新しい親方は、古い看板が気に入りません
親方になって最初にした仕事は、看板を外すことだった。
いや、正確には、外そうとして父に止められた。
「弥三郎。何をしている」
俺は脚立の上から答えた。
「看板を替えます」
「どれを」
「これです」
俺が指したのは、祖父の代から店先に掲げられている札だった。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
祖父・弥太郎が考えたという、旗屋の看板である。
客は笑う。
通りすがりの武士も笑う。
たまに怒る者もいる。
だが、俺には昔から一つ、疑問があった。
「父上。うちは旗屋ですよね」
「そうだ」
「なのに、看板を読んだだけでは何を売っているか分かりません」
父は腕を組んだ。
「なるほど」
「もっと商売が分かるものにしたいんです」
「例えば?」
俺は用意していた新しい板を掲げた。
『旗・幟・幕・修繕 御用承ります』
父はしばらく眺めた。
「……普通だな」
「普通がいいんです」
「つまらんな」
「商売に面白さは必要ありません」
父は、ひどく残念そうな顔をした。
その後ろで、新九郎殿が笑っていた。
「弥一郎。お前の息子は立派だな」
「そうだろう」
「祖父にも父にも似ていない」
父は笑うのをやめた。
俺は、その隙に新しい板を掛けた。
古い札は、外さなかった。
代わりに、少し下へ移した。
父が言った。
「外さないのか」
「歴代親方の功績ですから」
「気を遣わなくていいぞ」
「それに」
俺は、札を見上げた。
「お客が笑って立ち止まるなら、残す価値はあります」
新九郎殿が腹を抱えた。
「こりゃ駄目だ! 弥太郎殿より商売上手だ!」
父は腕を組んだまま、少しだけ嬉しそうにしていた。
これが、三代目親方としての俺の初仕事だった。
もっとも、父はその日から俺を「普通の親方」と呼ぶようになった。
腹が立つので、給金を減らそうかと思った。
できなかった。
まだ父の給金を決めていなかったからだ。
◇
文安六年、1449年。
俺が旗屋を継いでから、数年が過ぎていた。
将軍の座には、足利義政様が就かれた。
まだ十四歳。
義教様の子であり、幼くして亡くなった義勝様の弟である。
父から聞く限り、将軍家はこのところ落ち着く暇がない。
くじで選ばれた義教様。
幼くして世を去った義勝様。
そして今度は、十四歳の義政様。
新九郎殿は、若い将軍の知らせを聞いて言った。
「昔は将軍様の方が年上だったのになあ」
父が答えた。
「俺たちが年を取ったんだ」
「嫌なことを言うな」
「事実だろ」
二人はしばらく黙り、それから同時にため息をついた。
俺は帳面を整理しながら思った。
年寄り同士の会話は、なぜこんなにも長いのだろう。
将軍が十四歳なら、俺には一つ、希望があった。
今度こそ、長く続く将軍になってほしい。
百枚の旗を作って一年で弔いの仕事になるようなことは、もう御免だった。
俺は父と違って、商売の先行きを考える親方なのである。
ところが父は、俺の帳面を覗いて言った。
「弥三郎。将軍家の注文を当てにして店を大きくするなよ」
「なぜです?」
「急にいなくなるからだ」
俺は筆を止めた。
冗談に聞こえなかった。
父は、実際に何人もの将軍を見送っている。
俺は帳面に書いた「幕府関係の売上見込み」という文字を、そっと消した。
◇
新しい親方として、俺には三つの考えがあった。
第一に、旗の値段をはっきりさせること。
第二に、代金の支払いを後回しにさせないこと。
第三に、武士以外の客を増やすこと。
父と祖父の帳面を読んで、俺は呆れた。
「父上。これ、代金をもらっていない仕事が多すぎます」
父は茶を飲みながら答えた。
「事情があったんだ」
「どの仕事にも事情があります」
「そうなんだよ」
「感心しないでください」
特にひどいのは、祖父の時代の帳面だった。
『足利方 旗二十枚 代金未収』
その数頁後に、
『反足利方 旗十五枚 代金未収』
とある。
俺は父に帳面を突きつけた。
「祖父は、何を考えていたんですか」
父はしばらく眺めた。
そして、少し笑った。
「たぶん、生きて帰ることだろうな」
それを聞いて、俺は黙った。
祖父が生きたのは、南朝と北朝が争っていた時代だ。
旗を断れば命が危うい。
引き受けても命が危うい。
代金を取り立てに行けば、もっと危うい。
その中で、祖父は店を残した。
父は俺に言った。
「帳面だけ見れば、下手な商売に見えるだろう」
「はい」
「でもな。あの帳面には、金にできなかった事情も書いてあるんだ」
俺はもう一度、古い帳面を見た。
同じ頁に、小さな文字があった。
『職人三名、無事帰る』
俺は、その一行を指でなぞった。
なるほど。
俺の商売の考え方は、間違っていない。
ただ、帳面に書いてある数字だけで、過去の仕事を裁くべきでもなかった。
それでも、代金は先にもらおう。
そこだけは譲れない。
◇
春の終わり、店に二人の客がやって来た。
どちらも武士だった。
先に来たのは、若い男だった。
よい着物を着ているが、腰の刀は使い込まれている。
「旗屋弥三郎とは、そなたか」
「はい。ご注文でしょうか」
「細川家から参った」
俺は思わず背筋を伸ばした。
細川家。
幕府の管領を出す、有力な一族である。
その中でも、細川勝元殿は若くして重職を担い、京で大きな力を持ち始めていた。
「御用を承ります」
男は注文書を差し出した。
『軍旗二十枚。細川家の紋を染めること』
俺は内容を確かめた。
「納期は?」
「十五日後」
「承知しました。代金はこちらです」
俺は見積もりを差し出した。
男は、目を細めた。
「……先払いか」
「半金を先にいただきます」
「細川家だぞ」
「存じております」
「信用できぬと申すのか」
俺は頭を下げた。
「信用しているからこそ、仕事の取り決めを明確にいたします」
男はしばらく俺を見た。
そして、鼻で笑った。
「面白い旗屋だ」
「よく言われます」
父の口癖が移ってしまった。
少し悔しかった。
結局、男は半金を置いて帰った。
俺は帳面に印をつけた。
三代目になってから、初めて大きな武家の注文を自分の条件で受けられた。
実に気分がよかった。
その半刻後までは。
◇
次に来た男は、四十歳ほどの武士だった。
背が高く、太い眉をしている。
「旗を注文したい」
「承知しました。どちらのお家でしょうか」
男は答えた。
「山名家だ」
俺の手が止まった。
山名。
祖父の帳面にも、父の帳面にも、何度も登場する名前である。
かつて明徳の乱では、山名氏清殿が幕府に反旗を翻した。
父はその戦で、旗の下に倒れた人々を見たという。
そして今、山名家は再び勢力を伸ばしていた。
俺は深く頭を下げた。
「ご注文の内容をお聞かせください」
男は紙を差し出した。
『軍旗二十枚。山名家の紋を染めること』
俺は目を瞬いた。
枚数も同じ。
納期も同じ十五日後。
しかも、細川家の注文とほぼ同じ大きさだった。
俺は顔を上げた。
「……失礼ですが、用途は?」
男は答えた。
「備えだ」
「何への備えでしょうか」
「それは、そなたの知るところではない」
俺は黙った。
父なら、ここで粘るだろう。
祖父なら、冗談を言って相手の口を滑らせるかもしれない。
俺は、しばらく考えた。
そして尋ねた。
「細川家と争うご予定ではございませんよね」
男の眉が動いた。
「なぜ、そう思う」
俺は、しまったと思った。
細川家の注文を口にしてしまった。
だが、もう遅い。
男は俺を見つめた。
「……細川も注文したのか」
俺は、深く頭を下げた。
「お客様のご注文については、お話しできません」
「今、話したではないか」
確かに。
俺は、親方になって初めて、父の偉大さを思い知った。
父はこの種の失敗を、毎日のようにしていたのではなかった。
俺だけが、今したのだ。
◇
男が帰った後、俺は店の奥へ駆け込んだ。
「父上!」
父は縁側で茶を飲んでいた。
「何だ。火事か」
「細川家と山名家から、同じ日に同じ枚数の旗が注文されました!」
父は茶碗を置いた。
顔つきが変わった。
「……そうか」
俺は続けた。
「どちらも二十枚。十五日後。軍旗です」
「用途は?」
「備えだそうです」
父は腕を組んだ。
しばらく考えてから言った。
「弥三郎」
「はい」
「その注文、まだ仕立て始めていないな」
「はい」
「なら、まず双方の届け先を確かめろ」
俺は頷いた。
父は続けた。
「紋を間違えるなよ」
「それは当然です」
「細川家へ山名家の旗を届けたりしたら大変だ」
「そんな間違いはしません!」
父は、真剣な顔で言った。
「昔、似たようなことをやりかけた」
俺は絶句した。
「……本当ですか」
「父上の代にな」
俺は祖父の看板を思い出した。
『急な寝返りにも対応』
もしかして、あれは冗談ではなかったのか。
父は立ち上がった。
「弥三郎。今のところ、細川と山名は公然と戦っているわけではない」
「はい」
「それに、旗が同じ枚数だからといって、必ず争うとは限らん」
俺は頷いた。
父は、少しだけ声を落とした。
「だが、昔から有力な家同士が互いを意識し始めた時、ろくなことにならなかった」
俺は、背筋に冷たいものを感じた。
◇
その夜、俺は二つの注文書を並べた。
細川家。
山名家。
どちらも幕府を支える有力な武家である。
どちらも将軍家に仕え、京で力を持っている。
そして、どちらも同じ旗屋に軍旗を注文した。
父が部屋へ入ってきた。
「まだ起きていたのか」
「はい」
父は俺の隣に座った。
しばらく、二人で注文書を見つめた。
やがて父が言った。
「弥三郎。俺が親方になった頃も、同じようなことがあった」
「細川家と山名家ですか」
「いや、別の家だ。あの頃は明徳の乱だった」
俺は黙って聞いた。
父は続けた。
「どちらも、自分が正しいと言う。そして、自分の旗を掲げる」
「はい」
「だが、戦が終わると、勝った方の旗だけが正しかったことになる」
俺は、顔を上げた。
「それは、おかしくありませんか」
父は頷いた。
「おかしいさ」
「では、なぜ……」
父は、静かに笑った。
「だから、お前たち旗屋がいるんだろう」
俺は、意味が分からなかった。
父は、注文書を指で叩いた。
「旗屋は、勝った者だけを相手にする商売じゃない」
「……はい」
「負けた者にも、旗を掲げた理由がある。それを忘れるな」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、尋ねた。
「父上。もし細川家と山名家が戦を始めたら、うちはどうしますか」
父は、俺を見た。
その目は、思ったより穏やかだった。
「それを決めるのは、お前だ」
俺は息を呑んだ。
「……俺が?」
「ああ」
父は、静かに続けた。
「もう、お前が親方なんだからな」
その言葉が、胸の奥に残った。
◇
数日後、細川家と山名家の旗は、別々の日に納品した。
もちろん、届け先も確認した。
紋も間違えなかった。
代金も、約束通り受け取った。
三代目としては、上出来の仕事だったと思う。
だが、何かが気になっていた。
細川家の旗を届けた時、屋敷の者たちは慌ただしく動いていた。
山名家の旗を届けた時も、同じだった。
武士たちは忙しそうに行き来し、何かを相談していた。
それが軍の備えなのか、それとも単なる家中の仕事なのか。
俺には分からない。
ただ、二つの家が互いの動きを気にしていることだけは感じられた。
◇
店へ戻ると、千吉が待っていた。
赤松家の騒動から逃れてきた少年も、今では立派な職人になりつつあった。
「親方」
「何だ」
「次は、どちらの旗を作るんですか」
俺は笑った。
「まだ注文はないぞ」
千吉は、少し考えた。
「でも、また来るんでしょう?」
俺は答えられなかった。
千吉は続けた。
「武士の人たちは、旗を作る時、いつも誰かと争う準備をしているように見えます」
俺は首を振った。
「そうとは限らない。儀式の旗もあるし、行列の旗もある」
「でも、軍旗は……」
俺は、しばらく考えた。
「……そうだな」
千吉は、少しだけ俯いた。
「旗がなければ、戦はできないんでしょうか」
俺は思わず笑った。
「それは無理だろう」
「そうですか」
「旗がなくても、武士は戦う」
千吉は黙った。
俺は、少し考えてから言った。
「だが、旗があれば、誰の味方か分かりやすくなる」
千吉は顔を上げた。
「それは、よいことなんですか」
俺は、すぐには答えられなかった。
誰の味方か分かる。
それは、味方を見つけやすくする。
同時に、敵からも見つけやすくする。
俺は、店先の看板を思い出した。
『本日の味方』
『明日は不明』
祖父は、この言葉をどんな気持ちで書いたのだろう。
◇
その夜、俺は一人で帳面を開いた。
初代・弥太郎。
二代目・弥一郎。
そして、三代目・弥三郎。
三冊の帳面が並んでいる。
祖父の帳面には、尊氏様や直義様の名前。
父の帳面には、義満様や義教様の名前。
俺の帳面には、細川家と山名家の名が、同じ頁に並んでいた。
俺は筆を取り、その下に一行書き加えた。
『両家、互いに争わぬことを願う』
書いてから、少し恥ずかしくなった。
帳面は、願いを書くものではない。
商売の記録だ。
俺は、その一行を消そうとした。
だが、やめた。
父の帳面にも、祖父の帳面にも、似たような言葉があったからだ。
『職人三名、無事帰る』
『戦わなかった旗』
数字にならないことも、書いてよいのかもしれない。
俺は、帳面を閉じた。
◇
翌朝、店へ来ると、父が看板の前に立っていた。
「弥三郎」
「はい」
「新しい札を掛けたのか」
俺は頷いた。
「はい」
父は、ゆっくり読み上げた。
『昨日の敵にも、見積もりは出します』
しばらく沈黙した。
そして、父が笑い始めた。
「はははは!」
俺は、少しむっとした。
「何がおかしいんですか」
「いや、いい札だ」
「本当ですか」
「ああ。父上が見たら、きっと喜ぶ」
俺は、少しだけ嬉しくなった。
父は続けた。
「ただし、一つだけ気になる」
「何でしょう」
「昨日の敵が今日の味方になったら、値引きするのか」
俺は、しばらく考えた。
「……しません」
父は、さらに笑った。
「やっぱり、お前は俺より商売上手だ!」
俺も笑った。
だが、その時だった。
店の前に、一人の若い武士が現れた。
息を切らし、額に汗を浮かべている。
「旗屋弥三郎殿!」
俺は振り返った。
「はい」
男は、慌てた様子で言った。
「至急、旗を作っていただきたい!」
俺は、少しだけ身構えた。
「どちらのお家でしょう」
男は答えた。
「細川家だ!」
俺は頷いた。
「承知しました。何枚でしょう」
男は、周囲を見回した。
そして、声を落とした。
「……山名家に知られぬように」
俺は、静かに息を吐いた。
まただ。
また、始まるのか。
店先の看板が、風に揺れていた。
『昨日の敵にも、見積もりは出します』
俺は、男を見つめた。
そして、三代目親方として、初めて自分から言った。
「ご注文の前に、一つお尋ねします」
男は、眉をひそめた。
「何だ」
俺は、静かに尋ねた。
「その旗は、誰と戦うためのものですか」
男は答えなかった。
京の空は、よく晴れていた。
まだ誰も知らなかった。
この町が、やがて灰になることを。
そして、俺の店の看板が、文字通り毎日のように書き換えられる時代が来ることを。
第三部、始まり。




