↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/60

将軍様、笑っていただけませんか

将軍家からの注文は、軍旗五十枚。


納期は十日後。


届け先は、幕府の武具を管理する役所。


使者が帰った後、俺は注文書を机に置いた。


「佐吉、十日でできるか」


「ほかの仕事を止めれば、何とか」


「止めずにやるなら?」


「人を増やす必要があります」


俺は頷いた。


「分かった。手配しよう」


新九郎が横から言った。


「で、誰と戦うんだ?」


「まだ分からん」


「五十枚も作るのに?」


「ああ」


新九郎は眉をひそめた。


「昔のお前なら、断ったんじゃないか」


俺は注文書を指で叩いた。


「使う者も届け先も分かっている。幕府の備えとして注文されたものだ。そこまでは確かめた」


「その先は?」


「知らされていない」


「それでいいのか?」


俺は答えなかった。


以前の俺なら、もっと簡単に答えられた気がする。


だが、年を重ねるほど、何を知れば十分なのか分からなくなっていた。


          ◇


その日の夕方、弥三郎が一枚の旗を持ってきた。


「父上、これを見てください」


足利の御紋を染めた旗だった。


仕上がりは悪くない。だが、端の縫い目がわずかに波打っている。


「ここを直せば完成だな」


俺が言うと、弥三郎は頷いた。


「はい。ただ、少し気になることがあって」


「何だ」


「今回の注文、以前のものより布が厚いんです」


俺は旗を触った。


確かに、そうだった。


「丈夫に作れということだろう」


「それだけでしょうか」


弥三郎は、旗を広げた。


「これなら、雨にも強い。長く掲げられます。何度も使うつもりなのでは?」


俺は息子を見た。


以前なら、縫い目のことしか気にしなかった男だ。


今は、注文の向こうにいる人間のことまで考え始めている。


「そうかもしれんな」


「父上は、何も聞かないんですか」


俺は、少し笑った。


「聞いたさ」


「何と?」


「幕府の備えだと」


弥三郎は黙った。


そして、小さく言った。


「……それで、納得したんですか」


俺は返事に困った。


          ◇


翌日、御所へ旗の見本を届けた。


足利義教(あしかがよしのり)様は、以前よりずっと険しい顔をしていた。


白い旗を受け取った頃は、まだ僧衣をまとい、静かな声で話す人だった。


今は違う。


周囲の者が、義教様の顔色を窺っている。


誰も、余計なことを言わない。


俺が旗を広げると、義教様は短く頷いた。


「よい」


「ありがとうございます」


「納期は守れ」


「承知しております」


それだけで話が終わるかと思った。


だが、義教様は突然尋ねた。


「弥一郎。お前は、私をどう思う」


俺は、思わず顔を上げた。


まただ。


どうして将軍家の人々は、旗屋にそんなことを聞くのだろう。


「恐れながら、何についてでございましょう」


「将軍としてだ」


俺は、少し考えた。


「……幕府を強くしようとなさっていると思います」


義教様は、わずかに笑った。


「それだけか」


俺は黙った。


「京では、私を恐れる者が増えているそうだ」


その言葉に、背筋が冷たくなった。


          ◇


「恐れているなら、よい」


義教様は、静かに続けた。


「恐れられぬ将軍に、何ができる」


俺は、何も言えなかった。


義教様は立ち上がり、庭へ目を向けた。


「私が将軍となる前、幕府は諸大名の顔色を窺っていた。守護たちは、自分の領国を私物のように扱い、将軍の命令を軽んじていた」


俺は頷いた。


「それを正さねばならぬ」


「はい」


「そのためには、力が要る」


義教様は、俺を振り返った。


「お前の父は、尊氏の時代を知っていたそうだな」


「はい」


「ならば、お前も聞いているだろう。将軍が弱ければ、国は乱れる」


俺は、父上の話を思い出した。


尊氏様と直義様。


師直殿。


南北朝の争い。


確かに、幕府が一つにまとまらなかった時代は、長く続いた。


だが、父上は別のことも言っていた。


強い者が、必ずしも正しいとは限らない。


俺は、慎重に口を開いた。


「義教様」


「何だ」


「恐れられることと、信じられることは、同じなのでしょうか」


部屋の空気が変わった。


控えていた者たちが、一斉に俺を見た。


しまった。


言ってしまった。


義教様は、しばらく黙っていた。


そして、静かに尋ねた。


「お前は、私を信じておらぬのか」


俺は深く頭を下げた。


「そのような意味ではございません」


「では、どういう意味だ」


俺は、必死に言葉を探した。


「人は、怖い相手の言うことには従います。ですが、怖いから従うのと、信じて従うのでは、違うのではないかと」


義教様は、俺を見つめた。


長い沈黙だった。


やがて、義教様は小さく笑った。


「……面白いことを言う」


俺は、ようやく息を吐いた。


「父も、よく似たことを言っていた」


義教様は、再び庭へ目を向けた。


「だが、信じてもらうには時間がかかる。恐れさせるのは、もっと早い」


その言葉が、胸に残った。


          ◇


店へ戻ると、新九郎が待っていた。


「どうだった?」


「……疲れた」


「何があった」


俺は、義教様とのやり取りを話した。


新九郎は、途中から顔色を変えた。


「お前、よく生きて帰ってきたな」


「俺もそう思う」


佐吉が、心配そうに言った。


「若旦那。もう少し言葉を選ばれた方が……」


「分かってる」


弥三郎が、黙って俺を見ていた。


俺は、少し笑った。


「何だ」


弥三郎は、静かに言った。


「父上は、怖くなかったんですか」


俺は、正直に答えた。


「怖かったさ」


「では、なぜ言ったんです」


俺は、少し考えた。


「……言わない方が、もっと怖いと思ったからだ」


弥三郎は、首を傾げた。


俺自身、上手く説明できなかった。


ただ、義教様の言葉を聞いているうちに、どうしても父上の顔が浮かんだのだ。


          ◇


それから、京では不穏な噂が増え始めた。


義教様は、幕府に従わぬ者を厳しく処罰した。


守護大名の中にも、地位を失う者が現れた。


人々は、以前よりも声を潜めて政治の話をするようになった。


新九郎も、最近は店先で大声を出さなくなった。


ある日、俺が尋ねた。


「どうした。静かじゃないか」


新九郎は、周囲を見回した。


「最近は、何を言っても怖いからな」


「お前にも怖いものがあったのか」


「あるさ。将軍様と、お前の奥方だ」


俺は思わず笑った。


「後者の方が怖いだろ」


「もちろんだ」


二人で笑った。


だが、その笑いも、すぐに消えた。


店の前を、幕府の役人が通り過ぎたからだ。


          ◇


ある日、佐吉が一人の男を連れてきた。


「若旦那。少し、お話を聞いていただけますか」


男は、五十歳ほどの武士だった。


着物は古び、顔には疲れが見える。


名を小笠原重定(おがさわらしげさだ)と名乗った。


「旗を作っていただきたい」


俺は頷いた。


「どのような旗でしょう」


重定は、少し迷った。


そして、懐から古い布を取り出した。


そこには、家の紋が描かれていた。


だが、紋の一部が破れている。


「これを、直していただきたい」


俺は布を広げた。


「修繕なら、できます」


重定は、静かに言った。


「ただし、誰にも知られぬように」


俺は、顔を上げた。


「なぜですか」


重定は、しばらく黙った。


そして、声を落とした。


「我が家は、幕府の不興を買いました」


俺は、息を呑んだ。


          ◇


重定の主人は、義教様の命令に従わなかったという。


そのため、所領を失い、家人たちは散り散りになった。


重定は、最後まで主人に仕えた者だった。


「この旗は、先代から受け継いだものです」


重定は言った。


「今は掲げることも許されません」


俺は、布を見た。


長く使われた旗だった。


何度も修繕され、縫い目が重なっている。


「それでも、残したいのです」


重定の声は、静かだった。


「家があったことを、忘れたくない」


俺は、父上の古い旗の箱を思い出した。


尊氏様の旗。


直義様の旗。


もう掲げられない旗たち。


俺は、ゆっくり頷いた。


「お預かりします」


重定は、深く頭を下げた。


          ◇


修繕は、弥三郎に任せた。


息子は、古い旗を丁寧に広げた。


「父上。ずいぶん傷んでいますね」


「そうだな」


「新しく作った方が、早いと思います」


俺は頷いた。


「そうだろうな」


弥三郎は、少し考えた。


「でも、この旗を直してほしいんですよね」


「ああ」


「なぜでしょう」


俺は、少しだけ笑った。


「新しい旗では、残せないものがあるからだ」


弥三郎は、しばらく布を見つめた。


そして、静かに頷いた。


「……分かりました」


          ◇


数日後、旗が修繕された。


弥三郎は、破れた部分を丁寧に縫い合わせ、元の形をできる限り残していた。


俺は、仕上がりを見て頷いた。


「よくやった」


弥三郎は、少し照れたように笑った。


「ありがとうございます」


重定が受け取りに来ると、旗を広げて、しばらく黙っていた。


そして、静かに言った。


「……ありがとうございます」


その声は、震えていた。


俺は、何も言わなかった。


重定は、旗を丁寧に畳んだ。


「これで、先代に顔向けができます」


俺は、深く頭を下げた。


          ◇


重定が帰った後、弥三郎が言った。


「父上」


「何だ」


「将軍様は、あの人の家を潰したんですよね」


俺は、少し考えた。


「そう聞いた」


「でも、あの人は悪い人には見えませんでした」


俺は頷いた。


「そうだな」


弥三郎は、少しだけ眉をひそめた。


「では、将軍様が間違っているんでしょうか」


俺は、すぐには答えられなかった。


義教様は、幕府を強くしようとしている。


そのために、従わない者を処罰している。


だが、処罰された者の中にも、家族がいて、家人がいて、守りたいものがある。


俺は、静かに答えた。


「……正しいことをしようとしても、誰かを傷つけることはある」


弥三郎は、俺を見た。


「それでも、正しいんですか」


俺は、しばらく考えた。


「分からん」


弥三郎は、少し不満そうな顔をした。


「父上は、いつも分からないって言いますね」


俺は苦笑した。


「そうだな」


そして、続けた。


「でも、分からないことを、分かったふりはしたくないんだ」


弥三郎は、黙っていた。


          ◇


その夜、俺は父上の古い帳面を開いた。


尊氏様の名前。


直義様の名前。


師直殿の名前。


そして、義満様の名前。


どの時代にも、強い者がいた。


正しいと信じる者がいた。


だが、最後には、皆いなくなった。


俺は、帳面を閉じた。


「父上」


小さく呟いた。


「強い将軍様がいれば、平和になると思っていました」


返事はない。


「でも、強すぎても、怖いものなんですね」


俺は、静かに息を吐いた。


          ◇


翌朝。


幕府から、新しい注文が届いた。


差出人は、義教様。


俺は、少しだけ緊張しながら開いた。


そこには、こう書かれていた。


『旗屋弥一郎。至急、参上せよ』


俺は、思わずため息をついた。


新九郎が覗き込む。


「今度は何だ?」


「呼び出しだ」


「旗の注文じゃないのか?」


「書いてない」


新九郎は、少し考えた。


そして、真顔で言った。


「……お前、何かしたか?」


俺は、重定の旗を思い出した。


幕府に処罰された家の旗。


それを、俺たちは修繕した。


誰にも知られぬように。


胸の奥が冷たくなった。


まさか。


俺は、ゆっくり立ち上がった。


「……行ってくる」


弥三郎が、心配そうに言った。


「父上」


「何だ」


「お気をつけて」


俺は、少し笑った。


「ああ」


店先の看板が、風に揺れていた。


『本日の味方』


『明日は不明』


父上。


今度ばかりは、本当に困りました。


……将軍様、どうか今日は、機嫌よく笑っていてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。