関東から来た注文書には、宛名がなかった
「旗三十枚。至急。代金は後払い」
俺は注文書を読み、最初に思ったことを口にした。
「断ろう」
新九郎が目を丸くした。
「早いな!」
「宛名がない」
「そうだな」
「届け先もない」
「そうだな」
「代金は後払い」
「そうだな」
「お前、これを受けたいか?」
新九郎は注文書をもう一度見た。
「……断ろう」
意見が一致した。
実に珍しいことだった。
だが、問題はその後に起きた。
注文書を持ってきた若い男が、店先で言ったのである。
「作っていただけなければ、私が殺されます」
俺と新九郎は、もう一度顔を見合わせた。
父上。
こういう時、どうしていましたっけ。
◇
男は藤丸と名乗った。
まだ二十歳になるかどうか。顔は日に焼け、履物は泥だらけだった。京まで相当な道のりを急いできたのだろう。
「鎌倉から参りました」
「それは分かる。誰の使いだ?」
「……申し上げられません」
「では、誰の旗を作ればいい?」
「それも、まだ」
俺は額を押さえた。
「藤丸。旗というのはな、誰の旗か分からないと作れないんだ」
「白い旗では駄目でしょうか」
「白い旗を三十枚も持って戦場へ行ったら、全員降伏したと思われるぞ」
新九郎が吹き出した。
藤丸は笑わなかった。
「本当に、困っているんです」
その声があまりに切実だったので、俺は椅子を勧めた。
「まず座れ。それから、話せるところまで話してくれ」
藤丸は腰を下ろした途端、糸が切れたように肩を落とした。
◇
鎌倉では、関東を治める鎌倉公方の足利持氏様と、その補佐役である関東管領の上杉氏憲殿が対立していた。
氏憲殿は出家して、禅秀と号している。
その禅秀殿が、兵を挙げた。
藤丸の主人は、鎌倉近くに所領を持つ小さな武士だったという。
「初めは、公方様に従うようにと言われました」
「うむ」
「ところが、次の日には禅秀様の側へ来いと」
「ほう」
「さらに昨日、別の方から、どちらにもつくなと……」
新九郎が感心したように言った。
「三日で三通りか。忙しいな」
藤丸はうなだれた。
「主人も、何が正しいのか分からなくなっております」
俺は思わず父上の看板を見た。
『本日の味方』
『明日は不明』
遠い関東でも、どうやら事情は同じらしい。
「それで、三十枚の旗は?」
「主人が申しました。どちらに味方することになっても困らぬよう、旗だけ先に用意しておけ、と」
俺はしばらく黙った。
そして尋ねた。
「主人は、どちらの味方になるつもりなんだ?」
藤丸は顔を上げた。
「……それを決めるための旗です」
そんなものがあれば、俺も欲しい。
◇
佐吉を呼んで相談した。
佐吉は注文書を見て、困った顔をした。
「若旦那。紋を描かずに仕立てておいて、後から入れることはできます」
「そうだな」
「ですが、急いで使うなら、仕上がりは悪くなります」
「分かってる」
「それに、どちらの紋を入れるか分からないままでは、布の色も決められません」
俺は頷いた。
藤丸は、期待するように俺たちを見ていた。
この男を手ぶらで帰せば、主人に罰せられるかもしれない。
だが、使い道の分からない旗を作る怖さは、明徳の乱で嫌というほど味わった。
俺は藤丸に言った。
「三十枚は作れない」
藤丸の顔が青くなった。
「ただし、白い布と染料、それに仕立て道具を渡そう。どちらの旗を作るにしても、最後はお前たちが決めるんだ」
藤丸は戸惑った。
「私どもが、ですか」
「ああ。旗屋に味方まで決めさせるな」
新九郎が横で頷いた。
「その通りだ。うちの親方は、自分の昼飯だってなかなか決められないんだから」
「お前は黙ってろ」
藤丸が、初めて少し笑った。
◇
その夜、店の戸を叩く者があった。
佐吉が戸を開けると、二人の武士が立っていた。
一人は背が高く、片方の頬に古い傷があった。
もう一人は小柄で、目だけが妙に鋭かった。
「この店に、鎌倉からの使いが来たはずだ」
俺は筆を置いた。
「お客のことは、勝手に話せません」
背の高い武士が鼻で笑った。
「商人が、武士に口答えするのか」
「口答えではありません。商売の決まりです」
「ならば、その決まりを破らせるまでだ」
男が一歩踏み込んだ。
新九郎が立ち上がる。
佐吉は、さりげなく若い職人たちを奥へ下がらせた。
俺は、男たちの腰の刀を見た。
昔なら、ここで父上が出てきただろう。
笑いながら、相手の気をそらしたかもしれない。
だが、今は俺が親方だ。
「お二人は、どちらの御家中ですか」
俺が尋ねると、小柄な男が答えた。
「鎌倉公方様にお仕えする者だ」
背の高い男が、わずかに顔を動かした。
俺は見逃さなかった。
「では、公方様の御紋で旗を作りましょうか」
「……いや」
「なぜです?」
小柄な男は黙った。
背の高い男が言った。
「旗ではない。注文書を見せろ」
俺は、ゆっくり頷いた。
「なるほど。旗が欲しいのではないんですね」
二人の目が険しくなった。
「誰が、どちらに味方するか。それを知りたい」
背の高い男が刀の柄に手を置いた。
新九郎の顔から笑みが消えた。
◇
俺は、帳場の下から一枚の紙を取り出した。
「注文書なら、こちらです」
小柄な男が奪い取るように受け取った。
そこには、こう書いてあった。
『白布三十枚。仕立て道具一式』
男は紙を裏返した。
「これだけか」
「これだけです」
「紋は?」
「ありません」
「宛名は?」
「ありません」
男は俺を睨んだ。
「ふざけているのか」
「最初から、そういう注文でしたので」
正確には、途中で俺が変えた注文だった。
嘘ではない。
少なくとも、今は。
背の高い男が舌打ちした。
「役に立たん店だ」
「よく言われます」
二人は店を出ていった。
戸が閉まるまで、誰も動かなかった。
やがて新九郎が大きく息を吐いた。
「弥一郎。お前、いつからそんなに肝が据わったんだ」
俺は帳場に手をついた。
指先が震えていた。
「……今、腰が抜けそうだ」
新九郎が笑い、佐吉もようやく息を吐いた。
◇
翌朝、藤丸が来た。
「昨夜、何かありましたか」
俺は顔を上げた。
「なぜ分かった?」
「宿の近くにも、知らない男が来ました」
藤丸の声は震えていた。
「主人が、どちらにつくつもりなのか探っているようです」
俺は、しばらく考えた。
「藤丸。主人には、こう伝えてくれ」
「はい」
「旗は、最後に作ればいい。まず、誰を守るのか決めろ」
藤丸は目を伏せた。
「主人は、家を守りたいのです」
「なら、その家にいる者の顔を思い浮かべてもらえ」
「顔、ですか」
「奥方や子ども、家人たちだ。主人が間違えれば、困るのはその人たちだろう」
藤丸は、しばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「必ず、お伝えします」
◇
藤丸が出発した後、新九郎が言った。
「ずいぶん立派なことを言ったな」
「そうか?」
「ああ。まるで弥太郎殿みたいだった」
俺は、少しだけ笑った。
「父上なら、もっと上手く言っただろうな」
新九郎は首を振った。
「いや。今のは、お前の言葉だった」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
佐吉が布を畳みながら言った。
「若旦那。私も、そう思います」
二人にそんなことを言われると、何だか落ち着かない。
俺は筆を取った。
「……仕事しろ、仕事」
新九郎が笑った。
「照れてるな」
「うるさい!」
◇
関東からの知らせは、日を追うごとに悪くなった。
禅秀方が鎌倉を攻め、持氏様は逃れたという。
幕府も事態を重く見て、義持様は持氏様を支える方針を取った。
京の武士たちは、また旗を注文し始めた。
俺の店にも、関東へ向かう者たちから依頼が入った。
「親方、また戦の旗ですね」
佐吉が言った。
俺は頷いた。
「そうだな」
「作りますか」
俺は注文書を確かめた。
依頼主。
届け先。
使用する紋。
すべて明らかだった。
「作ろう」
佐吉は、少しだけ意外そうな顔をした。
「よろしいのですか」
「俺たちは、戦そのものを止められない」
俺は、布を広げた。
「だが、誰に渡すか分からない旗は作らない。作った旗を、誰が受け取ったかは記録する。それくらいは、できる」
佐吉は頷いた。
「はい」
明徳の乱で佐吉を助けるために作った四十枚の旗。
あの時、俺は代金さえ受け取らず、相手の言うままに渡した。
あれから長い時間が過ぎた。
同じ失敗を、繰り返したくなかった。
◇
年が明ける頃、禅秀方は敗れた。
禅秀は自害し、鎌倉公方の持氏様が再び勢力を取り戻した。
京では、幕府が関東を鎮めたと喜ぶ声が聞こえた。
新九郎も、ほっとした様子だった。
「これで関東も落ち着くな」
俺は頷いた。
「そうだといいが」
「何だよ。めでたい話だろ」
「そうだな」
俺は、藤丸のことを思い出していた。
あの男は、無事に帰れただろうか。
主人は、どちらの味方を選んだのだろう。
戦が終わったという知らせだけでは、そこまでは分からなかった。
◇
春になって、藤丸が店を訪ねてきた。
俺は、思わず立ち上がった。
「藤丸!」
藤丸は、以前より少し痩せていた。
だが、元気そうだった。
「弥一郎様。その節は、ありがとうございました」
「無事だったか!」
「はい」
俺は、心から安心した。
「主人は?」
藤丸は、少しだけ顔を曇らせた。
「生きております」
俺は、その言い方が気になった。
「何かあったのか」
藤丸は、静かに答えた。
「所領の一部を失いました」
俺は黙った。
「主人は、最後までどちらにつくか決められませんでした。結局、戦の終わり近くになって公方様の側へ参りましたが、遅すぎたのです」
藤丸は、少し笑った。
「それでも、家族も家人も生きています」
俺は頷いた。
「それが一番だ」
「主人も、今はそう申しております」
藤丸は懐から小さな包みを取り出した。
中には、銀が入っていた。
「布と道具の代金です」
俺は受け取ろうとしたが、藤丸はもう一つ包みを出した。
「それから、こちらを」
中には、小さな白い布があった。
端には、見覚えのある縫い目。
俺たちの店のものだった。
「これは?」
「主人が、最後まで使わなかった布です」
俺は、しばらく見つめた。
藤丸は続けた。
「主人は申しました。旗を掲げなかったおかげで、少なくとも家の者を無理に戦へ連れ出さずに済んだ、と」
俺は、胸の奥が熱くなった。
◇
「弥一郎様」
藤丸は、深く頭を下げた。
「主人から、もう一つ伝言がございます」
「何だ?」
藤丸は、少しだけ笑った。
「旗屋に味方を決めさせるな、と」
俺は、思わず吹き出した。
新九郎も笑った。
佐吉も、声を出して笑った。
久しぶりに、店の中が明るくなった。
◇
その夜、俺は父上の古い旗の箱を開けた。
父上が最初に作った白い旗。
その隣に、藤丸が持ってきた小さな白い布を置いた。
二つは、よく似ていた。
どちらにも、紋がない。
どちらも、誰の旗にもならなかった。
だが、意味は違う。
父上の白い旗は、これから誰の味方になるか分からなかった頃のもの。
藤丸の白い布は、最後まで誰の旗にもならないことを選んだもの。
俺は、しばらく二つを見つめた。
そして、小さく呟いた。
「父上。俺、少しだけ分かった気がします」
返事はない。
「旗を作ることだけが、旗屋の仕事じゃないんですね」
俺は、箱の蓋を閉じた。
◇
翌朝、俺は店先に新しい看板を掛けた。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
『初代 弥太郎』
その下に、小さな板を一枚。
『旗を作らないご相談も承ります』
新九郎が読んだ。
「……商売になるのか、それ」
俺は、少し考えた。
「分からん」
「お前、親方だろ」
「だから考えてるんだ」
新九郎は、呆れたように笑った。
佐吉が、店の奥から声をかけた。
「若旦那! 新しい注文です!」
俺は振り返った。
「今度はどこから?」
佐吉が答えた。
「京の御所からです!」
俺は、少しだけ安心した。
「よかった。近いな」
すると、佐吉が続けた。
「ただし、将軍様ではありません!」
嫌な予感がした。
「……誰だ?」
佐吉は注文書を読み上げた。
「後小松上皇様の御用だそうです!」
俺は、しばらく天井を見上げた。
父上。
関東の次は、朝廷です。
……どうしてうちの店には、普通のお祭りの旗が来ないんでしょうか。




