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19/62

戦が終わっても、旗は降ろせない

「南朝の旗を作ってほしい」


客がそう言った瞬間、俺は筆を落とした。


明徳の乱が終わり、ようやく店にも平穏が戻ってきたところだった。


佐吉は仕事に復帰し、新九郎は相変わらず余計な話を持ち込み、父上は店の奥で古い旗を整理している。


久しぶりに、普通の旗屋らしい毎日だった。


そこへ、南朝である。


「……もう一度、お願いできますか」


俺が聞き返すと、客は静かに答えた。


「南朝の旗を作っていただきたい」


聞き間違いではなかった。


俺は帳面を開き、すぐに閉じた。


「少々、お待ちください」


そう言って、店の奥へ向かった。


父上。


また面倒なことになりました。


          ◇


客は、吉野(よしの)から来たという。


名を宗次(むねつぐ)と名乗った。


年は四十を少し過ぎた頃だろうか。日に焼けた顔に深い皺があり、着物は丁寧に繕われていた。


武士らしい身のこなしだったが、腰の刀は使い込まれている。


父上は宗次を見て、静かに尋ねた。


「旗は、何にお使いで?」


「お迎えのためです」


「誰を?」


宗次は、少し間を置いた。


「帝を」


俺は父上を見た。


父上も、宗次から目を離さなかった。


          ◇


北朝と南朝。


二つの朝廷が並び立つようになってから、すでに半世紀以上が過ぎていた。


父上が若かった頃には、まだ後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が生きていた。


尊氏様と争い、吉野へ移り、南朝を開いた帝だ。


それから長い年月が流れた。


将軍は代わり、武将は死に、子や孫が家を継いだ。


それでも、朝廷は二つのままだった。


俺が生まれた時から、そうだった。


だから、二つあること自体が、当たり前になっていた。


だが、宗次は違った。


「本来、朝廷は一つです」


宗次は、静かに言った。


「だからこそ、我らは吉野を守ってまいりました」


俺は頷いた。


ただ、北朝を支えてきた人々も、同じように考えているはずだった。


どちらも、自分たちこそ正しいと言う。


それが、何十年も続いてきた。


          ◇


「旗は、何枚ほど?」


父上が尋ねた。


「十二枚、お願いしたい」


「御紋は?」


宗次は懐から紙を取り出した。


そこには、菊の紋が描かれていた。


俺は思わず息を呑んだ。


「……これは」


「帝の旗です」


宗次は、まっすぐ俺を見た。


「戦のためではありません。吉野から京へ向かわれる、その道を飾るためです」


俺は、父上と顔を見合わせた。


「京へ?」


宗次は頷いた。


「まだ、正式に決まったわけではありません。しかし、近く大きな動きがあると聞いております」


大きな動き。


その言葉の意味を、俺はまだ知らなかった。


          ◇


宗次が帰った後、俺は父上に尋ねた。


「受けるんですか?」


父上は帳面を見つめていた。


「どう思う」


まただ。


最近、父上はすぐ俺に聞き返す。


昔なら、もっと簡単に答えてくれたのに。


「戦のためではないと言っています」


「ああ」


「なら、作ってもよいのでは?」


父上は頷いた。


「そうだな」


「でも、帝の旗です」


「そうだな」


「……どっちなんですか」


父上は、少し笑った。


「お前が決めろ」


俺はため息をついた。


父上。


最近、仕事を継がせるのが少し早すぎませんか。


          ◇


その日の夕方、新九郎が駆け込んできた。


「弥一郎! 大変だ!」


「今度は何だ」


「南朝と北朝が、一つになるらしい!」


俺は、思わず立ち上がった。


「本当か!」


「義満様が話をまとめているそうだ!」


俺は、宗次の顔を思い出した。


帝を迎えるための旗。


そういうことだったのか。


「これで戦が終わるんだな」


俺が言うと、新九郎は頷いた。


「そういうことになるな」


二人で顔を見合わせた。


そして、笑った。


長かった。


父上の若い頃から続いていた争いが、ようやく終わる。


これほどめでたいことが、ほかにあるだろうか。


          ◇


ところが、父上は笑っていなかった。


「まだ決まったわけではない」


「でも、話が進んでいるんでしょう?」


「ああ」


「なら、よいことでは?」


父上は静かに言った。


「戦が終わることは、よいことだ」


俺は頷いた。


「だが、戦が終われば、皆が納得するとは限らん」


俺は首を傾げた。


「どういう意味です?」


父上は、古い旗の箱を指した。


「負けた者にも、守りたかったものがある」


その言葉が、胸に残った。


          ◇


数日後、俺は義満様に呼ばれた。


最近は、将軍家からの使いを見るだけで胃が痛くなる。


新九郎は、楽しそうに言った。


「もう、将軍専属の旗屋になったらどうだ?」


「絶対に嫌だ」


「何で?」


「寿命が縮む」


新九郎は笑った。


俺は笑えなかった。


          ◇


義満様は、いつになく機嫌がよさそうだった。


「弥一郎。南朝から注文が来たそうだな」


俺は頭を下げた。


「はい」


「受けたか」


「まだです」


「なぜだ」


「少し、考えております」


義満様は笑った。


「お前も、ずいぶん慎重になったな」


「以前、慎重でなかったせいで、いろいろありましたので」


「山名の旗か」


俺は黙った。


義満様も、それ以上は聞かなかった。


          ◇


「近く、南北の朝廷を一つにする」


義満様は、静かに言った。


俺は深く頭を下げた。


「おめでとうございます」


「まだ早い」


「失礼いたしました」


義満様は、少し笑った。


「だが、ようやくここまで来た」


その顔には、これまで見たことのない安堵があった。


細川頼之様を退けた時も、山名氏清を討った時も、義満様はどこか張り詰めていた。


だが、今は違う。


長く背負っていたものを、ようやく下ろせる。


そんな表情だった。


          ◇


「弥一郎」


「はい」


「お前の父は、後醍醐帝の時代を知っているな」


「はい」


「ならば、この意味も分かるだろう」


義満様は庭へ目を向けた。


「半世紀以上続いた争いを、終わらせる」


俺は頷いた。


「大きなことだと思います」


「大きなことだ」


義満様は、静かに続けた。


「だが、終わらせるには、どちらかが譲らねばならぬ」


俺は、少し考えた。


「南朝が、譲るのですか」


義満様は、すぐには答えなかった。


「双方が納得できる形を探している」


俺は頷いた。


しかし、義満様の言葉には、どこか難しさが残っていた。


          ◇


「義満様」


「何だ」


「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」


「申せ」


俺は、少し迷った。


「南朝の人々は、喜んでいるのでしょうか」


義満様は、俺を見た。


「どういう意味だ」


「戦が終わるのは、よいことだと思います。でも、南朝を守ってきた人々は……」


言葉を探した。


「自分たちが守ってきたものを、失うように感じるかもしれません」


義満様は、しばらく黙っていた。


そして、静かに言った。


「そうだろうな」


俺は驚いた。


否定されると思っていた。


          ◇


「だが、弥一郎」


義満様は続けた。


「誰もが満足するまで待っていては、争いは終わらぬ」


俺は黙った。


「南朝にも北朝にも、譲れぬものがある。それをすべて守ろうとすれば、また何十年も争うことになる」


義満様は、まっすぐ俺を見た。


「私は、終わらせる方を選ぶ」


迷いのない声だった。


俺は、深く頭を下げた。


その決断の重さを、少しだけ理解できた気がした。


          ◇


店へ戻ると、宗次が待っていた。


「旗の件、いかがでしょうか」


俺は、少し迷ってから答えた。


「お作りいたします」


宗次は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


俺は続けた。


「ただし、一つだけ確認させてください」


「何でしょう」


「その旗は、本当に戦のためではありませんね」


宗次は、まっすぐ俺を見た。


「はい」


俺は頷いた。


「ならば、喜んでお作りします」


          ◇


旗作りは、いつもより慎重に進めた。


菊の紋。


白い布。


金の糸。


佐吉が、一針ずつ丁寧に縫っていく。


「若旦那」


「何だ」


「今度の旗は、戦に使われないんですよね」


俺は、少し考えた。


「そのはずだ」


佐吉は、ほっとしたように笑った。


「よかった」


俺も、そう思った。


今度こそ、人を殺すためではない旗を作れる。


それが、嬉しかった。


          ◇


やがて、南北朝合一が実現した。


明徳三年。


南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が京へ入り、三種の神器が北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)へ渡された。


長く続いた二つの朝廷の並立は、ここで終わった。


京では、人々が喜んだ。


「これで戦がなくなる!」


「ようやく平和になる!」


新九郎も、嬉しそうだった。


「弥一郎、めでたいな!」


俺は頷いた。


「そうだな」


だが、その時。


俺は、宗次の姿を見つけた。


          ◇


宗次は、道の端に立っていた。


俺たちが作った旗を、静かに抱えている。


掲げてはいなかった。


俺は近づいた。


「宗次殿」


宗次は、ゆっくり顔を上げた。


「弥一郎殿」


「旗は、使われなかったのですか」


宗次は、少し笑った。


「使うつもりでした」


「では、なぜ?」


宗次は、抱えた旗を見た。


「掲げる場所が、なくなりました」


俺は、言葉を失った。


          ◇


「帝をお迎えする旗として、お願いしました」


宗次は静かに言った。


「しかし、京へ入られた帝は、もはや以前と同じお立場ではありません」


俺は黙った。


「我らは、長く吉野を守ってまいりました。父も、祖父も、そのために戦いました」


宗次は、旗を抱え直した。


「ようやく京へ戻れる。そう思っておりました」


「……はい」


「ですが、戻ってみれば、我らの居場所はありませんでした」


俺は、何も言えなかった。


          ◇


「戦が終わったのは、よいことです」


宗次は続けた。


「それは、分かっております」


「はい」


「ですが、弥一郎殿」


宗次は、俺をまっすぐ見た。


「我らが守ってきたものは、何だったのでしょうな」


その言葉が、胸に刺さった。


俺には、答えられなかった。


          ◇


店へ戻ると、父上が待っていた。


俺は、宗次との話を伝えた。


父上は、最後まで黙って聞いていた。


「父上」


「何だ」


「戦が終わったのに、喜べない人もいるんですね」


父上は頷いた。


「ああ」


「どうしてでしょう」


父上は、少し考えた。


「人は、戦に勝つためだけに戦うわけじゃない」


俺は顔を上げた。


「守りたいものがあるから戦う者もいる。その守りたいものが、戦の終わりと一緒に失われることもある」


俺は、宗次の顔を思い出した。


「……難しいですね」


「難しいな」


父上は、静かに答えた。


          ◇


数日後、宗次が再び店を訪れた。


手には、俺たちが作った旗を持っている。


「弥一郎殿」


「はい」


「お願いがございます」


俺は、少し身構えた。


「何でしょう」


宗次は、旗を差し出した。


「この旗を、預かっていただけませんか」


俺は驚いた。


「なぜです?」


「私には、もう掲げる場所がありません」


宗次は、静かに続けた。


「ですが、捨てることもできません」


俺は、旗を見た。


丁寧に縫われた菊の紋。


一度も掲げられなかった旗。


「……分かりました」


俺は、両手で受け取った。


「大切に、お預かりします」


宗次は、深く頭を下げた。


          ◇


その夜。


俺は、父上の古い旗の箱を開けた。


尊氏様。


直義様。


師直殿。


そして、山名の旗。


それぞれに、戦った人々の思いがある。


俺は、その隣に南朝の旗を置こうとした。


だが、手が止まった。


この旗は、戦に使われなかった。


誰も殺さなかった。


それでも、誰かを傷つけた。


俺は、しばらく考えた。


そして、別の箱を用意した。


新しい箱だ。


そこに、南朝の旗を丁寧に収めた。


          ◇


翌朝、新九郎が店に来た。


「弥一郎、何だその箱」


「南朝の旗だ」


「古い旗の箱に入れないのか?」


「入れない」


「何で?」


俺は、少し考えた。


「これは、戦わなかった旗だからだ」


新九郎は首を傾げた。


「戦わなかった旗?」


「ああ」


「なら、よかったじゃないか」


俺は頷いた。


「そうだな」


でも、それだけではない。


戦わなかったからこそ、残ってしまった思いもある。


俺は、そう感じていた。


          ◇


その日の午後、俺は義満様に呼ばれた。


またか。


最近、本当に多い。


新九郎が笑った。


「もう、将軍家の人間みたいだな」


「やめろ。縁起でもない」


「出世するかもしれないぞ」


「旗屋で十分だ」


俺は、ため息をついて店を出た。


          ◇


義満様は、以前より穏やかな表情をしていた。


「弥一郎。南朝の旗を作ったそうだな」


「はい」


「使われたか」


「いいえ」


義満様は、少しだけ目を細めた。


「そうか」


俺は、宗次のことを話した。


掲げる場所がなくなったこと。


旗を捨てられず、店に預けたこと。


そして、守ってきたものは何だったのかと尋ねられたこと。


義満様は、最後まで黙って聞いていた。


          ◇


「弥一郎」


「はい」


「私は、間違ったことをしたと思うか」


突然の問いだった。


俺は、すぐには答えられなかった。


「……分かりません」


義満様は、静かに頷いた。


「そうか」


「ただ、戦が終わったことは、よいことだと思います」


「うむ」


「でも、宗次殿のような人がいることも、忘れたくありません」


義満様は、しばらく俺を見つめた。


そして、静かに言った。


「それでよい」


俺は顔を上げた。


          ◇


「私は、将軍として争いを終わらせた」


義満様は続けた。


「だが、すべての者を喜ばせたわけではない」


「はい」


「それでも、私はこの道を選んだ」


その声には、迷いがなかった。


「お前は、お前の立場で見たことを覚えておけ」


俺は、深く頭を下げた。


義満様は、少し笑った。


「旗屋というのも、なかなか面倒な仕事だな」


俺は、思わず答えた。


「最近、特にそう思います」


義満様は声を出して笑った。


俺も、少し笑った。


          ◇


店へ戻ると、父上が待っていた。


「どうだった」


「義満様に、旗屋は面倒な仕事だと言われました」


父上は笑った。


「今さらだな」


「本当ですよ」


俺たちは、久しぶりに声を出して笑った。


          ◇


その夜、俺は看板を一枚増やした。


『本日の味方』


『明日は不明』


『急な寝返りにも対応』


『味方でも、考えは違う』


『守るために、離れることもある』


『売れない旗もあります』


『旗の下にも、人がいます』


そして、新しい板にはこう書いた。


『戦が終わっても、気持ちは終わりません』


新九郎が読んだ。


「長い」


「知ってる」


「でも、悪くない」


「そうか」


新九郎は、少し考えた。


「もっと短くできるぞ」


「何て?」


新九郎は、にやりと笑った。


『平和にも、事情あり』


俺は、思わず笑った。


「……それも、悪くないな」


結局、二枚とも掛けた。


          ◇


夜。


店の奥で、父上が古い旗を眺めていた。


俺は、その隣に座った。


「父上」


「何だ」


「南北朝が一つになりましたね」


「ああ」


「長かったですね」


父上は、少し笑った。


「本当にな」


俺は、父上の横顔を見た。


昔より、皺が増えている。


髪も白くなった。


それでも、父上は毎日店に出ている。


「父上は、嬉しいですか」


俺が尋ねると、父上はしばらく黙っていた。


やがて、静かに答えた。


「嬉しいよ」


俺は、少し安心した。


「ただな、弥一郎」


「はい」


「俺が若い頃、一緒に戦った者たちは、もうほとんどいない」


父上は、古い旗を一枚手に取った。


「尊氏様も、直義様も、師直殿も、みんな死んだ」


俺は黙った。


「その者たちが生きていたら、この日をどう思っただろうな」


父上は、遠くを見るような目をした。


俺には、答えられなかった。


          ◇


しばらくして、父上が言った。


「弥一郎」


「はい」


「そろそろ、店を任せようと思う」


俺は、思わず顔を上げた。


「……本当ですか」


「ああ」


「でも、父上はまだ……」


「まだ生きてるぞ」


「そういう意味じゃありません!」


父上は笑った。


「分かってる」


そして、静かに続けた。


「俺の時代は、ようやく終わった」


俺は、何も言えなかった。


父上は、古い旗を箱へ戻した。


「これからは、お前の時代だ」


俺は、深く頷いた。


          ◇


翌朝。


俺は店の帳面を開いた。


表紙には、父上の字でこう書かれていた。


『旗屋 弥太郎』


俺は、しばらくその文字を見つめた。


そして、新しい帳面を取り出した。


表紙に、ゆっくり筆を走らせる。


『旗屋 弥一郎』


書き終えると、少しだけ手が震えた。


新九郎が覗き込む。


「お、ついに二代目か」


「ああ」


「じゃあ、今日からお前が親方だな」


「そうなるな」


新九郎は、にやりと笑った。


「親方、給金を上げてくれ」


「お前、うちの職人じゃないだろ」


「細かいことを言うな」


俺は笑った。


店の外では、朝の光が差している。


南北朝は一つになった。


戦は終わった。


少なくとも、長く続いた一つの争いは。


そして、俺の仕事は、ここから本当に始まる。


父上が守ってきた店を、今度は俺が守る。


そのために、何を選び、何を断るのか。


まだ、答えは分からない。


ただ、一つだけ決めた。


誰かが降ろした旗にも、そこまで生きてきた人の人生がある。そのことだけは、忘れない。

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