将軍、日本国王になる
「日本国王の旗を作ってほしい」
俺は、注文書を三度読み返した。
一度目は、読み間違いだと思った。
二度目は、冗談だと思った。
三度目で、ようやく気づいた。
どうやら、冗談ではないらしい。
「……日本国王?」
俺が聞き返すと、使者は当然のように頷いた。
「左様」
「どちらの国王様でしょうか」
使者は眉をひそめた。
「日本だ」
「それは分かっております」
「ならば、何が分からぬ」
全部です。
そう答えそうになったが、どうにか飲み込んだ。
◇
父上が亡くなってから、数年が過ぎていた。
店は、以前と変わらず続いている。
佐吉はすっかり職人頭らしくなり、新九郎は相変わらず仕事の邪魔をしに来る。
ただ一つ違うのは、困った時に父上へ聞けなくなったことだった。
「新九郎」
「何だ」
「日本国王って、誰だ?」
新九郎は、しばらく考えた。
「……帝じゃないのか?」
「俺もそう思う」
「じゃあ、何で将軍家から注文が来るんだ?」
「それを聞いてるんだよ」
二人で顔を見合わせた。
そして、同時にため息をついた。
父上。
また、よく分からない仕事が来ました。
◇
その頃、足利義満様は、すでに将軍職を子の義持様へ譲っていた。
しかし、政治の中心にいたのは、相変わらず義満様だった。
将軍ではなくなったのに、将軍より力がある。
俺には、どうにも不思議な話だった。
新九郎が言った。
「将軍を辞めた方が偉くなるって、どういうことだ?」
「知らん」
「じゃあ、俺も仕事を辞めたら偉くなるかな」
「まず仕事をしろ」
新九郎は、納得いかない顔をした。
◇
義満様は、俺を見て笑った。
「弥一郎。久しぶりだな」
「ご無沙汰しております」
「店はどうだ」
「おかげさまで、何とか」
「父がいなくなって、困っておらぬか」
俺は、少しだけ黙った。
義満様は、父上が亡くなった時にも人を寄こしてくださった。
その時は、悲しむ暇もなく忙しかった。
今になって、ようやく礼を言えた。
「父のこと、お心遣いいただきありがとうございました」
義満様は静かに頷いた。
「よい男だった」
俺は、深く頭を下げた。
◇
「さて、旗の話だ」
義満様は、少し楽しそうな顔になった。
「明との交易を進めている」
「明、でございますか」
「ああ。海の向こうの大国だ」
俺は頷いた。
父上から、中国の王朝が変わったという話は聞いたことがある。
だが、遠い国の話だと思っていた。
「交易が始まれば、品も人も動く。日本にも、新しいものが入ってくる」
義満様は続けた。
「そのために、明との正式な関係が必要なのだ」
俺は、少し考えた。
「それで、日本国王ですか」
「そうだ」
「……義満様が?」
義満様は、当然のように頷いた。
「私だ」
俺は、言葉を失った。
◇
「恐れながら」
「申せ」
「日本には、帝がおられます」
義満様は、俺を見た。
「知っている」
「では、国王というのは……」
「明との外交上の称号だ」
俺は、首を傾げた。
「外交上?」
「向こうの皇帝が、私を日本国王として認める。それによって、正式な使節や交易が成り立つ」
俺は、少し考えた。
「つまり、明の国に対しては、義満様が日本国王ということですか」
「そういうことだ」
「でも、日本では?」
義満様は、少し笑った。
「私は義満だ」
答えになっているようで、なっていない。
◇
「弥一郎」
「はい」
「お前は、旗を作る時、相手によって紋を変えるだろう」
「はい」
「同じ人間でも、立場が変われば掲げる旗が変わる」
俺は頷いた。
「明との関係も、それに似ている」
俺は、少しだけ理解した。
同じ人でも、相手によって名乗り方が変わる。
父上も、昔そんなことを言っていた。
ただし、国王となると話が大きすぎる。
「……旗屋の仕事で例えるには、少々大きすぎませんか」
義満様は声を出して笑った。
「お前には、その方が分かりやすかろう」
否定できなかった。
◇
店へ戻ると、佐吉が待っていた。
「若旦那、どうでした?」
「日本国王の旗を作ることになった」
佐吉は、しばらく黙った。
「……どなたのです?」
「義満様だ」
「将軍様では?」
「将軍はもう辞めてる」
「では、何様なんです?」
「日本国王様だ」
佐吉は、ますます困った顔になった。
俺も困っている。
◇
新九郎は、話を聞いて大笑いした。
「将軍を辞めて国王か!」
「笑い事じゃない」
「次は何になるんだ?」
「知らん」
「天竺の王様とか?」
「やめろ。注文が来たら困る」
新九郎は、腹を抱えて笑った。
俺は帳面を開いた。
『日本国王 旗一式』
書いてみても、まだ実感が湧かなかった。
◇
旗の製作は、いつも以上に慎重に進めた。
明の使節を迎える場にふさわしいものを、という注文だった。
華美すぎず、しかし粗末にも見えない。
義満様の意向は、いつも難しい。
佐吉が布を広げながら言った。
「若旦那」
「何だ」
「この旗、海を渡るんでしょうか」
「さあな」
「明の人たちが見るんですよね」
「そうだろうな」
佐吉は、少し嬉しそうに笑った。
「なら、丁寧に作らないと」
俺も頷いた。
今度の旗は、戦場ではなく、海の向こうの人々に見せるためのものだ。
それだけで、少し気持ちが軽くなった。
◇
完成した旗を届けると、義満様は満足そうに頷いた。
「よい出来だ」
「ありがとうございます」
「父にも見せたかったな」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
俺は、少し笑った。
「父なら、きっと文句を言ったと思います」
「何と?」
「もう少し縫い目を揃えろ、と」
義満様は声を出して笑った。
「言いそうだな」
俺も笑った。
父上がいなくなってから、誰かと父上の話をして笑えるようになるまで、ずいぶん時間がかかった。
◇
「弥一郎」
義満様は、旗を眺めながら言った。
「お前は、私が何を目指していると思う」
突然の問いだった。
俺は、少し考えた。
「……強い幕府でしょうか」
「それもある」
「戦のない世でしょうか」
「それもある」
「では……」
義満様は、静かに続けた。
「日本を、もっと大きな世界の中に置きたいのだ」
俺は、顔を上げた。
「大きな世界?」
「これまでは、国内の争いばかりだった。誰が将軍になるか、誰が守護になるか、誰がどの国を治めるか」
俺は頷いた。
父上の人生も、俺の人生も、その争いに振り回されてきた。
「だが、海の向こうには、もっと広い世界がある」
義満様は、遠くを見るような目をした。
「そこへ目を向ける時が来た」
俺は、しばらく黙っていた。
◇
「義満様」
「何だ」
「父は、ずっと戦の旗を作ってきました」
義満様は頷いた。
「そうだな」
「俺も、何度も作りました」
「うむ」
「でも、今度は海を渡るための旗です」
俺は、少し笑った。
「こういう旗なら、いくらでも作りたいです」
義満様は、静かに俺を見た。
そして、頷いた。
「私もだ」
その言葉が、嬉しかった。
◇
やがて、明との正式な国交が進み、義満様は明の皇帝から「日本国王」として認められた。
交易によって、銅銭や絹織物、書物などがもたらされる。
京の商人たちも、新しい品々の話で賑わった。
新九郎は、珍しい品を見つけるたびに店へ持ってきた。
「弥一郎、見ろ!」
「今度は何だ」
「明の品らしいぞ!」
「本当か?」
「たぶん!」
「たぶんで持ってくるな!」
そんなやり取りが、何度も続いた。
◇
ある日、佐吉が言った。
「若旦那、最近、旗の注文が変わりましたね」
俺は頷いた。
「そうだな」
昔は、戦のための旗が多かった。
誰の軍勢かを示すため。
敵と味方を見分けるため。
兵を集めるため。
だが、最近は違う。
儀式。
行列。
寺社の催し。
交易に関わる場。
戦わない旗が、少しずつ増えている。
俺は、父上の古い旗の箱を見た。
あの人が生きていたら、喜んだだろうか。
きっと、喜んだと思う。
◇
それから、しばらくして。
義満様が病に倒れたという知らせが届いた。
俺は、最初は信じなかった。
あの義満様が。
細川頼之様を退け、山名氏清を討ち、南北朝を一つにし、明との国交まで進めた人が。
病に倒れた。
新九郎が、珍しく静かな声で言った。
「弥一郎、今度は本当らしい」
俺は、何も言えなかった。
◇
義満様が亡くなったのは、応永十五年、1408年のことだった。
享年五十一。
あまりにも突然だった。
京の町は、静まり返った。
義満様を恐れていた者も、尊敬していた者も、その死を無視することはできなかった。
長く政治の中心にいた人が、いなくなったのだ。
俺は、店の奥で帳面を開いた。
そこには、義満様から受けた注文が、何行も残っている。
足利の旗。
儀式の旗。
そして、日本国王の旗。
俺は、しばらくその文字を眺めた。
◇
新九郎が、隣に座った。
「弥一郎」
「何だ」
「義満様も、死ぬんだな」
俺は頷いた。
「ああ」
「何でもできる人みたいだったのに」
「そうだな」
俺は、父上のことを思い出した。
何十年も戦乱を生き抜いた父上も、最後は静かに亡くなった。
義満様も同じだ。
どれほど強くても、どれほど偉くても、人は死ぬ。
当たり前のことなのに、何度経験しても慣れなかった。
◇
その夜、俺は店の看板を見た。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
『初代 弥太郎』
父上が作った看板は、今も残っている。
義満様が初めて店に来た頃は、まだ若い将軍だった。
頼之様の後ろで、何かを考えているような少年だった。
それが、いつの間にか日本国王になっていた。
そして、いなくなった。
俺は、静かに呟いた。
「……忙しい人生でしたね」
返事はない。
それでも、少し笑った。
義満様なら、きっとこう言っただろう。
――まだ、やりたいことがあった。
◇
数日後、将軍家から新しい注文が届いた。
差出人は、足利義持様。
義満様の子であり、すでに将軍職を継いでいる人物だ。
俺は、注文書を開いた。
そこには、短くこう書かれていた。
『父の旗を、すべて下ろせ』
俺は、しばらくその文字を見つめた。
新九郎が覗き込む。
「……何だ、それ」
俺は答えた。
「分からん」
「旗を下ろせって、どういう意味だ?」
俺は、父上の古い旗の箱を見た。
尊氏様。
直義様。
師直殿。
そして、義満様。
旗が変わるたびに、時代が変わってきた。
今度も、そうなのだろうか。
俺は、ゆっくり帳面を閉じた。
父上。どうやら、今度の将軍は、前の将軍と同じ旗を掲げるつもりがないようです。




