↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本日も主君が変わりました ~昨日の敵が今日の味方な室町時代~  作者: さかもち
第三部 昨日の味方は、今日の敵です
PR
49/62

兄上、敵の旗を持って帰ってきました

「兄の旗を、直していただきたいのです」


男はそう言って、深く頭を下げた。


俺は、作業台に広げた布を見つめた。


細川家の紋が染め抜かれた旗だった。


布の半分が裂け、端には乾いた血が付いている。竿を通す部分には、強く引っ張られた跡があった。


よほど激しく奪い合ったのだろう。


「お兄上は、東軍におられたのですね」


「はい」


「あなたは西軍に?」


「……はい」


俺は、男を見た。


年は三十を少し過ぎた頃だろうか。頬はこけ、目の下には深い隈があった。


「お名前を伺っても?」


「藤次郎(とうじろう)と申します」


「お兄上は?」


「源太郎(げんたろう)です」


藤次郎は、少しだけ目を伏せた。


「兄は、細川家に仕える者のもとで働いておりました。私は、山名家に縁のある家へ奉公に出ました」


俺は頷いた。


「では、最初から違う家に仕えておられたのですね」


「はい。ですが……」


藤次郎は、言葉を探すように唇を動かした。


「昔は、そんなことを気にしたこともありませんでした」


俺は、黙って続きを待った。


「正月には一緒に酒を飲み、祭りには家族を連れて集まっていました。兄の息子と、私の娘は、歳が近いのです」


藤次郎は、小さく笑った。


「子どもたちは、どちらの家に仕えているかなど、知りもしませんでした」


「……そうでしょうね」


「私たちも、忘れていたのです」


藤次郎は、血の付いた旗を見た。


「忘れたままで、いられればよかった」


          ◇


応仁二年、1468年。


京の町は、すっかり姿を変えていた。


東軍と西軍が争い始めてから、すでに一年以上が過ぎている。


最初の頃、皆は言っていた。


すぐに終わる。


将軍様が決めれば収まる。


細川勝元殿と山名宗全殿が話し合えばよい。


だが、どれも実現しなかった。


むしろ、争いは各地の大名を巻き込み、複雑になっていた。


最近では、西軍に将軍の弟・足利義視様が加わるという、実に分かりにくい事態にまで進んでいる。


新九郎殿は、その知らせを聞いて言った。


「弥三郎。お前の相関図、もう一度作らないか」


俺は即座に答えた。


「嫌です」


「今なら、もっと分かりやすくなるかもしれんぞ」


「なりません」


「どうして分かる」


「将軍様の弟君が、将軍様のいらっしゃる側と違う陣営へ向かわれた時点で、分かりやすくなるはずがありません」


新九郎殿は、しばらく考えた。


そして頷いた。


「……確かにな」


父が奥で笑っていた。


「昔、尊氏様と直義様が争った時も、似たようなものだった」


俺は、父を見た。


「また、繰り返しているんですね」


父は、少し寂しそうに笑った。


「ああ。人間は、なかなか覚えんらしい」


俺は帳面を閉じた。


覚えないのは、武士の方々だけではない。


戦が始まればすぐに終わると思っていた俺も、同じだった。


          ◇


藤次郎の旗は、佐吉が調べることになった。


「親方。これは難しいですね」


佐吉は、布を持ち上げた。


「裂け目が深い。無理に縫い合わせれば、周囲の布まで傷みます」


俺は頷いた。


「補強できますか」


「時間をかければ」


「では、お願いします」


佐吉は少し考えた。


「ただ、持ち主の方には、確認しておいた方がよいことがあります」


「何でしょう」


「血の染みを、どうするかです」


俺は、旗を見た。


黒ずんだ染みが、細川家の紋の一部にまで広がっている。


確かに、洗えば多少薄くなるかもしれない。


だが、古い布だ。


洗うことで、さらに傷む可能性もある。


俺は藤次郎を呼んだ。


「血の染みについて、ご相談があります」


藤次郎は、旗を見た。


しばらくして、静かに答えた。


「……残してください」


俺は頷いた。


「よろしいのですか」


「はい」


藤次郎は、震える手で布の端に触れた。


「兄が、最後まで持っていた旗です」


俺は、何も言えなかった。


藤次郎は続けた。


「きれいにしてしまったら、兄がそこで戦ったことまで、消えてしまうような気がするのです」


佐吉が、静かに頷いた。


「承知しました。染みは無理に落とさず、布を傷めないように直します」


藤次郎は、深く頭を下げた。


          ◇


藤次郎が帰る前、俺は一つ尋ねた。


「お兄上とは、戦が始まってからも会われていたのですか」


藤次郎は首を振った。


「いいえ」


「最後に会ったのは?」


「去年の春です」


俺は黙った。


「戦が始まったばかりの頃でした。まだ、これほど長く続くとは思っていなかったのです」


藤次郎は、遠くを見るような目をした。


「兄は、その時、私に言いました」


俺は続きを待った。


「『お前が山名方にいるなら、しばらく会わぬ方がよい』と」


「……そうですか」


「私も、そう思いました。互いのためだと」


藤次郎は苦く笑った。


「戦が終われば、また会えると思っていたのです」


俺は、旗を見つめた。


戦が終われば。


最近、あまりにも多くの人が、その言葉を口にする。


戦が終われば、店を建て直す。


戦が終われば、故郷へ帰る。


戦が終われば、家族に会う。


だが、戦が終わる前に、命が尽きてしまう人もいる。


「兄上は、最後にこうも言いました」


藤次郎が続けた。


「『戦場では、俺を見つけるな』と」


俺は顔を上げた。


「……どういう意味でしょう」


藤次郎は、静かに答えた。


「私を見つければ、兄は戦わねばならぬ。兄を見つければ、私も戦わねばならぬ。だから、互いに見つけないようにしようと」


俺は、何も言えなかった。


藤次郎は、涙をこらえるように顔を伏せた。


「……結局、兄を見つけたのは、死んだ後でした」


          ◇


その夜、俺は父の部屋を訪ねた。


父は、窓の外を眺めていた。


「父上」


「何だ」


「東軍にいた兄の旗を、西軍にいる弟が持ってきました」


父は、静かに頷いた。


「そうか」


俺は藤次郎の話をした。


一緒に酒を飲んでいた兄弟。


違う家に仕えながら、仲よく暮らしていた家族。


戦が始まり、互いに会わなくなったこと。


そして、二度と会えなくなったこと。


父は、最後まで黙って聞いていた。


やがて、小さく息を吐いた。


「……そういうことが、昔もあった」


俺は頷いた。


「祖父の時代にも?」


「ああ」


父は、少し目を細めた。


「父上はな、敵と味方が入れ替わるたびに、妙な顔をしていた」


「妙な顔?」


「昨日まで敵だった者が、今日は味方だと名乗って旗を買いに来る。そういう時、父上はいつも笑っていたんだ」


俺は、祖父の看板を思い出した。


『本日の味方』


『明日は不明』


父は続けた。


「だが、その笑い方が、だんだん変わっていった」


「……どう変わったのですか」


「最初は面白がっていた。だが、やがて笑うしかなくなったんだろうな」


俺は、何も言えなかった。


父は、静かに言った。


「弥三郎。人が誰かの味方になるのは、悪いことじゃない」


「はい」


「だが、味方を選んだからといって、それまで大切にしていた人まで敵にしなくてもよいはずだ」


俺は、深く頷いた。


その通りだと思った。


だが、今の京では、それができない。


いや、できないのではない。


そうすることを、許されない人々がいるのだ。


          ◇


数日後、修繕した旗が完成した。


佐吉は、裂けた部分を裏から補強し、残っている布をできるだけ元の形で支えた。


血の染みは、そのままにした。


俺は完成した旗を広げた。


細川家の紋。


焼けた縁。


古い縫い目。


そして、黒く残った染み。


美しい旗とは言えなかった。


だが、確かに誰かが大切に使ってきた旗だった。


藤次郎が店へ来た。


俺は旗を差し出した。


「……できる限り、直しました」


藤次郎は、両手で受け取った。


しばらく、何も言わなかった。


そして、静かに呟いた。


「……兄上」


声が震えていた。


「兄上、帰ってきました」


俺は、胸の奥が熱くなった。


藤次郎は旗を抱えた。


「ありがとうございました」


俺は頭を下げた。


「こちらこそ、お預けいただきありがとうございました」


藤次郎は少し笑った。


「代金は、いくらでしょう」


俺は帳面を開いた。


そして、計算した金額を伝えた。


藤次郎は、少し驚いた顔をした。


「……思っていたより安い」


俺は笑った。


「修繕ですから」


藤次郎は、懐から銭を取り出した。


数えながら、静かに言った。


「兄の旗を直すためなら、もっと払ってもよかったのです」


俺は首を振った。


「仕事に見合った代金で十分です」


藤次郎は、しばらく俺を見つめた。


そして、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


俺は、少しだけ胸を張った。


三代目として、正しい商売ができたと思った。


その時だった。


店の外で、怒鳴り声が聞こえた。


          ◇


「ここに西軍の者がいると聞いた!」


俺は戸口へ向かった。


三人の武士が立っていた。


いずれも東軍の者らしい。


「何か御用でしょうか」


俺が尋ねると、先頭の男が言った。


「西軍の武士が、この店へ入ったそうだな」


俺は、少し身構えた。


「お客様のことは、お話しできません」


男は眉をひそめた。


「敵をかくまっているのか」


「いいえ」


「ならば、見せろ」


俺は、思わず藤次郎を振り返った。


藤次郎は、旗を抱えたまま立っていた。


男は、その姿を見るなり叫んだ。


「いたぞ!」


俺は、慌てて前へ出た。


「お待ちください!」


「どけ!」


男が俺を押しのけようとした。


その時、藤次郎が静かに言った。


「……私は逃げません」


俺は、顔を上げた。


藤次郎は、ゆっくり戸口へ歩いた。


「確かに私は西軍におります」


男たちは刀に手をかけた。


俺は、息を呑んだ。


藤次郎は続けた。


「ですが、今日は戦をしに来たのではありません」


「何だと」


藤次郎は、抱えていた旗を広げた。


そこには、細川家の紋があった。


東軍の武士たちが、目を見開いた。


「……その旗は」


藤次郎は、静かに答えた。


「兄の旗です」


男たちは黙った。


「兄は、あなた方と同じ東軍におりました」


藤次郎の声が震えた。


「先日の戦で、亡くなりました」


男たちは、顔を見合わせた。


藤次郎は、深く頭を下げた。


「私は、西軍におります。ですが、兄を弔うことだけは、許していただきたいのです」


長い沈黙が落ちた。


俺は、息をするのも忘れていた。


やがて、先頭の武士が言った。


「……名は」


藤次郎は答えた。


「源太郎です」


男の顔が変わった。


「……源太郎?」


藤次郎は頷いた。


「はい」


男は、しばらく旗を見つめた。


そして、低い声で言った。


「……知っている」


俺は、息を呑んだ。


「源太郎は、先日の戦で討たれた。最後まで陣を守っていたと聞いている」


藤次郎の目から、涙がこぼれた。


「……そうでしたか」


男は、静かに続けた。


「勇敢な男だった」


藤次郎は、旗を抱きしめた。


「ありがとうございます」


俺は、ようやく息を吐いた。


しかし、男は続けた。


「だが、お前は西軍の者だ」


俺は、顔を上げた。


男は、藤次郎を見つめた。


「今ここで斬ることもできる」


俺の背筋が冷たくなった。


藤次郎は、静かに頷いた。


「……承知しております」


男は、長い間黙っていた。


そして、ゆっくり刀から手を離した。


「……今日は見逃す」


俺は、息を呑んだ。


男は続けた。


「源太郎の弟であることに免じてだ」


藤次郎は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


男は、背を向けた。


だが、去り際に振り返った。


「次に戦場で会えば、容赦はせぬ」


藤次郎は、静かに答えた。


「……分かっております」


男たちは、去っていった。


俺は、しばらく動けなかった。


          ◇


藤次郎が店を出る時、俺は尋ねた。


「これから、どうされますか」


藤次郎は、少し考えた。


「兄の妻と子に、旗を届けたいのです」


俺は顔を上げた。


「東軍側にいらっしゃるのですか」


「はい」


「危険です」


藤次郎は頷いた。


「分かっています」


俺は、しばらく考えた。


そして言った。


「……直接行くのではなく、預ける方法を探しましょう」


藤次郎は、驚いた顔をした。


「預ける?」


「はい」


俺は続けた。


「東西双方が認めた通行の取り決めを、私どもは手伝っています。ですが、自由に行き来できるわけではありません」


藤次郎は、静かに聞いていた。


「ですので、まずお兄上のご家族に知らせを届け、旗を受け取る意思があるか確かめましょう」


藤次郎は、しばらく考えた。


そして、深く頷いた。


「……お願いいたします」


俺は、静かに頷いた。


          ◇


その夜、俺は帳面を開いた。


『細川家 古旗修繕』


『依頼主、西軍所属』


『旗の持ち主、東軍所属の兄』


その下に、書き加えた。


『兄、戦死。弟、形見として修繕を依頼』


俺は、筆を置いた。


奇妙な記録だった。


同じ家族。


違う陣営。


敵と味方。


そして、一本の旗。


俺は、静かに息を吐いた。


その時、父が声をかけた。


「弥三郎」


俺は振り返った。


「はい」


父は、帳面を覗き込んだ。


そして、静かに言った。


「……よい仕事をしたな」


俺は、少し笑った。


「ありがとうございます」


父は頷いた。


「ただな」


俺は、少し身構えた。


「何でしょう」


「旗は直せても、兄弟の仲までは直せん」


俺は、静かに頷いた。


「はい」


父は続けた。


「だが、残された者が、もう一度つながる手助けくらいはできるかもしれん」


俺は顔を上げた。


父は、少し笑った。


「それで十分だ」


俺は、深く頷いた。


          ◇


翌朝。


俺は、店先に新しい札を掛けた。


『敵方の旗も、修繕承ります』


その下に、もう一行。


『ただし、ご家族へのお届けは要相談』


新九郎殿が、それを読んだ。


そして、少し考えた。


「弥三郎」


「何でしょう」


「……お前の店、最近は何屋なんだ」


俺は、少し笑った。


「旗屋です」


「本当に?」


「はい」


「通行の相談もするし、人を探すし、形見を預かるし……」


俺は、少し考えた。


そして答えた。


「……仕事が増えました」


新九郎殿は、腹を抱えて笑った。


「ははは! 弥太郎殿の孫らしい!」


父も、奥で笑っていた。


俺は、その笑い声を聞きながら、店の戸を開けた。


京の空には、今日も煙が上がっている。


だが、店にはまだ人が来る。


旗を作ってほしい人。


旗を直してほしい人。


誰かに会いたい人。


誰かを待っている人。


俺は、帳面を開いた。


今日も、仕事を始めよう。


          ◇


その日の午後。


一人の女性が店を訪ねてきた。


三十歳ほどだろうか。


粗末な着物を着ているが、背筋は真っすぐだった。


隣には、十歳ほどの少年が立っている。


「旗屋弥三郎様でしょうか」


俺は頭を下げた。


「はい」


女性は、懐から一枚の紙を取り出した。


「こちらで、東軍にいた武士の旗を直されたと伺いました」


俺は、息を呑んだ。


「……お名前を伺っても?」


女性は、静かに答えた。


「源太郎の妻、志乃(しの)と申します」


俺は、目を見開いた。


藤次郎の兄。


戦死した源太郎の妻だった。


俺は、深く頭を下げた。


「……お話は伺っております」


志乃は頷いた。


そして、隣の少年の肩に手を置いた。


「この子は、源太郎の息子です」


少年は、深く頭を下げた。


俺は、少しだけ胸が熱くなった。


志乃は続けた。


「義弟が、夫の旗を直してくださったと聞きました」


「はい」


「その旗を、受け取りたいのです」


俺は頷いた。


「承知しました。お預かりする手配をいたします」


だが、志乃は首を振った。


「……それだけではありません」


俺は、顔を上げた。


志乃は、静かに言った。


「義弟にも、会いたいのです」


俺は、息を呑んだ。


「……藤次郎殿に?」


「はい」


志乃は、少しだけ目を伏せた。


「夫が亡くなった今、家族はもう、あの人しか残っておりません」


俺は、何も言えなかった。


東軍にいる兄の妻。


西軍にいる弟。


そして、戦場で亡くなった兄。


志乃は、俺を見つめた。


「旗屋様」


「はい」


「東軍と西軍の間で、家族が会うことはできるのでしょうか」


俺は、答えられなかった。


白い旗で、町人を通したことはある。


だが、敵味方に分かれた家族を会わせる。


それは、もっと難しいことかもしれない。


俺は、しばらく考えた。


そして、静かに答えた。


「……方法を探してみます」


志乃は、深く頭を下げた。


少年も、小さく頭を下げた。


俺は、その姿を見つめた。


祖父も、父も。


きっと、こんな相談を受けたことがあるのだろう。


そして、俺もまた考えなければならない。


戦場で分かれた家族を、もう一度つなぐことができるのか。


俺は、店先の看板を見た。


『本日の味方』


『明日は不明』


その下に、俺が掛けた札がある。


『敵方の旗も、修繕承ります』


俺は、静かに呟いた。


「……旗だけでは、足りませんね」


京の町は、今日も戦の中にある。


だが、家族が家族であることまで、戦が決めてよいはずはない。


俺は、帳面を開いた。


新しい頁に、こう書いた。


『東軍・源太郎遺族』


『西軍・藤次郎』


『面会希望』


そして、最後に一行。


『敵味方ではなく、家族として会う方法を探す』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。