上皇様、旗屋に嘘をつかせないでください
朝廷からの注文は、三枚だった。
たった三枚。
関東の武士が三十枚も注文してきた後だから、ずいぶん楽な仕事に思えた。
しかも、使い道は儀式だという。
戦ではない。人も殺さない。刀を抜く必要もない。
俺は久しぶりに、心から嬉しくなった。
「佐吉、今日は祝い酒だ」
「まだ注文を受けただけですよ、若旦那」
「それでもめでたい。相手は上皇様だぞ」
新九郎が横から言った。
「上皇様の旗って、何の紋を入れるんだ?」
「それは先方に確認する」
「大きさは?」
「それも確認する」
「いつ使うんだ?」
「……確認する」
新九郎は首を傾げた。
「お前、何も分かってないじゃないか」
俺は注文書を見た。
確かに、分かっていることは少なかった。
ただ、一つだけ、妙なことが書いてあった。
『古き旗に似せて仕立てること。ただし、古き旗とは見えぬように』
俺は、三度読み返した。
「……どういう意味だ?」
新九郎が覗き込んだ。
「古い旗みたいに作れ。でも古い旗に見せるな、ってことか?」
「そう書いてある」
「無理だろ」
俺も、そう思った。
◇
注文の主は、後小松上皇様の御所に仕える公家だった。
名を中御門実継と名乗った。
年は四十前後。顔色が白く、衣にはよい香が焚きしめられている。
ただし、妙に落ち着きがなかった。
「旗は、いつまでに必要でしょうか」
俺が尋ねると、実継殿は答えた。
「七日後だ」
「用途は?」
「儀式だ」
「どのような儀式でしょう」
「それは申せぬ」
「では、古い旗とは、どの旗のことでしょうか」
実継殿は少し黙った。
「……南朝のものだ」
俺は筆を止めた。
南朝。
その名を聞くと、どうしても宗次殿の顔を思い出す。
吉野から来て、帝を迎える旗を注文した男。
南北朝が一つになった後、掲げる場所がなくなったと言って、旗を俺に預けていった。
あの旗は、今も店の奥にある。
「南朝の旗を、再び作るのですか」
俺が尋ねると、実継殿は首を振った。
「違う。南朝の旗に似せたものだ」
「……何のために?」
「だから、儀式だと言っておる」
俺は、嫌な予感がした。
◇
実継殿が帰った後、俺は店の奥から一つの箱を取り出した。
宗次殿が預けていった旗である。
白い布に、丁寧に縫われた菊の紋。
一度も掲げられなかった旗だ。
佐吉が、そっと覗き込んだ。
「若旦那。これを真似るんですか?」
「そういうことらしい」
「でも、同じにしてはいけないんですよね」
「ああ」
新九郎が腕を組んだ。
「難しいな」
「難しいどころじゃない」
俺は旗を畳み直した。
宗次殿は、あの旗を捨てられなかった。
それほど大切なものだったのだ。
その旗を、事情も分からず別のものに作り替えてよいのだろうか。
俺は、しばらく考えた。
そして、決めた。
「もう一度、御所へ行こう」
◇
御所では、実継殿が困った顔で迎えてくれた。
「何か不都合でも?」
「はい」
「布が足りぬのか」
「いいえ」
「代金か」
「それも違います」
「では、何だ」
俺は、まっすぐ実継殿を見た。
「誰のための旗なのか、分かりません」
実継殿は黙った。
「儀式に使うことは分かりました。ですが、南朝の旗に似せる理由が分からないのです」
実継殿は、少し苛立ったように言った。
「旗屋が、そこまで知る必要があるのか」
俺は、深く頭を下げた。
「以前は、私もそう思っておりました」
「以前?」
「はい。言われた通りに旗を作れば、それで仕事は終わると」
実継殿は、黙って聞いていた。
「ですが、私の作った旗が戦で使われ、人が死ぬところを見ました」
俺は続けた。
「それからは、できる限り、誰のために作るのかを確かめるようにしております」
実継殿は、しばらく黙っていた。
やがて、小さくため息をついた。
「……面倒な旗屋だな」
「よく言われます」
俺は、正直に答えた。
◇
実継殿は、ようやく事情を話し始めた。
南北朝が一つになってから、すでに二十年以上が過ぎていた。
しかし、南朝と北朝の間にあった約束については、今も不満を抱く者がいる。
とりわけ、皇位を両統が交互に継ぐという取り決めを、どう扱うのか。
その問題は、まだ人々の心に残っていた。
「南朝に連なる人々の中には、約束が守られていないと考える者もいる」
実継殿は言った。
「今回の旗は、その者たちに示すためのものだ」
俺は、少し考えた。
「何を示すのですか」
「朝廷は、南朝の存在を忘れておらぬ、ということだ」
俺は頷いた。
「では、南朝の旗をそのまま掲げればよいのでは?」
実継殿は、苦い顔をした。
「それでは、二つの朝廷が再び並び立つように見える」
俺は、ようやく理解した。
南朝を忘れていないと示したい。
だが、南朝が今も別に存在するようには見せたくない。
だから、古い旗に似せる。
しかし、古い旗には見せない。
「……なるほど」
俺は呟いた。
「ようやく分かったか」
「はい」
少し考えてから、付け加えた。
「ただ、分かったからといって、簡単には作れません」
実継殿は、額を押さえた。
◇
「弥一郎殿」
実継殿は、静かに言った。
「朝廷には、朝廷の事情がある」
「はい」
「すべてを明らかにすれば、かえって争いを生むこともある」
俺は頷いた。
「それは、分かります」
「ならば、黙って作ってくれぬか」
俺は、しばらく考えた。
そして、答えた。
「……一つだけ、条件がございます」
実継殿の眉が上がった。
「条件?」
「旗を掲げる方々に、これは南朝の旗そのものではないと、きちんと伝えていただきたいのです」
「なぜだ」
「旗を見た人が、何を信じるか分からないからです」
俺は、宗次殿のことを思い出した。
あの男は、掲げる場所を失った旗を、捨てられなかった。
もし、南朝の旗が再び掲げられたと思ったら。
どんな気持ちになるだろう。
「旗屋が作った布一枚で、人の希望を弄びたくありません」
実継殿は、長い間黙っていた。
やがて、静かに頷いた。
「……分かった」
俺は、深く頭を下げた。
◇
店へ戻ると、新九郎が待っていた。
「どうだった?」
「事情は分かった」
「で、作るのか?」
「ああ」
新九郎は、少し驚いた。
「珍しいな。今回は断ると思った」
俺は首を振った。
「断る理由がなくなった」
「どういうことだ?」
俺は、少し考えた。
「相手が何をしたいのか、分かったからだ」
新九郎は、しばらく黙った。
そして、にやりと笑った。
「お前、最近ますます父上に似てきたな」
俺は、少し笑った。
「そうか?」
「ああ。面倒なところが」
「そこかよ!」
◇
旗作りは、佐吉が中心になって進めた。
南朝の旗をそのまま写すのではない。
菊の紋を用いながらも、色や飾りを変え、現在の朝廷の儀礼にふさわしいものにする。
佐吉は、何度も布を並べ直した。
「若旦那、これでは似すぎています」
「そうだな」
「こちらでは、似ていません」
「そうだな」
「……どちらにすればよいんですか」
俺は、しばらく考えた。
「真ん中だ」
佐吉は、俺を見た。
「真ん中?」
「ああ」
佐吉は、少しだけ笑った。
「若旦那。最近、説明が雑になりましたね」
俺は苦笑した。
父上なら、もっと上手く言っただろう。
◇
七日後。
三枚の旗が完成した。
白地に菊の紋。
だが、南朝の旗そのものではない。
かつての記憶を残しながら、今の朝廷の旗として仕立てられている。
俺は、完成した旗を眺めた。
佐吉が言った。
「若旦那、これでよろしいでしょうか」
俺は頷いた。
「よい出来だ」
佐吉は、ほっとしたように笑った。
「ありがとうございます」
俺は、旗を丁寧に畳んだ。
今度こそ、誰も傷つけない旗であってほしい。
そう願った。
◇
儀式の日。
俺は、御所の外から様子を見ていた。
旗は、静かに掲げられていた。
風に揺れる三枚の旗。
それを見つめる人々。
中には、懐かしそうな顔をする者もいた。
だが、誰も声を上げなかった。
旗は、ただ静かに揺れていた。
俺は、少し安心した。
その時だった。
背後から、聞き覚えのある声がした。
「……弥一郎殿」
振り返ると、宗次殿が立っていた。
俺は、思わず息を呑んだ。
◇
「宗次殿!」
「お久しぶりです」
宗次殿は、以前より老けていた。
髪には白いものが増え、背中も少し丸くなっている。
だが、目は変わっていなかった。
「お元気でしたか」
俺が尋ねると、宗次殿は静かに頷いた。
「何とか、生きております」
俺は、少し笑った。
「それは、何よりです」
宗次殿は、掲げられた旗を見た。
「……あれは、弥一郎殿の仕事ですか」
俺は頷いた。
「はい」
宗次殿は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「似ていますな」
俺は、何も言えなかった。
「我らが、吉野で掲げていた旗に」
俺は、ゆっくり頷いた。
「はい」
宗次殿は、旗を見つめたまま言った。
「ですが、同じではありません」
俺は、胸の奥が痛くなった。
「……はい」
◇
「弥一郎殿」
宗次殿は、静かに続けた。
「なぜ、あの旗を作られたのですか」
俺は、少し考えた。
「忘れていないと、示すためです」
宗次殿は、俺を見た。
「誰が?」
「朝廷が、です」
宗次殿は、しばらく黙った。
そして、苦く笑った。
「忘れていない、ですか」
俺は、何も言えなかった。
宗次殿は続けた。
「我らが望んでいたのは、覚えていてもらうことだけではありません」
俺は、深く頷いた。
「分かっております」
「本当に?」
その問いに、俺は答えられなかった。
◇
宗次殿は、再び旗を見た。
「我らは、約束が守られると信じておりました」
俺は黙った。
「しかし、年月が過ぎても、約束は果たされませんでした」
宗次殿の声は、静かだった。
怒鳴るわけでもない。
泣くわけでもない。
ただ、長い間抱えてきた思いを、少しずつ言葉にしているようだった。
「そして今、我らに与えられるのは、似た旗です」
俺は、胸の奥が重くなった。
宗次殿は、ゆっくり息を吐いた。
「……それでも、何もないよりはよいのでしょうな」
俺は、思わず顔を上げた。
宗次殿は、少し笑った。
「人は、歳を取ると、諦めるのが上手くなります」
その笑顔が、あまりにも寂しかった。
◇
「宗次殿」
俺は、勇気を出して尋ねた。
「預かっている旗は、どういたしましょう」
宗次殿は、少し驚いた顔をした。
「まだ、持っていてくださるのですか」
「もちろんです」
「……そうですか」
宗次殿は、しばらく考えた。
そして、静かに言った。
「もう少し、預かっていただけますか」
俺は頷いた。
「はい」
宗次殿は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
俺も、頭を下げた。
◇
店へ戻ると、佐吉が待っていた。
「若旦那、どうでした?」
俺は、少し考えた。
「旗は、無事に掲げられた」
佐吉は、ほっとしたように笑った。
「よかったです」
俺は頷いた。
「そうだな」
だが、胸の奥には、宗次殿の言葉が残っていた。
――我らが望んでいたのは、覚えていてもらうことだけではありません。
俺は、店の奥にある箱を見た。
そこには、宗次殿の旗が眠っている。
誰にも掲げられず、誰にも捨てられない旗。
俺は、静かに呟いた。
「……難しいな」
佐吉が首を傾げた。
「何がです?」
俺は、少し笑った。
「人の気持ちだよ」
佐吉は、しばらく考えた。
そして、静かに頷いた。
「そうですね」
◇
その夜、俺は帳面を開いた。
今日の仕事を書き留める。
『上皇御所 儀礼用旗 三枚』
そして、その下に、小さく書き加えた。
『南朝の記憶を残すため』
筆を置いた。
しばらく、その文字を眺めた。
父上なら、何と書いただろう。
きっと、もっと短い言葉を選んだだろう。
俺は、少し笑った。
そして、帳面を閉じた。
◇
翌朝。
店には、新しい注文が届いていた。
差出人は、幕府の使者だった。
俺は、少しだけ安心した。
「今度は将軍様か」
使者は頷いた。
「左様」
「何をお作りしましょう」
使者は、静かに答えた。
「旗ではない」
俺は、首を傾げた。
「……旗ではない?」
「将軍様が、旗屋の弥一郎殿にお会いになりたいと」
嫌な予感がした。
「何のご用でしょうか」
使者は、少しだけ声を落とした。
「次の将軍について、お話があるそうだ」
俺は、思わず筆を落とした。
次の将軍。
義持様は、まだ生きておられる。
なのに、次の将軍?
新九郎が、横から顔を出した。
「弥一郎。今度は何だ?」
俺は、ゆっくり答えた。
「……将軍様が、次の将軍の話をしたいらしい」
新九郎は、しばらく黙った。
そして、真顔で言った。
「それ、旗屋に相談することか?」
俺は、深く頷いた。
「俺も、そう思う」
店先の看板が、風に揺れていた。
『本日の味方』
『明日は不明』
父上。
どうやら、今度は味方どころか、将軍まで決める話になりそうです。
……うちは、いつからそんなに偉い店になったんでしょうか。




