、父は布団に横たわっていた。


顔色が悪い。


息はしている。


だが、いつものように笑ってはいなかった。


「……弥三郎か」


かすれた声がした。


俺は、その手を握った。


「はい。すぐに医者を呼びます」


父は、わずかに頷いた。


「……そうか」


「何か苦しいところは?」


「……少し、疲れた」


俺は、言葉に詰まった。


父は長い間、働き続けてきた。


将軍が代わっても、幕府が揺らいでも、戦が起きても。


いつも店にいた。


俺が失敗すれば笑い、困れば助言し、時には何の役にも立たない昔話を聞かせてくれた。


その父が、今は布団から起き上がれない。


「父上」


俺は、できるだけ明るい声を出した。


「今度は、しばらく休んでください」


父は、少しだけ笑った。


「……店は?」


「俺たちが守ります」


「……そうか」


「だから、余計な心配はしないでください」


父は、ゆっくり目を閉じた。


そして、小さな声で言った。


「……それなら、安心だ」


その言葉が、なぜか怖かった。


          ◇


応仁二年、1468年。


京では、東軍と西軍の戦が続いていた。


町の一部は焼け、道は塞がれ、医者を呼ぶことさえ容易ではない。


千吉が走り回り、ようやく一人の医師を連れてきた。


医師は父の脈を取り、呼吸を確かめ、いくつかの問いを投げかけた。


父は、短い言葉で答えた。


診察が終わると、医師は俺を廊下へ呼んだ。


「……ご高齢ですな」


俺は頷いた。


「はい」


「長くお疲れが重なっているのでしょう。今は、できるだけ安静に」


「治るのでしょうか」


医師は、すぐには答えなかった。


その沈黙が、胸に刺さった。


「できることはいたします。ただ、今後のことは慎重に見ていく必要があります」


俺は頭を下げた。


「お願いいたします」


医師が帰った後、俺はしばらく廊下に立っていた。


障子の向こうから、父の静かな呼吸が聞こえる。


それだけが、今の俺には頼りだった。


          ◇


「親方」


佐吉が声をかけた。


俺は振り返った。


「何でしょう」


「細川家の旗ですが……」


俺は、思わず顔をしかめた。


「今は、その話を……」


佐吉は静かに首を振った。


「旗のことは、私どもで何とかします」


俺は顔を上げた。


「……え?」


「二十枚、ほとんど仕上がっています。最後の確認だけです」


千吉も隣に立った。


「親方は、弥一郎様のおそばにいてください」


俺は、二人を見た。


佐吉。


長年、この店を支えてきた職人。


千吉。


幼い頃にこの店へ来て、今では立派な働き手となった男。


俺は、胸の奥が熱くなった。


「……すまない」


佐吉は笑った。


「何を仰います」


千吉も頷いた。


「親方がいつも言っているではありませんか」


「何を?」


「店は、一人で守るものではない、と」


俺は、少しだけ笑った。


確かに、言った覚えがある。


だが、いざ自分が助けられる側になると、何とも落ち着かない。


佐吉は、静かに続けた。


「弥一郎様から教わった仕事です。どうぞ、お任せください」


俺は、深く頭を下げた。


「……頼みます」


          ◇


その日の夕方。


父が、俺を呼んだ。


「弥三郎」


「はい」


俺は、布団のそばに座った。


父は、ゆっくり目を開いた。


「……旗は?」


俺は苦笑した。


「父上。まず、ご自分の体を心配してください」


父は、少しだけ笑った。


「……納期は、今日だろう」


「そうです」


「大丈夫か」


「佐吉さんと千吉が、仕上げています」


父は頷いた。


「……そうか」


そして、静かに続けた。


「よかった」


俺は、父を見つめた。


「父上」


「何だ」


「どうして、そこまで店のことが気になるんですか」


父は、しばらく考えた。


そして、少し笑った。


「……長く、やってきたからな」


俺は黙った。


「父上から受け継いで、お前に渡した。それでも、店のことは気になる」


「もう、俺が親方です」


「ああ。知っている」


父は、ゆっくり頷いた。


「……立派な親方だ」


俺は、何も言えなかった。


父にそう言われると、不思議なほど嬉しかった。


同時に、ひどく寂しくなった。


まるで、何かを終わらせようとしているように聞こえたからだ。


          ◇


翌朝、細川家の旗二十枚は無事に納められた。


佐吉と千吉が、最後まで責任を持って仕上げたのである。


俺は、帳面に記した。


『細川家 軍旗二十枚』


『納品完了』


『代金精算済み』


いつもなら、ここで仕事は終わりだ。


だが、今日は違った。


俺は、その下に小さく書き加えた。


『佐吉・千吉により納品』


筆を置くと、父の声がした。


「……弥三郎」


俺は振り返った。


父は、部屋の入口からこちらを見ていた。


千吉に支えられ、少しだけ起き上がっていた。


「父上! 無理をなさらないでください!」


父は、かすかに笑った。


「……帳面を見せてくれ」


俺は、慌てて帳面を持っていった。


父は、ゆっくり文字を追った。


そして、静かに頷いた。


「……よし」


「何が、よしですか」


父は、少しだけ笑った。


「お前がいなくても、店は動く」


俺は、思わず言った。


「俺は、います!」


父は笑った。


「そうだな」


そして、静かに続けた。


「……だが、それが大事なんだ」


俺は黙った。


父は、帳面を指で叩いた。


「親方が一日休んでも、店が続く。誰かが倒れても、皆で支えられる」


俺は頷いた。


「はい」


父は、静かに言った。


「それが、三代続いた店の強さだ」


俺は、胸が熱くなった。


          ◇


数日が過ぎた。


父の容体は、少し落ち着いた。


だが、以前のように店へ出ることは難しかった。


食事の量も減り、起きていられる時間も短くなった。


それでも、俺が顔を出すと、必ず同じことを尋ねた。


「……今日の注文は?」


最初は、律儀に答えていた。


「山名家の旗が十枚です」


「……代金は?」


「半金をいただきました」


「……よし」


別の日には、こうだった。


「畠山家の旗が五枚です」


「……どちらだ」


「政長様方です」


「……紛らわしいな」


「本当に」


父は、少しだけ笑った。


俺も笑った。


そのやり取りが、いつしか俺たちの日課になった。


父がどれほど弱っていても、旗屋の話になると目が少し明るくなる。


だから俺は、毎日何か一つ、店の話を持っていくようになった。


難しい注文。


面倒な武士。


支払いを渋る客。


新九郎殿のどうでもよい昔話。


父は、そのたびに笑った。


俺は、その笑顔を見るのが嬉しかった。


          ◇


ある日、父が突然言った。


「弥三郎」


「はい」


「……父上の旗を、持ってきてくれ」


俺は、息を呑んだ。


祖父・弥太郎の白い旗。


三代にわたって受け継がれてきた、あの旗だ。


「……分かりました」


俺は、店の奥にある箱を開いた。


中には、丁寧に畳まれた白い布があった。


年月を重ね、ところどころ黄ばんでいる。


縫い目も、今の職人たちのものと比べれば不揃いだ。


だが、俺には何より大切な旗だった。


俺は、両手で抱えて父の部屋へ運んだ。


父は、ゆっくり手を伸ばした。


「……懐かしいな」


俺は、旗を広げた。


父は、長い間その布を見つめていた。


そして、小さく笑った。


「父上は、最初から縫い物が上手かったわけじゃない」


俺は、少し驚いた。


「そうなんですか」


「ああ」


父は、旗の端を指でなぞった。


「見ろ。ここなんて、ずいぶん曲がっている」


俺は、思わず笑った。


「本当ですね」


「父上は、これを直そうとしたことがある」


「直さなかったんですか」


父は首を振った。


「結局、そのままにした」


「なぜです?」


父は、少し考えた。


そして言った。


「……最初に作った旗だからだろうな」


俺は、静かに頷いた。


父は続けた。


「誰だって、最初は上手くできん」


「はい」


「だが、最初の一枚がなければ、次の一枚もない」


俺は、旗を見つめた。


曲がった縫い目。


不揃いな糸。


それでも、確かに形になった一枚。


そこから、この店が始まったのだ。


          ◇


「弥三郎」


父が、静かに言った。


「はい」


「……お前は、この店をどうしたい」


俺は、少し驚いた。


「どうしたい、ですか」


「ああ」


俺は、しばらく考えた。


これまで、そんなことを聞かれたことはなかった。


店を続ける。


注文を受ける。


旗を作る。


代金をいただく。


それが当たり前だった。


だが、父は今、その先を尋ねている。


俺は、静かに答えた。


「……続けたいです」


父は頷いた。


「うむ」


「戦が終わっても、この店を続けたい」


「そうか」


「武士の旗だけでなく、祭りの旗も作りたいです」


父は、少し笑った。


「いいな」


「町の店の暖簾も作りたいです」


「うむ」


俺は続けた。


「できれば、誰も戦に行かなくてもよい時代に、旗を作りたいです」


父は、長い間俺を見つめていた。


そして、静かに笑った。


「……それが、一番難しい注文だな」


俺も笑った。


「はい」


父は、少しだけ目を細めた。


「でも、悪くない」


俺は、静かに頷いた。


          ◇


その日の夜。


俺は、新九郎殿を呼んだ。


父が会いたがっていたからだ。


新九郎殿は、父の部屋へ入るなり、いつもの調子で言った。


「弥一郎!」


「……新九郎殿」


父は、少し笑った。


「まだ、生きておられましたか」


新九郎殿は、胸を張った。


「そちらこそ!」


俺は、思わず笑った。


この二人は、長い付き合いだ。


父が若い頃から、何度も顔を合わせてきた。


今では互いに年を取り、昔ほど歩くこともできない。


だが、口だけは達者だった。


新九郎殿は、父のそばに座った。


「弥一郎。随分と痩せたな」


「……そちらも、老けましたね」


「何を言う。私はまだ若い」


「……それは、無理があります」


二人は笑った。


俺も、つられて笑った。


しばらくして、新九郎殿が静かに言った。


「弥一郎」


「……はい」


「長い付き合いだったな」


父は、ゆっくり頷いた。


「……そうですね」


「弥太郎殿の頃からだ」


「はい」


新九郎殿は、少し遠くを見るような目をした。


「最初の頃は、こんなに長く続く店になるとは思わなかった」


父は、静かに笑った。


「……私もです」


二人は、しばらく黙っていた。


俺は、その姿を見ながら思った。


この人たちは、どれほど多くの時代を見てきたのだろう。


南北朝の終わり。


義満様の時代。


義教様の強い政治。


そして、今の応仁の乱。


そのすべてを越えて、まだここにいる。


俺は、胸の奥が熱くなった。


          ◇


新九郎殿が帰った後、父は少し疲れたようだった。


「父上。お休みください」


俺が言うと、父は頷いた。


だが、眠る前に、もう一度俺を呼んだ。


「弥三郎」


「はい」


「……佐吉と千吉を、大切にな」


俺は頷いた。


「もちろんです」


「店は、人がいなければ続かん」


「はい」


父は続けた。


「旗を作るのは、人だ。帳面を書くのも、人だ。そして、買いに来るのも人だ」


俺は、静かに頷いた。


「……はい」


父は、少しだけ笑った。


「だから、人を大切にしろ」


俺は、父の手を握った。


「分かりました」


父は、ゆっくり目を閉じた。


そして、静かに眠った。


俺は、しばらくその寝顔を見つめていた。


          ◇


翌朝。


俺は、父の部屋へ向かった。


いつものように、今日の注文を話すつもりだった。


「父上。今日は……」


そこまで言って、足を止めた。


父は、布団の中で静かに眠っていた。


あまりにも静かだった。


俺は、ゆっくり近づいた。


「……父上?」


返事はない。


俺は、手を伸ばした。


父の肩に触れた。


「父上」


動かない。


俺は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


「……父上!」


声が大きくなった。


千吉が駆け込んできた。


「親方!」


佐吉も続いた。


俺は、父の手を握った。


冷たい。


昨日より、ずっと。


俺は、何も言えなかった。


ただ、父の名を呼び続けた。


「……父上」


何度呼んでも、返事はなかった。


          ◇


医師が来た。


父の様子を確かめた。


そして、静かに頭を下げた。


俺は、その意味を理解するまで、しばらく時間がかかった。


父・弥一郎が、亡くなった。


祖父・弥太郎から店を受け継ぎ、長い年月、旗屋を守ってきた二代目だった。


俺が幼い頃、針の持ち方を教えてくれた。


初めて帳面をつけた時、間違いを笑った。


客に怒られた時、断り方を教えてくれた。


そして、俺が親方になった後も、何度も助けてくれた。


その父が、もういない。


俺は、布団のそばに座った。


父の手を握った。


そして、静かに言った。


「……父上」


返事はない。


「店は、まだ続けますから」


俺は、涙をこらえた。


「佐吉さんも、千吉もいます」


声が震えた。


「俺も、います」


涙がこぼれた。


「……だから、安心してください」


父は、何も答えなかった。


だが、その顔は穏やかだった。


          ◇


葬儀は、できる限り静かに行った。


戦の最中である。


多くの人を集めることも難しい。


それでも、店に縁のある者たちが訪れた。


佐吉。


千吉。


新九郎殿。


そして、長く旗屋を知る町の人々。


新九郎殿は、父の前に座り、しばらく黙っていた。


そして、小さな声で言った。


「……弥一郎」


返事はない。


新九郎殿は、少しだけ笑った。


「先に行くなよ」


その声が震えていた。


俺は、何も言えなかった。


新九郎殿は続けた。


「弥太郎殿に会ったら、よろしく言っておいてくれ」


そして、深く頭を下げた。


俺は、その背中を見つめた。


長く生きるということは、長く別れを重ねることでもあるのだ。


          ◇


葬儀が終わった夜。


俺は、一人で店に座っていた。


作業台。


針。


糸。


旗。


帳面。


何も変わっていない。


だが、何もかもが違って見えた。


父が座っていた場所は、空いている。


いつも聞こえていた声もない。


俺が帳面を間違えても、もう笑ってくれない。


俺は、静かに父の帳面を開いた。


最後の頁には、短い言葉が書かれていた。


『弥三郎、親方となる』


その下に、


『店を頼む』


とあった。


俺は、長い間その文字を見つめた。


そして、静かに泣いた。


声を出さずに、ただ泣いた。


父の前では、泣かないつもりだった。


だが、もう父はいない。


俺は、帳面を胸に抱えた。


          ◇


翌朝。


俺は、いつもの時間に店へ出た。


佐吉が、驚いた顔をした。


「親方。今日は、お休みになっても……」


俺は首を振った。


「いえ」


千吉も、心配そうに俺を見た。


「無理をなさらないでください」


俺は、少しだけ笑った。


「ありがとう」


そして、作業台の前に座った。


父が使っていた椅子。


祖父が使っていた道具。


三代続いた店。


俺は、静かに言った。


「……今日の注文は?」


佐吉は、しばらく黙った。


そして、ゆっくり答えた。


「山名家の旗が五枚です」


俺は頷いた。


「代金は?」


「半金をいただいております」


「納期は?」


「三日後です」


俺は、帳面を開いた。


そして、静かに筆を取った。


父が、いつも尋ねていたこと。


それを、今度は俺が尋ねる。


俺は、ゆっくり息を吐いた。


「……よし」


佐吉が、静かに頷いた。


千吉も、少しだけ笑った。


店は、今日も動いている。


父がいなくなっても。


祖父がいなくなっても。


それでも、旗屋は続いていく。


          ◇


その日の午後。


俺は、店先に新しい札を掛けた。


『二代目 弥一郎』


その下に、小さく書いた。


『長年、店を守ってくれてありがとう』


そして、祖父の札の隣に掛けた。


『初代 弥太郎』


『二代目 弥一郎』


俺は、しばらく二枚の札を見つめた。


祖父。


父。


そして、俺。


三代目。


俺は、静かに頭を下げた。


「……これからも、よろしくお願いします」


風が吹いた。


二枚の札が、小さく揺れた。


まるで、祖父と父が笑っているようだった。


俺は、少しだけ笑った。


          ◇


その夜。


俺は、父が最後に触れた白い旗を広げた。


祖父・弥太郎が作った最初の旗。


曲がった縫い目。


不揃いな糸。


長い年月を越えて、残された布。


俺は、そっと指でなぞった。


そして、父の言葉を思い出した。


――最初の一枚がなければ、次の一枚もない。


俺は、静かに頷いた。


父が残したものは、旗だけではない。


帳面だけでもない。


店だけでもない。


人を大切にすること。


仕事を続けること。


そして、いつか戦が終わる日を諦めないこと。


俺は、白い旗を丁寧に畳んだ。


そして、箱に戻した。


明日も、店を開けよう。


明後日も。


その次の日も。


父が守ってきたこの店を、俺が守っていく。


それが、三代目としての仕事だ。


京の町では、今日も戦が続いている。


だが、旗屋の灯は消えない。


俺は、静かに呟いた。


「……父上」


そして、少しだけ笑った。


「店は、まだ閉めませんから」

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