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次の将軍は、くじで決めます

将軍家から届いた注文書には、こう書かれていた。


『旗は、まだ作るな』


俺はそれを帳面に挟み、返事を待った。


一日。


三日。


十日。


何の知らせもない。


その間にも、店には別の仕事が入ってくる。寺の幟、商家の暖簾、祭礼に使う小旗。佐吉たちは忙しく針を動かし、弥三郎は初めて一人で受けた注文の代金を三度も数え直していた。


旗を作るなと言われても、旗屋は暮らしていかなければならない。


ところがある朝、新九郎が息を切らして飛び込んできた。


「弥一郎! 大変だ!」


俺は帳面から顔を上げた。


「また関東か?」


「違う!」


「南朝の人たちか?」


「違う!」


「じゃあ、何だ」


新九郎は俺の前に両手をついた。


「次の将軍を、くじで決めるらしい!」


俺は筆を置いた。


「……もう一度言ってくれ」


「くじだ!」


「何を?」


「将軍を!」


しばらく、店の中が静まり返った。


やがて佐吉が、針を持ったまま尋ねた。


「くじというのは、当たり外れのある、あのくじですか」


「そうだ!」


弥三郎が言った。


「祭りで引くような?」


「そうだ!」


俺は頭を抱えた。


父上。


ついに来ました。


旗屋が思いつくより先に、幕府が冗談を始めました。


          ◇


応永三十五年、正月。


前将軍の足利義持(あしかがよしもち)様が亡くなった。


嫡男の義量(よしかず)様は、すでに三年前に世を去っている。


義持様は生前、後継者を明確に定めなかった。そのため、幕府の重臣たちは難しい選択を迫られていた。


候補となったのは、義持様の弟たち。


いずれも寺に入り、僧として暮らしていた人々である。


つまり、次の将軍を決めるには、まず僧侶の中から一人を選び、俗世へ戻ってもらわなければならない。


新九郎が首を傾げた。


「坊様を将軍にするのか」


「そういうことらしい」


「坊様は戦が嫌だから寺に入ったんじゃないのか?」


「生まれた時から、自分で決められたわけでもないだろう」


弥三郎が、作りかけの旗を見つめながら言った。


「選ばれた人は、嫌だと言えないんですか」


俺は答えられなかった。


旗を作る仕事を継ぐかどうか、息子には自分で決めていいと言った。


だが、将軍家の子として生まれた者に、その自由がどれほどあるのだろう。


          ◇


くじは、石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》の神前で引かれた。


人が決めれば、誰かが不満を持つ。


有力な家が推した者を選べば、選ばれなかった者の家が怒る。


ならば神意に委ねる。


そういう理屈だった。


もっとも、理屈を聞いたところで、俺の疑問は消えなかった。


「新九郎」


「何だ」


「もし、お前がくじで旗屋の親方になったら、どうする?」


「まず給金を上げる」


「誰の?」


「俺の」


「お前は親方だろ」


「じゃあ、お前のを下げる」


「俺を雇うつもりか!」


新九郎は笑った。


だが、その笑いは長く続かなかった。


俺たちは知っていた。


くじで決まったとしても、その人が将軍になった後に起きることまで、神様が引き受けてくれるわけではない。


          ◇


やがて、結果が伝わった。


選ばれたのは、青蓮院(しょうれんいん)の門跡である義円(ぎえん)様。


義満様の子であり、義持様の弟に当たる。


義円様は還俗し、やがて足利義教(あしかがよしのり)と名乗ることになる。


俺がその知らせを聞いたのは、昼過ぎだった。


佐吉が尋ねた。


「では、将軍様の旗を作るのですか」


「まだだ」


「決まったのに?」


「決まったことと、正式に将軍になることは別だそうだ」


佐吉は針を置いた。


「……難しいですね」


俺もそう思う。


将軍を決めるのにくじを引き、当たりが出ても、すぐ将軍にはならない。


幕府の仕事は、旗屋の仕事よりずっと複雑らしい。


          ◇


数日後、幕府から使いが来た。


「弥一郎殿。義円様のお召しにより、参上していただきたい」


俺は聞き返した。


「義円様が、私を?」


「左様」


「旗のご注文でしょうか」


使者は少し困った顔をした。


「それは、直接お聞きくだされ」


新九郎が後ろから囁いた。


「くじで決まったから、旗もくじで決めたいんじゃないか」


「縁起でもないことを言うな」


俺は身支度を整えた。


そして、息子を呼んだ。


「弥三郎。今日は一緒に来い」


弥三郎は驚いた。


「私もですか?」


「ああ。そろそろ、こういう仕事も見ておいた方がいい」


「でも、私はまだ……」


「大丈夫だ。俺も慣れてない」


「父上は何十年も通っているんでしょう?」


「だからといって、慣れるものじゃない」


弥三郎は不安そうに笑った。


俺は、その顔を見て少し安心した。


若い頃の俺も、きっと同じ顔をしていた。


          ◇


義円様は、想像していたより静かな人だった。


僧衣をまとい、端正な顔立ちをしている。こちらを見る目は穏やかだが、何かを測っているようにも感じられた。


「そなたが弥一郎か」


「はい」


「父の代から、足利の旗を作ってきたと聞いた」


「ありがたくも、長くご用命をいただいております」


義円様は、俺の隣にいる弥三郎へ目を向けた。


「そちらは?」


「息子の弥三郎でございます」


「次の親方か」


弥三郎の肩が跳ねた。


俺は答えた。


「まだ、本人に決めさせております」


義円様は、わずかに眉を上げた。


「決めさせる?」


「はい」


義円様は、しばらく息子を見つめた。


「羨ましいことだな」


弥三郎は何と答えればよいか分からず、深く頭を下げた。


          ◇


「私は、寺にいた」


義円様は、窓の外へ目を向けた。


「朝は経を読み、学び、仏に仕える。それが私の暮らしだった」


俺は黙って聞いた。


「それがある日、そなたが次の将軍だと言われた」


義円様は、少し笑った。


「しかも、くじでな」


その笑いには、楽しさがなかった。


「おめでとうございます、と皆は言う。だが、何を祝われているのか、私にはまだ分からぬ」


弥三郎が、思わず顔を上げた。


俺は、その気配に気づいた。


義円様も気づいたらしい。


「弥三郎。何か申したいことがあるのか」


息子は青ざめた。


俺は助け舟を出そうとしたが、弥三郎は先に口を開いた。


「……恐れながら」


「申せ」


「お嫌なのでしょうか」


部屋の空気が止まった。


俺の心臓も、止まりかけた。


弥三郎。


お前、初めてお会いした人に何を聞いているんだ。


ところが義円様は怒らなかった。


「嫌か、と」


「はい」


義円様は、しばらく考えた。


「分からぬ」


そして、ゆっくり続けた。


「だが、選ばれた以上、嫌だからと逃げるわけにもいかぬだろう」


弥三郎は頭を下げた。


「失礼いたしました」


「よい。皆が祝いの言葉ばかり口にするのでな。そう聞かれたのは初めてだ」


義円様は、ほんの少しだけ笑った。


          ◇


「さて、旗の話をしよう」


義円様が俺に向き直った。


「そなたの父は、どんな旗を作った」


俺は、少し戸惑った。


「数え切れぬほどでございます」


「最もよい旗は?」


難しい質問だった。


父上が作った旗。


尊氏様の旗。直義様の旗。師直殿の旗。


どれも、父上が懸命に仕立てたものだ。


だが、どれが最もよいかと聞かれても、答えられない。


俺は、しばらく考えた。


「……最初の旗かもしれません」


義円様が眉を上げた。


「最初?」


「はい。父が若い頃に作った、小さな白い旗です」


「紋は?」


「ございません」


「何に使った」


「それも、分かりません」


義円様は俺を見た。


「なぜ、それが最もよい」


俺は正直に答えた。


「父が、そこから始めたからです」


義円様は、しばらく黙っていた。


          ◇


「では、私にも白い旗を作れ」


義円様が言った。


俺は顔を上げた。


「白い旗、でございますか」


「そうだ」


「足利の御紋は?」


「まだ要らぬ」


「ですが、いずれ将軍となられるお方です」


義円様は、静かに俺を見た。


「いずれ、だ」


俺は口を閉じた。


「私は、まだ義円だ。寺にいた頃の名を持ち、僧として過ごした年月を持っている」


義円様は続けた。


「将軍の旗は、将軍になってから作ればよい」


俺は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


義円様は、弥三郎に目を向けた。


「その旗は、そなたが作れるか」


弥三郎は驚いた。


「私が、ですか」


「うむ」


弥三郎は俺を見た。


俺は頷いた。


「やってみろ」


息子は、少しだけ息を整えた。


「……精一杯、仕立てます」


義円様は頷いた。


「頼んだ」


          ◇


店へ戻ると、弥三郎はすぐに布を広げた。


「佐吉さん。教えてください」


佐吉は頷いた。


「もちろんです」


俺は、少し離れたところから見ていた。


弥三郎は、普段よりずっと慎重に針を動かしている。


縫い目は、まだ少し曲がっていた。


だが、丁寧だった。


佐吉が言った。


「弥三郎さん。そこは、もう少し布を引いて」


「はい」


「そうです。急がなくて大丈夫ですよ」


俺は、父上のことを思い出した。


あの人も、俺に仕事を教える時、こうして見ていたのだろうか。


いや。


父上なら、途中で余計なことを言ったかもしれない。


「そこが曲がってるぞ」


そんな声が聞こえた気がして、俺は少し笑った。


          ◇


三日後。


白い旗が完成した。


大きくもない。


華やかでもない。


ただ、丁寧に仕立てられた一枚だった。


弥三郎は、俺の前に旗を広げた。


「父上。できました」


俺は、縫い目を確かめた。


少し曲がっている。


端も、わずかに揃っていない。


だが、悪くない。


「よくできた」


弥三郎は、ほっとしたように笑った。


「ありがとうございます」


俺は、旗を畳みながら言った。


「これを、義円様へ届けよう」


弥三郎は頷いた。


          ◇


義円様は、白い旗を受け取ると、しばらく眺めていた。


「これを、そなたが作ったのか」


「はい」


弥三郎は緊張した声で答えた。


義円様は、縫い目に指を添えた。


「少し曲がっているな」


弥三郎の顔が赤くなった。


「申し訳ございません」


義円様は首を振った。


「よい」


そして、静かに続けた。


「初めから、すべて整っている必要はない」


俺は、その言葉に少し驚いた。


義円様は、白い旗を畳んだ。


「大切にしよう」


弥三郎は、深く頭を下げた。


          ◇


帰り道。


弥三郎が言った。


「父上」


「何だ」


「義円様、怖い方かと思っていました」


「そうか」


「でも、優しい方でしたね」


俺は、少し考えた。


「……そうだな」


弥三郎は笑った。


「よかったです」


俺も笑った。


だが、胸の奥には、少しだけ不安が残っていた。


義円様は、まだ将軍ではない。


これから、何を見て、何を決め、どんな人になるのか。


誰にも分からない。


父上が若い尊氏様を見た時も、きっと同じだったのだろう。


          ◇


それから、しばらくして。


義円様は還俗し、義教様と名乗った。


幕府の中心に立ち、政治を動かし始める。


そして永享元年、1429年。


義教様は正式に征夷大将軍となった。


俺の店にも、将軍就任の儀式に使う旗の注文が届いた。


佐吉が言った。


「若旦那。今度こそ、足利の御紋ですね」


俺は頷いた。


「ああ」


弥三郎が、少しだけ笑った。


「白い旗は、もう要らないんでしょうか」


俺は、しばらく考えた。


「……さあな」


弥三郎は首を傾げた。


「さあな、ですか」


俺は笑った。


「将軍様の気持ちは、俺にも分からん」


          ◇


ところが、義教様が将軍となってから、京の空気は少しずつ変わり始めた。


新九郎が、ある日、店に来て言った。


「弥一郎。最近、幕府の役人が怖いらしいぞ」


俺は帳面から顔を上げた。


「どういうことだ」


「義教様が、ずいぶん厳しくなったそうだ」


「厳しく?」


「ああ。言うことを聞かない者には、容赦しないとか」


俺は、少し考えた。


白い旗を受け取った義円様。


弥三郎の曲がった縫い目を見て、優しく笑った人。


あの人が、厳しくなった。


それは、将軍になったからなのだろうか。


それとも、もともとそういう人だったのだろうか。


俺には、分からなかった。


          ◇


その夜、俺は父上の古い旗の箱を開けた。


最初に作った白い旗。


尊氏様の旗。


直義様の旗。


義満様の旗。


そして、俺の時代の旗。


その隣に、弥三郎が作った白い旗の控え布を置いた。


三代にわたる、白い布。


俺は、しばらく眺めた。


父上の時代。


俺の時代。


そして、弥三郎の時代。


旗屋も、少しずつ変わっていく。


将軍も、変わっていく。


ただ、変わることが、必ずしもよいこととは限らない。


俺は、静かに箱を閉じた。


          ◇


翌朝。


店には、幕府から新しい注文が届いた。


俺は、少しだけ緊張しながら開いた。


そこには、こう書かれていた。


『足利義教公御用。旗五十枚。至急』


俺は、思わず息を呑んだ。


五十枚。


しかも、至急。


佐吉が言った。


「若旦那、何かあったんですか」


俺は、注文書を見つめた。


新九郎が、横から覗き込んだ。


「……また戦か?」


俺は、ゆっくり答えた。


「分からん」


だが、嫌な予感がした。


白い旗を大切にすると言った人が、今度は五十枚の軍旗を求めている。


俺は、店先の看板を見た。


『本日の味方』


『明日は不明』


父上。


どうやら、くじで選ばれた将軍様は、思っていたよりずっと難しい方のようです。


……神様、できれば次は、もう少し穏やかな人を選んでいただけませんか。

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