将軍様、古い旗にも持ち主がおります
人間、後ろめたいことがある時ほど、身なりを整えたくなるらしい。
俺は朝から三度も襟を直した。
「曲がっているか」
「曲がっていません」
佐吉が答えた。
「本当に?」
「三度目です」
「そうか」
俺はもう一度、襟に手を伸ばした。
佐吉がその手を押さえた。
「若旦那。余計に曲がります」
店の奥では、弥三郎が黙って針を動かしていた。
昨夜から一度も、俺に修繕した旗の話をしていない。
幕府の不興を買った武家の旗。
先代から受け継いだ、古い紋のある旗。
それを直したのは弥三郎だった。
そして、修繕を引き受けたのは俺だ。
もし将軍様がそのことをご存じなら、息子まで咎められるかもしれない。
新九郎が、店先で腕を組んでいた。
「弥一郎」
「何だ」
「もし帰ってこなかったら、店はどうする?」
「縁起でもないことを言うな」
「いや、だから……」
「お前にだけは任せん」
「まだ何も言ってないだろ!」
いつもなら笑えるやり取りだった。
だが、その朝は誰も笑わなかった。
俺は草履を履き、振り返った。
「佐吉。今日は俺がいなくても、いつも通り仕事を進めてくれ」
「承知しました」
「弥三郎」
息子が顔を上げた。
「はい」
「帳面の鍵は、いつもの箱だ」
弥三郎の顔色が変わった。
「父上、それは……」
「念のためだ」
俺は笑ってみせた。
上手く笑えたかどうかは、分からない。
◇
幕府の屋敷へ着くと、いつもより多くの武士が門を守っていた。
中へ進むにつれ、妙な静けさに気づいた。
人は大勢いる。
だが、誰も話していない。
廊下を歩く足音と、庭で鳴く鳥の声だけが聞こえる。
義満様の頃は、屋敷へ来るたび、どこかで笑い声がしたものだった。酒席の支度をする者、客人を案内する者、庭の景色を自慢する者。
華やかすぎて困ることもあったが、少なくとも息はしやすかった。
今は違う。
誰もが、声を出す前に周囲を確かめていた。
案内役の武士が、襖の前で足を止めた。
「ここで待て」
俺は頷いた。
部屋には、ほかに二人の男が座っていた。
一人は年配の商人らしく、もう一人は若い武士だった。
年配の男が、かすかな声で尋ねた。
「そなたも呼ばれたのか」
「はい」
「何の用か、聞いておるか」
「いいえ」
男は俯いた。
「わしもだ」
若い武士は、膝の上で拳を握りしめていた。
俺は、その拳を見た。
爪が、白くなっていた。
しばらくして、隣の部屋から声が聞こえた。
怒鳴り声ではない。
低く、静かな声だった。
それがかえって恐ろしかった。
「……私の命が、聞こえなかったのか」
誰かが、何事か弁明している。
続いて、畳を擦る音。
「下がれ」
若い武士の肩が跳ねた。
俺は、喉が渇くのを感じた。
父上。
あなたが将軍様の前で平気な顔をしていたのは、どういう仕組みだったのでしょう。
今なら、銭を払ってでも教わりたい。
◇
ようやく名を呼ばれた。
襖の向こうには、足利義教様がいた。
以前に会った時と変わらぬ顔立ち。
だが、その眼差しは鋭かった。
「弥一郎。近う寄れ」
俺は頭を下げ、指定された場所に座った。
「お呼びにより、参上いたしました」
義教様は、机の上に一枚の紙を置いた。
「最近、古い旗を直したそうだな」
心臓が、嫌な音を立てた。
来た。
俺は頭を下げたまま答えた。
「はい」
「誰の旗だ」
「小笠原重定と名乗る武士から、お預かりしたものでございます」
「その者の主人は、幕府に背いた」
「そのように聞いております」
義教様は、少し身を乗り出した。
「知っていて直したのか」
俺は、息を整えた。
「はい」
沈黙が落ちた。
庭の木の葉が擦れる音がした。
「理由を申せ」
俺は、ゆっくり顔を上げた。
「古い旗だったからでございます」
義教様の眉が動いた。
「……何?」
「長年使われ、大切に保管されていた旗でした。持ち主は、戦に掲げるためではなく、先代の形見として残したいと申しておりました」
「それを信じたのか」
「はい」
「愚かだな」
義教様は、吐き捨てるように言った。
「人は都合のよいことを言う。形見だと偽り、再び謀反の旗を掲げるかもしれぬ」
俺は、何も言えなかった。
それは、確かにあり得ることだった。
重定が本当のことを言っていたと、証明できるわけではない。
義教様は続けた。
「お前は、旗が何に使われるかを確かめる商人だと聞いていた」
「はい」
「ならば、なぜその旗を直した」
俺は、膝の上で手を握った。
「……旗を掲げることと、残すことは違うと考えました」
義教様は俺を見つめた。
「誰が、それを決める」
俺は答えた。
「ご命令があれば、幕府でございます」
「では?」
「ですが、修繕を禁じるご命令が出ていたとは、存じませんでした」
義教様の目が細くなった。
しまった。
また、余計なことを言った。
「命じられなければ、何をしてもよいと?」
「そのようなことは……」
「ならば、お前は自分の判断が正しいと思っているのだな」
俺は、言葉を失った。
ここで、正しいと言えば逆らうことになる。
間違っていたと言えば、重定との約束を否定することになる。
どちらを選んでも、何かを失う。
俺は、初めて気づいた。
義教様は、俺に事情を尋ねているのではない。
俺が、自分の考えを捨てるかどうかを見ているのだ。
◇
「弥一郎」
義教様は静かに言った。
「お前には息子がいたな」
血の気が引いた。
「……はい」
「名は弥三郎だったか」
「はい」
「以前、私のために白い旗を作った」
俺は頷いた。
「よく覚えておられました」
「覚えているとも」
義教様は、しばらく俺を見ていた。
「その息子が、今回の旗も直したそうだな」
俺は息を呑んだ。
そこまで調べられている。
「……はい」
「父の命でか」
俺は顔を上げた。
「私の責任でございます」
義教様は黙った。
「息子は、私の許しを得て仕事をいたしました。修繕を引き受けると決めたのは、親方である私です」
「息子には責任がないと?」
「職人としての責任はございます。ですが、判断の責任は私が負います」
義教様は、かすかに笑った。
「立派な父親だな」
その言葉に、温かさはなかった。
「では、お前が責任を負うなら、店はどうなる」
俺は答えられなかった。
「職人は? 息子は? その家族は?」
一つひとつ、義教様の言葉が胸に突き刺さった。
「お前の信念とやらで、何人が路頭に迷うことになるのだ」
俺は俯いた。
佐吉の顔が浮かんだ。
お春と、娘の顔も浮かんだ。
弥三郎。
妻。
若い職人たち。
俺が守らなければならない人間が、店には大勢いる。
父上が最後に残した言葉が、胸によみがえった。
――店を守ることに夢中になって、店の人間を失うな。
俺は長く息を吐いた。
「……仰せの通りでございます」
義教様は何も言わなかった。
俺は続けた。
「私は、自分の判断が間違っていたかもしれぬと、今、考えております」
「ほう」
「ですが」
俺は、ゆっくり顔を上げた。
「旗を直したことを、後悔しているわけではございません」
義教様の表情が消えた。
「……なぜだ」
「まだ、間違いだと分かっていないからでございます」
言ってしまった。
まただ。
俺は、どうしてこうなのだろう。
◇
義教様は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、紙を一枚取り上げた。
「弥一郎。この旗を見ろ」
そこには、古い家紋が描かれていた。
重定が持ってきた旗と同じ紋だった。
「分かるか」
「はい」
「この旗を使っていた家の者が、密かに旧臣を集めていたという話がある」
俺は目を見開いた。
「……まことですか」
「調べさせている」
義教様は紙を置いた。
「もし、お前が直した旗が、その者たちの目印となったらどうする」
胸が冷たくなった。
俺は、すぐには答えられなかった。
重定の言葉を信じた。
だが、その先までは確かめていない。
「……私の落ち度でございます」
義教様は頷いた。
「ようやく分かったか」
俺は深く頭を下げた。
その時だった。
「では、もう一度尋ねる」
義教様の声がした。
「同じ男が、明日また旗を持ってきたら、直すか」
俺は、しばらく考えた。
そして、答えた。
「まず、もう一度話を聞きます」
義教様が眉をひそめた。
「同じことを繰り返すのか」
「いいえ」
俺は首を振った。
「今度は、もっと確かめます」
義教様は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……まったく、面倒な男だ」
その言葉に、俺は聞き覚えがあった。
義持様にも、似たことを言われた気がする。
父上も、きっと何度も言われていたのだろう。
義教様は筆を取り、何かを書きつけた。
「帰れ」
俺は顔を上げた。
「……よろしいのでございますか」
「二度言わせるな」
俺は、深く頭を下げた。
立ち上がる時、膝に力が入らなかった。
◇
店に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
戸を開けると、佐吉が飛び出してきた。
「若旦那!」
その後ろから弥三郎が駆け寄った。
「父上!」
新九郎もいた。
「……生きてるな」
俺は頷いた。
「ああ」
「どこも斬られてないか」
「見れば分かるだろ」
新九郎は、俺の肩を叩いた。
「よかった」
その一言が、妙に胸に染みた。
弥三郎が尋ねた。
「何のお話だったんですか」
俺は、息子を見た。
まだ若い。
だが、もう子どもではない。
「……あの旗のことだ」
弥三郎の顔が強張った。
「やはり……」
俺は頷いた。
「将軍様は、すべてご存じだった」
弥三郎は俯いた。
「申し訳ありません」
俺は驚いた。
「なぜ謝る」
「私が、旗を直したから……」
「違う」
俺は、少し強い声で言った。
「引き受けたのは俺だ」
弥三郎は顔を上げた。
「でも、私も……」
「そうだ。お前も仕事をした。だから、次からはもっと考えよう」
弥三郎は、しばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
佐吉が、静かに言った。
「若旦那。今日は、もうお休みください」
俺は笑った。
「そうしたいところだが、まだ仕事が……」
佐吉は首を振った。
「今日くらいは」
その目が、珍しく真剣だった。
俺は、黙って頷いた。
◇
その夜、俺は眠れなかった。
義教様の言葉が、何度も耳によみがえった。
――お前の信念で、何人が路頭に迷うことになるのだ。
俺は、布団の中で考え続けた。
父上なら、どうしただろう。
若い頃の俺なら、どうしただろう。
そして、弥三郎なら。
答えは出なかった。
翌朝、俺は店へ行く前に、佐吉を呼んだ。
「佐吉。これからは、受ける仕事の決め方を少し変えたい」
佐吉は頷いた。
「どのように?」
「紋のある旗を修繕する時は、持ち主と使い道を帳面に残そう」
「はい」
「戦に関わるものなら、引き受ける前に俺へ相談してくれ」
「承知しました」
「それから……」
俺は、少し迷った。
「俺が一人で決めていたことを、少しずつ皆にも相談したい」
佐吉は、驚いた顔をした。
「私どもに、ですか」
「ああ」
俺は、静かに頷いた。
「親方が一人で考えても、見落とすことはある」
佐吉は、しばらく黙った。
そして、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
俺は、少し照れくさくなった。
「礼を言われることじゃない」
◇
数日後。
重定が、再び店を訪れた。
俺は驚いた。
「重定殿!」
男は、以前よりさらに痩せていた。
だが、目はしっかりしていた。
「弥一郎殿。先日は、ありがとうございました」
俺は、周囲を確かめてから、男を奥へ通した。
「……お尋ねしたいことがあります」
重定は頷いた。
「何でしょう」
俺は、慎重に尋ねた。
「修繕した旗は、どうなりましたか」
重定は、しばらく黙った。
そして、答えた。
「蔵にしまっております」
「本当に?」
重定は俺を見た。
「何か、ありましたか」
俺は、義教様から聞いたことを伝えた。
旧臣たちが密かに集まっているという話。
旗が、その目印になるかもしれないということ。
重定は、顔を曇らせた。
「……そのような話が」
俺は頷いた。
「私は、あなたを疑いたくありません」
重定は、静かに聞いていた。
「ですが、確かめずに引き受けたことを、将軍様に咎められました」
重定は、深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
俺は首を振った。
「謝っていただきたいわけではありません」
「では?」
俺は、しばらく考えた。
「旗を、しばらく掲げないでいただけますか」
重定は黙った。
「残すことと、掲げることは違います」
俺は、ゆっくり続けた。
「今は、残すだけにしてください」
重定は、長い間黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……承知しました」
◇
重定が帰った後、弥三郎が言った。
「父上」
「何だ」
「将軍様の言うことを聞いたんですね」
俺は、少し考えた。
「……そうかもしれんな」
弥三郎は、少し寂しそうな顔をした。
俺は、その表情を見て言った。
「でも、旗を捨てろとは言わなかっただろう」
弥三郎は、顔を上げた。
「はい」
「俺は、残すことまで悪いとは思わん」
弥三郎は、しばらく考えた。
「……将軍様に逆らわずに、自分の考えを守る方法もあるんですね」
俺は、少し笑った。
「そうだな」
そして、心の中で付け加えた。
それが、いつまで許されるかは分からないけれど。
◇
その日の夕方。
新九郎が店へ来た。
珍しく、笑っていなかった。
「弥一郎」
「何だ」
「少し、まずい話を聞いた」
俺は顔を上げた。
「また将軍様か」
新九郎は頷いた。
「最近、播磨の赤松家が、幕府から厳しく睨まれているらしい」
俺は、少し考えた。
赤松家。
長く幕府に仕えてきた、有力な守護大名の家だ。
「なぜだ」
「詳しくは分からん。ただ、義教様との間が、ずいぶん悪くなっているそうだ」
俺は、黙った。
新九郎は続けた。
「それでな。赤松家に関わる者が、京でひそかに動いているという話もある」
俺は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「……何をしようとしている」
新九郎は首を振った。
「まだ分からん」
俺は、しばらく考えた。
義教様は、幕府を強くしようとしている。
だが、その強さを恐れる者たちも、増えている。
恐れが大きくなれば、やがて何が起きるのか。
俺は、父上の話を思い出した。
尊氏様と直義様が争った時代。
味方が敵になり、敵が味方になった時代。
あの頃も、皆が自分の正しさを信じていた。
◇
その夜、俺は店の看板を見つめた。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
『初代 弥太郎』
父上。
あなたの時代は、将軍様が多すぎて大変でした。
俺の時代は、将軍様が強すぎて大変です。
どちらがよかったのか、今となっては分かりません。
俺は、静かに息を吐いた。
そして、店の戸を閉めようとした。
その時だった。
暗がりから、一人の男が現れた。
「旗屋の弥一郎殿ですな」
俺は、振り返った。
「……どちら様でしょう」
男は、ゆっくり頭を下げた。
「赤松家の者でございます」
俺の手が、戸の上で止まった。
男は、懐から小さな包みを取り出した。
中には、古い旗の切れ端が入っていた。
「お願いがございます」
男は、静かに言った。
「この旗と、同じものを作っていただきたい」
俺は、布を見つめた。
そこには、見覚えのある紋が描かれていた。
長い間、幕府を支えてきた武家の紋。
そして今、将軍様との関係が悪くなっている家の紋。
俺は、ゆっくり顔を上げた。
「……何枚、必要でしょうか」
男は、静かに答えた。
「一枚だけです」
俺は、少しだけ安心した。
だが、次の言葉で、その安心は消えた。
「ただし、誰にも見られぬように仕立てていただきたい」
俺は、男を見つめた。
暗い路地の向こうで、風が吹いた。
父上。どうやら今度は、旗を作る前から、嫌な予感しかしません。




