父上、本日の味方は誰ですか
父上が店に出なくなったのは、南北朝が一つになってから、五度目の春を迎えた頃だった。
最初は、ただの風邪だと思っていた。
「今日は少し休む」
そう言って、父上は奥の部屋へ引っ込んだ。
珍しいことだった。
父上は、どれほど疲れていても店に顔を出す人だった。注文がなくても帳面を眺め、職人の仕事を見て、俺の書いた文字に文句をつける。
だから、二日続けて姿を見せなかった時、俺は少し心配になった。
三日目には、医者を呼んだ。
父上は嫌そうな顔をした。
「大げさだ」
「大げさじゃありません」
「少し寝れば治る」
「三日前から同じことを言ってます」
「なら、もう少し寝る」
「そういう問題じゃないでしょう!」
父上は笑った。
いつも通りの笑い方だった。
それが、かえって不安だった。
◇
医者は父上を診た後、俺を部屋の外へ呼んだ。
「お年ですからな」
その一言で、胸の奥が冷たくなった。
父上が年を取っていることくらい、知っている。
髪は白くなり、背中は少し丸くなった。昔のように重い荷を運ぶこともなくなった。
それでも、俺の中ではずっと父上だった。
何があっても慌てず、危ない時には助けてくれる。
俺が失敗すれば叱り、困れば答えを教えてくれる。
その父上に、医者は「お年ですから」と言った。
俺は、何も言い返せなかった。
◇
「何て言われた」
部屋へ戻ると、父上が尋ねた。
「しばらく休むように、と」
「そうか」
「無理をするなとも」
「それは医者なら誰でも言う」
「父上」
「何だ」
「ちゃんと休んでください」
父上は、少しだけ俺を見た。
「弥一郎」
「はい」
「お前、最近うるさくなったな」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「俺だろうな」
そう言って笑った。
俺も笑おうとしたが、上手くいかなかった。
◇
店の仕事は、もう俺が取り仕切っていた。
佐吉をはじめとする職人たちも、俺の指示で動いている。
新九郎は相変わらず出入りして、頼んでもいない噂話を持ってきた。
父上がいなくても、店は回る。
それは、何年もかけて準備してきたことだった。
なのに、実際に父上が店に出なくなると、妙な気持ちになった。
帳面を開く。
注文を受ける。
旗を作る。
代金をもらう。
何も変わらない。
ただ、奥から父上の声がしない。
それだけで、店が別の場所になったようだった。
◇
ある日、新九郎が言った。
「親方、最近ちょっと怖いぞ」
「何が?」
「お前だよ」
俺は筆を止めた。
「俺が?」
「ああ。佐吉が糸を間違えただけで、ずいぶん叱ってただろ」
「間違えたら困るだろう」
「そりゃそうだけどさ」
新九郎は、少し言いにくそうに続けた。
「昔の弥太郎殿なら、まず理由を聞いたんじゃないか?」
俺は黙った。
佐吉は、店の隅で黙々と仕事をしていた。
明徳の乱で足を傷めてから、長く立ち続けるのが少しつらそうだった。それでも、以前と変わらず丁寧に縫っている。
俺は、佐吉に声をかけた。
「佐吉」
「はい」
「さっきは、言い過ぎた」
佐吉が驚いた顔をした。
「いえ、私が間違えましたので」
「それでも、怒鳴る必要はなかった」
佐吉は少し笑った。
「若旦那も、お疲れなんですよ」
俺は苦笑した。
父上がいなくなった途端、俺は父上よりも下手な親方になっていた。
◇
その日の夕方、父上の部屋を訪ねた。
「父上」
「何だ」
「俺、最近、店で怒ってばかりなんです」
父上は、寝床からこちらを見た。
「そうか」
「職人にも、つい強く言ってしまって」
「それで?」
「……それだけです」
父上は、少し考えた。
「お前は、店を守ろうとしているんだろう」
「はい」
「なら、気をつけろ」
「何に?」
父上は、静かに言った。
「店を守ることに夢中になって、店の人間を失うな」
俺は、何も言えなかった。
父上は続けた。
「旗も帳面も、なくなれば作り直せる。だが、人はそうはいかん」
俺は、深く頷いた。
◇
父上の具合は、よくなったり悪くなったりを繰り返した。
調子のよい日には、起き上がって昔の話をしてくれた。
尊氏様のこと。
直義様のこと。
師直殿のこと。
土岐六郎や赤松孫七のこと。
俺が子どもの頃、何度も聞かせてほしいと頼んだ話だった。
なのに父上は、いつも途中でやめてしまった。
「長い話になる」
そう言って、笑うだけだった。
今になって、ようやく話してくれる。
俺は毎晩、父上の部屋へ通った。
◇
「尊氏様は、どんな方だったんです?」
俺が尋ねると、父上は天井を見た。
「不思議な人だったな」
「不思議?」
「あの人のためなら死んでもいいと思わせるくせに、本人は人を死なせることを喜ばなかった」
俺は黙った。
「直義様は?」
「筋を通す人だった。筋を通しすぎて、折れることもあった」
「師直殿は?」
父上は、少しだけ笑った。
「頭の切れる人だったよ。切れすぎて、ほかの人間まで切ってしまった」
俺は思わず笑った。
「ひどい言い方ですね」
「本人が聞いたら怒るだろうな」
「もう聞けませんよ」
「ああ」
父上の笑顔が、少し寂しそうになった。
◇
「父上」
「何だ」
「昔の人たちを、今でも思い出しますか」
父上は、しばらく黙っていた。
「ああ。毎日な」
俺は驚いた。
「毎日?」
「旗を見ると思い出す」
父上は、ゆっくり続けた。
「この紋は、あの人が使っていた。この色は、あの戦で見た。この旗は、もう帰ってこなかった者が掲げていた」
俺は、店の奥にある古い旗の箱を思い出した。
「だから、捨てられないんですか」
父上は頷いた。
「捨てれば、忘れてしまいそうでな」
その言葉が、胸に残った。
◇
ある晩、父上が俺を呼んだ。
「弥一郎。あの箱を持ってきてくれ」
「古い旗の箱ですか」
「ああ」
俺は店の奥から箱を運んだ。
父上は、蓋を開けるように言った。
中には、何十年も前の旗が収められている。
その中に、一枚だけ、見覚えのない布があった。
紋のない、小さな白い旗だった。
「これは?」
俺が尋ねると、父上は少し笑った。
「俺が最初に作った旗だ」
俺は驚いた。
「父上の?」
「ああ。まだ、誰の味方になるかも分からなかった頃のものだ」
俺は、布を広げた。
不格好だった。
縫い目は曲がり、端の処理も雑だ。
正直に言えば、今の佐吉なら一日で何枚も作れる程度のものだった。
「……下手ですね」
思わず言ってしまった。
父上は声を出して笑った。
「そうだろう」
「よく、これを残していましたね」
「捨てる理由がなかった」
俺は、もう一度布を見た。
◇
「弥一郎」
「はい」
「お前が義満様に見せた白い旗、覚えているか」
「もちろんです」
「あれを見た時、少し驚いた」
「なぜです?」
「俺も、最初は白い旗から始めたからだ」
俺は父上を見た。
父上は静かに続けた。
「ただ、俺は誰の旗にもなれると思っていた。お前は、誰の旗にもならないこともできると考えた」
俺は、何も言えなかった。
「そこが、俺とお前の違いだ」
父上は、少し笑った。
「悪くない違いだと思うぞ」
胸の奥が熱くなった。
父上に、そんなふうに言われたのは初めてだった。
◇
「父上」
「何だ」
「俺、父上みたいな親方になりたかったんです」
父上は、黙って俺を見た。
「でも、最近は違うと思うようになりました」
「ほう」
「父上と同じにはなれません」
父上は頷いた。
「そうだな」
「だから、俺は俺のやり方で店を守ります」
父上は、ゆっくり笑った。
「それでいい」
たった一言だった。
でも、俺には十分だった。
◇
春が深まる頃、父上はほとんど起き上がれなくなった。
医者は、もう長くはないかもしれないと言った。
俺は、その言葉を聞いても、どこか信じられなかった。
父上が死ぬ。
そんなこと、考えたこともなかった。
いや、考えないようにしていた。
何十年も戦乱を生き抜いた人だ。
尊氏様も、直義様も、師直殿も見送ってきた人だ。
そんな父上が、病で静かに死ぬなんて。
どうしても、実感が湧かなかった。
◇
その夜、父上が俺を呼んだ。
「弥一郎」
「はい」
「店は、どうだ」
「順調です」
「そうか」
「佐吉も元気です。新九郎も相変わらずです」
父上は、少し笑った。
「それは困ったな」
「本当ですよ」
俺も笑った。
しばらく、静かな時間が流れた。
外では、春の雨が降っていた。
父上は、ゆっくり口を開いた。
「弥一郎」
「はい」
「俺は、よい人生だったと思う」
俺は、顔を上げた。
◇
「若い頃は、毎日誰の味方になるか分からなかった」
父上は、静かに続けた。
「昨日まで一緒に戦っていた者が、次の日には敵になる。正しいと思っていたことが、急に間違いになる」
俺は頷いた。
「何度も逃げた。何度も失敗した。守れなかった者も、大勢いる」
父上は、少し目を閉じた。
「それでも、最後まで生きた」
俺は、父上の手を握った。
「はい」
「店も残った」
「はい」
「お前もいる」
声が震えた。
「……はい」
父上は、ゆっくり笑った。
「なら、十分だ」
◇
俺は、ずっと聞きたかったことを尋ねた。
「父上」
「何だ」
「父上にとって、本日の味方は誰だったんですか」
父上は、少しだけ目を開いた。
「難しいことを聞くな」
「いつも、店の看板に書いてあるじゃないですか」
父上は、しばらく考えた。
そして、静かに言った。
「……生きて帰ってくる者だ」
俺は、息を呑んだ。
「勝った者でも、偉い者でもない」
父上は続けた。
「今日を生き延びて、明日も顔を見せてくれる者。それが、俺の味方だった」
俺は、何も言えなかった。
父上は、少し笑った。
「だから、お前も生きろ」
涙が、頬を伝った。
◇
父上が亡くなったのは、その三日後だった。
朝、俺が部屋へ入ると、父上は静かに眠っていた。
苦しそうな顔ではなかった。
いつものように、少しだけ口元が緩んでいる。
まるで、何か面白いことを思いついたような顔だった。
俺は、しばらくその場に立っていた。
それから、父上の手を握った。
冷たかった。
初めて、父上が本当にいなくなったのだと分かった。
◇
葬儀には、多くの人が来た。
昔の客。
近所の商人。
店の職人たち。
そして、父上と長く付き合いのあった武士たち。
中には、互いに敵同士だった者もいた。
新九郎が、小声で言った。
「弥一郎。あの二人、昔は戦ってたんじゃないか?」
俺は頷いた。
「たぶんな」
「よく同じ場所に来られるな」
俺は、少し考えた。
「父上の葬儀だからだろう」
新九郎は、静かに頷いた。
◇
葬儀が終わった夜、俺は一人で店に座っていた。
帳面がある。
筆がある。
布がある。
旗がある。
何も変わらない。
ただ、父上がいない。
奥から声が聞こえない。
「弥一郎、筆を置け」
「弥一郎、落ち着け」
「弥一郎、お前が決めろ」
もう、聞こえない。
俺は、初めて声を出して泣いた。
◇
翌朝、佐吉が店に来た。
「若旦那……」
俺は顔を上げた。
「どうした」
佐吉は、少し迷ってから言った。
「今日は、お休みにされますか」
俺は、しばらく考えた。
父上なら、どうするだろう。
そう思ってから、やめた。
もう、父上に答えを聞くことはできない。
俺は、自分で決めた。
「今日は、店を開けよう」
佐吉は頷いた。
「はい」
「ただし、午前中だけだ」
「分かりました」
俺は、少し笑った。
「父上なら、一日働けと言うかもしれないけどな」
佐吉も笑った。
「弥太郎様なら、そうかもしれません」
◇
昼前、新九郎が来た。
「弥一郎」
「何だ」
「看板、どうする?」
俺は店の壁を見た。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
父上が作った看板。
その下には、俺が増やした看板が並んでいる。
『味方でも、考えは違う』
『守るために、離れることもある』
『旗の下にも、人がいます』
『平和にも、事情あり』
ずいぶん増えた。
新九郎が言った。
「少し整理した方がいいんじゃないか?」
俺は頷いた。
「そうだな」
そして、一枚ずつ外していった。
父上が作った三枚だけを残した。
◇
「全部、外すのか?」
新九郎が聞いた。
「捨てるわけじゃない」
俺は、外した看板を箱に入れた。
「今までのことは、忘れない。でも、全部を店先に並べておく必要もないだろう」
新九郎は頷いた。
「そうだな」
俺は、父上の三枚の看板を見た。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
そして、その下に新しい板を一枚掛けた。
『初代 弥太郎』
新九郎が読んだ。
「……短いな」
俺は笑った。
「たまにはな」
新九郎も笑った。
◇
その日の夕方、俺は古い旗の箱を開けた。
父上が最初に作った白い旗。
不格好で、縫い目の曲がった小さな布。
俺は、それを手に取った。
「父上」
声に出してみた。
返事はない。
それでも、話しかけた。
「俺、店を守ります」
白い旗を、静かに畳んだ。
「でも、父上と同じやり方にはならないと思います」
少しだけ笑った。
「たぶん、父上なら、それでいいと言ってくれますよね」
返事はない。
けれど、不思議と分かる気がした。
◇
翌朝、俺は、新しい帳面を開いた。
表紙には、俺の字でこう書かれている。
『旗屋 弥一郎』
佐吉が布を運んでくる。
新九郎が余計な話を持ち込む。
客が注文を持ってくる。
店は、いつも通り動き始めた。
父上がいなくても、朝は来る。
仕事は続く。
人は生きていく。
俺は筆を握った。
そして、店先の看板を見た。
『本日の味方』
父上。
今日の俺の味方は、誰でしょうか。
少し考えて、答えが出た。
佐吉。
新九郎。
店で働く人たち。
旗を頼みに来る客たち。
そして、もう会えないけれど、俺の中に残っている父上。
俺は、静かに笑った。
本日の味方は、案外たくさんいるようです。




