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父の旗を、すべて下ろせ

「父の旗を、すべて下ろせ」


注文書には、そう書かれていた。


差出人は、足利義持(あしかがよしもち)様。亡くなった義満様の子であり、今の将軍だ。


俺はその一文を読み返し、帳面の上に置いた。


「新九郎。これ、注文だと思うか?」


「命令だろ」


「そうだよな」


「断れるのか?」


「断れると思うか?」


二人で顔を見合わせた。


新九郎は、珍しく真面目な顔になった。


「……断れないな」


俺も、そう思う。


ただ、一つだけ問題があった。


旗屋は旗を作る商売である。


下ろすのは、普通、旗を掲げた人間の仕事だ。


「いったい、どこにある旗を下ろせというんだ」


俺が呟くと、新九郎はあっさり答えた。


「全部だろ」


「だから、その全部がどこにあるんだよ」


義満様は長く政治の中心にいた人だ。


将軍として、太政大臣として、そして明から日本国王と認められた人物として、数え切れないほどの旗や幟を使ってきた。


それを全部下ろせと言われても、俺の店には手が二本しかない。


新九郎が、少し考えて言った。


「まず、脚立を買うか」


「そういう話じゃない!」


          ◇


将軍の御所へ出向くと、案内されたのは広い庭だった。


そこには、かつて義満様のために作られた旗が並べられていた。儀式用のもの、行列用のもの、そして明の使節を迎えるために仕立てたもの。


見覚えのある布が、風に揺れている。


「久しぶりだな、弥一郎」


声の方を向くと、義持様が立っていた。


俺は慌てて頭を下げた。


義持様は、父の義満様とは雰囲気が違う。


義満様は、人の顔を見ると、まず何かを試すように笑った。こちらが困るのを楽しんでいるようなところさえあった。


義持様は、あまり笑わない。


俺を見ても、何を考えているのか分からない。


「父の旗を作っていたそうだな」


「はい。長くご注文をいただきました」


「ならば、あの旗が何を意味するかも知っているだろう」


義持様が指したのは、明の使節を迎えるために作った旗だった。


「明との外交に用いたものです」


「そうだ」


義持様は、しばらく旗を眺めた。


「父は、海の向こうの皇帝から日本国王と呼ばれた」


「はい」


「お前は、それをどう思った」


また難しい質問だ。


この親子は、どうして旗屋に政治の話を聞くのだろう。


俺は慎重に答えた。


「明との交易を進めるために必要なお立場だったと伺っております」


「必要、か」


義持様は、小さく呟いた。


「父は、何でも必要だと言った」


俺は顔を上げた。


「幕府を強くすることも、諸大名を従わせることも、朝廷の儀式に関わることも、明の皇帝に臣下としての礼を取ることも。すべて、必要だと」


義持様の声は穏やかだった。


だが、その穏やかさがかえって怖かった。


「では、私は何をすればよい」


俺は答えられなかった。


義持様は続けた。


「父が必要だと言ったものを、すべて受け継げばよいのか」


          ◇


義持様は、庭の旗を一本ずつ見て回った。


「父が亡くなってから、皆が私に言う。義満公の御遺志を守れ、と」


俺は黙って聞いた。


「だが、父の遺志とは何だ。父が望んだことを、そのまま続けることか。それとも、父が築いた幕府を守ることか」


義持様は足を止めた。


「二つが違う時、どうすればよい」


その問いに、俺は胸を突かれた。


父上が亡くなった時、俺も似たことを考えたからだ。


父上のやり方を守ることが、店を守ることなのか。


それとも、父上とは違うやり方を選んでも、店が続けばよいのか。


俺は、少しだけ勇気を出した。


「恐れながら、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」


「申せ」


「父上の旗を下ろしても、父上が残したものまで消えるわけではないと思います」


義持様が俺を見た。


「どういう意味だ」


「私の父も、旗屋をしておりました」


「知っている。弥太郎だな」


「はい。父が亡くなった後、私は店の看板を整理しました」


俺は、店先に残した四枚の板を思い浮かべた。


『本日の味方』


『明日は不明』


『急な寝返りにも対応』


『初代 弥太郎』


「父が書いたものを残し、私が書いたものの多くを外しました。ですが、父と同じように仕事をしているわけではありません」


義持様は黙っていた。


「それでも、私は父の店を継いだと思っています」


しばらくして、義持様が尋ねた。


「お前は、父を嫌っていたか」


「とんでもありません」


「では、なぜ同じようにしない」


俺は、少し考えた。


「……父のようになれないからです」


義持様の目が、わずかに動いた。


「父が何十年もかけて覚えたことを、私はまだ知りません。無理に同じように振る舞えば、きっと店を潰します」


俺は続けた。


「ですから、父に教わったことを使って、自分で決めるようにしています」


義持様は、長い間何も言わなかった。


やがて、ぽつりと言った。


「それができれば、苦労はせぬ」


俺は、返す言葉を失った。


          ◇


結局、義持様の命令は、父・義満様の時代に用いられた一部の儀礼用の旗を片付け、新たな旗を仕立てるというものだった。


すべてを焼くわけでも、足利の紋を変えるわけでもない。


俺は少し安心した。


しかし、義持様は最後に言った。


「明の使節を迎えるための旗は、当分使わぬ」


「承知いたしました」


「父と同じことを続けるつもりはない」


俺は頭を下げた。


その言葉が、単なる旗の話ではないことくらい、俺にも分かった。


          ◇


店に戻ると、佐吉が待っていた。


「若旦那、どうでした?」


「旗を下ろして、新しいものを作ることになった」


「では、普通のご注文ですね」


「そうだな」


佐吉は、ほっとしたように笑った。


新九郎が横から口を挟んだ。


「普通じゃないぞ。前の国王様の旗を下ろして、今の将軍様の旗を作るんだ」


佐吉は、しばらく考えた。


「……同じ足利の御紋ですよね?」


「ああ」


「では、何が違うんです?」


俺は答えた。


「気持ちだろうな」


佐吉は首を傾げた。


「気持ちで旗が変わるんですか?」


「変わるらしい」


「難しいですね」


「本当にな」


          ◇


新しい旗を作る仕事は、思ったより難しかった。


義持様は、父の義満様ほど華やかなものを望まなかった。


飾りを減らし、色を抑え、必要なものだけを残す。


佐吉は、何度も布を並べ直した。


「若旦那、これでよろしいでしょうか」


「もう少し地味に」


「これ以上ですか?」


「ああ」


「……ただの布になりませんか?」


俺は、少し笑った。


「そうならないところが、腕の見せどころだ」


佐吉は困った顔をした。


だが、翌日には見事な旗を仕上げてきた。


華やかではない。


それでも、遠くから見れば、はっきりと足利の旗だと分かる。


俺は、思わず頷いた。


「いいな」


佐吉は嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます」


父上なら、きっと同じことを言っただろう。


          ◇


その頃、京では義持様の政治について、さまざまな噂が流れていた。


父の義満様が重んじた人々を遠ざける。


華美な儀礼を見直す。


明との関係にも慎重になる。


新九郎は、毎日のように新しい話を持ってきた。


「弥一郎、義持様は父上が嫌いだったのかな」


俺は筆を置いた。


「分からん」


「でも、何でも反対してるように見えるぞ」


「そうだな」


「お前は父上の仕事を大事にしてるのに」


俺は少し考えた。


「……俺も、父上のやり方を全部守ってるわけじゃない」


「それはそうだけど」


「義持様も、同じなのかもしれない」


新九郎は首を傾げた。


「同じかなあ」


俺にも、分からなかった。


ただ、義持様が父のことを話した時の顔が、忘れられなかった。


嫌っているというより、苦しんでいるように見えたからだ。


          ◇


数年が過ぎた。


義持様は、父の時代とは異なる方針を進めていった。


明との正式な使節往来も、やがて途絶えることになる。


交易そのものが消えたわけではない。


海を渡る人も、品も、なくなったわけではなかった。


それでも、義満様が描いた大きな構想は、そのまま受け継がれたわけではなかった。


俺は、店の奥にしまった旗を時々眺めた。


明の使節を迎えるために作った旗。


一度は、新しい時代の象徴だと思ったものだ。


今は、静かに箱の中で眠っている。


佐吉が言った。


「若旦那、また使う日が来るでしょうか」


俺は、少し考えた。


「さあな」


「せっかく作ったのに、もったいないですね」


俺は、旗を丁寧に畳んだ。


「使わないことにも、意味があるのかもしれない」


佐吉は、よく分からないという顔をした。


俺も、正直なところよく分かっていなかった。


          ◇


ある日、義持様から再び使いが来た。


今度は、旗の修繕だった。


俺は御所へ出向き、古くなった布を確認した。


仕事を終えると、義持様が声をかけてきた。


「弥一郎」


「はい」


「店は続いているか」


「おかげさまで」


「父が亡くなっても、続くものだな」


俺は頷いた。


「はい」


義持様は、少しだけ笑った。


「私も、同じことを考えている」


俺は顔を上げた。


「父がいなくなっても、幕府は続く」


義持様は続けた。


「続けなければならぬ」


俺は、静かに頭を下げた。


          ◇


「弥一郎」


「はい」


「お前は、父の旗をすべて残しているか」


俺は首を振った。


「いいえ」


「捨てたものもあるのか」


「はい。傷んで使えなくなったものは、処分しました」


義持様は頷いた。


「そうか」


「ですが、大切なものは残しています」


「何をだ」


俺は、少し考えた。


「父が最初に作った白い旗です」


義持様は、意外そうな顔をした。


「白い旗?」


「はい。何の紋もない、小さな旗です」


「なぜ、それを残した」


俺は、静かに答えた。


「父が、そこから始めたからです」


義持様は、しばらく黙っていた。


やがて、ぽつりと言った。


「始まり、か」


俺は頷いた。


          ◇


「私は、父の終わりばかり見ていたのかもしれぬ」


義持様が言った。


俺は、何も言わなかった。


「父が最後に何をしたか。何を残したか。何を私に押しつけたか」


義持様は、少し笑った。


「だが、父にも始まりがあったのだな」


俺は、静かに頷いた。


義満様が初めて俺の店に来た頃、まだ若い将軍だった。


細川頼之様の後ろで、何かを考えているような少年だった。


あの頃の義満様は、日本国王になることなど、まだ想像していなかったかもしれない。


俺は、ふと思った。


義持様は、父の最後の姿しか知らないわけではない。


それでも、人は近くにいるほど、相手が変わってきたことを見失うのかもしれない。


          ◇


「義持様」


「何だ」


「私の父は、よく言っていました」


「何と?」


「昨日の味方が、今日も味方とは限らない、と」


義持様は、少し笑った。


「乱世らしい言葉だな」


「はい」


「では、父と子も同じか」


俺は、少し考えた。


「……同じ考えでなくても、味方でいられると思います」


義持様は、俺を見た。


「そうか」


「少なくとも、私はそう信じたいです」


義持様は、しばらく黙っていた。


そして、静かに言った。


「お前の父は、よい言葉を残したな」


俺は、深く頭を下げた。


          ◇


店へ戻ると、新九郎が待っていた。


「どうだった?」


「旗の修繕だ」


「それだけ?」


「ああ」


新九郎は、少し残念そうな顔をした。


「何か面白い話はなかったのか?」


俺は、少し考えた。


「義持様が、父上の話を聞いてくれた」


新九郎は、意外そうに眉を上げた。


「それは珍しいな」


「そうだな」


「で、何て言ってた?」


俺は、少し笑った。


「父上は、よい言葉を残したって」


新九郎は、しばらく黙った。


そして、にやりと笑った。


「……あの看板のことか?」


「そうだろうな」


二人で、店先を見た。


『本日の味方』


『明日は不明』


『急な寝返りにも対応』


『初代 弥太郎』


新九郎が言った。


「今の将軍様には、どれが一番合うと思う?」


俺は、少し考えた。


そして答えた。


「……明日は不明、かな」


新九郎は声を出して笑った。


俺も笑った。


          ◇


その夜、俺は父上の古い旗の箱を開けた。


最初に作った白い旗。


尊氏様の旗。


直義様の旗。


そして、義満様の時代の旗。


どれも、違う時代のものだ。


俺は、白い旗を取り出した。


父上が最初に作った、不格好な旗。


縫い目は曲がり、端も揃っていない。


それでも、俺には大切なものだった。


「父上」


小さく呟いた。


「義持様も、苦労しているようです」


返事はない。


「父上が偉大すぎると、息子は大変なんですね」


少し笑った。


「……俺も、よく分かります」


俺は、旗を畳んだ。


父上と同じにはなれない。


義持様も、義満様と同じにはなれない。


だが、それでよいのだと思う。


父を超えるとは、父と同じ場所に立つことではない。


父が残したものを、自分の手で次の時代へ運ぶことだ。


俺は、そう信じた。


          ◇


翌朝。


店には、新しい注文が届いていた。


差出人は、関東の武士だった。


鎌倉(かまくら)。


その地名を見て、俺は少し驚いた。


父上の時代から、関東は何度も争いの舞台になってきた。


だが、最近は京の仕事が多く、関東からの注文は珍しかった。


注文書には、こう書かれていた。


『急ぎ、旗三十枚』


俺は、少し嫌な予感がした。


新九郎が覗き込む。


「どこから?」


「鎌倉だ」


「何かあったのか?」


俺は、帳面を閉じた。


「さあな」


その時、店の外から、別の使者が駆け込んできた。


「弥一郎殿!」


「何でしょう」


「関東で、大きな騒ぎが起きております!」


俺は、思わず立ち上がった。


「関東で?」


「はい。上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)という者が、兵を挙げたとのこと!」


俺は、新九郎と顔を見合わせた。


また戦か。


南北朝が一つになり、義満様が世をまとめ、ようやく落ち着いたと思っていたのに。


どうやら、歴史というものは、そう簡単には休んでくれないらしい。


俺は、店先の看板を見た。


『本日の味方』


『明日は不明』


父上。


今度は関東です。


……旗屋に、平和な時代は来ないのでしょうか。

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