敵と味方が同じ旗では困ります
「親方。敵と味方を見分けられる旗を作っていただきたい」
その注文を聞いた時、俺は少し安心した。
ようやく、旗屋らしい仕事が来たからだ。
「承知しました。どちらのお家でしょう」
「畠山家です」
安心は、三呼吸ほどしか続かなかった。
「……どちらの?」
男は不思議そうな顔をした。
「畠山家です」
「ですから、義就様ですか、政長様ですか」
「義就様です」
「それで、敵は?」
「政長方です」
俺は帳面を閉じた。
同じ家紋。
同じ家名。
もとは同じ主君に仕えた者たち。
その人間を敵と味方に分けるため、旗を作ってほしいという。
とうとう、この日が来た。
祖父の代から続く看板には、こう書かれている。
『本日の味方』
『明日は不明』
俺は今まで、その言葉を少々大げさだと思っていた。
だが、どうやら祖父は正しかったらしい。
問題は、敵と味方が明日入れ替わることではなかった。
今日の時点で、誰が敵なのか分からないことだった。
◇
長禄年間。
畠山家の家督争いは、ますます複雑になっていた。
義就様を支持する者と、政長様を支持する者。
両者の対立には、幕府の判断や有力守護たちの思惑が絡んでいた。
将軍・足利義政様も、その争いを思うようには収められない。
いったん決まったはずの立場が変わり、昨日まで優勢だった者が、今日は京を去らねばならなくなる。
そのたびに使者が走り、武士たちが集まり、屋敷の門が閉ざされた。
新九郎殿は、そんな京の様子を見て言った。
「昔より戦が少なくなったと思ったら、今度は跡目争いばかりだ」
父が答えた。
「戦がなくなったわけじゃない。戦の始まる理由が変わっただけだ」
「昔は天下を二つに分けて争っていたのにな」
「今は家を二つに分けて争っている」
二人は顔を見合わせ、同時にため息をついた。
俺は思わず尋ねた。
「お二人は、いつもそんなに悲観的なんですか」
父は笑った。
「歳を取ると、同じようなことが何度も起きるのが分かるんだ」
「それなら、止める方法も分かりそうなものですが」
新九郎殿が答えた。
「分かっていたら、とっくに止めてるさ」
それも、もっともだった。
◇
注文主は、義就方に仕える武士、加賀谷兵庫と名乗った。
三十代半ばだろうか。
頬には古い刀傷があり、言葉遣いは丁寧だが、何かを急いでいる様子だった。
「旗は二十枚。なるべく早く」
俺は帳面を開いた。
「用途をお聞かせください」
「兵を見分けるためだ」
「行列ではなく?」
「そうだ」
「戦に用いるのですね」
兵庫は、わずかに目を伏せた。
「戦にならぬなら、それに越したことはない」
「ですが、戦に備える」
「そういうことだ」
俺は頷いた。
ここまでは、いつもの仕事だ。
しかし、次の注文が問題だった。
「我らは、畠山家の紋を掲げる。だが、政長方も同じ紋を使っている」
「はい」
「そこで、我らだけを見分けられるようにしてほしい」
俺は少し考えた。
「地の色を変える方法があります」
兵庫は首を振った。
「それでは、畠山家の正式な旗ではないと見られる」
「では、縁取りを変えるのは」
「遠くからでは分からぬ」
「旗の形を変えるのはいかがでしょう」
「当家の旗を勝手に変えたと、家中で問題になる」
俺は筆を置いた。
「……兵庫殿」
「何だ」
「ご希望を整理すると、家紋も色も形も変えずに、遠くから一目で見分けられる旗が必要ということですね」
「そうだ」
「それは難しいです」
「そこを何とかするのが旗屋であろう」
俺は天井を見上げた。
父上。
どうして武士の方々は、無理な注文をすると決まって、この言葉を使うのでしょう。
◇
兵庫が帰った後、俺は佐吉と千吉を呼んだ。
佐吉は、もう若くない。
指先の動きは今でも正確だが、長時間の針仕事では目が疲れるようになっていた。
その代わり、布を見ただけで仕上がりを想像する力は、誰にも負けない。
「佐吉さん、何かよい方法はありますか」
佐吉は二枚の旗を並べた。
どちらも畠山家の紋を染めたものだ。
「紋を変えずに見分けるなら、別の目印を加えるのがよいでしょう」
「別の目印?」
「はい。旗そのものは同じにして、竿に色布を結びつけるのです」
千吉が顔を上げた。
「なるほど。旗を変えずに、目印だけを変えるんですね」
「そうです」
俺は考えた。
確かに、それなら畠山家の紋を損なわない。
目印は必要に応じて取り外すこともできる。
「よい方法ですね」
佐吉は頷いた。
「ただし、問題があります」
「何でしょう」
「敵が同じ色布を結べば、見分けがつかなくなります」
千吉が言った。
「では、毎日色を変えればよいのでは?」
俺は思わず息子を見るような目で千吉を見た。
「……それだ」
千吉は驚いた。
「え?」
「日ごとに色を決めるんだ。味方だけに、その日の色を知らせればいい」
佐吉も頷いた。
「使い方が徹底されれば、有効かもしれません」
俺は帳面に書きつけた。
『軍旗二十枚。識別用の色布を別途用意』
よし。
これなら、できる。
そう思ったところで、父が口を開いた。
「弥三郎。一つ聞いていいか」
「はい」
「その色を決めるのは、誰だ」
俺は答えた。
「義就方の指揮を執る方です」
「その人が間違えたら?」
「……確認するように伝えます」
「途中で命令が変わったら?」
「新しい色を知らせます」
「知らせを受けられなかった者は?」
俺は黙った。
父は静かに続けた。
「戦場では、皆が同時に同じことを知れるわけじゃない」
佐吉が頷いた。
「目印は便利ですが、それだけを頼りにすると危険ですね」
俺は、書きかけの帳面を見た。
技術的には、作れる。
だが、使い方を誤れば、味方を敵と取り違えることになる。
それでも、何も目印がないよりはよいのだろうか。
旗屋の仕事は、どうしてこうも難しいのだ。
◇
翌日、兵庫を呼び、試作品を見せた。
畠山家の紋を染めた旗。
その竿に、赤い小布を結びつけてある。
「なるほど」
兵庫は感心したように言った。
「これなら遠くからでも分かる」
「はい。ただし、この目印には弱点があります」
俺は、昨日父から指摘されたことを説明した。
兵庫は黙って聞いていた。
そして言った。
「分かった。目印だけで味方と決めつけぬよう、家中にも伝えよう」
俺は少し安心した。
「ありがとうございます」
兵庫は旗を持ち上げた。
赤い布が、風に揺れた。
「弥三郎殿」
「はい」
「この工夫で、味方同士が斬り合わずに済むなら、ありがたい」
俺は頷いた。
その言葉は、素直に嬉しかった。
旗が人を殺すために使われるのではなく、人を間違えて殺さないために使われる。
そう考えれば、今回の仕事にも意味がある。
だが兵庫は、続けてこう言った。
「これで、敵だけを確実に討てる」
俺は、返事ができなかった。
同じ旗に、二つの意味がある。
味方を守る。
敵を見つける。
その二つは、戦場では切り離せないのだ。
◇
旗が完成したのは、七日後だった。
俺は納品に立ち会い、兵庫へ繰り返し伝えた。
「目印だけで判断しないでください」
「分かっておる」
「雨や泥で色が分かりにくくなることもあります」
「承知した」
「途中で色を変更する際は、全員に……」
「弥三郎殿」
兵庫が俺を見た。
「そなたは、ずいぶん心配性だな」
俺は頭を下げた。
「はい。自覚しております」
兵庫は笑った。
「だが、悪いことではない」
そして、少し声を落とした。
「戦場には、そなたのような者が足りぬ」
俺は顔を上げた。
兵庫は続けた。
「皆、どうやって勝つかは考える。だが、どうすれば味方を死なせずに済むかを考える者は、案外少ない」
その言葉を、俺は忘れなかった。
兵庫は旗を受け取り、代金を支払った。
そして、店を出ていった。
俺は、遠ざかる背中を見送った。
どうか、この旗が使われる日が来ませんように。
そう願った。
だが、旗屋がそんなことを願うのは、商売としては少しおかしいのかもしれない。
◇
半月ほど過ぎた頃。
京に、畠山家の争いが再び激しくなったという知らせが届いた。
義就方と政長方。
両者の対立は、一族の内輪揉めでは収まらなくなっていた。
それぞれに従う武士が集まり、各地で緊張が高まっているという。
俺は、帳面を開いた。
『畠山義就方 軍旗二十枚』
その下に、納品後の記録を書き加える。
『軍勢の識別に使用予定』
筆が止まった。
「親方」
千吉が声をかけた。
「何だ」
「兵庫様のところは、戦になるんでしょうか」
俺は、少し考えた。
「……分からん」
千吉は、静かに頷いた。
そして、言った。
「私は、戦が嫌いです」
俺は千吉を見た。
赤松家に仕えていた叔父を、戦乱の中で失った男だ。
千吉にとって戦は、遠い国の話でも、武士の名誉でもない。
大切な人が帰ってこなくなる出来事なのだ。
「そうだな」
俺は答えた。
「俺も、好きじゃない」
千吉は、少し笑った。
「旗屋なのに、変ですね」
俺も笑った。
「本当にな」
◇
数日後、加賀谷兵庫が店へ現れた。
最初は、別人かと思った。
頬がこけ、着物は泥で汚れている。
右腕には、布が巻かれていた。
「兵庫殿!」
俺が駆け寄ると、男は苦笑した。
「弥三郎殿。久しぶりだ」
「お怪我を?」
「かすり傷だ」
どう見ても、かすり傷ではなかった。
俺は佐吉に水を頼み、兵庫を奥へ通した。
「何があったのです」
兵庫は、しばらく黙っていた。
そして言った。
「小競り合いがあった」
俺は息を呑んだ。
「……旗は?」
兵庫は頷いた。
「使った」
俺は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「どうでしたか」
兵庫は、少し考えた。
「役に立った」
俺は息を吐いた。
「……そうですか」
「味方を見分けるには、よかった」
俺は頷いた。
だが、兵庫の顔は暗かった。
「何か、問題が?」
兵庫は、水を一口飲んだ。
そして、静かに言った。
「味方を一人、斬った」
俺は、言葉を失った。
◇
「目印を付けていなかったのですか」
俺が尋ねると、兵庫は首を振った。
「付けていた」
「では、なぜ……」
「その者は、政長方に親類がいた」
俺は黙った。
兵庫は続けた。
「戦の直前、その親類から使いが来たらしい。争いを避けるため、話をしたいと」
「はい」
「男は、我らの陣を離れた。そして、政長方の者と会った」
俺は、息を呑んだ。
「……それで?」
「戻ってきた時、我らの者が敵の間者だと思い込んだ」
兵庫は、目を伏せた。
「男は味方だと叫んだ。だが、誰も聞かなかった」
俺は、何も言えなかった。
「目印の布は、付けていた」
兵庫は、静かに続けた。
「だが、誰も見ていなかった」
俺は膝の上で手を握った。
目印を付ければ、間違いを減らせる。
そう考えて作った。
だが、人は思い込んだ時、目の前にあるものさえ見なくなる。
兵庫は、苦く笑った。
「弥三郎殿。そなたの旗は、役に立った」
俺は、顔を上げた。
「……ですが」
「悪いのは旗ではない」
兵庫は、ゆっくり首を振った。
「我らが、見ようとしなかったのだ」
俺は、何も言えなかった。
◇
その夜、俺は父に話した。
父は最後まで黙って聞いていた。
俺が話し終えると、ゆっくり頷いた。
「……そうか」
俺は、思わず言った。
「父上。俺は、間違っていたのでしょうか」
父は、すぐには答えなかった。
しばらくして、言った。
「何を?」
「目印の旗を作ったことです」
父は、少し考えた。
「お前は、何のために作った」
「味方を見分けるためです」
「それは、間違いだったか」
俺は黙った。
父は続けた。
「目印がなければ、もっと多くの者が間違えられたかもしれん」
「……はい」
「だが、目印があっても、人は間違える」
俺は頷いた。
父は、静かに言った。
「弥三郎。旗屋は、旗の働きを考えることはできる。だが、人の心まで縫い合わせることはできん」
俺は顔を上げた。
父は、少し笑った。
「俺も昔、それを何度も思い知らされた」
「……そうですか」
「ああ」
父は、古い帳面を取り出した。
そこには、祖父の字で書かれた一行があった。
『旗は目印。人を決めるのは、人』
俺は、しばらくその文字を見つめた。
祖父も、同じことを考えていたのだ。
何十年も前に。
◇
翌朝、俺は店の職人たちを集めた。
「これから、軍旗を作る時には、使い方についても説明することにする」
千吉が顔を上げた。
「使い方、ですか」
「ああ」
俺は、昨日の兵庫の話をした。
皆、黙って聞いていた。
「目印を付けても、それだけで味方を決めつけてはいけない。合図や確認の仕方を、使う側で決めてもらう必要がある」
佐吉が頷いた。
「よいと思います」
千吉も、静かに言った。
「少しでも、間違いが減るといいですね」
俺は頷いた。
「そうだな」
そして、帳面に新しい欄を設けた。
『使用上の注意』
祖父も父も、こんな欄は作らなかった。
だが、三代目には三代目のやり方があってよい。
俺は、そう思った。
◇
それから数日後。
京の町に、別の噂が広がり始めた。
畠山家だけではない。
斯波家でも、家督をめぐる問題が起きているという。
幕府の中では、細川家や山名家をはじめとする有力な家々が、それぞれの立場を強めていた。
新九郎殿が、店に来て言った。
「弥三郎。どうやら、これから忙しくなるぞ」
俺は、少し嫌な顔をした。
「また旗の注文ですか」
「ああ」
「どちらから?」
新九郎殿は、少し笑った。
「両方だ」
俺は、深いため息をついた。
父が奥から顔を出した。
「弥三郎。大変だな」
俺は、思わず言った。
「父上。少しは手伝ってください!」
父は笑った。
「もちろんだ」
そして、少しだけ声を落とした。
「……今のうちにな」
俺は、顔を上げた。
「どういう意味ですか」
父は、静かに笑った。
「いつまでも、俺がいるとは限らんからな」
俺は、何も言えなかった。
父は、ずいぶん年を取った。
昔のように長時間働くことはなくなり、最近は店先で休んでいることが多い。
その姿を見るたび、俺は少しだけ不安になる。
祖父が亡くなった時、父は何を思ったのだろう。
そして、いつか父がいなくなった時。
俺は、何を思うのだろう。
◇
その夜、俺は帳面を開いた。
『畠山義就方 軍旗二十枚』
その下に、兵庫から聞いたことを書き加えた。
『識別用の色布を使用。味方の誤認による死者一名。目印は確認の代わりにならず』
俺は、筆を置いた。
書きたくない記録だった。
だが、書かなければならない。
祖父は、旗を作った後のことを考え始めた。
父は、旗を誰に渡すかを考え続けた。
そして俺は、旗がどう使われるかまで考えようとしている。
それでも、人は死ぬ。
俺は、静かに息を吐いた。
窓の外では、京の夜が更けていた。
遠くで、犬が吠えている。
俺は、帳面を閉じた。
◇
翌朝。
店先に、新しい札を掛けた。
『同じ家紋でも、見分ける工夫はいたします』
その下に、小さく一行。
『ただし、人の心までは保証できません』
父が、それを読んだ。
しばらく黙っていた。
そして、少し笑った。
「弥三郎」
「はい」
「……ずいぶん真面目な札だな」
俺は頷いた。
「今回は、冗談にできませんでした」
父は、静かに頷いた。
「そうだな」
その時、店の前に一人の使者が現れた。
「旗屋弥三郎殿!」
俺は振り返った。
「はい」
男は、懐から書状を取り出した。
「細川家より、急ぎのご注文でございます」
俺は、少し身構えた。
「何枚でしょう」
「三十枚」
「用途は?」
男は、静かに答えた。
「……山名家との会合に備えるためです」
俺は、首を傾げた。
「会合?」
「はい」
俺は、少しだけ安心した。
会合なら、戦ではない。
話し合いだ。
そう思った。
だが、使者は続けた。
「ただし、山名家にも、軍勢を伴う動きがございます」
俺は、思わず顔を上げた。
「……なぜ、会合に軍勢が必要なのですか」
使者は、疲れ切った顔で答えた。
「それが分かれば、私も苦労いたしません」
俺は、深いため息をついた。
父が、隣で小さく笑った。
「弥三郎」
「はい」
「……どうやら、次はもっと難しいぞ」
俺は、店先の看板を見上げた。
『本日の味方』
『明日は不明』
『昨日の敵にも、見積もりは出します』
そして今日掛けた札。
『人の心までは保証できません』
俺は、静かに呟いた。
「……お祖父様」
遠い空を見上げた。
「あなたの時代も、大変だったのでしょう」
返事はない。
だが、祖父が笑っているような気がした。
きっと、こう言うのだろう。
――弥三郎。旗屋はな、戦が始まる前が一番忙しいんだ。
俺は、帳面を開いた。
そして、新しい注文を書き留めた。
『細川家 軍旗三十枚。用途、要確認』
その文字が、これから始まる長い戦乱の、最初の一行になるとは。
この時の俺は、まだ知らなかった。




