将軍様、笑っていただけませんか
将軍家からの注文は、軍旗五十枚。
納期は十日後。
届け先は、幕府の武具を管理する役所。
使者が帰った後、俺は注文書を机に置いた。
「佐吉、十日でできるか」
「ほかの仕事を止めれば、何とか」
「止めずにやるなら?」
「人を増やす必要があります」
俺は頷いた。
「分かった。手配しよう」
新九郎が横から言った。
「で、誰と戦うんだ?」
「まだ分からん」
「五十枚も作るのに?」
「ああ」
新九郎は眉をひそめた。
「昔のお前なら、断ったんじゃないか」
俺は注文書を指で叩いた。
「使う者も届け先も分かっている。幕府の備えとして注文されたものだ。そこまでは確かめた」
「その先は?」
「知らされていない」
「それでいいのか?」
俺は答えなかった。
以前の俺なら、もっと簡単に答えられた気がする。
だが、年を重ねるほど、何を知れば十分なのか分からなくなっていた。
◇
その日の夕方、弥三郎が一枚の旗を持ってきた。
「父上、これを見てください」
足利の御紋を染めた旗だった。
仕上がりは悪くない。だが、端の縫い目がわずかに波打っている。
「ここを直せば完成だな」
俺が言うと、弥三郎は頷いた。
「はい。ただ、少し気になることがあって」
「何だ」
「今回の注文、以前のものより布が厚いんです」
俺は旗を触った。
確かに、そうだった。
「丈夫に作れということだろう」
「それだけでしょうか」
弥三郎は、旗を広げた。
「これなら、雨にも強い。長く掲げられます。何度も使うつもりなのでは?」
俺は息子を見た。
以前なら、縫い目のことしか気にしなかった男だ。
今は、注文の向こうにいる人間のことまで考え始めている。
「そうかもしれんな」
「父上は、何も聞かないんですか」
俺は、少し笑った。
「聞いたさ」
「何と?」
「幕府の備えだと」
弥三郎は黙った。
そして、小さく言った。
「……それで、納得したんですか」
俺は返事に困った。
◇
翌日、御所へ旗の見本を届けた。
足利義教様は、以前よりずっと険しい顔をしていた。
白い旗を受け取った頃は、まだ僧衣をまとい、静かな声で話す人だった。
今は違う。
周囲の者が、義教様の顔色を窺っている。
誰も、余計なことを言わない。
俺が旗を広げると、義教様は短く頷いた。
「よい」
「ありがとうございます」
「納期は守れ」
「承知しております」
それだけで話が終わるかと思った。
だが、義教様は突然尋ねた。
「弥一郎。お前は、私をどう思う」
俺は、思わず顔を上げた。
まただ。
どうして将軍家の人々は、旗屋にそんなことを聞くのだろう。
「恐れながら、何についてでございましょう」
「将軍としてだ」
俺は、少し考えた。
「……幕府を強くしようとなさっていると思います」
義教様は、わずかに笑った。
「それだけか」
俺は黙った。
「京では、私を恐れる者が増えているそうだ」
その言葉に、背筋が冷たくなった。
◇
「恐れているなら、よい」
義教様は、静かに続けた。
「恐れられぬ将軍に、何ができる」
俺は、何も言えなかった。
義教様は立ち上がり、庭へ目を向けた。
「私が将軍となる前、幕府は諸大名の顔色を窺っていた。守護たちは、自分の領国を私物のように扱い、将軍の命令を軽んじていた」
俺は頷いた。
「それを正さねばならぬ」
「はい」
「そのためには、力が要る」
義教様は、俺を振り返った。
「お前の父は、尊氏の時代を知っていたそうだな」
「はい」
「ならば、お前も聞いているだろう。将軍が弱ければ、国は乱れる」
俺は、父上の話を思い出した。
尊氏様と直義様。
師直殿。
南北朝の争い。
確かに、幕府が一つにまとまらなかった時代は、長く続いた。
だが、父上は別のことも言っていた。
強い者が、必ずしも正しいとは限らない。
俺は、慎重に口を開いた。
「義教様」
「何だ」
「恐れられることと、信じられることは、同じなのでしょうか」
部屋の空気が変わった。
控えていた者たちが、一斉に俺を見た。
しまった。
言ってしまった。
義教様は、しばらく黙っていた。
そして、静かに尋ねた。
「お前は、私を信じておらぬのか」
俺は深く頭を下げた。
「そのような意味ではございません」
「では、どういう意味だ」
俺は、必死に言葉を探した。
「人は、怖い相手の言うことには従います。ですが、怖いから従うのと、信じて従うのでは、違うのではないかと」
義教様は、俺を見つめた。
長い沈黙だった。
やがて、義教様は小さく笑った。
「……面白いことを言う」
俺は、ようやく息を吐いた。
「父も、よく似たことを言っていた」
義教様は、再び庭へ目を向けた。
「だが、信じてもらうには時間がかかる。恐れさせるのは、もっと早い」
その言葉が、胸に残った。
◇
店へ戻ると、新九郎が待っていた。
「どうだった?」
「……疲れた」
「何があった」
俺は、義教様とのやり取りを話した。
新九郎は、途中から顔色を変えた。
「お前、よく生きて帰ってきたな」
「俺もそう思う」
佐吉が、心配そうに言った。
「若旦那。もう少し言葉を選ばれた方が……」
「分かってる」
弥三郎が、黙って俺を見ていた。
俺は、少し笑った。
「何だ」
弥三郎は、静かに言った。
「父上は、怖くなかったんですか」
俺は、正直に答えた。
「怖かったさ」
「では、なぜ言ったんです」
俺は、少し考えた。
「……言わない方が、もっと怖いと思ったからだ」
弥三郎は、首を傾げた。
俺自身、上手く説明できなかった。
ただ、義教様の言葉を聞いているうちに、どうしても父上の顔が浮かんだのだ。
◇
それから、京では不穏な噂が増え始めた。
義教様は、幕府に従わぬ者を厳しく処罰した。
守護大名の中にも、地位を失う者が現れた。
人々は、以前よりも声を潜めて政治の話をするようになった。
新九郎も、最近は店先で大声を出さなくなった。
ある日、俺が尋ねた。
「どうした。静かじゃないか」
新九郎は、周囲を見回した。
「最近は、何を言っても怖いからな」
「お前にも怖いものがあったのか」
「あるさ。将軍様と、お前の奥方だ」
俺は思わず笑った。
「後者の方が怖いだろ」
「もちろんだ」
二人で笑った。
だが、その笑いも、すぐに消えた。
店の前を、幕府の役人が通り過ぎたからだ。
◇
ある日、佐吉が一人の男を連れてきた。
「若旦那。少し、お話を聞いていただけますか」
男は、五十歳ほどの武士だった。
着物は古び、顔には疲れが見える。
名を小笠原重定と名乗った。
「旗を作っていただきたい」
俺は頷いた。
「どのような旗でしょう」
重定は、少し迷った。
そして、懐から古い布を取り出した。
そこには、家の紋が描かれていた。
だが、紋の一部が破れている。
「これを、直していただきたい」
俺は布を広げた。
「修繕なら、できます」
重定は、静かに言った。
「ただし、誰にも知られぬように」
俺は、顔を上げた。
「なぜですか」
重定は、しばらく黙った。
そして、声を落とした。
「我が家は、幕府の不興を買いました」
俺は、息を呑んだ。
◇
重定の主人は、義教様の命令に従わなかったという。
そのため、所領を失い、家人たちは散り散りになった。
重定は、最後まで主人に仕えた者だった。
「この旗は、先代から受け継いだものです」
重定は言った。
「今は掲げることも許されません」
俺は、布を見た。
長く使われた旗だった。
何度も修繕され、縫い目が重なっている。
「それでも、残したいのです」
重定の声は、静かだった。
「家があったことを、忘れたくない」
俺は、父上の古い旗の箱を思い出した。
尊氏様の旗。
直義様の旗。
もう掲げられない旗たち。
俺は、ゆっくり頷いた。
「お預かりします」
重定は、深く頭を下げた。
◇
修繕は、弥三郎に任せた。
息子は、古い旗を丁寧に広げた。
「父上。ずいぶん傷んでいますね」
「そうだな」
「新しく作った方が、早いと思います」
俺は頷いた。
「そうだろうな」
弥三郎は、少し考えた。
「でも、この旗を直してほしいんですよね」
「ああ」
「なぜでしょう」
俺は、少しだけ笑った。
「新しい旗では、残せないものがあるからだ」
弥三郎は、しばらく布を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「……分かりました」
◇
数日後、旗が修繕された。
弥三郎は、破れた部分を丁寧に縫い合わせ、元の形をできる限り残していた。
俺は、仕上がりを見て頷いた。
「よくやった」
弥三郎は、少し照れたように笑った。
「ありがとうございます」
重定が受け取りに来ると、旗を広げて、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……ありがとうございます」
その声は、震えていた。
俺は、何も言わなかった。
重定は、旗を丁寧に畳んだ。
「これで、先代に顔向けができます」
俺は、深く頭を下げた。
◇
重定が帰った後、弥三郎が言った。
「父上」
「何だ」
「将軍様は、あの人の家を潰したんですよね」
俺は、少し考えた。
「そう聞いた」
「でも、あの人は悪い人には見えませんでした」
俺は頷いた。
「そうだな」
弥三郎は、少しだけ眉をひそめた。
「では、将軍様が間違っているんでしょうか」
俺は、すぐには答えられなかった。
義教様は、幕府を強くしようとしている。
そのために、従わない者を処罰している。
だが、処罰された者の中にも、家族がいて、家人がいて、守りたいものがある。
俺は、静かに答えた。
「……正しいことをしようとしても、誰かを傷つけることはある」
弥三郎は、俺を見た。
「それでも、正しいんですか」
俺は、しばらく考えた。
「分からん」
弥三郎は、少し不満そうな顔をした。
「父上は、いつも分からないって言いますね」
俺は苦笑した。
「そうだな」
そして、続けた。
「でも、分からないことを、分かったふりはしたくないんだ」
弥三郎は、黙っていた。
◇
その夜、俺は父上の古い帳面を開いた。
尊氏様の名前。
直義様の名前。
師直殿の名前。
そして、義満様の名前。
どの時代にも、強い者がいた。
正しいと信じる者がいた。
だが、最後には、皆いなくなった。
俺は、帳面を閉じた。
「父上」
小さく呟いた。
「強い将軍様がいれば、平和になると思っていました」
返事はない。
「でも、強すぎても、怖いものなんですね」
俺は、静かに息を吐いた。
◇
翌朝。
幕府から、新しい注文が届いた。
差出人は、義教様。
俺は、少しだけ緊張しながら開いた。
そこには、こう書かれていた。
『旗屋弥一郎。至急、参上せよ』
俺は、思わずため息をついた。
新九郎が覗き込む。
「今度は何だ?」
「呼び出しだ」
「旗の注文じゃないのか?」
「書いてない」
新九郎は、少し考えた。
そして、真顔で言った。
「……お前、何かしたか?」
俺は、重定の旗を思い出した。
幕府に処罰された家の旗。
それを、俺たちは修繕した。
誰にも知られぬように。
胸の奥が冷たくなった。
まさか。
俺は、ゆっくり立ち上がった。
「……行ってくる」
弥三郎が、心配そうに言った。
「父上」
「何だ」
「お気をつけて」
俺は、少し笑った。
「ああ」
店先の看板が、風に揺れていた。
『本日の味方』
『明日は不明』
父上。
今度ばかりは、本当に困りました。
……将軍様、どうか今日は、機嫌よく笑っていてください。




