旗屋を継ぐのに、くじは要りません
百枚の旗を作ってほしい。
新しい将軍のために。
そう告げられた時、俺は真っ先に納期を尋ねた。
「いつまででしょう」
幕府の使者は答えた。
「十日後だ」
「……十日?」
「遅いか」
「いえ、早いです」
使者は眉をひそめた。
俺は慌てて頭を下げた。
「つまり、急いで作らせていただきます」
使者が帰ると、新九郎が笑った。
「弥一郎。お前も歳を取ったな」
「何がだ」
「昔なら、百枚も注文されたら慌てふためいていただろう」
「今も慌ててるぞ」
「そうは見えん」
俺は帳面を閉じた。
「慌てて何とかなるなら、いくらでも慌てるさ」
佐吉が横から言った。
「では、職人を集めますね」
「ああ。頼む」
弥三郎は、すでに布の手配を書き出していた。
「父上、染めの仕事は二つの工房に分けましょう。縫製はうちで仕上げます」
俺は頷いた。
「そうしよう」
新九郎が感心したように言った。
「お前の息子、親父より頼もしいな」
「知ってる」
「認めるのか」
「俺だって、百枚を十日で作れと言われれば人に頼る」
「昔は全部自分で抱え込んでたくせに」
俺は返事をしなかった。
それは、事実だったからだ。
◇
嘉吉元年、1441年。
足利義教様が赤松満祐の屋敷で討たれた後、幕府は義教様の嫡男を後継者とした。
まだ八歳の若君である。
幼名は千也茶丸。
後の第七代将軍、足利義勝様だ。
八歳。
俺はその年齢を聞くたび、何とも言えない気持ちになった。
八歳といえば、店の前を走り回っている子どもと変わらない。
旗の紋など知らなくてもよい。
天下のことなど分からなくてもよい。
遊び疲れて眠り、腹が減れば飯を食べ、叱られれば泣く。
本来なら、そんな年頃のはずだった。
だが、義勝様は将軍家に生まれた。
父が殺されたことで、幼い肩に幕府の未来が載せられた。
俺は何十年も将軍家の旗を作ってきたが、今回ほど注文書が重く感じられたことはなかった。
弥三郎が布を確かめながら言った。
「父上。若君は、旗をご覧になるのでしょうか」
「どうだろうな」
「百枚もありますから、驚かれるでしょうね」
俺は笑った。
「そうだな」
少し考えて、付け加えた。
「できれば、喜んでいただきたいものだ」
弥三郎は頷いた。
その表情を見ながら、俺はふと思った。
自分の息子が八歳の頃、俺は何をしていただろう。
仕事に追われ、父上の後を継ぐことばかり考えていた。
弥三郎と、もっと遊んでやればよかった。
そう思った時には、もう息子は俺より背が高くなっていた。
◇
旗作りは、思った以上に順調だった。
弥三郎が仕事を割り振り、佐吉が仕上がりを確かめる。若い職人たちも、以前よりずっと手際がよい。
俺が口を出す場面は、ほとんどなかった。
それが、少し寂しかった。
ある日、弥三郎が言った。
「父上、そちらの布は、まだ切らないでください」
俺は手を止めた。
「なぜだ」
「寸法が違います。そちらは儀式用ではなく、予備の布です」
「ああ、そうか」
俺は布を置いた。
しばらくして、また弥三郎が言った。
「父上。その紋の位置は、もう少し上です」
「……そうか」
佐吉が、申し訳なさそうに笑った。
「若旦那、少しお休みになられては」
俺は顔を上げた。
「まだ働けるぞ」
「もちろんです。ただ、今日はもう十分です」
俺は黙った。
若旦那。
佐吉は、今でも俺をそう呼ぶ。
父上がいた頃から、ずっと。
だが、いつの間にか、俺の息子が仕事を仕切っている。
もはや、若旦那と呼ばれる歳ではない。
「……佐吉」
「はい」
「そろそろ、その呼び方を変えないか」
佐吉は、不思議そうな顔をした。
「若旦那、ですか」
「ああ」
佐吉は少し考えた。
そして、静かに笑った。
「もう、長い間そう呼んでおりますので」
「そうだな」
「今さら変えるのも、変な気がいたします」
俺も笑った。
「……好きにしてくれ」
この店では、将軍が何人代わっても、変わらないことがあるらしい。
◇
十日後、百枚の旗が完成した。
俺は一枚ずつ確かめようとしたが、弥三郎に止められた。
「父上。すべて確認済みです」
「俺も見ておきたい」
「では、最後の五枚をお願いします」
「五枚だけか」
「はい」
「百枚あるんだぞ」
「だから、五枚です」
俺は息子を睨んだ。
弥三郎は平然としていた。
新九郎が腹を抱えて笑った。
「弥一郎! とうとう息子に使われるようになったな!」
「うるさい!」
だが、悪い気分ではなかった。
五枚の旗は、どれも見事な仕上がりだった。
縫い目は揃い、紋の位置も正確で、布の張りにも乱れがない。
俺は最後の一枚を畳み、帳面に印をつけた。
「……よし」
弥三郎が頭を下げた。
「ありがとうございます」
俺は息子の肩を叩いた。
「よくやった」
弥三郎は、少し照れたように笑った。
その笑顔が、幼い頃と変わらなかった。
◇
翌年、義勝様は正式に征夷大将軍となった。
将軍職を継いだのは、まだ九歳の少年だった。
京では、若い将軍の誕生を祝う声が上がった。
だが、政治の実務は、管領をはじめとする幕府の重臣たちが担っていた。
新九郎が言った。
「九つの将軍様か」
俺は頷いた。
「そうだな」
「何をするんだろうな」
「将軍としての務めを、少しずつ覚えるんだろう」
新九郎は首を傾げた。
「九つで将軍なら、俺は九つの時に何をしてたかな」
「川で魚を捕ってたんじゃないか」
「ああ、そうだった」
「それで、魚は捕れたのか」
「捕れなかった」
「今と変わらんな」
新九郎は、笑いながら俺の肩を叩いた。
俺も笑った。
だが、胸の奥には、義勝様への気がかりが残っていた。
あの幼い将軍は、誰に相談するのだろう。
誰に弱音を吐くのだろう。
父親は、もういない。
周りには、多くの大人がいる。
しかし、その大人たちは、皆それぞれに思惑を持っている。
俺は、義勝様のために作った旗を思い出した。
百枚もの旗。
その下にいるのは、まだ九歳の少年なのだ。
◇
ところが、平穏は長く続かなかった。
嘉吉三年、1443年。
義勝様が病に倒れた。
そして、亡くなった。
将軍となって、わずか一年余り。
数え年で十歳だった。
俺がその知らせを聞いた時、店では祭礼用の旗を仕立てていた。
色鮮やかな布が、机の上に広がっていた。
その真ん中で、俺はしばらく動けなかった。
「……十歳か」
ようやく、それだけ言った。
新九郎も黙っていた。
佐吉は針を置いた。
弥三郎は、作りかけの旗を静かに畳んだ。
誰も、次の将軍の話をしなかった。
この日ばかりは、幕府の将来より、一人の子どもの死が重かった。
俺は、ふと息子を見た。
弥三郎は、もう立派な大人だった。
それでも、俺には幼い頃の顔が見える。
「……弥三郎」
「はい」
「少し、こっちへ来い」
弥三郎が近づいた。
俺は、その肩に手を置いた。
「何ですか、父上」
俺は、少し考えた。
「……いや。何でもない」
弥三郎は不思議そうな顔をした。
そして、静かに笑った。
「そうですか」
俺は、その笑顔を見て安心した。
◇
義勝様の死後、後継には弟の義成様が選ばれた。
後の足利義政様である。
まだ幼い。
正式に将軍となるのは、もう少し先のことだった。
幕府は、再び幼い後継者を支えることになった。
新九郎が、ある日言った。
「弥一郎」
「何だ」
「将軍家ってのは、大変だな」
「そうだな」
「父が死ねば息子が継ぎ、息子が死ねば弟が継ぐ」
俺は頷いた。
「そうだな」
「本人がどうしたいか、聞く暇もない」
俺は、しばらく黙った。
新九郎は、店の中を見回した。
「お前のところは、どうするんだ」
俺は顔を上げた。
「何が?」
「次の親方だよ」
俺は、少し笑った。
「……そろそろ、決めなきゃならんな」
新九郎は頷いた。
「そうだな」
俺は、仕事をしている弥三郎の背中を見た。
もう十分だ。
俺が教えられることは、ほとんど教えた。
あとは、息子が自分で決めるだけだ。
◇
その夜、俺は弥三郎を呼んだ。
店の奥。
父上が、かつて俺に帳面を渡してくれた場所だった。
弥三郎は、少し緊張した顔で座った。
「何でしょう、父上」
俺は古い帳面を机に置いた。
『旗屋 弥太郎』
父上の字だった。
その隣に、もう一冊。
『旗屋 弥一郎』
俺の字だ。
弥三郎は、二冊を見つめた。
「……父上?」
俺は、静かに言った。
「店を、継いでくれないか」
弥三郎は目を見開いた。
しばらく、何も言わなかった。
俺は続けた。
「もう、お前の方が仕事をよく分かっている」
弥三郎は首を振った。
「そんなことはありません」
「あるさ」
「父上の方が、ずっと……」
「昔はな」
俺は笑った。
「今は、お前の方が目も利くし、手も動く」
弥三郎は俯いた。
「……でも、私は」
俺は、黙って待った。
やがて、弥三郎が顔を上げた。
「父上や祖父上のようには、できません」
俺は頷いた。
「そうだろうな」
弥三郎は驚いた顔をした。
「……え?」
俺は、少し笑った。
「俺だって、父上のようにはできなかった」
「でも……」
「父上は、尊氏様や直義様の時代を生きた。俺は、義満様から義教様まで見てきた」
俺は帳面に手を置いた。
「お前は、これから別の時代を生きる」
弥三郎は黙っていた。
「だから、俺と同じでなくていい」
俺は、静かに続けた。
「自分のやり方でやれ」
長い沈黙の後、弥三郎は深く頭を下げた。
「……お引き受けします」
俺は、ようやく息を吐いた。
「そうか」
「はい」
弥三郎は顔を上げた。
「ただ、一つお願いがあります」
「何だ」
「父上には、まだ店にいていただきたいです」
俺は笑った。
「もちろんだ」
「仕事も、手伝ってください」
「ああ」
「それから、難しいお客が来た時は……」
俺は、思わず声を上げた。
「それは、お前が何とかしろ!」
弥三郎は、初めて声を出して笑った。
俺も笑った。
父上。
どうやら、俺もようやく、この日を迎えられました。
◇
翌朝、佐吉と新九郎に、店を弥三郎へ譲ることを伝えた。
佐吉は、深く頭を下げた。
「おめでとうございます」
俺は、少し照れくさくなった。
「ありがとう」
新九郎は腕を組んだ。
「ようやくか」
「何がだ」
「お前、ずいぶん長く親方をやってたからな」
「そうだな」
「で、これからどうする?」
「店で働くさ」
新九郎は、にやりと笑った。
「じゃあ、弥三郎に使われるんだな」
「そういうことだ」
「給金は?」
「まだ決めてない」
新九郎は、腹を抱えて笑った。
「お前、親方を辞めても給金の話が下手だな!」
俺も笑った。
佐吉も笑った。
弥三郎だけが、少し困った顔をしていた。
俺は、その顔を見て思った。
親方になるというのは、こういうことなのだ。
自分の仕事だけでなく、人の暮らしまで考えなければならない。
父上も、俺も、そうしてきた。
今度は、弥三郎の番だ。
◇
数日後、店の看板を新しくした。
『旗屋 弥三郎』
真新しい木に、力強い文字。
その下には、これまでの札を残した。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
『初代 弥太郎』
俺は、看板を見上げた。
新九郎が言った。
「二代目は書かないのか」
俺は、少し考えた。
「……そうだな」
弥三郎が横から言った。
「書きましょう」
俺は首を振った。
「いや、いい」
「なぜです?」
俺は笑った。
「初代は特別だからな」
新九郎が頷いた。
「それはそうだ」
佐吉も、静かに笑った。
俺は、真新しい看板を見上げた。
『旗屋 弥三郎』
父上が始めた店。
俺が守ってきた店。
そして、これから弥三郎が続けていく店。
俺は、胸の奥が少し熱くなった。
◇
その夜、俺は一人で父上の箱を開けた。
最初の白い旗。
今では、ずいぶん黄ばんでいる。
縫い目は曲がり、端も揃っていない。
だが、俺には何より大切な旗だった。
俺は、それを取り出し、弥三郎の仕事机へ運んだ。
翌朝、息子は驚いた顔をした。
「父上、これは?」
「初代の旗だ」
弥三郎は、そっと手に取った。
「これが……」
「ああ」
息子は、しばらく眺めていた。
そして、小さく笑った。
「……本当に曲がっていますね」
俺も笑った。
「そうだろ」
弥三郎は、静かに言った。
「でも、きれいです」
俺は、息子を見た。
「どこが?」
「……大切にされてきた旗だと分かるからです」
俺は、何も言えなかった。
弥三郎は、旗を丁寧に畳んだ。
「私が、預かってもよいのでしょうか」
俺は頷いた。
「ああ」
そして、静かに続けた。
「もう、お前の旗だ」
弥三郎は、深く頭を下げた。
◇
それから数日後。
俺は、店の前に椅子を出して座っていた。
秋の風が、少し冷たい。
通りを歩く人々の声が聞こえる。
商人が荷を運び、子どもたちが走り回る。
遠くで、寺の鐘が鳴った。
平和な京だった。
少なくとも、その日は。
新九郎が隣に座った。
「弥一郎」
「何だ」
「ようやく、ゆっくりできるな」
俺は頷いた。
「そうだな」
「何十年ぶりだ?」
「分からん」
新九郎は笑った。
俺も笑った。
しばらく、二人で黙って通りを眺めていた。
やがて、新九郎が言った。
「弥太郎殿も、こうして座ってたな」
俺は頷いた。
「ああ」
「お前が親方になった頃だ」
「そうだったな」
新九郎は、少しだけ空を見上げた。
「……早いもんだ」
俺は、静かに頷いた。
「本当にな」
◇
夕方、弥三郎が店から出てきた。
「父上」
「何だ」
「新しい注文が来ました」
俺は、少し笑った。
「親方はお前だろ。自分で決めろ」
弥三郎は頷いた。
「はい」
そして、少しだけ困った顔をした。
「ただ、注文書に妙なことが書いてありまして」
俺は、嫌な予感がした。
「何だ」
弥三郎は、注文書を読み上げた。
『旗五十枚。至急。紋は未定』
俺は、思わず天を仰いだ。
新九郎が吹き出した。
「懐かしいな!」
俺は、深いため息をついた。
弥三郎は、真剣な顔で言った。
「父上。どういたしましょう」
俺は、息子を見た。
かつて、俺も同じことを父上に尋ねた。
分からないことばかりだった。
怖いことばかりだった。
それでも、父上は俺に仕事を任せてくれた。
俺は、ゆっくり笑った。
「弥三郎」
「はい」
「まず、誰の旗か聞いてこい」
弥三郎は頷いた。
「はい」
「それから、使い道を確かめろ」
「はい」
「それでも分からなければ……」
俺は、少し考えた。
そして、笑った。
「断れ」
弥三郎は、驚いた顔をした。
「そんなに簡単に?」
俺は頷いた。
「簡単じゃないさ」
少しだけ、声を落とした。
「でも、店を守るために、何でも引き受ける必要はない」
弥三郎は、しばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「……分かりました」
俺は、その背中を見送った。
◇
夜。
店の灯りが落ちた後、俺は看板の前に立った。
『旗屋 弥三郎』
その文字を、もう一度見上げた。
父上。
あなたから店を受け継いで、ずいぶん長い時間が経ちました。
失敗もしました。
間違いもしました。
守れなかったものもあります。
ですが、何とかここまで来ました。
俺は、小さく笑った。
「……これで、よかったんでしょうかね」
返事はない。
けれど、今夜は返事がなくてもよかった。
店の奥では、弥三郎が明日の仕事を考えている。
佐吉が道具を片付けている。
千吉が、最後の布を畳んでいる。
そして、新九郎は、相変わらずどこかで余計なことを言っているだろう。
それだけで、十分だった。
俺は、看板の下にある古い札を見た。
『本日の味方』
『明日は不明』
何十年も前から、ここにある言葉。
父上が笑いながら掲げた言葉。
俺は、そっと札に触れた。
「父上。今日の味方は、誰でしょうね」
秋の風が吹いた。
俺は、静かに答えた。
「……明日も、この店に帰ってくる者たちです」
そして、戸を閉めた。
これから先、京の町には、まだ多くの争いが待っている。
将軍家は再び揺れ、守護大名たちは力を競い、やがて都そのものが戦場となる日が来る。
だが、それを俺はまだ知らない。
知る必要もない。
これから先は、弥三郎の時代なのだから。
第二部 完
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第三部予告 今日の味方は、昨日の敵です
京には、二つの大きな勢力が生まれようとしていた。
細川。
山名。
将軍家の後継をめぐる争い。
有力大名たちの思惑。
誰が味方で、誰が敵なのか。
昨日まで隣で酒を飲んでいた者が、明日には刀を向けてくる。
そして、京の町そのものが、戦場となる。
旗屋三代目・弥三郎は、父や祖父とは違う時代を生きる。
祖父は、将軍が二人いる時代を生きた。
父は、将軍が強すぎる時代を生きた。
そして弥三郎は、将軍がいても争いを止められない時代を生きることになる。
店先の看板には、今日もこう書かれている。
『本日の味方』
『明日は不明』
その下に、弥三郎が新しい札を掛ける。
『昨日の敵にも、見積もりは出します』
第三部、開幕へ。
第二部完です!




