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本日も主君が変わりました ~昨日の敵が今日の味方な室町時代~  作者: さかもち
第三部 昨日の味方は、今日の敵です
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41/61

父上、今日は店を休ませてください

父が倒れた時、俺は最初に何をしたのか覚えていない。


ただ、抱きかかえた体が思いのほか軽かったことだけは、今でも忘れられない。


「父上!」


返事はなかった。


「千吉! 医者を呼んでくれ!」


「はい!」


千吉が駆け出そうとしたところで、店先から怒鳴り声がした。


「おい! いつまで待たせるんだ!」


俺は振り返った。


戸口には、十人を超える人々が並んでいた。


行方の分からぬ家族を捜す者。


誰かの無事を知らせに来た者。


そして、ただ今日の寝場所を求める者。


皆、必死だった。


だからこそ、列の先頭にいた男は声を荒らげたのだろう。


「こちらも急いでいるんだぞ!」


俺は父の体を支えたまま答えた。


「申し訳ありません。今、家の者が倒れまして……」


「それがどうした! こっちは妻と子どもが行方知れずなんだ!」


言葉が胸に刺さった。


妻と子ども。


それは、男にとって何より大切な人たちなのだろう。


だが、俺にも大切な人がいる。


今、腕の中にいる。


「……すみません」


俺は、それだけ言った。


男は何か言い返そうとした。


その時だった。


「お引き取りください」


店の奥から声がした。


佐吉だった。


最近は体調を崩しがちで、長く仕事場に座ることも難しくなっていた。


その佐吉が、戸口へ歩み出た。


「本日は、親方の父君が倒れられました」


男は眉をひそめた。


「だから何だ」


佐吉は、静かに答えた。


「皆様がご家族を大切に思われるように、親方にも大切な家族がおります」


誰も声を出さなかった。


「どうか、今日だけはお時間をください」


佐吉は、深く頭を下げた。


長い沈黙の後、列の後ろにいた女が言った。


「……また明日、来ます」


一人が帰った。


続いて、もう一人。


先ほど怒鳴っていた男も、しばらく俺を見つめていたが、やがて小さく頭を下げた。


「……すまなかった」


俺は答えられなかった。


男は背を向け、歩いていった。


佐吉が、静かに戸を閉めた。


「若旦那」


振り返ると、佐吉が俺を見ていた。


「今は、お父上のことだけを考えてください」


俺は、ようやく頷いた。


「……ありがとうございます」


          ◇


医者が来たのは、昼を過ぎてからだった。


戦が始まって以来、京では医者を呼ぶことすら難しくなっている。


道が塞がれ、負傷者が増え、薬も思うようには手に入らない。


診察を終えた医者は、父の顔をしばらく見つめていた。


「以前から、咳が続いておられたそうですな」


「はい」


「食は?」


「最近、細くなっておりました」


「熱もあります」


医者は頷いた。


「胸の病が疑われます。今は体がひどく弱っておる。しばらく安静が必要です」


俺は身を乗り出した。


「治るのでしょうか」


医者は、すぐには答えなかった。


その沈黙が恐ろしかった。


「……手を尽くしましょう」


俺は頭を下げた。


「お願いいたします」


医者が帰った後、妻が濡らした布を持ってきた。


「あなたも、少し休んでください」


俺は首を振った。


「大丈夫だ」


「朝から何も食べていませんよ」


「腹は減っていない」


妻は、俺の顔を見た。


そして、静かに言った。


「あなたが倒れたら、誰が店を守るのですか」


俺は黙った。


父も、何度も同じことを言っていた。


店を守るのは親方の仕事だ。


だが、親方が倒れれば、店は守れない。


分かっていたつもりだった。


俺は、妻の用意した粥を食べた。


味は、ほとんど分からなかった。


          ◇


その夜、父は一度だけ目を開けた。


「……弥三郎」


俺は飛び起きた。


「父上!」


父は、弱々しく笑った。


「そんな大声を出すな」


「申し訳ありません」


「ここは……」


「家です。店の奥です」


父は、ゆっくり頷いた。


しばらくして、尋ねた。


「……店は?」


俺は、胸が苦しくなった。


この人は、こんな時まで店のことを考えている。


「今日は休みにしました」


父は眉を上げた。


「……休みに?」


「はい」


「人捜しの客が、大勢来ていただろう」


俺は頷いた。


「来ていました」


「困っておるだろうな」


「そうだと思います」


父は、何か言おうとした。


だが、激しく咳き込んだ。


俺は慌てて背中を支えた。


ようやく咳が収まると、父は小さく息を吐いた。


「……すまんな」


俺は、父を見た。


「何がですか」


「忙しい時に、倒れてしまって」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあったものが、ふいに溢れた。


「父上」


「何だ」


「どうして、謝るんですか」


父は俺を見た。


「店の仕事が……」


「店は俺が守ります!」


思ったより、大きな声になった。


父は驚いた顔をした。


俺も、驚いた。


俺は、ゆっくり言い直した。


「……店は俺が守ります。だから、今は休んでください」


父は、長い間俺を見つめていた。


そして、少し笑った。


「そうだったな」


俺は頷いた。


「はい」


「もう、お前が親方だった」


父は、ゆっくり目を閉じた。


「……頼もしくなったな」


俺は、何も言えなかった。


          ◇


翌朝、俺は店先に札を掛けた。


『本日休業』


それだけでは、あまりに素っ気ない気がした。


俺は少し考え、下に一行書き加えた。


『家族の看病のため』


千吉が、札を見て頷いた。


「親方。よいと思います」


俺は、少し笑った。


「そうか」


「ただ……」


「何だ」


千吉は、言いにくそうに続けた。


「人捜しの記録を預けてくださっている方々には、どうしましょう」


俺は帳面を見た。


名前が並んでいる。


行方の分からぬ人々。


生存が確認された人々。


すでに亡くなったと分かった人々。


そして、まだ何も分からない人々。


戦は、誰かが休んだからといって止まってくれない。


人々の不安も、同じだった。


俺は考えた。


店を休みにする。


父のそばにいる。


だが、それだけでよいのだろうか。


しばらくして、俺は千吉に言った。


「人捜しの仕事を、お前に任せたい」


千吉は目を丸くした。


「……私に?」


「ああ」


「ですが、私は……」


「お前ならできる」


千吉は黙った。


俺は続けた。


「ただし、一人では抱えるな。太助の両親が身を寄せていた寺にも相談しよう。寺にいる方々に、掲示と記録の一部を手伝っていただけないか頼みたい」


千吉は、しばらく考えた。


「記録は、全部お見せするのですか」


俺は首を振った。


「いや。本人や家族の了承があるものだけだ。居場所を知られたくない者もいる」


千吉は頷いた。


「分かりました」


俺は、帳面の一頁を開いた。


「消息を知らせに来た人には、名を記録してくれ。ただし、誰の居場所でも勝手に教えてはいけない」


「はい」


「それから、武士が来ても、無理な要求には応じるな」


「はい」


「危険だと思ったら、店を閉めろ」


千吉は、少し笑った。


「……親方」


「何だ」


「心配しすぎです」


俺は、思わず苦笑した。


「そうかもしれんな」


千吉は、深く頭を下げた。


「お任せください」


その姿を見た時、俺は気づいた。


千吉も、もう若い職人ではない。


赤松家の争いで叔父を失い、父に拾われた少年だった。


それが今では、俺の代わりに仕事を任せられる男になっている。


人は、いつの間にか育つものらしい。


          ◇


三日目の夜。


父の熱は、なかなか下がらなかった。


呼吸は浅く、時々、苦しそうに咳き込む。


俺は枕元で布を替え続けた。


夜が更けた頃、父が小さく声を出した。


「……佐吉」


俺は顔を上げた。


「父上?」


「佐吉……そこの糸を……」


俺は、しばらく父を見つめた。


父は夢を見ているらしかった。


「……違うぞ。その布は……」


俺は、思わず笑いそうになった。


こんな時まで、仕事の夢を見ている。


だが、次の言葉で笑えなくなった。


「……父上」


俺は息を呑んだ。


父は、かすかな声で続けた。


「……まだ、俺には……」


その先は、聞き取れなかった。


祖父・弥太郎。


父にとって、何より大きな存在だった人。


祖父が亡くなってから、何十年も経つ。


それでも、父は今も夢の中で、その名を呼んでいる。


俺は、父の手を握った。


「父上」


返事はない。


俺は、静かに言った。


「お祖父様は、もういらっしゃいませんよ」


父は、目を閉じたままだった。


「……でも、父上」


俺は、少し考えた。


「俺がいます」


その言葉が、ひどく頼りなく感じられた。


父は、何も答えなかった。


          ◇


翌朝、佐吉が店へ来た。


自分の体調も万全ではないはずなのに、ゆっくり杖をついて歩いてきた。


「佐吉さん!」


俺が驚くと、佐吉は微笑んだ。


「若旦那。お父上の具合は?」


「まだ、熱が下がりません」


佐吉は、静かに頷いた。


「少し、お顔を見てもよろしいですか」


俺は頷いた。


佐吉は父の枕元へ座った。


長い間、何も言わなかった。


やがて、静かに声をかけた。


「……若旦那」


俺は思わず振り返った。


だが、その声は俺に向けられたものではなかった。


父に向けられた、昔からの呼び方だった。


「若旦那。佐吉です」


父は、目を閉じていた。


佐吉は続けた。


「今日の仕事は、全部終わっております」


俺は、胸が熱くなった。


「ですから、どうか安心してお休みください」


父の指が、わずかに動いた。


佐吉は、その手をそっと握った。


「……長い間、お世話になりました」


俺は、思わず声を出しかけた。


だが、佐吉は続けた。


「まだ、お礼を申し上げるには早いと思っております」


少しだけ、笑った。


「もう少し、私に若旦那と呼ばせてください」


父の目尻に、かすかな皺が寄った。


笑ったのかもしれない。


俺には、そう見えた。


          ◇


午後になって、意外な客が来た。


細川家の使者・庄兵衛だった。


「弥三郎殿」


俺は頭を下げた。


「庄兵衛殿。申し訳ございません。今は店を……」


庄兵衛は首を振った。


「旗の注文ではない」


俺は顔を上げた。


庄兵衛は、小さな包みを差し出した。


「薬だ」


俺は驚いた。


「……薬?」


「京では、なかなか手に入らぬと聞いた」


俺は、包みを見つめた。


庄兵衛は、少し照れくさそうに言った。


「先代には、昔から世話になった」


俺は、何も言えなかった。


「私が若い頃、失敗して旗を汚したことがあってな」


庄兵衛は笑った。


「怒られると思って、弥一郎殿の店へ駆け込んだ」


俺は、思わず笑った。


「父が、どうしましたか」


「何も聞かず、徹夜で直してくれた」


庄兵衛は、少しだけ目を細めた。


「代金を払うと言ったら、『次からは汚す前に相談しろ』と笑われた」


俺は、父らしいと思った。


庄兵衛は続けた。


「……今度は、こちらが助ける番だ」


俺は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


包みを受け取り、医者に確かめてもらうことにした。


庄兵衛は帰り際、店の奥へ目を向けた。


「弥三郎殿」


「はい」


「どうか、先代に伝えてくれ」


俺は顔を上げた。


「何でしょう」


庄兵衛は、静かに言った。


「旗を作ってくださったことより、あの時、助けてくださったことを覚えている、と」


俺は、深く頷いた。


「必ず、お伝えします」


          ◇


その夕方。


今度は山名家の使者・重房が来た。


俺は、思わず身構えた。


東軍の使者が来たばかりだ。


今度は西軍である。


何とも間の悪いことだ。


「弥三郎殿」


「はい」


「先代が病だと聞いた」


俺は頷いた。


「はい」


重房は、小さな袋を差し出した。


「米だ。少しだが、足しにしてくれ」


俺は、目を丸くした。


「……米を?」


「ああ」


「山名家から、ですか」


重房は、少し笑った。


「いや。私からだ」


俺は、何も言えなかった。


重房は続けた。


「昔、旗の納品が遅れた時、先代は責めなかった」


「そうでしたか」


「ああ。私の息子が病で倒れ、取りに行けなかったのだ」


重房は、遠い目をした。


「先代は、旗を自ら運んできてくれた」


俺は、少し笑った。


それも、父らしかった。


重房は、袋を置いた。


「今度は、私が少しだけ返す番だ」


俺は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


重房が帰った後、俺は店の奥へ戻った。


机の上に、薬の包みと米の袋が並んでいる。


東軍からの薬。


西軍からの米。


俺は、しばらくそれを見つめた。


そして、小さく笑った。


「……父上」


眠っている父へ語りかけた。


「今日の味方は、なかなか豪華ですよ」


父は、何も答えなかった。


だが、俺には少しだけ嬉しかった。


          ◇


五日目の朝。


父の熱が、少し下がった。


医者も、前日より呼吸が落ち着いていると言った。


俺は、ようやく息を吐いた。


だが、まだ安心はできない。


父は長く眠り、食事もわずかしか取れない。


俺は、その枕元で一日を過ごした。


夕方になって、父が目を開けた。


「……弥三郎」


俺は、すぐに顔を近づけた。


「はい!」


父は、少し笑った。


「……そんなに大きな声を出すな」


俺は、思わず笑った。


「申し訳ありません」


父は、しばらく俺を見つめた。


そして、静かに尋ねた。


「……店は?」


俺は、少しだけ考えた。


そして答えた。


「休んでいます」


父は眉を寄せた。


「まだか」


「はい」


「困った客も、いるだろう」


俺は頷いた。


「いると思います」


父は、何か言いかけた。


俺は、その前に言った。


「でも、千吉が人捜しの仕事を続けています」


父は、少し驚いた顔をした。


「……千吉が?」


「はい。佐吉さんも、できる範囲で助けてくださっています」


父は、ゆっくり頷いた。


俺は続けた。


「寺の方々にも協力していただいています」


父は、しばらく黙っていた。


そして、小さく笑った。


「……そうか」


俺は頷いた。


「はい」


父は、ゆっくり目を閉じた。


「……よい店になったな」


俺は、胸の奥が熱くなった。


          ◇


さらに数日が過ぎた。


父は少しずつ起き上がれるようになった。


短い時間なら、話もできる。


食事も、粥を少しずつ口にするようになった。


ただ、以前のように元気になるには、長い時間が必要だろう。


俺は、父の部屋へ帳面を持っていった。


「父上」


「何だ」


「少し、見ていただきたいものがあります」


父は、帳面を開いた。


そこには、人捜しの記録が並んでいる。


名前。


年齢。


家族。


最後に目撃された場所。


そして、消息が確認された日。


俺は、その中の一頁を指した。


『太助 父母と再会』


父は、静かに頷いた。


「そうだったな」


俺は、次の頁を開いた。


『行方不明者三名 消息確認』


さらに次の頁。


『母子二名 寺にて再会』


父は、ゆっくり文字を追った。


俺は続けた。


「父上。店を休んでいる間も、皆が仕事を続けてくれました」


父は、何も言わなかった。


「俺がいなくても、千吉が考え、佐吉さんが支え、寺の方々が協力してくださっています」


父は、静かに頷いた。


俺は、少し笑った。


「……俺がいなくても、店は回るようです」


父は、顔を上げた。


そして、少しだけ笑った。


「それは、よいことだ」


俺は頷いた。


「はい」


父は、しばらく考えた。


そして、静かに言った。


「弥三郎」


「はい」


「親方が、全部抱え込まなくてもよい店になったんだな」


俺は、息を呑んだ。


父は続けた。


「父上は、何でも一人で何とかしようとする人だった」


俺は頷いた。


「俺も、そうだった」


父は、少し笑った。


「だが、お前は違う」


俺は、顔を上げた。


父は、静かに言った。


「……皆で守る店にしたんだな」


俺は、何も言えなかった。


その言葉が、胸の奥に染み込んでいった。


          ◇


翌朝。


俺は店先に立った。


久しぶりに、戸を開ける。


通りには、まだ焼けた家が並んでいる。


遠くでは、戦の音が聞こえる。


京の町は、相変わらず混乱していた。


それでも、朝は来る。


俺は、休業の札を外した。


代わりに、新しい札を掛けた。


『本日より、できる範囲で営業いたします』


その下に、小さな文字。


『人捜しのご相談は、引き続き承ります』


千吉が、札を見て笑った。


「親方。再開ですね」


俺は頷いた。


「ああ」


「軍旗の注文も?」


俺は、少し考えた。


「引き受けられるものだけだ」


千吉は頷いた。


「分かりました」


佐吉も、店の奥から顔を出した。


「若旦那。お手伝いしますよ」


俺は笑った。


「無理はしないでください」


佐吉も笑った。


「承知しております」


その時、奥の部屋から父の声がした。


「弥三郎!」


俺は振り返った。


「はい!」


父は、寝床から少しだけ上体を起こしていた。


「看板を、見せてくれ」


俺は、少し驚いた。


「看板ですか?」


「ああ」


俺は、店先の新しい札を持っていった。


父は、ゆっくり読んだ。


『本日より、できる範囲で営業いたします』


しばらく黙っていた。


そして、笑った。


「……よい札だ」


俺は、少し照れくさくなった。


「ありがとうございます」


父は、静かに続けた。


「父上なら、きっとこう言うだろうな」


俺は顔を上げた。


「何と?」


父は、祖父の口調を真似た。


「『できる範囲で、というのが一番難しいんだぞ』」


俺は笑った。


「確かに」


父も笑った。


その笑顔を見て、俺はようやく安心した。


まだ、父は生きている。


話ができる。


笑うこともできる。


それだけで、十分だった。


          ◇


その夜。


俺は一人で帳面を開いた。


『応仁元年』


その頁には、軍旗の注文が並んでいる。


戦のための布。


傷ついた人のための布。


そして、人を捜すための旗。


俺は、新しい一行を書き加えた。


『弥一郎 病に倒れる』


筆が止まった。


しばらくして、その下に、


『回復の兆しあり』


と書いた。


俺は、ゆっくり息を吐いた。


祖父の帳面には、父が若い頃の記録が残っている。


父の帳面には、俺が親方になった日の記録がある。


そして、俺の帳面には、今日、父が生きていることを書いた。


俺は、少し笑った。


「……お祖父様」


小さく呟いた。


「父上は、まだこちらにいてくださるそうです」


窓の外では、京の夜が更けていた。


戦の音は、まだ消えない。


だが、店の奥では、父が静かに眠っている。


俺は帳面を閉じた。


そして、明日の仕事を考えた。


          ◇


翌朝。


店の前に、一人の男が立っていた。


見覚えのある顔だった。


畠山政長方の与平である。


「弥三郎殿」


俺は、笑顔で迎えた。


「与平殿。お久しぶりです」


与平は、深く頭を下げた。


「お願いがございます」


俺は帳面を開いた。


「旗のご注文でしょうか」


与平は、静かに首を振った。


「いいえ」


俺は、少し驚いた。


「では?」


与平は、懐から一枚の紙を取り出した。


「人を捜していただきたいのです」


俺は、頷いた。


「承知しました。お名前は?」


与平は、しばらく黙った。


そして、声を落とした。


「……私の息子です」


俺は、顔を上げた。


「息子さん?」


与平は頷いた。


「戦に出たまま、戻っておりません」


俺は、息を呑んだ。


「おいくつですか」


与平は、静かに答えた。


「十六になります」


俺は、しばらく男を見つめた。


十六。


まだ、少年ではないか。


与平は続けた。


「私が、戦へ出しました」


その声が震えた。


「家を守るためだと、言い聞かせて」


俺は、何も言えなかった。


与平は、深く頭を下げた。


「どうか……息子を捜してください」


俺は、ゆっくり頷いた。


「……できる限りのことをいたします」


与平は、目を閉じた。


俺は、帳面を開いた。


『消息を尋ねる人々』


その新しい頁に、与平の息子の名を書こうとした。


だが、与平は、まだ名前を告げていなかった。


俺は、顔を上げた。


「お名前を、教えてください」


与平は、静かに答えた。


「弥助(やすけ)と申します」


俺は、その名を書いた。


『弥助 十六歳』


そして、筆を止めた。


与平は、俺を見ていた。


その目にあったのは、武士としての誇りではなかった。


父親としての、ただ一つの願いだった。


俺は、静かに言った。


「与平殿」


「はい」


「必ず見つけるとは、お約束できません」


与平は頷いた。


「分かっております」


「ですが、消息を確かめるために、できることはいたします」


与平は、深く頭を下げた。


「……お願いいたします」


俺は、帳面を閉じた。


そして、店先の旗を見上げた。


『人を捜しています』


風に揺れる白い布。


誰の紋もない。


誰の軍勢にも属さない。


ただ、誰かを捜していると知らせる旗。


俺は、静かに息を吐いた。


戦場で人を探すことは、旗を作ることより難しい。


だが、旗屋三代目として、今の俺にはそれを諦める理由がなかった。


奥の部屋では、父がまだ眠っている。


俺は、その部屋を見た。


そして、小さく呟いた。


「……父上。今日も、店を開けます」

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