燃えた旗は、どちらの味方でしたか
京の町が燃え始めてから、旗屋の仕事は増えた。
もっとも、儲かっているかと聞かれれば、答えは違う。
注文は来る。
代金は来ない。
旗は納める。
客は帰ってこない。
これでは商売にならない。
俺は帳面を睨みながら、深いため息をついた。
「親方。また細川家から注文です」
千吉が書状を持ってきた。
「何枚だ」
「三十枚です」
「代金は?」
「戦が終わってから、と」
俺は帳面を閉じた。
「断れ」
「よろしいんですか」
「よくない。だが、受けてもよくない」
そこへ佐吉が、別の書状を持ってきた。
「親方。山名家からも」
「何枚ですか」
「三十枚です」
「代金は?」
「戦が終わってから、と」
俺は天井を仰いだ。
祖父が残した看板には、こう書かれている。
『本日の味方』
『明日は不明』
俺は、その下に新しい札を掛けたくなった。
『お支払いは、戦の前に』
しかし、そんな札を掛ければ、今度は店そのものが燃やされるかもしれない。
応仁の乱とは、つくづく商売人に優しくない戦だった。
◇
応仁元年、1467年。
京では、細川勝元殿を中心とする東軍と、山名宗全殿を中心とする西軍が争っていた。
東軍。
西軍。
名前だけなら分かりやすい。
だが、実際には少しも分かりやすくなかった。
将軍・足利義政様は東軍側の花の御所におられる。
しかし、争っている者たちの多くも、もとは同じ幕府に仕える武士だった。
畠山家は割れた。
斯波家も割れた。
そして、かつて協力していた細川家と山名家が、今では軍勢を率いて向き合っている。
ある日、新九郎殿が言った。
「弥三郎。相関図はどうなった」
俺は答えた。
「捨てました」
「なぜだ」
「紙が足りなくなりました」
新九郎殿は笑った。
だが、すぐに笑うのをやめた。
店の外で、何かが崩れる音がしたからだ。
俺たちは、同時に戸口を見た。
遠くの空に、黒い煙が上がっていた。
最近では、珍しくもない光景だった。
それが、何より恐ろしかった。
◇
その日の午後、一人の男が店へ来た。
着物は煤で汚れ、顔には疲れが浮かんでいた。
「旗を直していただきたい」
男は、風呂敷を差し出した。
中には、焼け焦げた布があった。
俺は、そっと広げた。
半分以上が黒くなり、家紋もほとんど見えない。
「……ずいぶん傷んでいますね」
「火事に遭いました」
「戦によるものですか」
男は頷いた。
「屋敷が焼けました」
俺は、布の端を確かめた。
そこには、まだ縫い目が残っていた。
古い旗だった。
何度も直され、大切に使われてきたことが分かる。
「どちらのお家の旗でしょう」
男は答えた。
「畠山家です」
俺は、手を止めた。
また、畠山家か。
「……義就様方ですか。それとも政長様方ですか」
男は、しばらく黙った。
そして言った。
「どちらでもありません」
俺は、顔を上げた。
その言葉には、覚えがあった。
かつて、小太郎という少年が、同じことを言った。
俺は男を見つめた。
「……お名前を伺っても?」
「清六と申します」
清六は、ゆっくり頭を下げた。
「畠山家に仕えていた者の息子です」
俺は、焼けた旗を見た。
「お父上の形見ですか」
「いいえ」
清六は首を振った。
「これは、私の祖父の旗です」
◇
清六の祖父は、畠山家が一つだった頃から仕えていたという。
父も、その家に仕えた。
そして清六も、当然のように同じ家へ仕えるつもりだった。
ところが、家が割れた。
「父は義就様方へ参りました」
清六は言った。
「叔父は政長様方へ」
俺は黙って聞いていた。
「その後、父と叔父は口を利かなくなりました」
「……そうですか」
「私は、どちらにも行きませんでした」
清六は、焼けた旗を見つめた。
「祖父が亡くなる時、これだけは守れと言ったのです」
俺は尋ねた。
「なぜ、その旗を?」
清六は少し考えた。
「祖父は、この旗の下で父や叔父と一緒に戦ったことがあるそうです」
俺は頷いた。
「同じ旗の下に、家族がいたんですね」
「はい」
清六は、唇を噛んだ。
「それなのに、今では父と叔父が別々の旗を掲げています」
俺は、何も言えなかった。
清六は続けた。
「祖父の旗を持っていれば、いつかまた皆が同じ場所に戻れると思っていました」
俺は、焼け焦げた布に目を落とした。
「……それで、どうなりましたか」
清六は、しばらく黙っていた。
そして、小さな声で言った。
「父は、去年の戦で亡くなりました」
胸の奥が痛んだ。
「叔父は、西の陣にいるそうです」
清六は顔を上げた。
「もう、皆が戻ることはありません」
◇
佐吉に旗を見てもらった。
佐吉は、長い時間をかけて布を調べた。
そして、静かに言った。
「親方。これは、難しい仕事です」
俺も頷いた。
「そうですね」
「焼けた部分は、元には戻せません」
「はい」
「新しい布を足すことはできます。ですが、残っている部分も脆くなっています」
俺は、清六を見た。
「すべてを昔の形に戻すのは、難しそうです」
清六は俯いた。
「……そうですか」
その顔を見て、俺は言葉を探した。
何かできないだろうか。
祖父や父なら、どうしただろう。
そう考えた時、佐吉が口を開いた。
「親方。一つ、よろしいですか」
「何でしょう」
佐吉は、焼けた旗を指で示した。
「このまま残す方法もあります」
俺は顔を上げた。
「このまま?」
「はい。残った布を傷めないように補強し、別の布に縫い留めるのです」
清六が、驚いた顔をした。
「元の旗を、そのまま?」
佐吉は頷いた。
「焼けたところは焼けたままです。ですが、これ以上崩れないようにできます」
俺は、静かに頷いた。
なるほど。
元に戻すのではない。
残すのだ。
清六は、しばらく考えた。
そして言った。
「……それでお願いします」
◇
作業は、数日かかった。
佐吉が中心となり、千吉が補助した。
俺も何度か手を貸したが、佐吉に止められた。
「親方。そこは触らないでください」
「なぜです」
「布が崩れます」
「では、こちらを……」
「そちらもです」
俺は手を引っ込めた。
最近、仕事をしようとすると止められることが増えた。
親方として、少々不本意である。
しかし、佐吉の手元を見ると、文句は言えなかった。
焼け焦げた布を、一針ずつ支えている。
新しい布を裏に添え、古い糸を無理に引っ張らず、残った形を保っていく。
そこには、長年旗を作り続けた職人の技があった。
千吉が、ぽつりと言った。
「佐吉さん」
「何ですか」
「新しい旗を作るより、ずっと時間がかかりますね」
佐吉は頷いた。
「そうですね」
「でも、新しく作った方が、きれいでしょう」
佐吉は少し笑った。
「きれいにすることだけが、修繕ではありませんよ」
千吉は、しばらく考えていた。
そして頷いた。
「……そうですね」
俺は、その会話を聞きながら思った。
祖父も、父も。
きっと、同じことを考えていたのだろう。
◇
その頃、父・弥一郎は、ほとんど店に出なくなっていた。
若い頃から働き続け、何人もの将軍を見送り、数え切れないほどの旗を作った人である。
最近は、奥の部屋で静かに過ごすことが多い。
俺は仕事の合間に、父を訪ねた。
「父上」
「何だ」
「焼けた旗を修繕しています」
父は頷いた。
「そうか」
「畠山家のものです」
父は、少し笑った。
「またか」
「はい」
俺は、清六の話をした。
父は最後まで黙って聞いていた。
そして言った。
「……そういう旗は、昔からある」
俺は顔を上げた。
「祖父の時代にも?」
「ああ」
父は、遠くを見るような目をした。
「南朝と北朝が一つになった時、掲げる場所を失った旗があった」
俺は頷いた。
宗次という男が、父に預けた旗の話は聞いている。
今も店の箱に残されている。
父は続けた。
「戦が終わったからといって、誰もが喜べるわけじゃない」
「はい」
「勝った者には、勝った者の記憶がある。負けた者には、負けた者の記憶がある」
父は、少しだけ笑った。
「どちらも、簡単には消えん」
俺は、しばらく黙った。
そして尋ねた。
「父上。清六殿の旗は、どうするのがよいのでしょう」
父は俺を見た。
「もう、決めたんだろう」
「はい」
「なら、それでいい」
俺は少し笑った。
父は続けた。
「弥三郎。旗屋はな、昔に戻す仕事ばかりじゃない」
俺は頷いた。
「はい」
父は、静かに言った。
「戻れないものを、そのまま残すこともある」
その言葉が、胸に残った。
◇
数日後、旗が完成した。
いや、完成という言葉が正しいのかは分からない。
焼けた布は、焼けたままだった。
失われた部分も、そのままだ。
ただ、残された家紋の一部と古い縫い目は、しっかりと支えられていた。
清六は、長い間その旗を見つめていた。
そして、静かに言った。
「……ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「元には戻せませんでした」
清六は首を振った。
「いいえ」
旗に、そっと触れた。
「これでよいのです」
そして、少しだけ笑った。
「祖父の旗だと、分かりますから」
俺は、その笑顔を見て安心した。
◇
清六が帰る前、俺は尋ねた。
「これから、どうされますか」
清六は、少し考えた。
「叔父を探そうと思います」
俺は驚いた。
「西の陣にいるのでしょう」
「はい」
「危険です」
清六は頷いた。
「分かっています」
俺は、少しだけ迷った。
「……なぜ、今?」
清六は、修繕した旗を見つめた。
「祖父の旗を、見せたいのです」
俺は黙った。
清六は続けた。
「父は、もう帰ってきません」
「……はい」
「でも、叔父はまだ生きています」
清六は、静かに言った。
「せめて、祖父のことを一緒に思い出せるうちに会いたいのです」
俺は、何も言えなかった。
戦場へ向かう者を、簡単に送り出すわけにはいかない。
だが、引き止める言葉も見つからなかった。
その時、千吉が口を開いた。
「清六さん」
「何でしょう」
「旗は、ここに預けていかれませんか」
清六は、顔を上げた。
千吉は続けた。
「もし途中で何かあったら、また失われてしまいます」
俺は頷いた。
「そうですね」
清六は、しばらく考えた。
そして、旗を俺に差し出した。
「……お願いします」
俺は両手で受け取った。
「お預かりします」
清六は、深く頭を下げた。
そして、店を出ていった。
◇
清六が去った後、俺は帳面を開いた。
『畠山家 古旗修繕』
その下に書き加えた。
『火災による焼損。原形の一部を保存』
そして、もう一行。
『持ち主、親族を訪ねるため一時預かり』
俺は筆を置いた。
最近、帳面には旗のこと以外が増えている。
誰が亡くなった。
誰が行方不明になった。
誰が戻ってこない。
そして、誰がまだ誰かを待っている。
旗屋の帳面が、いつの間にか人の暮らしの記録になっていた。
俺は、静かに息を吐いた。
◇
その夜。
店の前で、騒ぎが起きた。
「火だ!」
誰かが叫んだ。
俺は飛び起きた。
外へ出ると、通りの向こうに赤い光が見えた。
燃えている。
まただ。
また、京の町が燃えている。
「千吉!」
俺は叫んだ。
「水桶を!」
千吉が走った。
佐吉も出てきた。
だが、火は思った以上に近かった。
風が強い。
火の粉が、屋根を越えて飛んでくる。
その時だった。
店の奥から、父の声がした。
「弥三郎!」
俺は振り返った。
父が、戸口に立っていた。
「父上!」
「……皆を、外へ出せ」
俺は頷いた。
「はい!」
「帳面は後でいい」
その言葉に、俺は少し驚いた。
父は、静かに続けた。
「旗も、後でいい」
俺は息を呑んだ。
父が、俺を見た。
そして、はっきりと言った。
「人を先に出せ」
俺は、すぐに頷いた。
「分かりました!」
◇
佐吉は職人たちを裏口へ誘導した。
千吉は水桶を運んでいたが、俺はその腕を掴んだ。
「もういい。逃げろ!」
「でも、親方!」
「店は後だ!」
千吉は、しばらく俺を見た。
そして頷いた。
「はい!」
俺は奥へ走った。
父がいる。
だが、部屋にはもう誰もいなかった。
一瞬、血の気が引いた。
「父上!」
返事はない。
俺は廊下を駆けた。
そして、裏口の近くで父を見つけた。
父は、小さな箱を抱えていた。
「……父上!」
俺は駆け寄った。
「何をしているんです!」
父は、少し困ったように笑った。
「これだけは、な」
箱の中には、初代・弥太郎の白い旗があった。
俺は、言葉を失った。
父は、静かに言った。
「……父上の旗だ」
俺は、箱を受け取った。
そして、父の腕を支えた。
「行きましょう」
父は頷いた。
「……ああ」
俺たちは、裏口から外へ出た。
◇
幸いにも、火は隣の通りで食い止められた。
店は残った。
だが、屋根の一部が焦げ、裏庭には火の粉が落ちていた。
俺は、地面に座り込んだ。
佐吉も、千吉も、職人たちも無事だった。
父も、少し息を切らしていたが、怪我はなかった。
俺は、深く息を吐いた。
「……よかった」
父が、俺の隣に座った。
「弥三郎」
「はい」
「皆、無事か」
「はい」
父は頷いた。
「そうか」
そして、静かに笑った。
「……なら、よかった」
俺は、父を見た。
「父上」
「何だ」
「どうして、あの箱を?」
父は、少し考えた。
そして言った。
「……持って出たかったんだろうな」
俺は笑ってしまった。
「旗より人が先だと仰ったのに」
父も笑った。
「そうだな」
そして、少しだけ声を落とした。
「だが、人が無事なら、次は思い出を守りたくなるものだ」
俺は、箱を見つめた。
祖父の白い旗。
父が受け継ぎ、俺に渡してくれた旗。
焼けずに残った。
俺は、そっと箱の蓋を閉じた。
◇
翌朝。
店先には、煤が積もっていた。
看板の一枚が、焦げていた。
俺は布で拭った。
『本日の味方』
文字は、まだ読める。
『明日は不明』
こちらも、残っていた。
だが、三代目になってから掛けた札の一枚は、半分ほど焼けていた。
『昨日の敵にも、見積もりは出します』
最後の部分が、黒くなっている。
俺は、しばらく眺めていた。
そして、筆を取った。
新しい札を書こうとした。
だが、何も浮かばなかった。
すると、千吉が隣に立った。
「親方」
「何だ」
「今回の火事で、何か変わりましたか」
俺は、少し考えた。
「……何も変わっていないように見えるな」
千吉は頷いた。
「はい」
俺は、通りを見た。
焦げた家。
片付けをする人々。
荷物を探す子どもたち。
昨日まで商売をしていた場所が、今日は灰になっている。
「でも、変わったこともある」
千吉が顔を上げた。
「何でしょう」
俺は、静かに答えた。
「戦場が、ずいぶん近くなった」
千吉は、何も言わなかった。
◇
その時、店の前に一人の武士が現れた。
「旗屋弥三郎殿!」
俺は振り返った。
「はい」
男は、深く頭を下げた。
「西軍より参りました」
俺は、少しだけ身構えた。
「ご注文でしょうか」
男は頷いた。
「山名家の旗を、急ぎ修繕していただきたい」
俺は、帳面を開いた。
「何枚でしょう」
男は答えた。
「五枚です」
俺は頷いた。
「お預かりします」
男は、少しだけ声を落とした。
「ただし、一枚だけ、特別な旗があります」
俺は顔を上げた。
「特別?」
男は、風呂敷を差し出した。
俺は、中を開いた。
そこには、焼け焦げた旗が入っていた。
だが、家紋が違った。
山名家ではない。
畠山家でもない。
俺は、しばらく旗を見つめた。
「……これは?」
男は、静かに答えた。
「東軍から奪った旗です」
俺は、息を呑んだ。
「……なぜ、それを修繕するのですか」
男は、しばらく黙った。
そして言った。
「明日の戦で、我らの旗として掲げたいのです」
俺は、何も言えなかった。
敵の旗を、味方の旗として使う。
奪った旗を直し、別の意味を持たせる。
そんなことが、許されるのだろうか。
俺は、男を見つめた。
「……その旗の持ち主は?」
男は、冷たく答えた。
「もう、おりません」
俺は、焼けた旗に目を落とした。
そして、小さく呟いた。
「……旗には、まだ残っているのに」
男は、眉をひそめた。
「何がだ」
俺は、古い縫い目を指でなぞった。
「作った人の仕事です」
男は黙った。
俺は、旗を畳んだ。
そして、静かに言った。
「この旗は、すぐにはお引き受けできません」
男の顔が険しくなった。
「なぜだ」
俺は、相手を見た。
「まず、元の持ち主について、分かることを教えてください」
男は、しばらく俺を睨んだ。
「旗屋に、そのようなことが必要か」
俺は、静かに答えた。
「はい」
そして、もう一度、焼けた旗を見た。
祖父も、父も。
何度も、こんな選択をしてきたのだろう。
そして、俺もまた選ばなければならない。
旗を直すのか。
断るのか。
それとも、別の道を探すのか。
京の町は、今日も燃えている。
だが、旗屋の仕事は、まだ終わらない。




