敵の旗を掲げれば、味方になれますか
「敵から奪った旗を、我らの旗として掲げたい」
そう言われた時、俺は最初、聞き間違いかと思った。
「……もう一度、お願いいたします」
西軍の使者は、不機嫌そうに眉を寄せた。
「この旗を直し、明日の戦で使えるようにしろと申している」
「それは分かりました」
「では、何が分からぬ」
「なぜ、敵の旗を使うのですか」
男は、当然のことを説明するように答えた。
「敵の陣へ近づけるからだ」
俺は黙った。
なるほど。
非常に分かりやすい。
そして、非常に嫌な話だった。
旗というものは、もともと誰がどちらの味方なのかを示すためにある。
その旗を使って味方のふりをする。
それでは、旗屋が何のために仕事をしているのか分からない。
「お断りいたします」
俺は答えた。
男の顔が変わった。
「……何?」
「その用途では、お引き受けできません」
「西軍の注文を断るというのか」
「旗の修繕は承ります。ただし、敵を欺くために紋を偽って掲げる仕事は、お断りします」
男は、ゆっくり立ち上がった。
「弥三郎」
呼び捨てだった。
「この店がどこにあるか、分かっているのだろうな」
俺は答えられなかった。
京の町は、東西に分かれている。
そして俺の店は、その境目から決して遠くない。
男は、焼けた旗を掴んだ。
「明日、もう一度参る。それまでによく考えておけ」
戸が乱暴に閉められた。
俺は、しばらくその場を動けなかった。
奥から父の声がした。
「弥三郎」
「はい」
「……今のは、少しまずかったな」
俺は振り返った。
「父上まで、そう仰いますか」
父は首を振った。
「断ったことじゃない」
「では?」
「断り方だ」
俺は、深くため息をついた。
どうやら三代目になっても、親方の修業は終わらないらしい。
◇
応仁二年、1468年。
京の町は、以前の姿を失いつつあった。
東軍は細川勝元殿を中心に、西軍は山名宗全殿を中心に陣を構えている。
将軍・足利義政様は東軍側の花の御所におられる。
しかし、そのことだけで戦が終わるわけではなかった。
有力な武家の跡目争い。
所領をめぐる対立。
将軍家の後継問題。
そして、長年積み重なった不信。
さまざまな争いが、一つの大きな戦になっていた。
父は、以前こう言った。
「戦は、始める理由より、終わらせる理由の方が難しい」
その意味が、今なら分かる。
最初は畠山家の家督争いだったはずだ。
ところが、今では畠山家だけが仲直りしても、戦は終わらない。
斯波家がある。
細川家がある。
山名家がある。
それぞれが、自分たちの事情を抱えている。
俺は、帳面の端に書いた。
『戦を終わらせたい者、募集中』
千吉がそれを見て言った。
「親方。これも看板にしますか」
「やめておこう」
「なぜです?」
「応募がなかったら悲しいからだ」
千吉は笑った。
俺も笑った。
笑っていられるうちは、まだ大丈夫だと思いたかった。
◇
その日の夕方、佐吉が俺を呼んだ。
「親方。少しご相談が」
佐吉の顔は、いつもより厳しかった。
「何でしょう」
「先ほどの注文です」
俺は頷いた。
「西軍の使者ですね」
「はい」
佐吉は、しばらく考えてから言った。
「あの旗を直せば、敵を欺く手助けになります」
「そうですね」
「しかし、断れば、店が危険にさらされるかもしれません」
俺は黙った。
佐吉は続けた。
「……この店には、大勢の者がおります」
俺は顔を上げた。
佐吉の家族。
千吉。
若い職人たち。
そして、年老いた父。
火事の夜、父が言った言葉を思い出した。
――人を先に出せ。
俺は、静かに頷いた。
「佐吉さん。皆には、今夜からできるだけ安全な場所で休むよう伝えてください」
佐吉は驚いた。
「店を閉めるのですか」
「まだ決めていません」
俺は、少し考えた。
「ですが、店を続けるために皆を危険にさらすのは、違うと思います」
佐吉は、長い間俺を見つめていた。
そして、深く頭を下げた。
「……承知しました」
◇
その夜、父の部屋を訪ねた。
父は、古い旗を膝の上に置いていた。
祖父・弥太郎が最初に作った白い旗である。
「父上」
「何だ」
「相談があります」
父は、少し笑った。
「珍しいな」
「最近、よく相談しています」
「そうだったか」
俺は父の隣に座った。
そして、昼間の話をした。
敵から奪った旗。
それを直し、敵の旗として掲げたいという注文。
断ったこと。
明日、使者が戻ってくること。
父は黙って聞いていた。
そして言った。
「……そうか」
俺は、少し苛立った。
「それだけですか」
父は笑った。
「何と言ってほしい」
「もっと、こう……」
俺は言葉を探した。
「経験から来る、ありがたい助言を」
父は、しばらく考えた。
そして言った。
「店を燃やされるなよ」
俺は天井を仰いだ。
「……ありがたくありません」
父は笑った。
だが、すぐに真顔になった。
「弥三郎」
「はい」
「俺なら、もう一度相手の話を聞く」
俺は顔を上げた。
「もう一度?」
「ああ」
「敵の旗を掲げる理由は、聞きました」
父は首を振った。
「理由じゃない。何をしたいのか、だ」
俺は黙った。
父は続けた。
「敵を欺いて陣へ近づく。それで何をするつもりなのか」
「……攻めるのでは?」
「そうかもしれん」
父は、白い旗を畳んだ。
「だが、お前は確かめていない」
俺は、しばらく考えた。
確かにそうだった。
俺は、使者の言葉を聞いた時点で断った。
それ以上、何も聞かなかった。
父は静かに言った。
「断るのは、その後でもできる」
俺は頷いた。
「……分かりました」
父は、少し笑った。
「それと、弥三郎」
「はい」
「もし危なくなったら、店より先に皆を逃がせ」
俺は、深く頷いた。
◇
翌朝。
予告通り、西軍の使者が現れた。
昨日と同じ顔。
昨日と同じ厳しい表情。
ただし、今日は一人ではなかった。
若い武士を二人連れている。
俺は、少しだけ背筋を伸ばした。
「お待ちしておりました」
男は鼻を鳴らした。
「考えは変わったか」
俺は答えた。
「その前に、一つお尋ねしたいことがございます」
「何だ」
「敵の旗を掲げて、何をなさるおつもりですか」
男は眉をひそめた。
「昨日も話しただろう」
「敵の陣へ近づくと伺いました。その後のことです」
男は黙った。
俺は続けた。
「攻めるためですか」
「……そうだ」
「旗を掲げたまま?」
「必要ならばな」
俺は、深く息を吐いた。
「それでは、お引き受けできません」
男の顔が赤くなった。
「貴様!」
若い武士の一人が前へ出た。
俺は、思わず一歩下がった。
だが、その時だった。
「お待ちください」
千吉が声を上げた。
俺は驚いた。
「千吉!」
千吉は、男たちの前へ出た。
「親方は、旗を作ることを断っているわけではありません」
使者が睨んだ。
「何?」
千吉は続けた。
「敵の旗に見せかけることを断っているのです」
「同じことだ!」
「違います」
千吉は、はっきり言った。
俺は息を呑んだ。
普段は穏やかな千吉が、こんな声を出すのを初めて聞いた。
「旗は、誰の味方かを知らせるものです」
男は黙った。
千吉は続けた。
「それを逆に使えば、旗を見ても誰を信じればよいか分からなくなります」
俺は、千吉を見た。
赤松家の騒動から逃れてきた少年。
戦で叔父を失い、旗屋に働く場所を見つけた少年。
その千吉が、今は俺の隣に立っている。
「……親方」
千吉が俺を見た。
「申し訳ありません。勝手なことを言いました」
俺は首を振った。
「いや」
そして、使者へ向き直った。
「千吉の言う通りです」
使者は、長い間俺たちを睨んでいた。
やがて、低い声で言った。
「……旗屋風情が、戦の道理を語るか」
俺は、静かに答えた。
「旗屋だからこそ、申し上げております」
◇
使者は、懐からもう一枚の布を取り出した。
「では、これはどうだ」
俺は、その布を見た。
何も描かれていない白い布だった。
「これは?」
「敵の紋を消した旗だ」
俺は眉を寄せた。
「……消した?」
男は頷いた。
「敵の旗を奪った後、紋の部分を切り取った。今は誰の旗でもない」
俺は、布を手に取った。
確かに、中央の紋があった部分だけが切り取られていた。
男は続けた。
「これを、我らの旗として仕立て直すことはできるか」
俺は、しばらく考えた。
敵の紋はない。
西軍の紋を新しく染める。
それなら、少なくとも敵の旗に見せかけることにはならない。
「……できます」
男は、少し驚いた顔をした。
「本当か」
「はい。ただし、仕立て直した後は、西軍の旗として明確に分かる形にします」
使者は、しばらく考えた。
そして、静かに頷いた。
「それでよい」
俺は、ようやく息を吐いた。
だが、男は続けた。
「最初から、そう言えばよかったものを」
俺は、思わず口を開いた。
「最初から、そう注文していただければ……」
父が奥から咳払いをした。
俺は、口を閉じた。
危ない。
また、余計なことを言うところだった。
◇
仕事を引き受けると、佐吉が布を確かめた。
「親方。これは、かなり傷んでいます」
俺は頷いた。
「使える部分だけ残しましょう」
千吉が尋ねた。
「敵の旗だった布を、味方の旗にするんですね」
俺は、少し考えた。
「そうだな」
「それなら、旗も寝返るんですか」
俺は、思わず笑った。
「布は寝返らないさ」
千吉は首を傾げた。
俺は続けた。
「人が、旗の意味を変えるんだ」
千吉は、しばらく考えていた。
そして言った。
「……それなら、布はかわいそうですね」
俺は、顔を上げた。
「なぜだ」
「昨日まで東軍の旗だったのに、今日は西軍の旗だと言われるんでしょう」
俺は、少し笑った。
「そうだな」
「布は、何も変わっていないのに」
その言葉が、妙に胸に残った。
布は変わらない。
変わるのは、人間だ。
だが、その変わった意味のために、人は命を懸ける。
俺は、作業台の上の布を見つめた。
◇
数日後、新しい旗が完成した。
古い布を補強し、西軍の紋を染めた別布を縫い合わせてある。
元の旗の名残は、端の縫い目にわずかに残るだけだった。
使者は旗を広げ、満足そうに頷いた。
「よい出来だ」
「ありがとうございます」
男は代金を支払った。
そして、ふと尋ねた。
「弥三郎」
「はい」
「そなたは、東軍にも同じように旗を作るのか」
俺は頷いた。
「はい」
男は、少し笑った。
「ならば、我らがその旗を奪うこともあるだろうな」
俺は黙った。
「そして、またそなたに直させる」
俺は、静かに答えた。
「その時も、同じようにお話を伺います」
男は、しばらく俺を見つめた。
そして、初めて声を出して笑った。
「ははは! 面倒な旗屋だ!」
俺も、少しだけ笑った。
「よく言われます」
使者は旗を受け取り、店を去った。
俺は、その背中を見送った。
今回は、何とか店を守れた。
だが、これで終わりとは思えなかった。
◇
その日の夕方。
俺は帳面を開いた。
『西軍 奪取旗一枚。敵方の紋を除去し、新たな旗として仕立て直す』
その下に、書き加えた。
『敵方の旗への偽装は断る』
筆を置いた。
父が、隣に座った。
「弥三郎」
「はい」
「よくやったな」
俺は、少し驚いた。
父が、そんなふうに褒めることは珍しい。
「……ありがとうございます」
父は頷いた。
「ただな」
俺は、少し身構えた。
「何でしょう」
「今回のやり方が、いつでも通じるとは限らん」
俺は頷いた。
「分かっています」
父は続けた。
「相手が話を聞いてくれないこともある。力で押し通そうとすることもある」
「はい」
「その時は、どうする」
俺は、しばらく考えた。
そして答えた。
「……皆を逃がします」
父は、静かに笑った。
「それでいい」
俺は、父を見た。
ずいぶん小さくなった背中。
少し震える手。
昔は、何でも知っているように見えた父。
だが今は、俺の答えを聞いて安心したように笑っている。
俺は、胸の奥が少し熱くなった。
◇
夜。
俺は、店の前に立った。
京の空は、ところどころ赤く染まっていた。
遠くから、怒鳴り声が聞こえる。
風が吹くと、焦げた木の匂いがした。
以前は、この町がこんな姿になるとは思わなかった。
将軍様がいて、幕府があって、有力な武家が政治を支えている。
それなのに、京の町は燃えている。
俺は、祖父の看板を見た。
『本日の味方』
『明日は不明』
その下に、三代目として掛けた札がある。
『昨日の敵にも、見積もりは出します』
俺は、少し考えた。
そして、新しい札を書いた。
『旗の持ち主は変わっても、請求先は変わりません』
翌朝、それを見た新九郎殿が大笑いした。
「ははは! 弥三郎!」
「何でしょう」
「お前、本当に商売人だな!」
俺は、少しだけ胸を張った。
「はい。三代目ですから」
父も、静かに笑っていた。
だが、その笑顔は、長く続かなかった。
◇
昼過ぎ。
店の前に、一人の少年が現れた。
服は泥で汚れ、顔には疲れが浮かんでいた。
「……親方」
俺は、顔を上げた。
そして、息を呑んだ。
「小太郎!」
以前、畠山家の古い旗を修繕した少年だった。
その後、父の形見の旗を戦場へ持ち去られ、行方を探していた。
「どうした!」
俺が駆け寄ると、小太郎は、震える声で言った。
「……旗が、ありました」
俺は、目を見開いた。
「本当か!」
小太郎は頷いた。
だが、その顔は暗かった。
「……でも」
俺は、嫌な予感がした。
「どうした」
小太郎は、涙を浮かべた。
「旗を持っていた人が、亡くなっていました」
俺は、何も言えなかった。
小太郎は続けた。
「父の旗を、返してもらおうと思ったんです」
俺は黙って聞いた。
「でも、その人は、もう動きませんでした」
小太郎の声が震えた。
「……敵だったのか、味方だったのかも、分かりません」
俺は、少年の肩に手を置いた。
小太郎は、俺を見た。
そして、静かに尋ねた。
「親方」
「何だ」
「旗を持っていたら、その人は誰の味方なんですか」
俺は、答えられなかった。
旗を掲げる者。
旗を奪う者。
旗を直す者。
そして、旗の下で死ぬ者。
そのすべてが、同じ意味で旗を見ているわけではない。
俺は、しばらく考えた。
そして、静かに答えた。
「……旗だけでは、分からない」
小太郎は、顔を上げた。
俺は続けた。
「その人が、何を守ろうとしていたのか。それを知らなければ、分からないんだと思う」
小太郎は、黙っていた。
そして、小さく頷いた。
◇
その夜、俺は帳面を開いた。
東軍。
西軍。
畠山家。
細川家。
山名家。
数え切れない名前が並んでいる。
その下に、今日の出来事を書き加えた。
『小太郎、父の旗を発見』
そして、少し考えた。
旗は見つかった。
だが、それを持っていた人は亡くなっていた。
小太郎は、また一人、知らない死者と出会った。
俺は、筆を置いた。
そして、静かに呟いた。
「……旗屋とは、何をする仕事なんでしょうね」
返事はない。
だが、店の奥から父の声がした。
「弥三郎」
俺は振り返った。
「はい」
父は、静かに言った。
「旗を作る仕事だよ」
俺は、少し笑った。
「それは分かっています」
父は頷いた。
そして、続けた。
「だが、作った旗が、どうなったかを忘れない仕事でもある」
俺は、何も言えなかった。
父は、少しだけ笑った。
「……父上も、そう言っていた」
俺は、深く頷いた。
◇
翌朝。
俺は店先に立ち、新しい札を掛けた。
『旗の持ち主は、旗だけでは分かりません』
新九郎殿が、それを見て首を傾げた。
「弥三郎」
「何でしょう」
「それ、商売の看板か?」
俺は、少し考えた。
「……違うかもしれません」
新九郎殿は笑った。
「弥太郎殿に似てきたな」
俺は、少しだけ嬉しくなった。
その時だった。
店の前に、見知らぬ武士が現れた。
「旗屋弥三郎殿」
「はい」
男は、深く頭を下げた。
「東軍より参りました」
俺は、少しだけ身構えた。
「ご注文でしょうか」
男は頷いた。
「ただし、旗ではありません」
俺は、首を傾げた。
「では、何を?」
男は、懐から一枚の紙を取り出した。
そこには、簡単な地図が描かれていた。
京の町。
細川家の陣。
山名家の陣。
そして、その間にある通り。
男は、静かに言った。
「この道を通る者を、敵味方の区別なく見分けられるようにしたい」
俺は、顔を上げた。
「……どういうことでしょう」
男は、少しだけ声を落とした。
「この通りには、まだ町人が残っている」
俺は、息を呑んだ。
男は続けた。
「戦に巻き込まれぬよう、通してやりたいのだ」
俺は、地図を見つめた。
東軍と西軍の陣の間。
誰もが敵だと疑われる場所。
そこに、町人を通す道を作りたいという。
「……本当に?」
俺が尋ねると、男は頷いた。
「少なくとも、我らの側ではそう考えている」
俺は、静かに息を吐いた。
だが、次の言葉で胸が冷たくなった。
「ただし、西軍が認めるかは分からぬ」
俺は地図を見た。
そして、静かに言った。
「……それなら」
男が顔を上げた。
俺は続けた。
「西軍にも、同じ話をしなければなりません」
男は、しばらく黙った。
「……そなたが?」
俺は頷いた。
「はい」
男は、驚いた顔をした。
「危険だぞ」
俺は、少し笑った。
「存じております」
そして、店先の看板を見上げた。
『本日の味方』
『明日は不明』
俺は、静かに言った。
「ですが、町の人々が無事に通れるなら、旗屋にもできることがあるかもしれません」
男は、長い間俺を見つめた。
そして、深く頭を下げた。
その日、俺は初めて、旗を売るためではなく、旗を掲げない人々のために東西の陣へ話をしようと決めた。
しかし、その決断が、俺自身の命を危険にさらすことになるとは。
この時の俺は、まだ知らなかった。




