将軍様、味方が多すぎて困ります
「親方。斯波家の旗を作っていただきたい」
俺は帳面を開いた。
「承知しました。どちらの斯波家でしょうか」
「斯波家だ」
「それは分かっております」
「ならば、何を聞く」
俺は筆を置いた。
嫌な予感がした。
「……義敏様ですか。それとも義廉様ですか」
男は、途端に不機嫌になった。
「我らは、正統な斯波家の者だ」
また、それか。
俺は静かに帳面を閉じた。
祖父の時代は、南朝と北朝。
父の時代は、将軍と将軍。
そして俺の時代は、畠山家が二つ、斯波家も二つ。
このままでは、いずれ日本中の家が二つに分かれてしまうのではないか。
「恐れながら」
俺は、男に尋ねた。
「正統な方を教えていただくより、実際に旗を受け取られる方のお名前を教えていただけませんか」
男は、しばらく俺を睨んだ。
そして答えた。
「斯波義廉様だ」
俺は頷いた。
「承知しました」
その時、店の奥から父の声がした。
「弥三郎!」
「はい!」
「注文主の名前は、間違えずに書いておけよ!」
「分かっています!」
父が笑った。
「同じ家の旗が二種類もあると、間違えやすいからな!」
……父上。
お静かに。
お客様が、ますます不機嫌になっております。
◇
文正元年、1466年。
京の政治は、もはや誰が何を決めているのか、旗屋の俺にはさっぱり分からなくなっていた。
将軍は足利義政様。
これは、分かる。
管領や有力な守護大名たちが、幕府の政治を支えている。
これも、分かる。
だが、問題はその先だった。
畠山家では、義就様と政長様が家督を争う。
斯波家では、義敏様と義廉様が争う。
さらに将軍家では、義政様の弟である足利義視様が後継に迎えられた後、義政様に男子が生まれた。
その子が、後の足利義尚様である。
当然、周囲の人々は考える。
次の将軍は、誰なのか。
「弥三郎」
新九郎殿が、珍しく真面目な顔で言った。
「相関図を作った方がいいぞ」
俺は、すぐに首を振った。
「嫌です」
「なぜだ」
「紙が足りません」
父が笑い始めた。
「ははは! 昔、俺も同じことを言った!」
俺は父を見た。
「父上も?」
「ああ。関東が揉めた時にな」
「どうなりました?」
「途中で諦めた」
俺は深く頷いた。
さすが父上。
実に参考にならない。
◇
ところが、数日後。
俺は結局、相関図を作ることになった。
理由は単純だった。
注文を間違えそうになったのである。
佐吉が、二枚の書状を持ってきた。
「親方。こちらは斯波義敏様方からの注文です」
「はい」
「こちらは斯波義廉様方です」
「はい」
「そして、こちらが畠山政長様方」
「はい」
「こちらが義就様方」
俺は頷いた。
佐吉は続けた。
「さらに、細川家と山名家からも、それぞれ別に注文が来ております」
俺は、しばらく黙った。
そして言った。
「……佐吉さん」
「はい」
「大きい紙を買ってきてください」
父が腹を抱えて笑った。
「はははは! 歴史は繰り返すな!」
俺は少し腹が立った。
父上。
繰り返しているのは歴史ではありません。
武士の方々が、何度も同じ失敗をしているのです。
◇
相関図の中央には、義政様の名前を書いた。
その下に、義視様。
さらに、まだ幼い義尚様。
俺は少し考えた。
「……義視様が後継ですよね」
新九郎殿が頷いた。
「そう聞いている」
「では、義尚様は?」
「将軍様のお子だ」
「それも分かっています」
「なら、何が分からん」
俺は筆を置いた。
「義視様が後継なら、義尚様が生まれても問題ないはずでしょう」
父は、静かに首を振った。
「人が皆、そう考えるならな」
俺は黙った。
父は続けた。
「義視様を支えようとする者もいる。義尚様の将来を重んじる者もいる。そして、それぞれの立場に自分の望みを重ねる者もいる」
俺は、相関図を見た。
義視様。
義尚様。
細川勝元殿。
山名宗全殿。
ただし、まだ誰が誰を支持するか、簡単に線を引けるわけではない。
俺は筆を置いた。
「……面倒ですね」
父が頷いた。
「そうだな」
「将軍様が決めればよいのでは」
父は、少し考えた。
「将軍様が決めても、皆が従うとは限らん」
俺は、相関図を見つめた。
なるほど。
今の幕府は、将軍様がいらっしゃるのに、将軍様だけでは決まらないらしい。
祖父が生きた南北朝の頃より、平和になったはずなのに。
◇
秋。
京で、大きな事件が起きた。
後に文正の政変と呼ばれる出来事である。
義政様の側近である伊勢貞親らが、政治の主導権を握ろうとしていた。
斯波家の家督を義廉様から義敏様へ移そうとする動き。
さらに、将軍の弟・義視様に対する疑い。
それらが重なり、幕府の中に緊張が広がった。
しかし、事態は側近たちの思い通りには進まなかった。
細川勝元殿や山名宗全殿ら有力大名が反発し、伊勢貞親らは京を離れることになったのである。
新九郎殿が、その知らせを持ってきた。
「弥三郎! 大変だ!」
「今度は何でしょう」
「将軍様の側近が追われた!」
俺は筆を止めた。
「……誰に?」
「細川と山名だ!」
俺は顔を上げた。
「両家が一緒に?」
「ああ!」
俺は、しばらく考えた。
そして言った。
「……仲がよいではありませんか」
新九郎殿は、何とも言えない顔をした。
「そうなんだよな」
俺は相関図を見た。
細川家。
山名家。
二つの名前を、一本の線で結んだ。
『協力』
少し安心した。
ところが父が、その線を見て言った。
「弥三郎。その線、消さずに残しておけ」
「なぜです?」
「後で役に立つかもしれん」
俺は、意味が分からなかった。
◇
政変が終わっても、京は落ち着かなかった。
むしろ、有力な大名たちが軍勢を集め始めたことで、町の空気は以前より張り詰めていた。
その年の暮れ。
長く畿内で抵抗を続けていた畠山義就様が、軍勢を率いて京へ入った。
俺は、その知らせを聞いて驚いた。
「……義就様が?」
千吉が頷いた。
「はい。大勢の兵を連れてこられたそうです」
俺は相関図を広げた。
義就様。
政長様。
細川家。
山名家。
また一つ、線を増やさなければならない。
新九郎殿が言った。
「どうやら山名宗全殿が、義就様を支えているらしい」
「では、細川勝元殿は?」
「政長様に近い」
俺は筆を止めた。
「……先ほどまで協力していたのでは?」
「そうだな」
「では、敵になったんですか」
新九郎殿は、しばらく考えた。
「敵というほど単純でもない」
俺は、思わず天井を仰いだ。
父上。
お祖父様。
なぜ、この時代の人々は、味方か敵かをはっきりさせてくださらないのでしょう。
店先の看板は、
『本日の味方』
なのです。
『だいたい味方』
では、ないのです。
◇
その夜、店に一人の男が来た。
見覚えのある顔だった。
「……与平殿?」
以前、畠山家の二人の後継者の旗を注文した男だ。
与平は、以前より痩せていた。
「弥三郎殿。お久しぶりです」
俺は奥へ通した。
「どうされました」
与平は、しばらく黙った。
そして言った。
「畠山家の中が、いよいよ危うくなっております」
俺は頷いた。
「義就様が上洛されたそうですね」
「はい」
「政長様は?」
「京におられます」
与平は、深く息を吐いた。
「どちらも、引くおつもりがありません」
俺は黙った。
与平は続けた。
「私は長く畠山家に仕えてきました。父も、祖父もです」
以前にも聞いた話だった。
だが、今日は声が違った。
「……もう、誰の味方なのかと聞かれることに疲れました」
俺は、与平を見た。
「どちらにも仕えるわけにはいかないのですか」
与平は、苦く笑った。
「今では、それが一番疑われる立場です」
俺は何も言えなかった。
◇
翌年、応仁元年。
1467年の正月。
京に、さらに衝撃的な知らせが届いた。
畠山政長様が、管領の職を失ったという。
代わって管領となったのは、斯波義廉様だった。
そして、畠山家の家督をめぐる判断も、義就様に有利なものとなった。
俺は、相関図を見た。
畠山政長。
細川勝元。
畠山義就。
山名宗全。
斯波義廉。
そこへ、将軍・義政様の名前が加わる。
俺は筆を置いた。
「……これは、どうなるのでしょう」
父は、しばらく黙っていた。
そして答えた。
「政長様が、簡単に引き下がればよいのだが」
俺は、顔を上げた。
「引き下がらなければ?」
父は答えなかった。
それだけで、十分だった。
◇
正月十七日。
店へ、使者が駆け込んできた。
「旗屋弥三郎殿!」
俺は帳面から顔を上げた。
「はい!」
「至急、旗を作っていただきたい!」
「どちらのお家でしょう」
「畠山政長様方だ!」
俺は、息を呑んだ。
「何枚でしょう」
「作れるだけ!」
「納期は?」
「今夜だ!」
俺は立ち上がった。
「今夜?」
使者は頷いた。
「政長様が、上御霊へ陣を移される!」
俺は、何も言えなかった。
上御霊社。
京の北にある社である。
その場所へ、軍勢が集まる。
つまり。
「……戦になるのですか」
使者は、俺を見た。
そして、静かに答えた。
「もう、避けられぬかもしれません」
◇
俺は、佐吉と千吉を呼んだ。
「政長様方から、急ぎの注文です」
佐吉は、顔を上げた。
「軍旗ですか」
「はい」
千吉も、針を置いた。
「何枚でしょう」
俺は答えた。
「できるだけ多く」
佐吉は、しばらく黙っていた。
そして言った。
「親方。明日の朝までに、十枚ほどなら……」
「無理はしないでください」
俺は言った。
「ある布だけで作れる分を、仕立てましょう」
千吉が頷いた。
だが、佐吉は俺を見ていた。
「親方」
「何でしょう」
「この旗は、明日、戦場で使われるのですね」
俺は黙った。
佐吉は続けた。
「それでも、作りますか」
俺は、しばらく考えた。
祖父は、戦の旗を何度も作った。
父も、戦の旗を何度も作った。
そして俺は、旗が人を守ることも、傷つけることも知っている。
俺は、ゆっくり頷いた。
「……作ります」
千吉が顔を上げた。
俺は続けた。
「ただし、職人たちを夜通し働かせるつもりはありません。できる分だけです」
佐吉は頷いた。
「承知しました」
俺は帳面を開いた。
『畠山政長方 軍旗十枚。急ぎ』
その下に、使い道を書いた。
『上御霊社への出陣』
筆が、少し震えた。
◇
夜。
店の外から、慌ただしい足音が聞こえた。
武士たちが北へ向かっている。
遠くから、何かが燃える匂いがした。
俺は戸口へ出た。
空の一角が、赤く染まっていた。
「……火事か?」
千吉が隣に立った。
「親方。畠山政長様のお屋敷が燃えているそうです」
俺は息を呑んだ。
「……なぜ」
千吉は、静かに答えた。
「政長様が、ご自分で火を放たれたとか」
俺は、何も言えなかった。
自分の屋敷に火を放つ。
そこまでして、譲れないものがあるというのか。
あるいは、もう戻る場所がないということなのか。
父が、俺の隣に立った。
「弥三郎」
「はい」
「……始まるぞ」
俺は、空を見た。
赤い光が、冬の雲を照らしていた。
◇
翌朝。
正月十八日。
上御霊社で、畠山義就方と政長方が激突した。
後に、御霊合戦と呼ばれる戦いである。
俺は店の前に立ち、遠くから聞こえる騒ぎに耳を澄ませていた。
刀の音までは聞こえない。
だが、走る足音。
怒鳴り声。
兵が移動する気配。
町の空気が、明らかに変わっていた。
新九郎殿が駆け込んできた。
「弥三郎!」
「何でしょう!」
「義就方が攻めかかった!」
俺は息を呑んだ。
「政長様は?」
「上御霊で戦っている!」
「細川家は?」
新九郎殿は、首を振った。
「援軍を出しておらん!」
俺は、驚いた。
「なぜです!」
「将軍様が、畠山家の争いへの介入を禁じているそうだ!」
俺は、言葉を失った。
政長様を支えていたはずの細川勝元殿。
だが、将軍の命によって、表立って兵を出せない。
一方、義就方は攻めている。
俺は、相関図を思い出した。
細川勝元と畠山政長を結ぶ線。
その線は、まだ残っている。
だが、その線があっても、兵は動かない。
「……味方なのに」
俺は呟いた。
父が、静かに答えた。
「味方だからといって、いつでも助けられるわけではない」
俺は、何も言えなかった。
◇
昼過ぎ。
店の前に、一人の少年が現れた。
見覚えのある顔だった。
「……小太郎?」
以前、父の古い旗を修繕してほしいと持ってきた少年である。
今は、すっかり背が伸びていた。
だが、その顔は真っ青だった。
「親方!」
俺は駆け寄った。
「どうした!」
小太郎は、息を切らしながら言った。
「上御霊で、戦が……!」
「知っている!」
「父の旗が……」
俺は、息を呑んだ。
あの旗。
畠山家に仕えた父の形見として、小太郎が大切にしていた旗。
佐吉と千吉が修繕した、古い旗。
「……どうした」
小太郎は、涙を浮かべた。
「政長様方の者が、持っていってしまいました」
俺は、言葉を失った。
「父の旗なのに!」
小太郎は叫んだ。
「どちらにも使ってほしくなかったのに!」
俺は、その肩を掴んだ。
「落ち着け、小太郎」
「親方!」
少年は、俺を見た。
「俺の父は、どちらの味方だったんですか!」
俺は、答えられなかった。
小太郎は続けた。
「父の旗が、どうして人を殺すために使われるんですか!」
その言葉が、胸に突き刺さった。
◇
俺は、小太郎を店の奥へ通した。
千吉が水を持ってきた。
小太郎は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……取り返したいんです」
俺は、顔を上げた。
「今、上御霊へ行くつもりか」
小太郎は頷いた。
俺は、首を振った。
「駄目だ」
「でも!」
「今行けば、お前まで巻き込まれる」
小太郎は、唇を噛んだ。
俺は続けた。
「旗は、後で取り戻せるかもしれない」
「……本当に?」
俺は、すぐには答えられなかった。
戦場へ持ち込まれた旗が、無事に戻る保証などない。
だが、小太郎を行かせるわけにはいかなかった。
「……俺が、できる限り探す」
俺は、そう答えた。
小太郎は、静かに頷いた。
◇
その夕方。
御霊合戦は、義就方の勝利に終わった。
政長方は敗れ、政長様は京を離れることになった。
町では、勝った方の武士たちが声を上げていた。
だが、俺の店は静かだった。
小太郎の旗は戻ってこなかった。
俺は帳面を開いた。
『畠山政長方 軍旗十枚』
その下に書き加えた。
『御霊合戦に使用。政長方敗走』
そして、もう一行。
『小太郎の父の旗、行方不明』
筆を置いた。
代金は受け取った。
注文も納めた。
商売としては、終わっている。
だが、俺には終わった気がしなかった。
◇
夜。
父が、俺の隣に座った。
「弥三郎」
「はい」
「……疲れたか」
俺は頷いた。
「はい」
父は、静かに笑った。
「そうか」
俺は、少し考えた。
そして尋ねた。
「父上」
「何だ」
「祖父は、こういう時、どうしていたんでしょう」
父は、しばらく黙った。
「……父上も、苦しんでいたよ」
俺は、顔を上げた。
「そうですか」
「ああ」
父は、遠くを見るような目をした。
「旗を作るのは仕事だ。だが、その旗を掲げるのは人間だからな」
俺は頷いた。
「はい」
父は続けた。
「旗屋が、すべての人を守れるわけじゃない」
俺は黙った。
「それでも、目の前の人を見捨てない。それくらいは、できるだろう」
俺は、小太郎の顔を思い出した。
父の旗を奪われ、泣いていた少年。
俺は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
◇
翌朝。
俺は店先に立ち、看板を見上げた。
『本日の味方』
『明日は不明』
『昨日の敵にも、見積もりは出します』
『同じ家紋でも、別注文です』
そして、祖父が残した札。
『急な寝返りにも対応』
俺は、筆を取った。
新しい札を書こうとした。
だが、手が止まった。
何と書けばよいのだろう。
勝った者が正しい。
そんなことは書けない。
負けた者にも事情がある。
それは、もう知っている。
人を守る旗を作ります。
そう書くには、昨日の戦であまりにも多くのものが失われた。
俺は、筆を置いた。
そして、初めて何も書かなかった。
◇
その時、店の前に一人の使者が現れた。
「旗屋弥三郎殿!」
俺は振り返った。
「はい」
「細川家より、急ぎのご注文です!」
俺は、少しだけ身構えた。
「何枚でしょう」
使者は答えた。
「百枚!」
俺は、息を呑んだ。
「……百枚?」
「至急だ!」
俺は、使者を見つめた。
「用途は?」
男は、少しだけ声を落とした。
「京での備えだ」
俺は、言葉を失った。
昨日、御霊合戦が終わったばかりだ。
なのに、また軍旗。
しかも、百枚。
「……戦は、終わったのでは?」
俺が尋ねると、使者は首を振った。
「畠山家の戦は、いったん終わった」
「では……」
男は、静かに続けた。
「だが、細川家と山名家の争いは、まだ終わっておらぬ」
俺は、ゆっくり目を閉じた。
父が、店の奥から出てきた。
「弥三郎」
「はい」
父は、静かに言った。
「……とうとう、ここまで来たな」
俺は、店先の看板を見た。
『本日の味方』
『明日は不明』
その言葉が、今ほど重く感じられたことはない。
御霊合戦は終わった。
しかし、それは京の戦乱の終わりではなかった。
むしろ、始まりだった。
俺は帳面を開いた。
新しい頁に、こう書いた。
『応仁元年 細川家 軍旗百枚』
筆を止める。
そして、隣に小さく一行を添えた。
『京での備え』
俺は、静かに呟いた。
「……この旗は、京のどこで使われるのでしょう」
使者は答えなかった。
父も、何も言わなかった。
ただ、冬の冷たい風が、店先の看板を揺らしていた。




