その二択、旗屋ではお取り扱いしておりません
「千吉を差し出すか、米屋の一家を見捨てるか」
俺は、その二つを紙に書いた。
しばらく眺めてから、両方に大きくバツをつけた。
そして、三つ目を書こうとして手が止まった。
……何も思いつかない。
「父上」
俺は振り返った。
「第三の道というのは、どこにあるのでしょう」
父は茶を飲んでいた。
「知らん」
「……はい?」
「俺が知っていたら、もう教えている」
俺は筆を置いた。
「では、なぜ第三の道を考えろと?」
父は、当たり前のことのように答えた。
「二つしかないと思い込むなと言ったんだ。三つ目が必ずあるとは言っておらん」
俺は天井を仰いだ。
父上。
長年、あなたを尊敬してまいりました。
ですが、今夜ばかりは少々腹が立ちます。
父は、そんな俺を見て笑った。
「弥三郎。お前は商売を始める時、何を決めた」
「代金を先にいただくことです」
「そうだったな」
「注文主を確かめることです」
「うむ」
「そして、仕事の条件を明確にすることです」
父は頷いた。
「では、今回の注文はどうだ」
俺は、紙を見た。
嘉兵衛一家を東軍側へ移すこと。
断れば千吉の過去を調べるということ。
「……条件が、明確ではありません」
「そうだろう」
父は茶碗を置いた。
「誰が命じた。何の権限で命じた。何をしたら命令を果たしたことになる。その辺りが、どうにも曖昧だ」
俺は顔を上げた。
父は、少し笑った。
「相手が強いからといって、何でも言う通りにする必要はない。まず、何を命じられているのか確かめてこい」
俺は、しばらく考えた。
そして、ゆっくり頷いた。
なるほど。
第三の道が見つからないなら、そもそも二つの道が本当にあるのか調べればいい。
父上。
あなたは、たまに驚くほどまともなことを仰る。
本当に、たまにだが。
◇
翌朝。
俺は千吉を店の奥へ呼んだ。
千吉は、いつものように仕事の話だと思っていたらしい。
「親方。何でしょう」
俺は、しばらく言葉を探した。
そして、昨夜の出来事を話した。
西軍からの命令。
嘉兵衛一家の移送。
そして、千吉の名前が持ち出されたこと。
千吉は、黙って聞いていた。
話し終えると、長い沈黙が落ちた。
「……そうですか」
ようやく、それだけ言った。
俺は頭を下げた。
「すまん」
千吉が驚いた。
「どうして親方が謝るんですか」
「お前を巻き込んだ」
千吉は首を振った。
「違います」
そして、静かに続けた。
「私は、ずっと赤松家のことを隠して生きてきました」
俺は顔を上げた。
「隠してはいないだろう。俺たちは知っている」
「店の皆さんは、です」
千吉は、少しだけ笑った。
「でも、ほかの人には言っていませんでした。叔父が赤松家に仕えていたことも、嘉吉の乱の後に逃げてきたことも」
俺は黙った。
「いずれ、こんな日が来るかもしれないとは思っていました」
「……千吉」
「親方」
千吉は、まっすぐ俺を見た。
「私は、この店で働きたいです」
俺は、胸が詰まった。
「……ああ」
「旗を作って、直して、皆さんと飯を食べて、時々、新九郎様の昔話を聞いて」
俺は思わず言った。
「最後のは、聞かなくてもいいぞ」
千吉が笑った。
俺も、少しだけ笑った。
だが、千吉はすぐに真顔になった。
「だから、私を守るために、嘉兵衛さんたちを見捨てないでください」
俺は、何も言えなかった。
千吉は続けた。
「それでは、私がこの店に来た意味がなくなります」
その言葉は、重かった。
あの時、千吉を店へ迎えたのは父だった。
赤松家の人間だからではない。
赤松家の人間だったからでもない。
ただ、行く場所を失った少年がいたからだ。
俺は深く頷いた。
「分かった」
千吉は、静かに頭を下げた。
◇
その日の昼前、俺は西軍の陣へ向かった。
今回は一人ではない。
三浦頼景殿に、あらかじめ話を通していた。
頼景殿は、俺の顔を見るなり言った。
「弥三郎。今度は何だ」
「昨日の命令について、確認したいことがございます」
頼景殿はため息をついた。
「……そなたが来ると、仕事が増える」
俺は頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝るなら、来るな」
「ですが、来なければ確認できません」
頼景殿は、しばらく俺を睨んだ。
そして、とうとう笑った。
「まったく、面倒な旗屋だ」
最近、そればかり言われる。
いっそ屋号を『面倒な旗屋』に変えようかと思うほどだった。
頼景殿は俺を奥へ通した。
「それで、何を確かめたい」
俺は、書状を広げた。
「この命令を出された方です」
頼景殿は頷いた。
「西軍の武士の一人だ」
「どのような立場でしょう」
頼景殿は、少し考えた。
「陣内の物資や人の出入りに関わっている」
「その方には、町人を追い出す権限があるのでしょうか」
頼景殿の表情が変わった。
「……何?」
俺は続けた。
「西軍全体の命令なのか、その方個人の判断なのかを確かめたいのです」
頼景殿は、書状を見つめた。
そして、しばらく黙った。
「……なるほど」
俺は、静かに待った。
やがて頼景殿が言った。
「少し、調べてみよう」
◇
半刻ほどして、頼景殿が戻ってきた。
顔が険しかった。
「弥三郎」
「はい」
「この命令は、西軍全体で決めたものではない」
俺は、息を呑んだ。
「……では?」
「陣内の一部の者が、独自に進めていたようだ」
俺は、しばらく黙った。
そして尋ねた。
「嘉兵衛一家を追い出すことも?」
頼景殿は頷いた。
「米の取引を疑われていることは事実だ。だが、正式に追放すると決まったわけではない」
俺は深く息を吐いた。
ようやく、少し道が見えた。
「では、千吉についても……」
頼景殿は、俺を見た。
「千吉?」
俺は、昨日見せられた紙のことを話した。
赤松家に仕えていた過去。
それを持ち出され、調べると脅されたこと。
頼景殿は、最後まで黙って聞いていた。
そして、低い声で言った。
「……その男、ずいぶん勝手なことをしているな」
俺は黙った。
「赤松家に仕えていたというだけで、今の戦の間者だと決めることはできぬ」
「はい」
「まして、千吉は嘉吉の乱の頃には子どもだったのだろう」
「そうです」
頼景殿は、深くため息をついた。
「弥三郎。そなたが昨日、すぐに従わなかったのは正しかったかもしれぬ」
俺は、ようやく肩の力が抜けた。
だが、頼景殿は続けた。
「ただし、相手の面子を潰せば、今度は別の厄介事になる」
俺は、顔を上げた。
そうだった。
武士の世界では、正しいことを言えば済むわけではない。
相手が引き下がれる場所を残さなければ、かえって事態が悪くなる。
父が昨夜言ったことを思い出した。
――断り方だ。
俺は、ゆっくり頷いた。
◇
頼景殿の立ち会いのもと、昨日の男と再び会った。
男は俺を見るなり、険しい顔になった。
「弥三郎。答えは出たか」
俺は頭を下げた。
「はい」
「では、三人を通せ」
「その前に、一つお願いがございます」
男の眉が動いた。
「またか」
俺は、静かに書状を差し出した。
「嘉兵衛一家については、東軍側で受け入れ先が見つかりました」
男は黙った。
「ご本人たちも、家族一緒に移ることを希望されています」
「ならば問題なかろう」
「はい」
俺は、少しだけ息を整えた。
「ですので、正式な通行手続きとして扱わせていただきたいのです」
男は、しばらく俺を見つめた。
「……正式な?」
「はい。西軍側の通行許可、東軍側の受け入れ確認、そしてご本人たちの同意を揃えます」
男は鼻を鳴らした。
「面倒なことを」
俺は、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。ただ、そのようにしておけば、西軍の命令が確実に果たされた記録も残ります」
男の目が、少しだけ動いた。
俺は続けた。
「嘉兵衛一家は西軍の陣を離れます。東軍側では受け入れ先へ移ります。どちらにも、不都合が残りません」
男は、しばらく考えた。
頼景殿が、そこで口を開いた。
「その方がよかろう」
男は、頼景殿を見た。
頼景殿は続けた。
「後から人が行方不明になったなどと言われても困る。記録を残しておけば、陣内の管理も明確になる」
男は黙った。
俺は、静かに待った。
長い沈黙の後、男が言った。
「……よかろう」
俺は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
男は、少し不満そうだった。
だが、それ以上は何も言わなかった。
◇
問題は、まだ残っていた。
千吉のことだ。
俺は、帰り際に男へ尋ねた。
「もう一つ、確認させてください」
男は、嫌そうな顔をした。
「何だ」
「千吉についてです」
男の表情が変わった。
俺は続けた。
「赤松家に関わっていた過去について、ご不審な点があるなら、正式にお尋ねください」
男は黙った。
「本人も、私も、知っていることはお話しします」
頼景殿が、俺を見た。
俺は続けた。
「ただし、嘉兵衛一家の移送とは別の話として扱っていただきたいのです」
男は、長い間俺を睨んだ。
そして、低い声で言った。
「……随分と理屈を申す旗屋だな」
俺は頭を下げた。
「商売柄、取り決めを曖昧にすると後で困りますので」
男は鼻を鳴らした。
「その千吉が怪しいと分かれば、調べさせてもらうぞ」
俺は頷いた。
「承知しました」
「逃がすなよ」
俺は、静かに答えた。
「本人は、逃げるつもりはございません」
男は、しばらく黙った。
そして、背を向けた。
頼景殿が、小さく息を吐いた。
「……よく言ったな」
俺も、深く息を吐いた。
「……生きた心地がしませんでした」
頼景殿は、少し笑った。
「それはそうだろう」
◇
数日後。
嘉兵衛一家の移動が行われた。
今回は、前のように大勢の町人を通すわけではない。
嘉兵衛。
お里。
徳松。
三人だけだった。
東西双方の担当者が、通行の時刻と場所を確かめた。
俺は、白い旗を用意した。
千吉が、その旗を持って立っていた。
「親方」
「何だ」
「今回は、私も一緒に行きます」
俺は、しばらく考えた。
「……無理はするなよ」
千吉は笑った。
「はい」
嘉兵衛一家が現れた。
お里は小さな荷物を抱え、徳松は父の袖を握っていた。
俺は、三人へ頭を下げた。
「お待たせしました」
嘉兵衛は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
俺は首を振った。
「まだ、通り終えていません」
嘉兵衛は頷いた。
「はい」
俺たちは、決められた道を進んだ。
白い旗が、風に揺れる。
東軍の兵。
西軍の兵。
互いを警戒する目。
その間を、三人の家族が歩いていく。
徳松が、俺を見上げた。
「旗屋さん」
「何だい」
「東軍に行ったら、俺たちは東軍の味方になるんですか」
俺は、少し考えた。
そして答えた。
「……そこで暮らすだけだよ」
徳松は首を傾げた。
「それだけ?」
俺は頷いた。
「それだけだ」
少年は、少し笑った。
「じゃあ、よかった」
俺は、その笑顔を見て胸が熱くなった。
◇
通行は、無事に終わった。
東軍側の担当者が、三人の受け入れを確認した。
嘉兵衛一家は、家族一緒に新しい場所へ向かった。
俺は、その後ろ姿を見送った。
千吉が、隣に立った。
「親方」
「何だ」
「……よかったですね」
俺は頷いた。
「ああ」
千吉は、少し考えた。
そして言った。
「でも、嘉兵衛さんたちは、家を失ったんですよね」
俺は黙った。
そうだった。
移動できた。
家族は離れずに済んだ。
だが、それで元の暮らしに戻れるわけではない。
嘉兵衛が商売を再開できるかも分からない。
徳松が友達に会えるかも分からない。
俺は、静かに答えた。
「……そうだな」
千吉は、白い旗を見上げた。
「助けるって、難しいですね」
俺も旗を見た。
「本当にな」
◇
店へ戻ると、佐吉が待っていた。
「親方。お帰りなさい」
俺は頷いた。
「はい」
「皆さん、無事でしたか」
「はい」
佐吉は、ほっとした顔をした。
その奥で、父が座っていた。
俺は父の前へ行った。
「父上」
「何だ」
「第三の道が、見つかりました」
父は、少し笑った。
「そうか」
俺は、今日までの出来事を話した。
命令の権限を確かめたこと。
正式な通行手続きにしたこと。
嘉兵衛一家を家族一緒に移せたこと。
そして、千吉については別の問題として扱わせたこと。
父は、最後まで黙って聞いていた。
話し終えると、静かに頷いた。
「……よくやったな」
俺は、少し照れくさくなった。
「ありがとうございます」
父は、しばらく俺を見ていた。
そして言った。
「弥三郎」
「はい」
「お前は、俺より親方らしくなったな」
俺は、思わず顔を上げた。
父は、少し笑った。
「俺なら、あそこまで考えられなかったかもしれん」
俺は首を振った。
「そんなことはありません」
父は、静かに続けた。
「俺は、目の前の旗をどうするかばかり考えていた。だが、お前は旗を使う人間の、その先まで考えようとしている」
俺は、何も言えなかった。
父は、少しだけ目を細めた。
「……父上も、喜ぶだろうな」
俺は、胸の奥が熱くなった。
◇
その夜。
俺は帳面を開いた。
『嘉兵衛一家 三名』
『東西双方の確認のもと通行』
『東軍側にて受け入れ』
『家族離散なし』
その下に、もう一行。
『千吉への疑い、現時点で具体的な根拠なし』
俺は、筆を置いた。
祖父の帳面。
父の帳面。
そして、俺の帳面。
三冊を並べた。
祖父は、敵味方が入れ替わる時代を生きた。
父は、強い将軍の時代を生きた。
俺は、将軍がいても戦を止められない時代を生きている。
だが、どの時代にも、共通することがある。
人は、何かを守ろうとしている。
家。
家族。
暮らし。
名誉。
そして、命。
俺は、静かに呟いた。
「……旗屋は、その人たちのためにあるんでしょうかね」
返事はない。
だが、今夜は返事がなくてもよかった。
◇
翌朝。
俺は店先に、新しい札を掛けた。
『二択以外のご相談も承ります』
新九郎殿が、それを見て大笑いした。
「ははは! 弥三郎!」
「何でしょう」
「とうとう旗屋が、相談所になったな!」
俺は少し笑った。
「そうですね」
父も、店の奥で笑っていた。
その笑い声を聞いて、俺は少し安心した。
京の町は、今日も戦の中にある。
だが、店にはまだ笑い声がある。
それだけでも、守る価値がある。
そう思った。
◇
ところが、その日の午後。
店へ、一人の男が現れた。
着物は汚れ、顔には深い疲れが浮かんでいた。
「旗屋弥三郎殿」
俺は頭を下げた。
「はい」
男は、懐から小さな包みを取り出した。
「これを、直していただきたい」
俺は、布を受け取った。
中には、古い旗が入っていた。
ところどころ破れ、血のような染みがついている。
俺は、そっと広げた。
そして、息を呑んだ。
「……これは」
そこには、見覚えのある紋があった。
細川家。
東軍の旗である。
俺は、顔を上げた。
「どちらから、持ってこられましたか」
男は、しばらく黙った。
そして、静かに答えた。
「西軍の陣からです」
俺は、眉を寄せた。
「……なぜ、西軍に細川家の旗が?」
男は、少しだけ目を伏せた。
「戦場で拾いました」
俺は、布を見つめた。
男は続けた。
「その旗の下に、一人の武士が倒れていました」
俺は黙った。
「すでに、息はありませんでした」
俺は、深く息を吐いた。
そして尋ねた。
「……なぜ、その旗を直したいのですか」
男は、俺を見た。
その目には、涙が浮かんでいた。
「その武士は、私の兄だったのです」
俺は、何も言えなかった。
男は続けた。
「私は西軍におります。兄は東軍におりました」
俺は、息を呑んだ。
「……兄弟で、敵同士に?」
男は、静かに頷いた。
そして、古い旗を握りしめた。
「兄が死んだ時、私は敵の陣にいました」
俺は黙って聞いていた。
男は、震える声で言った。
「兄の旗だけでも、元に戻してやりたいのです」
俺は、古い旗を見た。
東軍の紋。
西軍に仕える弟。
そして、戦場で亡くなった兄。
俺は、静かに息を吐いた。
祖父も、父も、きっと同じような仕事をしてきたのだろう。
敵の旗を直す。
だが、それは敵を助けるためではない。
家族を失った者が、家族を思い出すための仕事だった。
俺は、ゆっくり頭を下げた。
「……お預かりします」
男は、深く頭を下げた。
そして、涙をこぼした。
俺は、旗を丁寧に畳んだ。
京の町では、今日も東軍と西軍が争っている。
だが、その旗の下には、昨日まで同じ家で暮らしていた人々がいる。
そして、そのことを忘れずにいるのが、俺たち旗屋の仕事なのかもしれない。




