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本日も主君が変わりました ~昨日の敵が今日の味方な室町時代~  作者: さかもち
第三部 昨日の味方は、今日の敵です
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37/62

戦を始める前に、旗を取りに来てください

「細川家は三十枚。山名家も三十枚」


俺は帳面を見比べた。


「どちらも軍旗で、どちらも至急」


千吉が頷いた。


「はい」


「それで、どちらも相手の動きに備えるため」


「そう聞いております」


俺は帳面を閉じた。


「……では、一つ提案がある」


千吉が顔を上げた。


「何でしょう」


「両家の使者を同じ日に呼んで、こう伝えるんだ。『お互いに三十枚ずつ注文されておりますので、六十枚をまとめて仕立てれば少しお安くできます』と」


千吉は、しばらく俺を見つめた。


そして、真顔で言った。


「親方。殺されますよ」


俺は頷いた。


「……そうだな」


奥から父の笑い声が聞こえた。


「ははは! 弥三郎、お前もようやく弥太郎の孫らしくなってきたな!」


嬉しくない。


まったく嬉しくない。


俺は三代目になってから、商売を合理的にしようと努めてきた。


代金は半金先払い。


注文主と届け先を記録する。


軍旗の使い方も確かめる。


それなのに、どうして先代たちと同じようなことを言い始めてしまったのだろう。


俺は店先の古い札を見た。


『本日の味方』


『明日は不明』


どうやら、この家には、代々どうしようもない血が流れているらしい。


          ◇


文正元年、1466年の暮れ。


京は、すでに冬の寒さに包まれていた。


寛正年間に多くの命を奪った飢饉の傷は、まだ町のあちこちに残っている。


空き家になった長屋。


主人を失った店。


門前で物乞いをする人々。


それでも、人間は生きていかなければならない。


俺の店でも、旗のほかに暖簾や幕、寺で使う布などを仕立てていた。


そして最近は、ひそかに別の仕事も増やしていた。


古布を使った冬着の仕立て直しだ。


「親方、これでは儲けが出ません」


千吉が言った。


「分かっている」


「でしたら、なぜ」


「店の古布を寝かせておくよりはいい。それに、うちの職人が冬の間も仕事を続けられる」


千吉は少し考えた。


「……なるほど」


俺は帳面を開いた。


「もちろん、全部ただでは引き受けないぞ。払える者には、きちんと払ってもらう」


千吉が笑った。


「親方らしいですね」


「三代目だからな」


父が隣から言った。


「俺たちの頃は、もっと気前がよかったぞ」


「だから帳面に未収金が山ほど残っているんです!」


父は、なぜか満足そうに笑った。


そこへ、佐吉が布を抱えてやって来た。


「親方。こちらを見ていただけますか」


俺は広げられた布を見た。


赤ん坊用の小さな着物だった。


「どこの注文ですか」


「向かいの長屋のおかみさんです。生まれたばかりのお孫さんに、と」


俺は布を手に取った。


細かな縫い目。


古布を継いでいるのに、見栄えがよい。


「きれいですね」


佐吉は少し照れたように笑った。


「旗ほど大きくないので、目にはこたえますが」


その手を見た時、俺は気づいた。


佐吉の指が、以前よりわずかに震えている。


「佐吉さん。少し休んでください」


「大丈夫ですよ」


「いえ。今日はもう十分です」


佐吉は俺を見た。


そして、小さく笑った。


「……若旦那にまで、そう言われるようになりましたか」


俺は思わず笑った。


「若旦那ではありません。親方です」


「失礼しました」


そう言いながら、佐吉はまた「若旦那」と呼ぶのだろう。


父を長年そう呼んでいたように。


店の中には、将軍が代わっても変わらないものがある。


俺は、そのことが好きだった。


だからこそ、守りたかった。


          ◇


ところが、その冬。


畠山家の争いが、再び京を揺らした。


長く家督を争ってきた畠山義就(はたけやまよしひろ)殿が、軍勢を率いて都へ近づいているという。


義就殿は、かつて幕府に退けられながらも各地で抵抗を続けてきた。


そして今、山名宗全殿らの後押しを得て、再び畠山家の主導権を取り戻そうとしていた。


一方、畠山政長(はたけやままさなが)殿は管領を務め、細川勝元殿らの支持を受けていた。


どちらも畠山家。


どちらも正統な当主を主張している。


その二人が、ついに同じ京へ入ろうとしている。


新九郎殿が、店に駆け込んできた。


「弥三郎!」


「今度は何ですか」


「義就殿が軍勢を連れて来る!」


俺は筆を止めた。


「……何人ほどで?」


「相当な数らしい」


「幕府は?」


「まだ動きが定まらん」


父が奥から声をかけた。


「宗全殿は、義就殿を助けるつもりだろうな」


「そう聞いている」


新九郎殿が頷いた。


俺は帳面を開いた。


畠山義就方。


畠山政長方。


細川家。


山名家。


数年間、何度も書き続けてきた名前が並んでいる。


それまでは別々の欄に収まっていた。


だが今、すべてが一つの話につながろうとしていた。


父は、しばらく帳面を見ていた。


「弥三郎」


「はい」


「店の布を、少し奥へ移しておけ」


俺は顔を上げた。


「なぜです」


「念のためだ」


「京で戦になると?」


父は、静かに答えた。


「ならなければ、それでいい」


その顔を見て、俺は反論しなかった。


          ◇


年が明けた。


文正二年、1467年。


正月だというのに、京には祝いの気分が乏しかった。


畠山義就殿の復権が進み、政長殿は管領の職を失うことになった。


政長殿に従う者たちは怒り、義就殿の側は勢いづく。


しかも管領の座には、山名宗全殿に近い斯波義廉(しばよしかど)殿が就いた。


斯波家もまた、家督を争ってきた家だった。


畠山家の問題に、斯波家の問題が重なる。


さらに、将軍・足利義政様の後継をめぐっては、弟の義視様と、御台所・日野富子様の産んだ義尚様がいる。


誰を後継とするのか。


その問題に関心を持つ者も少なくない。


ただ、すべての人間が二つの陣営にきれいに分かれたわけではなかった。


ある家では父と子の考えが違う。


別の家では当主と家臣の立場が違う。


昨日まで協力していた家が、今日は別の人間を支持する。


そして、明日になれば、また変わるかもしれない。


俺は、古い看板を見上げた。


『明日は不明』


お祖父様。


あなたは、この日のために書いたのですか。


          ◇


正月十七日の夜。


店を閉めようとした時、戸を叩く音がした。


「旗屋! 開けてくれ!」


俺は千吉と顔を見合わせた。


外には三人の男が立っていた。


その一人に、見覚えがあった。


畠山政長方に仕える与平だった。


以前、義就方と政長方の二枚の旗を注文しに来た、あの男である。


「与平殿!」


俺は驚いた。


男は、以前よりずっと痩せていた。


「弥三郎殿。お願いがございます」


「何でしょう」


「白布を、できるだけ多く譲っていただきたい」


俺は眉をひそめた。


「白布?」


「はい。それと、縄を」


「何に使われるのですか」


与平は、しばらく黙った。


そして、声を落とした。


「政長様が、陣を構えられます」


俺は息を呑んだ。


「どこに?」


「上御霊社です」


店の奥から父が現れた。


「……上御霊社か」


与平は頷いた。


「今夜にも、我らは動きます」


俺は、静かに尋ねた。


「義就方と戦われるのですか」


与平は答えなかった。


その沈黙だけで、十分だった。


俺は、しばらく考えた。


そして言った。


「布はお譲りできます。ただし、旗に仕立てる時間はありません」


与平は頷いた。


「構いません。目印や荷をまとめるために使います」


俺は千吉を呼んだ。


「白布を出してくれ。縄もだ」


千吉が動き出す。


その時、与平が俺に言った。


「弥三郎殿」


「はい」


「もし、明日になっても私が来なければ……」


俺は顔を上げた。


与平は、かすかに笑った。


「代金は、どうか畠山家へご請求ください」


俺は思わず声を荒らげた。


「そんな話をしている場合ですか!」


与平は驚いた顔をした。


俺も、自分の声に驚いた。


だが、止まらなかった。


「代金なんて、帰ってから払ってください!」


与平は、しばらく俺を見ていた。


そして、深く頭を下げた。


「……承知しました」


俺は、布を渡した。


与平たちは夜の道へ消えた。


その背中を、しばらく見送った。


父が静かに言った。


「弥三郎」


「はい」


「明日は、早く戸を閉められるようにしておけ」


俺は頷いた。


もう、何も聞かなかった。


          ◇


翌十八日の朝。


京の北から、煙が上がった。


最初は、誰かが火を焚いているのかと思った。


だが、すぐに違うと分かった。


煙が太い。


黒い。


そして、空の一か所にとどまらず、風に押されて広がっていた。


千吉が駆け込んできた。


「親方!」


「どうした!」


「上御霊社で戦が始まっています!」


俺は、反射的に戸口へ出た。


北の方から、かすかな音が届く。


人の叫び声。


金属が打ち合わされるような響き。


それに、太鼓の音も混じっていた。


父が俺の肩を掴んだ。


「出るな」


「ですが……」


「ここから見に行って、何ができる」


俺は黙った。


父の手は、以前より細くなっていた。


だが、掴む力は強かった。


「弥三郎。お前は今、何を守る」


俺は、店の中を振り返った。


佐吉。


千吉。


若い職人たち。


そして、奥にいる家族。


俺は、ゆっくり答えた。


「……店の人間です」


父は頷いた。


「それでいい」


その時、近所の女が駆け込んできた。


「弥三郎さん!」


「どうしました」


「息子が、北の方へ荷を運びに行っているんです!」


女の顔は真っ青だった。


「朝から帰らないんです!」


俺は、息を呑んだ。


父は女に椅子を勧めた。


「まず座ってください」


女は首を振った。


「でも……」


父は、静かに言った。


「捜しに行くにしても、道の様子を確かめてからです」


俺は、父を見た。


父は続けた。


「慌てて二人目まで帰らなくなってはいけません」


その言葉は、重かった。


          ◇


戦は、上御霊社の森を中心に激しく続いた。


政長方は約二千の兵を率いて陣を構え、義就方はそれを上回る兵力で攻め寄せたという。


後に聞いた話では、山名宗全殿の側からも義就方へ援助が及んだ。


一方、政長殿が頼りにした細川勝元殿は、この戦では軍勢を動かさなかった。


将軍が諸大名に介入を禁じていたこともあり、政長殿は期待した加勢を得られなかったのである。


俺は、その話を聞いて愕然とした。


「……勝元殿は、政長殿の味方ではなかったのですか」


新九郎殿は頷いた。


「味方だ」


「では、なぜ助けないんです」


「将軍の命がある」


「しかし、山名方は……」


「だから、ややこしいんだ」


新九郎殿は、苦い顔で笑った。


俺は、しばらく黙っていた。


味方なのに、助けられない。


敵なのに、同じ家紋を掲げている。


勝っても家督が確実になるとは限らず、負けても争いが終わるとは限らない。


俺は、胸の奥が冷たくなった。


祖父の看板が、また頭に浮かんだ。


『本日の味方』


『明日は不明』


いや。


この時代は、それだけでは足りない。


本日の味方でも、今日は来られない。


そんな札まで必要になるのか。


          ◇


夕方。


京の北から逃れてきた人々が、店の前を通り始めた。


荷を背負う者。


幼い子を抱く者。


何も持たず、ただ走る者。


一人の男が、店の前で膝をついた。


肩から血が流れている。


千吉が駆け寄った。


「親方!」


俺も外へ出た。


男は若かった。


武士というより、荷運びの者に見えた。


「大丈夫か!」


男は、苦しそうに答えた。


「……水を」


俺は千吉に命じた。


「水を持ってこい! それと、きれいな布を!」


佐吉が布を抱えて出てきた。


俺は、男の肩に布を当てた。


血が染み込んでいく。


男は、かすれた声で言った。


「……旗屋さん」


俺は顔を上げた。


「何だ」


男は、少し笑った。


「その布、立派ですね」


俺は思わず苦笑した。


「旗に使うつもりだったんだ」


「……もったいない」


俺は首を振った。


「旗より、人の方が大事だ」


男は、目を閉じた。


俺は布を押さえながら、声をかけ続けた。


「おい、眠るな。もう少しだ」


幸い、男は息をしていた。


近所の者たちと協力し、手当てのできる場所へ運んだ。


だが、その後も傷ついた者が次々に通りをやって来た。


俺は、店の布を次々に取り出した。


軍旗用の白布。


祭礼用に取っておいた端切れ。


高価な布もあった。


だが、選んでいる時間はなかった。


千吉が言った。


「親方。この布も使いますか」


俺は頷いた。


「使え」


「でも、細川家の注文に……」


「今はいい!」


千吉は、すぐに動いた。


俺は、傷ついた男の顔を拭いた。


そして、ふと気づいた。


この男がどちらの味方なのか、俺は知らない。


いや、そもそも武士なのかどうかさえ分からない。


旗も持っていない。


紋もない。


ただ、血を流している。


俺は、布を当て直した。


味方かどうかを確かめる必要は、なかった。


          ◇


夜になって、戦は義就方の勝利で終わったという知らせが届いた。


政長殿は敗れ、上御霊社の陣を退いた。


だが、俺が最初に尋ねたのは、そのことではなかった。


「与平殿は?」


知らせを持ってきた男は首を振った。


「分からぬ」


俺は、言葉を失った。


あの夜、白布と縄を買いに来た男。


代金は後で払うと言った男。


俺は帰ってから払えと言った。


その約束が、胸に刺さった。


弥三郎は、いや、俺は。


旗屋の親方として、数え切れないほどの注文を受けてきた。


だが、この時ほど一人の客の帰りを待ったことはなかった。


父が、俺の隣へ来た。


「弥三郎」


「……はい」


「まだ、分からんのだろう」


俺は頷いた。


「では、死んだと決めるな」


俺は、顔を上げた。


父は静かに続けた。


「帰ってこなかった者の話を、俺たちは何度も聞いてきた」


その目が、遠くを見ていた。


「だが、何日もしてから帰ってきた者もいた」


俺は、ゆっくり頷いた。


「……はい」


父は、俺の肩を叩いた。


「店を開けておけ」


俺は、少しだけ笑った。


「はい」


          ◇


三日後。


与平が帰ってきた。


昼過ぎだった。


店の前に立つ男を見つけた時、俺は思わず帳面を落とした。


「与平殿!」


男は、ゆっくり頭を下げた。


顔には傷があり、片腕を吊っていた。


「弥三郎殿。その節は……」


俺は駆け寄った。


「ご無事でしたか!」


「何とか」


与平は、弱々しく笑った。


「代金を、お支払いに」


俺は、しばらく男を見つめた。


そして、思わず笑ってしまった。


「……本当に、それを言いに来たんですか」


「約束でしたので」


俺は、目の奥が熱くなった。


「そんなことより、傷を見せてください」


与平は首を振った。


「大したことはありません」


俺は、吊った腕を見た。


「どう見ても大したことがあります!」


千吉が、奥から笑いながら言った。


「親方、最近そればかりですね」


俺も笑った。


与平も、少し笑った。


その笑顔を見て、ようやく安心した。


          ◇


与平は、しばらく店で休んでから、戦の様子を話してくれた。


「義就様の軍勢は強うございました」


俺は頷いた。


「政長様は?」


「命はお助かりになりました」


「そうですか」


与平は、少しだけ目を伏せた。


「ですが、多くの者が死にました」


俺は黙った。


「昨日まで同じ家に仕えていた者同士です」


与平は続けた。


「顔を知っている者もいました」


その声が震えた。


「幼い頃、一緒に稽古をした者もいたのです」


俺は、何も言えなかった。


与平は、膝の上で拳を握った。


「戦場では、相手の顔が見えぬ方がよいのかもしれません」


俺は、顔を上げた。


「どういう意味ですか」


与平は、苦く笑った。


「顔が見えれば、斬れなくなります」


俺は、しばらく考えた。


そして言った。


「……斬れなくてよいのではありませんか」


与平は、俺を見た。


俺も、男を見つめた。


長い沈黙があった。


やがて与平は、小さく頷いた。


「……そうかもしれません」


だが、その声には確信がなかった。


俺にも、なかった。


戦場に立ったことのない俺が、簡単に言えることではない。


それでも、そう思わずにはいられなかった。


          ◇


与平が帰った後、俺は帳面を開いた。


『畠山政長方 白布・縄』


その下に、


『御霊合戦にて使用』


と書いた。


さらに、筆を止めて考えた。


何を書き残すべきだろう。


義就方の勝利。


政長方の敗北。


戦死者。


町へ逃れた人々。


俺が見たものは、そのすべてではない。


帳面に書けるのは、ほんの一部だけだ。


俺は、ようやく一行を加えた。


『与平、生還』


筆を置いた。


祖父の帳面にも、父の帳面にも、似た言葉があった。


『職人三名、無事帰る』


俺は、その文字を思い出した。


三代目になって、ようやく分かったことがある。


旗屋の帳面には、売上だけでは残せないものがある。


そして、そこに書くべきことは、案外少ない。


生きて帰った。


その一行で、十分な時があるのだ。


          ◇


正月が終わり、京では新たな動きが始まった。


畠山家の争いは、御霊合戦で決着したわけではなかった。


義就方が勝った。


だが、政長殿も生きている。


細川勝元殿も、山名宗全殿も、互いの動きを警戒し続けている。


斯波家の対立も収まっていない。


将軍家の後継をめぐる思惑も、消えたわけではない。


俺は、新九郎殿に尋ねた。


「これで、戦は終わるのでしょうか」


新九郎殿は、しばらく黙っていた。


そして、首を振った。


「……分からん」


俺は、ため息をついた。


「父上と同じ答えですね」


新九郎殿は笑った。


「長く生きると、そうなるんだ」


父も、隣で静かに笑った。


だが、父の顔色はよくなかった。


最近、咳が増えている。


仕事の後には、以前より長く休むようになった。


俺は気になっていた。


「父上。少し横になられた方が」


父は首を振った。


「大丈夫だ」


「でも……」


「弥三郎」


父は俺を見た。


「俺はな、長いこと旗屋をやってきた」


「はい」


「いろんな将軍様を見てきた」


「はい」


「だが、これほど嫌な予感がするのは、久しぶりだ」


俺は、息を呑んだ。


父は、店先の通りを見つめた。


「今度の争いは、長くなるかもしれん」


俺は、静かに頷いた。


          ◇


春が近づいた頃。


京では、細川家と山名家がさらに軍勢を集め始めた。


やがて年号は応仁と改まる。


世の人々は、これから始まる戦を、後に応仁の乱と呼ぶことになる。


だが、その時の俺たちは、まだ知らなかった。


この争いが十一年も続くことを。


京の町の広い範囲が焼けることを。


寺も、屋敷も、商家も、長屋も、炎に包まれることを。


そして、多くの人が、二度と帰ってこなくなることを。


俺が知っていたのは、ただ一つ。


旗の注文が、増えていることだった。


細川家。


山名家。


畠山家。


斯波家。


それぞれの家から、次々に注文が届く。


俺は、帳面を開いた。


そして、新しい頁を作った。


『応仁元年 軍旗注文』


その見出しを書いた時、不意に父が声をかけた。


「弥三郎」


「はい」


「一つだけ、約束してくれ」


俺は顔を上げた。


父は、静かに続けた。


「どれほど仕事が増えても、店の人間を失うな」


俺は、息を呑んだ。


それは、祖父が父に残した言葉だった。


父は、少し笑った。


「俺は、父上にそう言われた」


俺は頷いた。


「知っています」


「今度は、お前に言っておく」


俺は、しばらく父を見つめた。


そして、深く頭を下げた。


「……はい」


父は、満足そうに頷いた。


          ◇


その日の夕方。


俺は、店先の看板を一枚外した。


『味方同士のご注文も、別会計です』


千吉が、不思議そうに尋ねた。


「親方。外すんですか」


俺は頷いた。


「ああ」


「どうしてです?」


俺は、しばらく看板を見つめた。


そして答えた。


「……もう、笑えなくなったからだ」


千吉は黙った。


俺は、代わりに新しい札を掛けた。


『旗の注文は、通常通り承ります』


その下に、小さな文字で、


『怪我人の手当てに使う布もございます』


と書いた。


新九郎殿が、それを見た。


「……弥三郎」


「はい」


「お前、商売人だな」


俺は、少し笑った。


「はい」


新九郎殿は頷いた。


「だが、ただの商売人じゃない」


俺は、顔を上げた。


新九郎殿は、静かに笑った。


「弥太郎殿の孫で、弥一郎の息子だ」


俺は、何も言えなかった。


遠くで、寺の鐘が鳴った。


京の空は、夕焼けに染まっていた。


その赤さが、妙に気になった。


          ◇


翌朝。


店の戸を開けると、通りに大勢の武士がいた。


荷を運ぶ者。


馬を引く者。


槍を担ぐ者。


そして、旗を持つ者。


細川家の紋。


山名家の紋。


畠山家の紋。


見慣れた紋が、次々に通り過ぎていく。


俺は、しばらく立ち尽くした。


その中に、以前うちで仕立てた旗を見つけた。


縁の縫い目で分かった。


佐吉が仕立てた旗だった。


風に揺れ、朝日に照らされている。


美しい旗だった。


だが、俺は少しも嬉しくなかった。


その旗の下にいる者たちが、これから誰かを斬りに行くかもしれないからだ。


俺は、ゆっくり店へ戻った。


帳面を開く。


今日も仕事がある。


旗を作らなければならない。


布を仕入れ、職人に給金を払い、店を守らなければならない。


だが、もう一つ。


守らなければならないものがある。


俺は、筆を取った。


そして、帳面の最初の頁に、一行書き加えた。


『旗を作る前に、帰ってくる場所を確かめること』


書き終えた時、父の声が聞こえた。


「弥三郎」


俺は振り返った。


「はい」


父は、店先の古い看板を見ていた。


『本日の味方』


『明日は不明』


その下に、今も残る祖父の名。


『初代 弥太郎』


父は、少しだけ笑った。


「……父上。いよいよ始まるようです」


俺は、その横顔を見つめた。


父は、もう若くない。


この戦を最後まで見届けられるのかどうかも分からない。


だが、その時の父は、どこか穏やかだった。


祖父が残した店を、俺が継いでいる。


そして、この店には、今日も帰ってくる者たちがいる。


俺は、静かに答えた。


「父上。店は、俺が守ります」


父は頷いた。


「頼んだぞ」


通りの向こうで、軍勢の足音が響いていた。


京の町は、まだ燃えていない。


だが、火種はもう、そこかしこに落ちていた。


そして俺たちは、その火種のすぐ隣で、今日も針を動かしていた。

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