同じ家紋で戦わないでいただけますか
「こちらは畠山義就様。こちらは畠山政長様の旗でございます」
男は二枚の紙を並べた。
俺は右を見た。
左を見た。
もう一度、右を見た。
「……同じですね」
「はい」
「家紋が」
「はい」
「旗の大きさも」
「はい」
「色も」
「はい」
俺は男を見つめた。
「では、どうやって見分けるんですか」
男は疲れ切った顔で答えた。
「それを、旗屋に相談しろと言われました」
俺は帳面を閉じた。
三代目になって初めて、祖父の気持ちが分かった。
お祖父様。
どうして看板に『急な寝返りにも対応』などと書いたのか、ようやく理解しました。
あれは冗談ではない。
この商売を続けるための、切実な願いだったのだ。
◇
男の名は与平といった。
畠山家に仕える家人の一人で、書状を届けたり、必要な品を調達したりするのが仕事だという。
年は三十に近い。
顔つきは真面目だが、目の下には隈ができていた。
「それで、与平殿」
「はい」
「あなたは、どちらの御家中なのですか」
与平はしばらく黙った。
「畠山家でございます」
「それは分かっています」
「はい」
「義就様ですか。政長様ですか」
与平は目を伏せた。
「……まだ、どちらとも」
俺は筆を置いた。
「まだ?」
与平は、静かに頷いた。
「私は先代の頃から家に仕えております。父も祖父も、畠山家の家人でした」
「はい」
「ですから、畠山家に仕えるつもりなのです」
「それは立派なことですが……」
与平は俺を見た。
「ところが、畠山家が二つになろうとしております」
その声には、怒りよりも困惑があった。
「義就様を正しい後継者と申す方もおれば、政長様こそ家を継ぐべきだと申す方もおります」
俺は頷いた。
「それで、あなたは?」
与平は、力なく笑った。
「両方から仕事を頼まれるのでございます」
「……両方から?」
「はい」
「断らないのですか」
「断れば、どちらかの敵になります」
俺は黙った。
なるほど。
この男が二枚の注文書を持っている理由が、ようやく分かった。
どちらの側からも、まだ切り離されていないのだ。
いや、違う。
どちらからも、都合よく使われているのだ。
◇
「それで、どちらの旗を先に作ればよいのでしょう」
俺が尋ねると、与平は困った顔をした。
「両方とも、明日の朝までに」
「それでは困ります」
「私も困っております」
「あなたが困っていても、うちの仕事は進みません」
「ごもっともでございます」
俺はため息をついた。
その時、奥から父が顔を出した。
「弥三郎。どうした」
俺は助かったと思った。
「父上。ちょうどよいところに」
父は二枚の注文書を見た。
そして、しばらく黙った。
「……同じ紋だな」
「はい」
「どちらも畠山家か」
「はい」
「別の人間の旗か」
「はい」
父は深く頷いた。
「なるほど」
俺は期待して待った。
父なら、きっと何かよい考えがあるはずだ。
何十年も旗屋を続けてきた。
将軍家の争いも、守護の反乱も、南北朝の混乱も経験してきた。
そんな父なら。
父は俺を見て言った。
「……大変だな」
俺は思わず声を上げた。
「それだけですか!」
父は笑った。
「今はお前が親方だろ」
実に腹立たしい。
親方を譲ってからというもの、父は都合が悪くなると、すぐその言葉を使う。
◇
俺は与平を帰さず、店の奥で茶を出した。
「与平殿。少し待っていただけますか」
「はい」
佐吉と千吉を呼び、事情を話した。
二人とも、しばらく黙っていた。
やがて千吉が尋ねた。
「同じ紋なら、同じ旗を二枚作ればよいのでは?」
俺は頷いた。
「そう思うだろう」
「違うんですか」
「戦になったら、敵味方が分からなくなる」
千吉は、顔を上げた。
俺は続けた。
「戦場で同じ旗を掲げていたら、誰がどちらに味方しているのか分からない」
千吉は、しばらく考えた。
そして言った。
「……では、旗を作らなければよいのでは?」
俺は、少し笑った。
「そうしたいところだが、どこか別の旗屋が作るだけかもしれない」
佐吉が、静かに口を開いた。
「若旦那。少し、旗の話をしてもよろしいですか」
俺は頷いた。
「お願いします」
佐吉は、二枚の紙を見比べた。
「同じ家紋であっても、地の色や形を変えることはできます」
「はい」
「ただし、どちらも正式な畠山家の旗だと主張するなら、簡単には変えられないでしょう」
俺は頷いた。
「その通りです」
佐吉は続けた。
「でしたら、旗の形より先に、使い道を分けて考えてはいかがでしょう」
俺は顔を上げた。
「使い道?」
「はい。行列のためなのか、屋敷に掲げるためなのか。それとも、兵を集めるためなのか」
俺は、しばらく考えた。
そして、与平を呼んだ。
◇
「与平殿」
「はい」
「この二枚の旗は、何のために使われるのですか」
与平は答えた。
「それぞれの御一行が、京を出る際に掲げるものです」
俺は、少しだけ安心した。
「戦のためではないのですね」
与平は黙った。
俺は、嫌な予感がした。
「……違うのですか」
与平は、ゆっくり答えた。
「京を出る理由が、争いを避けるためなのか、兵を集めるためなのか……私には分かりません」
俺は、言葉を失った。
与平は続けた。
「ただ、どちらの方々も、自分こそ畠山家の正統な後継者であると示したいのです」
俺は、二枚の紙を見つめた。
なるほど。
旗が必要なのは、敵を見分けるためではない。
誰が本当の当主なのか、示すためなのだ。
ならば、同じ紋でなければ意味がない。
一方だけ違う紋にすれば、その者は自分が正統な畠山家ではないと認めるようなものだからだ。
俺は、ようやく問題の難しさを理解した。
同じ家紋で戦いたいのではない。同じ家紋を持つ権利を、互いに譲れないのだ。
◇
その夜、俺は父と二人で酒を飲んだ。
珍しいことだった。
父は最近、酒を少ししか飲まない。
若い頃はもっと強かったそうだが、今は一杯で顔が赤くなる。
「弥三郎」
「はい」
「畠山家の旗、どうするつもりだ」
俺は、少し考えた。
「まだ、決めていません」
父は頷いた。
「そうか」
「父上なら、どうされましたか」
父は、しばらく盃を見つめていた。
「……昔の俺なら、両方作っただろうな」
「そうですか」
「ああ。注文を断れば、どちらかに恨まれる。両方作れば、とりあえず店は守れる」
俺は頷いた。
「でも、今は違うのですか」
父は、少し笑った。
「今でも迷うさ」
俺は、顔を上げた。
父は続けた。
「旗屋は、何を作ったかではなく、誰に渡したかで責められることがある」
俺は黙った。
「だから、どちらにも渡さないのが一番安全だと思う時もある」
「はい」
「だが、それも簡単じゃない」
父は、ゆっくり酒を飲んだ。
「お前が両方の旗を断ったとしても、畠山家の争いは終わらん」
俺は、静かに頷いた。
「……そうですね」
「だからこそ、お前が何を引き受けるのか、自分で決めるしかない」
俺は、盃を見つめた。
祖父も、父も、同じように悩んできたのだろう。
そして今、俺の番が来た。
◇
翌朝、俺は与平に答えを伝えた。
「二枚とも、お作りします」
与平は、ほっとした顔をした。
「ありがとうございます」
俺は続けた。
「ただし、条件がございます」
与平の表情が変わった。
「条件?」
「それぞれの旗を、別々の注文として扱います」
「はい」
「代金も、別々にいただきます」
与平は、少しだけ笑った。
「それは当然でしょう」
「それから」
俺は、二枚の注文書を指で叩いた。
「どちらの旗にも、私どもは『正統な後継者』という証明をいたしません」
与平は、黙った。
俺は続けた。
「うちは旗屋です。どちらが正統な畠山家なのかを決める立場ではありません」
与平は、長い間俺を見ていた。
そして、静かに頷いた。
「……承知いたしました」
俺は、少しだけ安心した。
だが、与平は続けた。
「弥三郎殿」
「はい」
「そのお言葉、どうか忘れないでください」
俺は、首を傾げた。
「どういう意味でしょう」
与平は、疲れた顔で笑った。
「今は、どちらも旗を作っていただけることを喜ぶでしょう」
「はい」
「ですが、いずれ一方が勝てば、もう一方の旗を作ったことを責める者が出るかもしれません」
俺は、息を呑んだ。
父が昨夜言ったことと、同じだった。
与平は、深く頭を下げた。
「……どうか、お気をつけください」
◇
旗は、佐吉と千吉が仕立てた。
同じ家紋。
同じ大きさ。
同じ布。
違うのは、わずかな縁取りだけだった。
義就様の旗には、濃い色の縁。
政長様の旗には、淡い色の縁。
どちらの使者も、それでよいと認めた。
完成した二枚を並べると、奇妙な光景だった。
まるで、一つの家に二つの門があるように見えた。
千吉が、ぽつりと言った。
「親方」
「何だ」
「これ、兄弟の旗みたいですね」
俺は、少し考えた。
「そうだな」
「でも、敵になるんですか」
俺は、二枚の旗を見た。
「……まだ、敵とは決まっていない」
千吉は頷いた。
そして、静かに言った。
「敵にならないといいですね」
俺も、そう思った。
◇
納品の日。
義就様の側から来た使者は、旗を見て満足そうに頷いた。
「よい出来だ」
「ありがとうございます」
使者は代金を支払った。
そして、何気なく尋ねた。
「政長方からも、注文が来ているのか」
俺は、少しだけ笑った。
「ほかのお客様のことは、お話しできません」
使者は、眉をひそめた。
「畠山家のことだぞ」
「はい」
「ならば、同じ家ではないか」
俺は、静かに答えた。
「同じ家なら、なおさら私どもが勝手にお話しするわけにはまいりません」
使者は、しばらく俺を見ていた。
そして、鼻で笑った。
「……変わった旗屋だ」
「よく言われます」
使者は、旗を受け取って帰っていった。
その午後、政長様の側からも使者が来た。
そして、まったく同じことを尋ねた。
俺は、まったく同じ答えを返した。
二枚の旗は、それぞれ別の道を通って店を出た。
俺は、その後ろ姿を見送った。
同じ紋を持つ二枚の旗。
どちらも、畠山家のために作られた。
なのに、同じ場所には並ばない。
それが、妙に寂しかった。
◇
数日後、京の町で噂が広がった。
畠山家の家督争いが、さらに激しくなっているという。
誰が当主として認められるのか。
誰が所領を継ぐのか。
誰が幕府の重職を担うのか。
その問題に、細川家や山名家をはじめ、さまざまな家々の思惑が絡み始めていた。
まだ、京の町は平穏だった。
商人は店を開き、職人は仕事をし、子どもたちは走り回っている。
だが、俺には分かった。
争いは、刀が抜かれる前から始まっている。
旗を注文する。
使者を送る。
屋敷を訪ねる。
誰かを迎える。
誰かの隣に座る。
その一つひとつが、味方を示すことになる。
俺は、帳面を開いた。
『畠山義就方 旗一枚』
『畠山政長方 旗一枚』
その下に、小さく書き加えた。
『両者、同じ家紋』
そして、少し考えてから、さらに一行。
『互いに敵とならぬことを願う』
俺は、筆を置いた。
祖父の帳面にも、父の帳面にも、願いのような言葉が残っている。
俺も、ついに同じことを書いてしまった。
三代目としては、少し不本意だった。
だが、消す気にはならなかった。
◇
夕方、父が店先に座っていた。
新九郎殿も隣にいる。
二人は、何やら昔話をしていた。
「弥三郎」
父が呼んだ。
「はい」
「畠山家の旗、無事に納めたか」
「はい」
「代金は?」
「全額いただきました」
父は、満足そうに頷いた。
「立派だ」
新九郎殿が笑った。
「弥太郎殿が聞いたら、腰を抜かすな」
俺も、少し笑った。
そして、父の隣に座った。
しばらく、三人で通りを眺めた。
やがて父が言った。
「弥三郎」
「はい」
「同じ家紋の旗を、二枚作ったんだな」
「はい」
「どんな気持ちだった」
俺は、少し考えた。
「……不思議でした」
「ほう」
「同じ家なのに、なぜ二つに分かれなければならないのかと」
父は頷いた。
「そうだな」
俺は続けた。
「でも、どちらにも事情があるのでしょうね」
父は、少し笑った。
「そうだろうな」
新九郎殿が、ぽつりと言った。
「事情が多すぎると、国が割れるんだよな」
俺は、顔を上げた。
新九郎殿は、空を見ていた。
「昔も、そうだった」
父は、静かに頷いた。
二人の表情が、少しだけ遠くなった。
俺には分からない、祖父の時代を思い出しているのだろう。
◇
その夜、俺は一人で店の帳面を整理していた。
佐吉も千吉も帰り、父は奥で休んでいる。
静かな夜だった。
外では、虫の声が聞こえる。
俺は、畠山家の注文書を二枚並べた。
同じ紋。
同じ家。
違う後継者。
俺は、しばらく見つめた。
そして、ふと思った。
もし、父が俺ではなく別の者に店を譲ると言っていたら。
俺は、どうしただろう。
納得できただろうか。
祖父が始めた店。
父が守ってきた店。
自分も、何十年も働いてきた店。
それを、別の者が継ぐと言われたら。
俺は、素直に引き下がれただろうか。
……分からない。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
畠山家の人々も、同じなのかもしれない。
自分こそが正しい。
自分こそが家を守れる。
そう信じているからこそ、譲れない。
俺は、帳面を閉じた。
◇
翌朝。
店の前に、一人の少年が立っていた。
年は十四、五歳ほど。
古い着物を着ているが、目つきはしっかりしている。
「旗屋弥三郎殿ですか」
俺は頷いた。
「そうだが」
少年は、深く頭を下げた。
「お願いがございます」
「何だ」
少年は、懐から小さな布を取り出した。
そこには、畠山家の紋が描かれていた。
俺は、少しだけ身構えた。
「……また畠山家か」
少年は、静かに頷いた。
「はい」
「どちらの側だ」
少年は、俺を見た。
そして、思いがけないことを言った。
「どちらでもありません」
俺は、首を傾げた。
「どちらでもない?」
「はい」
少年は、布を差し出した。
「この旗を、直していただきたいのです」
俺は、布を広げた。
ずいぶん古い旗だった。
何度も修繕され、縫い目が重なっている。
「誰の旗だ」
俺が尋ねると、少年は答えた。
「父の旗です」
俺は、顔を上げた。
「お父上は?」
少年は、少しだけ俯いた。
「……亡くなりました」
俺は、静かに頷いた。
「そうか」
少年は続けた。
「父は、畠山家に仕えておりました」
「うむ」
「ですが、今は畠山家が二つに分かれています」
俺は黙って聞いた。
少年は、目に涙を浮かべながら言った。
「父は、どちらの味方だったのでしょうか」
俺は、何も言えなかった。
少年は、古い旗を握りしめた。
「父が守ろうとした畠山家は、どちらなのでしょうか」
その問いに、答えられる者がいるのだろうか。
俺は、少年の前に膝をついた。
「……お名前を聞いてもよいか」
少年は、静かに答えた。
「小太郎と申します」
俺は頷いた。
「小太郎。旗は、直せる」
少年は顔を上げた。
「本当ですか」
「ああ」
俺は、古い旗を見た。
そして、静かに続けた。
「だが、お父上がどちらの味方だったのかは、俺にも分からない」
小太郎は、俯いた。
俺は、少し考えた。
「ただ、一つだけ分かることがある」
少年は、顔を上げた。
「何でしょう」
俺は、古い旗を指でなぞった。
「お父上は、この旗を大切にしていた」
小太郎は、黙っていた。
俺は続けた。
「何度も直して、使い続けた。それは、この家を守ろうとしていた証拠だと思う」
少年の目から、涙がこぼれた。
俺は、ゆっくり言った。
「その思いまで、二つに分ける必要はないんじゃないか」
小太郎は、静かに頷いた。
◇
その日の夕方。
佐吉が古い旗を修繕していた。
千吉が、その隣で針を動かしている。
俺は、二人の仕事を見つめた。
新しい旗を作ることはできる。
古い旗を直すこともできる。
だが、割れた家を元に戻すことは、旗屋にはできない。
俺は、店先の看板を見上げた。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
そして、俺が新しく掛けた札。
『昨日の敵にも、見積もりは出します』
『味方同士のご注文も、別会計です』
俺は、少しだけ笑った。
祖父は、敵と味方が入れ替わる時代を生きた。
父は、強すぎる将軍の時代を生きた。
そして俺は、同じ家の中で敵と味方が生まれる時代を生きている。
俺は、筆を取った。
新しい札を一枚、書いた。
『同じ家紋でも、別注文です』
翌朝、それを見た父が大笑いした。
「はははは! 弥三郎!」
「何ですか」
「お前、本当に旗屋だな!」
俺は、少しだけ胸を張った。
「はい。三代目ですから」
父は、しばらく笑っていた。
そして、ふと真顔になった。
「……ただな、弥三郎」
「はい」
「同じ家紋の旗が、別々の戦場に立つようになったら、気をつけろ」
俺は、顔を上げた。
父は、静かに続けた。
「その時は、もう旗屋の冗談では済まなくなる」
俺は、何も言えなかった。
遠くで、寺の鐘が鳴った。
京の町は、今日も穏やかだった。
だが、その穏やかさの下で、誰かが少しずつ味方を集めている。
そして、まだ誰も知らなかった。
畠山家の家督争いが、やがて京の町そのものを戦場に変えてしまう争いへとつながっていくことを。




