敵ではない相手に、内緒の旗を作ります
「その旗は、誰と戦うためのものですか」
俺が尋ねると、細川家の使者は目を丸くした。
「戦う?」
「はい」
「誰が、そんなことを言った」
「軍旗を山名家に知られぬよう作れ、と仰いましたので」
使者は俺を見つめた。
そして、思いがけないことを言った。
「山名殿は、我らの味方だぞ」
今度は俺が目を丸くする番だった。
「……はい?」
「細川家と山名家が争うなど、何を馬鹿なことを」
俺は黙った。
では、なぜ秘密にするのか。
使者は周囲を見回し、声を落とした。
「まだ山名家にも相談しておらぬことなのだ」
「では、相談してから注文していただければ」
「それでは遅い!」
俺は、しばらく使者を見つめた。
細川家は山名家の味方である。
しかし、山名家には秘密がある。
そして、その秘密のために旗が必要なのだという。
父上。
お祖父様。
お二人があれほど苦労された理由が、ようやく分かりました。
武士の方々は、敵よりも味方の説明が難しいのです。
◇
使者の名は庄兵衛といった。
細川家に仕える若い武士で、話し始めると案外よく喋る男だった。
俺は帳場へ通し、注文書を確かめた。
旗は十枚。
紋は細川家のもの。
納期は七日後。
「届け先は?」
「細川家の屋敷だ」
「用途は?」
「京に入る武士たちを迎える」
「どちらの武士でしょう」
庄兵衛は口を閉じた。
俺は筆を置いた。
「お話しいただけなければ、見積もりができません」
「値段は同じだろう」
「護衛の行列に使うのか、陣で使うのかによって仕立てが違います」
庄兵衛は困った顔をした。
そして、ようやく言った。
「……畠山家に関わる者だ」
俺は眉を寄せた。
畠山家。
あの家も、幕府の重職を担う有力な一族である。
「畠山家の旗ではなく、細川家の旗を使うのですか」
「そうだ」
「畠山家のどなたを迎えるのでしょう」
庄兵衛は、深くため息をついた。
「弥三郎殿」
「はい」
「そなたは旗屋なのか。それとも奉行所の役人なのか」
「旗屋です」
「ならば旗を作れ」
俺は微笑んだ。
「では、半金を先にお願いいたします」
庄兵衛は天井を仰いだ。
◇
畠山家では、家督をめぐって争いが続いていた。
その名を聞くと、父は嫌そうな顔をした。
「まだ揉めているのか」
「ご存じなのですか」
「前からな」
父は古い帳面を持ってきた。
「畠山持国殿の家の話だ。跡目をめぐって、一族の中で意見が分かれている」
俺は頷いた。
持国殿の後継として立てられた義就殿。
それに対抗する政長殿。
どちらを支持するかで、一族や周囲の武士たちの立場まで揺れているという。
「しかし、家の跡目でしょう」
俺が言うと、父は笑った。
「お前、店を継いだ時に揉めなかっただろう」
「はい」
「だから、簡単に考えるんだ」
父は帳面を閉じた。
「大きな家ほど、跡目は大勢の暮らしに関わる。誰が当主になるかで、家臣の地位も所領も変わるんだ」
俺は、佐吉と千吉のことを思い浮かべた。
仮に俺が突然親方を辞め、まったく別の者に店を渡すと言い出したら。
職人たちは困るだろう。
仕入れ先も、客も、事情を確かめに来る。
まして畠山家なら、抱える人間の数が違う。
「では、本人たちで話し合えばよいのでは」
父は、しばらく俺を見つめた。
「弥三郎」
「はい」
「それができるなら、俺たち旗屋はこんなに忙しくならん」
何とも嫌な理屈だった。
しかも、納得できてしまう。
◇
その日の夕方、山名家から客が来た。
庄兵衛が帰って、まだ半日も経っていない。
俺は嫌な予感を覚えた。
使者は年配の武士だった。
「旗屋弥三郎殿」
「はい」
「細川家から、注文が来たそうだな」
俺は筆を落としかけた。
なぜ知っている。
秘密の注文ではなかったのか。
使者は俺の反応を見て、満足そうに頷いた。
「やはりな」
しまった。
俺は何も言っていない。
しかし、顔が言ってしまったらしい。
「ご注文については、お答えできません」
「答えずともよい」
男は懐から書状を出した。
「こちらも旗を頼みたい」
嫌な予感が、確信に変わった。
「何枚でしょう」
「十枚」
「紋は?」
「山名家のものだ」
「納期は?」
「七日後」
俺は目を閉じた。
細川家と同じ。
枚数も、納期も。
しかも、どちらも相手には内緒にしたいらしい。
俺は尋ねた。
「使い道は?」
使者は答えた。
「畠山家に関わる者を迎える」
俺は、思わず声を上げた。
「また畠山家ですか!」
使者の眉が跳ねた。
「また?」
……やってしまった。
◇
夜、俺は父と佐吉に事情を話した。
父は、腹を抱えて笑った。
「はははは!」
「笑い事ではありません!」
「いや、すまん。あまりに懐かしくてな」
「懐かしい?」
「父上の頃にも、似たようなことが何度もあった」
佐吉も苦笑した。
「そうでしたね」
「佐吉さんまで!」
父は、ようやく笑いを収めた。
「ところで弥三郎。お前はどうするつもりだ」
「両方とも、注文は受けます」
「ほう」
「ただし、届け先は確認します。武力衝突に使うなら、もう一度考えます」
父は頷いた。
「それで?」
「どちらにも、相手の注文のことは話しません」
父の顔から笑みが消えた。
「……なるほど」
「商売上の秘密ですから」
父は、しばらく俺を見ていた。
そして言った。
「弥三郎。もう一つ考えておけ」
「何でしょう」
「お前が秘密を守っていても、向こうが勝手に疑い始めることはある」
俺は黙った。
父は続けた。
「その時、お前がどれだけ正しく仕事をしていたかなんて、誰も気にしないかもしれん」
佐吉が静かに頷いた。
俺は、注文書を見つめた。
細川家。
山名家。
そして畠山家。
まだ一度も刀を交えていないのに、俺にはもう、戦の気配が感じられた。
◇
翌日、俺は弥三郎ではなく、親方として仕事を始めた。
職人たちを集め、二つの注文を説明した。
「細川家の旗と山名家の旗を作る」
千吉が顔を上げた。
「両方ですか」
「ああ」
「大丈夫なんですか」
「今は両家とも幕府を支える家だ。注文を受けること自体に問題はない」
佐吉が尋ねた。
「作業場は分けましょうか」
俺は考えた。
「いや、分けなくていい」
皆が驚いた。
俺は続けた。
「隠すような仕事にはしない。ただ、注文の内容を外へ漏らさない。いつも通りだ」
千吉が頷いた。
「分かりました」
その時、父が奥から声をかけた。
「弥三郎」
「はい」
「いい判断だ」
俺は少し驚いた。
父がそんなふうに褒めるのは、珍しい。
「ありがとうございます」
父は笑った。
「でも、代金は先にもらえよ」
「もういただきました!」
新九郎殿が、どこからともなく現れた。
「立派な親方だな。弥太郎殿の孫とは思えん」
「どういう意味ですか」
「弥太郎殿は、払わない客にも旗を渡してたからな」
父が頷いた。
「そうだったな」
俺は天井を仰いだ。
どうやら、この店では三代目だけがまともな商売をしているらしい。
◇
旗は、予定通り完成した。
細川家の十枚は、庄兵衛が受け取りに来た。
「見事な仕上がりだ」
「ありがとうございます」
庄兵衛は代金の残りを支払った。
俺が帳面に印をつけていると、男が何気なく尋ねた。
「ところで、山名家からも注文が来ているのか」
俺は筆を止めた。
来た。
父の言っていたことだ。
俺は顔を上げた。
「ほかのお客様のことは、お話しできません」
庄兵衛は、しばらく俺を見ていた。
「……堅いな」
「商売ですから」
「それで信用を得られるのか」
俺は答えた。
「秘密を守れない旗屋は、どなたにも信用していただけません」
庄兵衛は、少し笑った。
「なるほど」
そして、旗を受け取って帰っていった。
俺は、ようやく息を吐いた。
だが、安心するには早かった。
その日の午後、山名家の使者が来た。
そして、まったく同じことを尋ねたのである。
「細川家から、注文が来たそうだな」
俺は、昨日と同じ答えを繰り返した。
使者は、しばらく俺を見つめた。
やがて言った。
「……なるほど。細川にも話しておらぬのだな」
「はい」
男は少し笑った。
「それならよい」
旗を受け取り、代金を支払って帰っていった。
俺は帳面を閉じた。
二つの注文は、何事もなく終わった。
そのはずだった。
◇
数日後。
新九郎殿が、珍しく真剣な顔で店へ来た。
「弥三郎。少し話がある」
俺は帳面から顔を上げた。
「何でしょう」
「畠山家のことだ」
俺は頷いた。
「また何か?」
新九郎殿は、声を落とした。
「家督争いに、細川家と山名家がそれぞれ関わり始めているらしい」
俺は、思わず息を呑んだ。
「……それは」
「まだ、正面から敵対しているわけではない。だが、畠山家の中で誰を支持するかによって、周囲の家々の思惑も変わってくる」
俺は、数日前に作った二十枚の旗を思い出した。
細川家の十枚。
山名家の十枚。
同じ日に注文され、同じ納期で仕立てた旗。
そして、どちらも畠山家に関わる者を迎えるためのものだった。
「……まさか」
新九郎殿は頷いた。
「旗は、まだ戦のためのものではないかもしれん」
俺は、黙って聞いた。
「だが、誰の側に立つかを示すためのものにはなる」
その言葉に、胸の奥が冷たくなった。
旗は、戦場でだけ使われるものではない。
誰を迎えるか。
誰の屋敷に掲げるか。
誰と一緒に歩くか。
それだけでも、立場を示すことになる。
俺は、祖父の看板を思い出した。
『本日の味方』
『明日は不明』
なるほど。
敵と味方が入れ替わるのは、戦が始まってからではない。
戦が始まる前から、少しずつ変わっていくのだ。
◇
その夜、俺は父の部屋を訪ねた。
父は、古い帳面を読んでいた。
「父上」
「何だ」
「少し、相談があります」
父は顔を上げた。
「珍しいな」
「そうですか」
「最近は、一人で決めることが多かったからな」
俺は、少し照れくさくなった。
「……畠山家のことです」
父は、静かに頷いた。
俺は、細川家と山名家の旗について、改めて話した。
そして尋ねた。
「父上。どちらの旗を作ったのも、間違いだったのでしょうか」
父は、すぐには答えなかった。
しばらくして、言った。
「弥三郎。お前は、旗を作る前に何をした」
「使い道を聞きました」
「それで?」
「届け先を確かめました」
「ほかには?」
「代金をいただきました」
父は笑った。
「それは大事だな」
俺も、少し笑った。
父は続けた。
「では、お前は何を知らなかった」
俺は、しばらく考えた。
「……その旗が、誰の力になるのかです」
父は頷いた。
「そうだな」
「でも、それは、どうすれば分かったのでしょう」
父は、静かに言った。
「分からないこともある」
俺は、顔を上げた。
父は続けた。
「俺も、何十年も旗を作ってきた。だが、作った時には正しいと思っていた旗が、後になって人を傷つけたこともある」
俺は黙った。
「だからといって、何も作らなければいいわけじゃない」
父は、古い帳面に手を置いた。
「大事なのは、後で何が起きたかを見届けることだ」
「見届ける?」
「ああ」
父は、ゆっくり頷いた。
「旗を渡して終わりにするな」
俺は、その言葉を胸に刻んだ。
◇
数日後、俺は帳面に新しい欄を設けた。
注文主。
枚数。
紋。
納期。
代金。
そして、もう一つ。
『納品後の記録』
佐吉が、帳面を覗き込んだ。
「若旦那。これは?」
父の呼び方が、また俺に移りそうになっていた。
俺は笑った。
「旗を渡した後、何に使われたか分かる範囲で残すんです」
佐吉は、少し考えた。
「すべては分からないでしょうね」
「はい」
「それでも?」
「それでもです」
佐吉は、静かに頷いた。
「よい考えだと思います」
千吉も、興味深そうに帳面を見ていた。
「親方。これ、いつか役に立つんですか」
俺は、少し考えた。
「……役に立たない方がいいかもしれんな」
千吉は首を傾げた。
俺は笑った。
「争いが起きなければ、書くことも少ないからな」
千吉は、少しだけ笑った。
◇
その頃、京では若い将軍・義政様のもとで政治が続いていた。
だが、将軍一人がすべてを決められるわけではない。
細川勝元殿。
山名宗全殿。
そして、畠山家や斯波家といった有力な家々。
それぞれの思惑が、少しずつ絡み合い始めていた。
まだ大きな戦はない。
京の町では、商人が店を開き、職人が仕事をし、子どもたちが遊んでいる。
だが、旗屋には分かることがあった。
注文の出し方が、変わり始めていた。
以前は、戦が始まってから軍旗の注文が来た。
今は、戦が始まる前から注文が来る。
誰かが味方を集めようとしている。
誰かが立場を示そうとしている。
そして、誰かが、まだ見えない敵に備えている。
俺は、店先の看板を見上げた。
『昨日の敵にも、見積もりは出します』
自分で考えた札だ。
その下に、祖父の札が並んでいる。
『本日の味方』
『明日は不明』
俺は、しばらく考えた。
そして、筆を取った。
新しい札を一枚、書いた。
『味方同士のご注文も、別会計です』
翌朝、それを見た父が笑い始めた。
「はははは!」
新九郎殿も笑った。
「これはいい! 細川も山名も怒るぞ!」
俺は、少しむっとした。
「なぜですか。事実でしょう」
父は笑いながら言った。
「弥三郎。お前は本当に、商売人だな」
俺は、胸を張った。
「はい。旗屋ですから」
父は、しばらく俺を見ていた。
そして、静かに笑った。
「……そうだな」
その笑顔が、妙に嬉しかった。
◇
ところが、その日の夕方。
一人の男が、店を訪ねてきた。
年の頃は二十代半ば。
よい着物を着ているが、顔には疲れが見える。
「旗屋弥三郎殿ですな」
「はい」
男は、深く頭を下げた。
「畠山家に仕える者でございます」
俺は、少しだけ身構えた。
「ご注文でしょうか」
男は頷いた。
「旗を一枚、作っていただきたい」
俺は、帳面を開いた。
「どのような旗でしょう」
男は、懐から一枚の紙を取り出した。
そこには、畠山家の紋が描かれていた。
俺は頷いた。
「承知しました。納期は?」
男は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……明日の朝までに」
俺は、思わず顔を上げた。
「明日の朝?」
「はい」
「それは、さすがに……」
男は続けた。
「その旗を掲げる者が、明日、京を出るのです」
俺は、少し考えた。
「どなたでしょう」
男は、俺を見つめた。
そして、声を落とした。
「畠山家の正統な後継者となられるお方です」
俺は、筆を止めた。
正統な後継者。
その言葉を、別の者も使っているはずだった。
「……失礼ですが」
俺は、慎重に尋ねた。
「畠山家には、後継を主張される方が、お二人いらっしゃると聞いております」
男は頷いた。
「左様」
「では、どちらのお方でしょう」
男は、静かに答えた。
「畠山義就様です」
俺は、深く息を吐いた。
そして、次の言葉を待った。
男は、懐からもう一枚の紙を取り出した。
そこには、同じ畠山家の紋が描かれていた。
「実は、もう一枚ございます」
俺は、嫌な予感がした。
「……もう一枚?」
男は頷いた。
「こちらは、畠山政長様のための旗です」
俺は、思わず声を上げた。
「どうして両方あるんですか!」
男は、疲れ切った顔で答えた。
「……私にも、分からないのでございます」
俺は、しばらく男を見つめた。
そして、ゆっくり帳面を閉じた。
父上。
お祖父様。
ようやく分かりました。
この商売で最も難しいのは、敵の旗を作ることではありません。
同じ家の中で、どちらも自分こそ正しいと信じている人たちの旗を作ることなのです。
店先の看板が、風に揺れた。
『味方同士のご注文も、別会計です』
……どうやら、早速その札が必要になったようだった。




