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本日も主君が変わりました ~昨日の敵が今日の味方な室町時代~  作者: さかもち
第三部 昨日の味方は、今日の敵です
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39/61

燃えた町では、誰も勝った顔をしていません

京の町で戦が始まってから、旗屋には三種類の客が来るようになった。


旗を注文する武士。


旗を売りに来る武士。


そして、旗を燃やしたいという武士である。


最後の客には、さすがに困った。


「こちらの旗を、すべて焼いていただきたい」


そう言って店に来た男は、立派な甲冑を身につけていた。


ただし、肩当てが片方なく、兜の緒も切れている。


「……どちらのお家でしょうか」


俺が尋ねると、男は顔をしかめた。


「それを知られたくないから、焼いてほしいのだ」


「なるほど」


「分かってくれるか」


「いえ、困っております」


男は黙った。


俺は旗を広げた。


山名家の紋が染められている。


「山名方の旗ですね」


男の顔色が変わった。


「声が大きい!」


「失礼しました」


男は周囲を見回してから、俺に顔を寄せた。


「細川方の陣へ向かうことになった」


俺は筆を止めた。


「……寝返りですか」


「声が大きい!」


俺はため息をついた。


祖父の代から続く看板には、こう書いてある。


『急な寝返りにも対応』


だが、あれは軍旗を急いで仕立てるという意味であって、証拠を焼却する商売を始めたわけではない。


「申し訳ありませんが、旗を焼く仕事はしておりません」


男は不満そうだった。


「では、どうすればよい」


「ご自分でお持ち帰りください」


「見つかったら困る」


「でしたら、元の主君へお返しになっては」


男は俺を睨んだ。


「それができれば、苦労せぬ!」


まったく、その通りだった。


俺はしばらく考え、古布の買い取り額を示した。


ただし、紋入りのまま他人へ売らないこと。男の名を帳面に残すこと。それが条件だ。


男は渋々、銭を受け取った。


帰り際に、看板を見上げた。


「……急な寝返りにも対応、か」


「はい」


男は、少しだけ笑った。


「本当に対応しておるな」


俺は頭を下げた。


「できれば、あまりご利用いただきたくありません」


男は何も言わずに帰っていった。


その背中を見ながら、千吉が呟いた。


「親方。今度は細川方の旗を注文しに来るんでしょうか」


「かもしれんな」


「では、儲かりますね」


俺は千吉を見た。


千吉は、すぐに首を振った。


「……冗談です」


俺も笑えなかった。


昔なら、笑えたはずなのに。


          ◇


応仁元年、1467年。


東軍と西軍の戦は、京の町を容赦なく変えていた。


細川勝元殿を中心とする東軍。


山名宗全殿を中心とする西軍。


その陣営を分けるのは、単に二人の仲が悪くなったからではない。


畠山家の家督争い。


斯波家の家督争い。


将軍家の後継問題。


それぞれの守護が抱える所領や家臣たちの事情。


長年積み重なった争いが、京という一つの場所に集まってしまったのだ。


しかも将軍・足利義政様は、事態を収められずにいた。


やがて東軍は将軍を自陣営に確保し、幕府の正統性を主張する。西軍も自らの大義を失わぬよう、さらに勢力を集めた。


勝元殿と宗全殿。


かつて同じ屋敷で談笑していた二人が、今や相手の軍勢を警戒し、道を塞ぎ、陣を構えている。


俺は以前、二人のために旗を仕立てたことがあった。


同じ大きさ。


同じ高さ。


どちらの旗も、不公平にならぬよう工夫した。


あの時は、多少の意地の張り合いで済んでいた。


今は違う。


旗を高く掲げるのは、敵の矢が届く場所を示すためだ。


俺が仕立てた布が、そんなふうに使われる。


帳面には売上が増えている。


だが、町には、物を買う人間が減っていた。


俺は、初めて不思議に思った。


旗屋が忙しくなるほど、旗屋の客が減っていく。


戦とは、何とも下手な商売である。


          ◇


ある朝、佐吉が仕事場で倒れた。


針を持ったまま、ゆっくり横へ傾いたという。


千吉が支えたので、大きな怪我はなかった。


俺が駆け寄ると、佐吉は申し訳なさそうに笑った。


「すみません、親方」


「何を謝るんです」


「少し、目が回りまして」


「顔色が悪いですよ」


「大丈夫です。もう少し休めば……」


「今日は帰ってください」


佐吉は口を開きかけた。


俺は先に言った。


「仕事は俺たちでやります」


佐吉は、困った顔で笑った。


「……若旦那」


その呼び方に、俺も笑いそうになった。


父に向かって何十年も使ってきた言葉を、佐吉は今でも時々俺に使う。


俺はしゃがみ、佐吉と目を合わせた。


「佐吉さん。今日は休んでください。これは親方としての命令です」


佐吉は、しばらく俺を見つめた。


そして、静かに頷いた。


「承知しました」


家族へ知らせ、人を付けて家まで送らせた。


店の奥から父が出てきた。


「佐吉は?」


「休ませました」


「そうか」


父は何も言わなかった。


だが、佐吉が使っていた針箱の前に座り、長い間それを眺めていた。


やがて、小さく呟いた。


「あいつも歳を取ったな」


俺は父を見た。


「父上もですよ」


父は顔を上げた。


「お前もな」


俺たちは、少し笑った。


三代続いた店だ。


人間だけが、昔のままでいられるはずもない。


          ◇


昼過ぎ、店の前に女が現れた。


背中には赤ん坊を負い、手には小さな包みを持っている。


顔は煤で汚れ、草履は片方しかなかった。


「旗屋さん……」


俺は戸口へ出た。


「どうされました」


女は、包みを差し出した。


中には、焼け焦げた布があった。


「これを、直していただけませんか」


俺は布を広げた。


旗ではなかった。


赤ん坊用の着物だった。


肩のあたりが焼け、袖も片方失われている。


俺は息を呑んだ。


見覚えがあった。


佐吉が、古布を継いで仕立てた小さな着物。


あの時、向かいの長屋に住む女が、孫のために注文したものだった。


「……これは」


女は頷いた。


「母が、こちらで作っていただいたものです」


俺は顔を上げた。


「お母上は?」


女は答えなかった。


ただ、背中の赤ん坊をそっと揺すった。


俺は、それ以上尋ねられなかった。


「家が焼けました」


女が言った。


「母は、逃げるのが遅れて……」


声が途切れた。


俺は、布を畳んだ。


「……お預かりします」


女は頭を下げた。


「お代は、すぐには払えません」


「構いません」


女は驚いた顔をした。


「ですが……」


「直せるかどうか、まず確かめます」


俺は、布を握った。


そして、静かに続けた。


「それから考えましょう」


女は何度も頭を下げ、店を後にした。


俺は、しばらくその背中を見送った。


          ◇


夕方、千吉が布を広げていた。


「親方。この着物、直せますかね」


俺は、焼けた部分を見た。


生地は薄くなり、糸も傷んでいる。


無理に縫えば、また破れるだろう。


「……新しく作った方が早いな」


千吉は頷いた。


「そうですね」


俺は少し考えた。


「でも、この布は残そう」


「残すんですか」


「ああ。使えるところだけ、新しい着物に縫い込もう」


千吉は、しばらく俺を見つめた。


そして、静かに頷いた。


「分かりました」


俺は、佐吉の針箱を見た。


あの人が仕立てた着物だ。


佐吉が元気なら、もっと上手く直せただろう。


だが、今は俺たちがやるしかない。


針を持つ。


布を重ねる。


一針ずつ、縫っていく。


軍旗を作る時と、何も変わらない。


同じ針。


同じ糸。


同じ手。


それなのに、出来上がるものの意味は、まったく違う。


俺は、静かに針を動かした。


          ◇


数日後、女が着物を受け取りに来た。


新しい生地に、古い布を少しだけ残した、小さな着物だった。


女は、しばらくそれを見つめていた。


そして、静かに泣き始めた。


俺は、何も言わなかった。


女は、涙を拭いながら言った。


「母の作ってくれた着物が、残りました」


俺は首を振った。


「作ったのは、うちの職人です」


女は、少し笑った。


「でも、母が選んだ布なんです」


俺は、胸の奥が熱くなった。


女は、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


俺も頭を下げた。


女が帰った後、千吉が言った。


「親方」


「何だ」


「今日の仕事は、よい仕事でしたね」


俺は頷いた。


「ああ」


千吉は続けた。


「旗を作るより、よかった気がします」


俺は少し考えた。


「……そうかもしれんな」


そして、帳面を開いた。


『赤子用着物 一着』


その下に、


『旧布一部使用』


と書いた。


代金の欄は空白にした。


しばらく眺めてから、小さく書き加えた。


『後日相談』


三代目としては、少し不本意だった。


しかし、父が帳面を覗き込み、笑った。


「弥三郎」


「はい」


「ずいぶん、俺の帳面に似てきたな」


俺は思わず顔をしかめた。


「それは困ります」


父は笑った。


「何がだ」


「未収金が増えます」


父は、さらに笑った。


「ははは! それでこそ、うちの親方だ!」


俺は、ため息をついた。


だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


          ◇


秋が近づく頃、京ではさらに大きな戦闘が続いた。


陣地を奪い合う武士たち。


焼き払われる屋敷。


道を塞ぐ柵。


そして、逃げる町人たち。


戦は、勝った負けたという話だけでは済まなくなっていた。


東軍がある通りを押さえれば、西軍が別の通りを押さえる。


昨日まで通れた道が、今日は通れない。


昨日まで商売していた店が、今日は焼けている。


俺の店にも、布が届かなくなり始めた。


染料も不足している。


職人たちは、十分な仕事ができなくなった。


ある日、千吉が言った。


「親方。軍旗の注文が、また来ています」


俺は顔を上げた。


「どちらから」


「東軍です」


「何枚だ」


「五十枚」


俺は、しばらく考えた。


「納期は?」


「七日後」


俺は、帳面を閉じた。


「断ろう」


千吉は驚いた。


「……よいのですか」


「ああ」


「大きな注文ですよ」


俺は頷いた。


「分かっている」


千吉は、少し迷った。


「ですが、今の店には……」


俺は、静かに言った。


「布が足りない」


千吉は黙った。


「職人も足りない。道も安全ではない。それに、今ある布は、怪我人や町の人たちのために使いたい」


千吉は、しばらく俺を見ていた。


そして、深く頷いた。


「……承知しました」


俺は、使者へ返事を書いた。


『誠に恐れ入りますが、現在の状況では、ご希望の納期と品質をお約束できません』


商売上の断り方としては、間違っていない。


だが、使者がどう受け取るかは分からない。


父は返事を読んで言った。


「弥三郎。よい文章だ」


俺は少し安心した。


「ありがとうございます」


父は続けた。


「ただし、相手が怒らないとは限らんぞ」


俺は黙った。


……父上。


褒めるなら、最後まで褒めていただきたい。


          ◇


翌日、細川家の使者・庄兵衛が訪ねてきた。


久しぶりに見る顔だった。


以前より頬がこけ、目の下には深い隈があった。


「弥三郎殿」


「庄兵衛殿。ご無沙汰しております」


男は頷いた。


そして、静かに言った。


「旗を断ったそうだな」


俺は頭を下げた。


「申し訳ございません」


庄兵衛は、しばらく黙っていた。


俺は続けた。


「布も人手も足りず、ご希望の納期に間に合いません」


庄兵衛は、店の中を見回した。


机の上には、赤ん坊用の着物や、傷んだ暖簾が並んでいる。


以前なら軍旗が山のように積まれていた場所だった。


「……ずいぶん、変わったな」


俺は頷いた。


「はい」


庄兵衛は、一枚の小さな着物を手に取った。


「これを作っているのか」


「はい」


「戦の最中に?」


俺は、少し考えた。


「戦の最中だからこそ、必要な方もおられます」


庄兵衛は黙った。


そして、静かに着物を置いた。


「……そうか」


俺は、身構えた。


怒られるだろうか。


幕府の仕事を断ったと責められるだろうか。


だが、庄兵衛は意外なことを言った。


「弥三郎殿。少しだけ、布を分けてもらえぬか」


俺は顔を上げた。


「軍旗用でしょうか」


庄兵衛は首を振った。


「……怪我人のためだ」


俺は、しばらく男を見つめた。


そして、頷いた。


「それなら、ご用意できます」


庄兵衛は、深く頭を下げた。


その姿を見た時、俺は初めて気づいた。


庄兵衛も、疲れているのだ。


東軍の使者として、旗を運び、命令を伝え、武士たちの間を走り続けてきた男。


だが、その顔には、勝ち誇った様子などなかった。


「庄兵衛殿」


「何だ」


俺は、少し迷ってから尋ねた。


「……戦は、いつ終わるのでしょうか」


庄兵衛は、長い間黙っていた。


そして、苦く笑った。


「それが分かれば、私もここまで疲れはせぬ」


俺は、何も言えなかった。


          ◇


その夜、俺は父と二人で店先に座っていた。


以前は、ここで新九郎殿が余計なことを言い、父が笑い、俺が呆れるのが常だった。


だが、最近は違う。


新九郎殿は足の傷が癒えず、家で休んでいる。


佐吉も、以前ほど店には来られなくなった。


父も、長く座っていると咳き込むことが増えた。


俺は、少しだけ寂しくなった。


「父上」


「何だ」


「京は、元に戻るのでしょうか」


父は、しばらく考えた。


「……戻らんかもしれんな」


俺は顔を上げた。


「そんな……」


父は、静かに続けた。


「戦が終わっても、焼けた家は戻らん。死んだ人間も戻らん」


俺は黙った。


「だが、新しい家は建つ。子どもは育つ。店を始める者も出てくる」


父は、少し笑った。


「町は、元には戻らん。だが、別の形で生きていく」


俺は、しばらく父を見つめた。


「……旗屋も、ですか」


父は頷いた。


「ああ」


そして、俺を見た。


「お前が、そうするんだ」


俺は、何も言えなかった。


          ◇


翌朝。


俺は、店の帳面を開いた。


『応仁元年』


その下には、軍旗の注文と、修繕の仕事が並んでいる。


戦のための旗。


怪我人のための布。


焼けた着物の仕立て直し。


避難する者のための袋。


俺は、しばらくその頁を見つめた。


そして、新しい欄を作った。


『人の暮らしのための仕事』


千吉が、横から覗き込んだ。


「親方。これは?」


俺は、少し笑った。


「旗以外の仕事を、まとめておこうと思ってな」


千吉は頷いた。


「なるほど」


俺は続けた。


「これからは、旗だけでなく、暮らしに必要な布の仕事も増やしていこう」


千吉は、少し考えた。


「……旗屋なのに、ですか」


俺は頷いた。


「ああ」


「店の名前は、どうするんです?」


俺は、しばらく考えた。


『旗屋 弥三郎』


祖父が始めた店。


父が守ってきた店。


そして、俺が継いだ店。


俺は、静かに答えた。


「名前は変えない」


千吉は、少し不思議そうな顔をした。


「なぜです?」


俺は笑った。


「旗屋が、旗以外のものを作ってはいけないという決まりはないだろう」


千吉も笑った。


「そうですね」


俺は、筆を取った。


そして、店先の札を一枚書き直した。


『旗・幟・幕・修繕 御用承ります』


その下に、新しい一行。


『戦で困った布仕事も、ご相談ください』


父がそれを読んだ。


しばらく黙っていた。


そして、静かに笑った。


「弥三郎」


「はい」


「よい札だ」


俺は、少し照れくさくなった。


「ありがとうございます」


父は続けた。


「父上が見たら、何と言うかな」


俺は、少し考えた。


そして笑った。


「……旗屋なのに旗以外も売るのか、と」


父は、大きく笑った。


「ははは! 違いない!」


久しぶりに聞く、父の大きな笑い声だった。


俺も、つられて笑った。


その時だけは、外の戦の音が少し遠くなった気がした。


          ◇


だが、その日の夕方。


店の前に、一人の少年が現れた。


年は十二、三歳ほどだろうか。


痩せた体に、大きすぎる着物を着ている。


少年は、店先の札をじっと見つめていた。


俺が声をかけた。


「何か、ご用か」


少年は、少し怯えたように俺を見た。


そして、小さな声で言った。


「……旗を、作ってほしいんです」


俺は、少しだけ身構えた。


「どちらのお家の旗だ」


少年は首を振った。


「武士じゃありません」


「では、何の旗だ」


少年は、しばらく黙った。


そして、懐から小さな布を取り出した。


そこには、震える字で何かが書かれていた。


俺は、布を受け取った。


文字は、ひどく拙かった。


だが、読めた。


『ここに人がいます』


俺は、顔を上げた。


少年は、静かに言った。


「家が焼けました」


俺は黙った。


「父ちゃんと、母ちゃんが、まだ中にいるかもしれません」


少年の声が震えた。


「でも、兵隊がいて、近づけないんです」


俺は、布を見つめた。


『ここに人がいます』


少年は続けた。


「この旗を立てたら、誰か助けに来てくれるでしょうか」


俺は、答えられなかった。


旗は、助けを求める目印にはなる。


だが、それを見て誰かが必ず助けに来るわけではない。


まして、戦場だ。


相手が旗の意味を理解するとも限らない。


俺は、少年の前に膝をついた。


「……名前を聞いてもいいか」


少年は答えた。


「太助(たすけ)です」


俺は頷いた。


「太助。旗は作れる」


少年の顔が、少し明るくなった。


俺は、静かに続けた。


「でも、旗だけで助けられるとは約束できない」


太助は、俯いた。


俺は、少し考えた。


そして言った。


「まず、どこに家があるのか教えてくれ」


少年は顔を上げた。


「……助けてくれるんですか」


俺は、静かに答えた。


「俺一人では、無理かもしれない」


太助は黙った。


俺は続けた。


「でも、道を知っている人や、近くに住んでいる人に話を聞くことはできる」


少年の目に、少しだけ光が戻った。


俺は、布を畳んだ。


そして、店の奥へ声をかけた。


「千吉!」


「はい!」


「新しい仕事だ」


千吉が駆け寄る。


「何を作りますか」


俺は、太助の持ってきた布を見せた。


『ここに人がいます』


そして、静かに言った。


「……この文字が、遠くからでも読めるようにしてくれ」


千吉は、しばらく布を見つめた。


そして、深く頷いた。


「分かりました」


俺は、父を見た。


父は、静かに俺を見つめていた。


「父上」


「何だ」


「今回は、軍旗ではありません」


父は頷いた。


「ああ」


俺は続けた。


「誰かを攻めるためでも、味方を集めるためでもありません」


父は、少しだけ笑った。


「……そうだな」


俺は、太助の布を手に取った。


そして、静かに言った。


「人がいることを知らせるための旗です」


父は、長い間黙っていた。


やがて、ゆっくり頷いた。


「弥三郎」


「はい」


「……よい仕事だ」


俺は、少しだけ胸が熱くなった。


だが、その時。


外から、激しい足音が聞こえてきた。


「旗屋!」


武士の声だった。


俺は振り返った。


店の前に、数人の武士が立っていた。


その先頭にいる男は、細川家の紋を身につけていた。


「この店に、子どもが入ったか」


俺は、息を呑んだ。


太助が、俺の後ろに隠れた。


武士は、声を荒らげた。


「その子どもを、こちらへ渡せ!」


俺は、ゆっくり立ち上がった。


千吉が、太助を店の奥へ下がらせる。


父も、静かに立ち上がった。


武士は、俺を睨んだ。


「聞こえぬのか!」


俺は、深く息を吐いた。


そして、答えた。


「……こちらは旗屋でございます」


武士の眉が動いた。


「何?」


俺は、静かに続けた。


「子どもをお渡しする前に、何のご用かお聞かせください」


男は、刀の柄に手を置いた。


俺は、思わず父を見た。


父は、何も言わなかった。


ただ、俺の隣に立っていた。


祖父が始めた店。


父が守ってきた店。


そして、俺が継いだ店。


その店の前で、今、武士が刀に手をかけている。


俺は、太助の布を握りしめた。


『ここに人がいます』


その文字が、妙に重く感じられた。


旗を掲げれば、人はそれを見る。


だが、見た人が助けてくれるとは限らない。


時には、旗を掲げた者から先に狙われることもある。


俺は、武士を見つめた。


そして、三代目親方として、静かに言った。


「……まず、刀から手を離していただけませんか」


武士は答えなかった。


京の空は、今日も赤かった。

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