次の将軍は、まだ子どもです
将軍様に呼ばれて、次の将軍について意見を聞かれる。
そんなことが、本当にあるのだろうか。
俺は使者の後ろを歩きながら、何度も考えた。
父上が生きていたら、きっと笑っただろう。
「旗屋が将軍を選ぶ時代になったか」
そんなことを言いながら。
だが、笑い事ではない。
将軍の後継をめぐる争いが、どれほど多くの人を死なせてきたか。
俺は父上から聞いている。
いや、聞いただけではない。
俺自身も、何度も見てきた。
だから、御所の門が見えた時、足が少し重くなった。
◇
足利義持様は、静かな部屋で俺を待っていた。
「弥一郎。来たか」
「お呼びいただき、ありがとうございます」
義持様は、少しだけ頷いた。
「父の時代から、長く旗を作っているそうだな」
「はい」
「お前の父も、将軍家に仕えていた」
「はい。尊氏様の頃から」
義持様は、しばらく黙っていた。
そして、突然尋ねた。
「お前には、子がいるか」
俺は、少し驚いた。
「……はい」
「何人だ」
「息子が一人おります」
「いくつになる」
「十五になりました」
義持様は、少しだけ目を細めた。
「そうか」
俺は、何の話か分からなかった。
◇
「その子に、店を継がせるつもりか」
義持様が尋ねた。
俺は、少し考えた。
「……まだ、決めておりません」
義持様は、意外そうな顔をした。
「なぜだ」
「本人が、どうしたいのか分かりませんので」
「父の店だぞ」
「はい」
「継がせぬのか」
俺は、少しだけ笑った。
「継いでくれたら嬉しいですが、無理にとは思っておりません」
義持様は、長い間黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……羨ましいな」
俺は、顔を上げた。
◇
義持様には、嫡男の義量様がいた。
まだ若い。
しかし、将軍家に生まれた以上、いずれ将軍になることを期待されている。
義持様は、静かに言った。
「私も、父の後を継いだ」
「はい」
「だが、継ぎたいと思ったことがあったかどうか……今となっては分からぬ」
俺は、何も言えなかった。
義持様は続けた。
「父は、私に将軍職を譲った。だが、政治は父が動かしていた」
俺は頷いた。
「父が亡くなって、初めて自分で決められるようになった」
義持様は、少し笑った。
「それなのに、今度は私が、息子に同じことをしようとしている」
俺は、胸の奥が重くなった。
◇
「弥一郎」
「はい」
「お前は、父から店を譲られた時、どう思った」
俺は、少し考えた。
「……怖かったです」
義持様は、俺を見た。
「怖かった?」
「はい。父がいなくても、店を続けられるのか分からなくて」
「だが、続けた」
「はい」
「なぜだ」
俺は、少しだけ笑った。
「父が、最後まで私を信じてくれたからです」
義持様は、黙っていた。
俺は続けた。
「父は、私に同じようになれとは言いませんでした」
「……そうか」
「自分のやり方でやれ、と」
義持様は、静かに頷いた。
◇
「では、私も息子にそう言えばよいのか」
義持様が尋ねた。
俺は、少し考えた。
「……それだけでは、足りないかもしれません」
義持様の眉が動いた。
「どういう意味だ」
俺は、少しだけ緊張した。
「私の父は、店を譲る前から、少しずつ仕事を任せてくれました」
「うむ」
「失敗もさせてくれました」
「失敗を?」
「はい。怒られましたが」
義持様は、少し笑った。
俺も笑った。
「でも、父は最後には私に決めさせてくれました」
俺は、静かに続けた。
「息子さんにも、決める経験が必要なのかもしれません」
義持様は、長い間黙っていた。
そして、静かに言った。
「……将軍の失敗は、店の失敗とは違う」
俺は、深く頭を下げた。
「おっしゃる通りです」
それ以上、何も言えなかった。
◇
店へ戻ると、新九郎が待っていた。
「どうだった?」
「将軍様の息子の話だった」
「次の将軍か?」
「ああ」
新九郎は、少し考えた。
「で、お前が決めたのか?」
俺は、思わず睨んだ。
「決めるわけないだろ!」
「だよな」
新九郎は笑った。
「安心した。お前が将軍を決めるようになったら、京も終わりだ」
「どういう意味だ!」
佐吉が、横で笑っていた。
◇
その日の夕方、息子の弥三郎が店へ戻ってきた。
十五になった弥三郎は、俺に似て背が高くなり、最近は口答えも増えた。
「父上、ただいま」
「おう」
弥三郎は、店の奥に置かれた旗を見た。
「また、将軍家の仕事ですか」
「そうだ」
「大変ですね」
「まあな」
弥三郎は、少しだけ笑った。
「父上は、よく続けられますね」
俺は、顔を上げた。
「どういう意味だ」
「だって、毎日同じような旗を作っているじゃないですか」
俺は、少し考えた。
確かに、そう見えるかもしれない。
「同じじゃないぞ」
「そうですか?」
「同じ紋でも、使う人が違う。使う時代も違う」
弥三郎は、少しだけ首を傾げた。
「……難しいですね」
俺は笑った。
「そうだな」
◇
夕食の後、俺は弥三郎を呼んだ。
「弥三郎」
「はい」
「お前、将来どうしたい」
弥三郎は、少し驚いた顔をした。
「急にどうしたんですか」
「いや、少し気になってな」
弥三郎は、しばらく考えた。
「……まだ、決めていません」
俺は頷いた。
「そうか」
「父上は、店を継いでほしいですか」
俺は、少しだけ黙った。
本当は、継いでほしい。
父上から受け継いだ店だ。
何十年も続いてきた。
できることなら、息子にも残したい。
だが、それをそのまま言ってよいのだろうか。
俺は、ゆっくり答えた。
「継いでくれたら嬉しい」
弥三郎は、俺を見た。
「でも、無理にとは言わない」
弥三郎は、少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
俺は、胸の奥が少し軽くなった。
◇
翌日、佐吉が弥三郎に針仕事を教えていた。
弥三郎は、思ったより真剣に取り組んでいた。
だが、縫い目は曲がっている。
佐吉が言った。
「もう少し、ゆっくりでいいですよ」
弥三郎は、少し苛立ったように言った。
「分かっています」
俺は、思わず口を出しそうになった。
だが、やめた。
父上なら、どうしただろう。
きっと、少し離れたところから見ていただろう。
俺も、そうすることにした。
◇
しばらくして、弥三郎が俺のところへ来た。
「父上」
「何だ」
「針仕事、難しいですね」
俺は笑った。
「そうだろう」
「佐吉さんは、すごいです」
「そうだな」
弥三郎は、少しだけ黙った。
そして、言った。
「でも、面白いです」
俺は、顔を上げた。
「そうか」
「はい」
弥三郎は、少し照れたように笑った。
「もう少し、やってみたいです」
俺は、静かに頷いた。
「そうか」
その一言だけで、十分だった。
◇
数年後。
応永三十年、1423年。
義持様は、将軍職を嫡男の義量様へ譲った。
義量様は、まだ十代だった。
京では、若い将軍の誕生を祝う声が上がった。
俺の店にも、儀式用の旗の注文が届いた。
佐吉が言った。
「若旦那、また新しい将軍様ですね」
俺は頷いた。
「そうだな」
新九郎が横から言った。
「義持様は、今度こそ隠居するのか?」
俺は、少し考えた。
「どうだろうな」
新九郎は、にやりと笑った。
「父親ってのは、なかなか仕事を手放せないものだからな」
俺は、思わず笑った。
「お前が言うな」
◇
若い義量様のための旗を作りながら、俺は弥三郎のことを考えた。
弥三郎も、もう十八になっていた。
最近は、店の仕事を少しずつ覚え始めている。
佐吉に教わり、時には失敗し、時には俺に叱られる。
それでも、毎日店へ顔を出す。
俺は、少しだけ嬉しかった。
だが、同時に不安もあった。
本当に、この店を継いでくれるのだろうか。
そして、継いだとして、俺は父上のように手放せるのだろうか。
◇
ある日、弥三郎が言った。
「父上」
「何だ」
「店の帳面、見せてもらってもいいですか」
俺は、少し驚いた。
「帳面?」
「はい。どんな注文が来ているのか、知りたいんです」
俺は、しばらく考えた。
そして、帳面を渡した。
弥三郎は、真剣な顔でページをめくった。
「……ずいぶん、いろんな人から注文が来ているんですね」
「そうだな」
「将軍家だけじゃないんですね」
「もちろんだ」
弥三郎は、少し笑った。
「面白いですね」
俺は、その言葉が嬉しかった。
◇
その夜、俺は父上の古い帳面を開いた。
『旗屋 弥太郎』
懐かしい文字だった。
父上が何十年も書き続けた帳面。
そこには、尊氏様や直義様の名前も残っている。
俺は、しばらくページをめくった。
そして、ふと思った。
父上も、俺が初めて帳面を見せてほしいと言った時、こんな気持ちだったのだろうか。
嬉しいような。
寂しいような。
少し怖いような。
俺は、静かに笑った。
「父上。親になるって、難しいですね」
返事はない。
それでも、何となく父上が笑っている気がした。
◇
ところが、若い将軍・義量様の時代は、長く続かなかった。
応永三十二年、1425年。
義量様が病に倒れた。
まだ十九歳だった。
京の町に、不安が広がった。
将軍になって、わずか二年。
若すぎる。
あまりにも、若すぎる。
俺は、その知らせを聞いた時、弥三郎の顔を思い浮かべた。
義量様と、ほとんど同じ年頃だ。
そんな若者が、将軍という重い立場を背負い、そして病に倒れた。
胸の奥が痛くなった。
◇
義量様が亡くなったという知らせが届いた日、義持様から注文が来た。
弔いのための白い旗だった。
俺は、注文書を見つめた。
新九郎が、静かに言った。
「……つらいな」
俺は頷いた。
「ああ」
「義持様は、息子を将軍にしたかったんだろうな」
「そうだろうな」
「でも、こんなに早く……」
新九郎は、それ以上言わなかった。
俺も、何も言えなかった。
◇
旗を作る間、佐吉も弥三郎も黙っていた。
白い布。
飾りのない旗。
弔いのための旗。
弥三郎が、ぽつりと言った。
「父上」
「何だ」
「将軍様でも、死ぬんですね」
俺は、顔を上げた。
弥三郎は、白い布を見つめていた。
「若いのに」
俺は、静かに頷いた。
「そうだな」
「……怖いですね」
俺は、弥三郎の肩に手を置いた。
「そうだな」
それ以上、何も言えなかった。
◇
義量様の死後、義持様は再び政治の中心に立った。
だが、将軍の座は空いたままだった。
誰が次の将軍になるのか。
京では、さまざまな噂が流れ始めた。
義持様には、もう嫡男がいない。
将軍家の血を引く者はいる。
しかし、誰を選ぶのか。
それは、簡単な話ではなかった。
新九郎が言った。
「弥一郎。また、将軍を決める話になりそうだぞ」
俺は、深いため息をついた。
「……今度こそ、旗屋に相談しないでほしいな」
新九郎は笑った。
「無理だろうな」
「何でだよ」
「お前の店、将軍が変わるたびに呼ばれてるじゃないか」
俺は、返す言葉がなかった。
◇
その夜、俺は弥三郎と向かい合って座った。
「弥三郎」
「はい」
「お前、店を継ぎたいと思うか」
弥三郎は、少し驚いた顔をした。
「……急ですね」
「そうだな」
俺は、少し笑った。
「でも、聞いておきたくなった」
弥三郎は、しばらく考えた。
そして、静かに言った。
「……まだ、分かりません」
俺は頷いた。
「そうか」
「でも、店の仕事は好きです」
俺は、顔を上げた。
弥三郎は続けた。
「旗を作るのも、帳面を見るのも、面白いです」
俺は、少しだけ笑った。
「そうか」
「ただ……」
弥三郎は、少し迷った。
「父上や祖父上みたいに、偉い人たちと話すのは、苦手です」
俺は、思わず笑った。
「俺も苦手だ」
弥三郎は、驚いた顔をした。
「そうなんですか?」
「ああ。今でも毎回、帰りたくなる」
弥三郎は声を出して笑った。
俺も笑った。
◇
「弥三郎」
「はい」
「店を継ぐかどうかは、まだ決めなくていい」
弥三郎は頷いた。
「はい」
「ただ、一つだけ覚えておけ」
「何ですか」
俺は、少し考えた。
「旗屋は、旗を作るだけの仕事じゃない」
弥三郎は、首を傾げた。
「どういう意味です?」
俺は、少し笑った。
「それは、これから教える」
弥三郎は、少し不満そうな顔をした。
「……今、教えてくださいよ」
俺は笑った。
「そんなに簡単に教えられるなら、俺も苦労してない」
弥三郎は、呆れたように笑った。
◇
翌朝。
店には、幕府から新しい注文が届いた。
差出人は、義持様だった。
俺は、少しだけ緊張しながら注文書を開いた。
そこには、こう書かれていた。
『旗は、まだ作るな』
俺は、思わず声を上げた。
「……え?」
新九郎が覗き込む。
「何だ?」
俺は、注文書を見せた。
新九郎は、しばらく黙った。
そして、にやりと笑った。
「お前の店、とうとう旗を作るなって注文が来たのか」
俺は、深いため息をついた。
「……そうらしい」
新九郎は、声を出して笑った。
俺も、少しだけ笑った。
だが、胸の奥には、不安が残っていた。
将軍の座が空いている。
次の将軍が決まらない。
そして、旗はまだ作るなと言われている。
父上。
どうやら今度は、旗を掲げる前に、誰が旗を持つのか決めなければならないようです。




