戦が終わっても、旗は降ろせない
「南朝の旗を作ってほしい」
客がそう言った瞬間、俺は筆を落とした。
明徳の乱が終わり、ようやく店にも平穏が戻ってきたところだった。
佐吉は仕事に復帰し、新九郎は相変わらず余計な話を持ち込み、父上は店の奥で古い旗を整理している。
久しぶりに、普通の旗屋らしい毎日だった。
そこへ、南朝である。
「……もう一度、お願いできますか」
俺が聞き返すと、客は静かに答えた。
「南朝の旗を作っていただきたい」
聞き間違いではなかった。
俺は帳面を開き、すぐに閉じた。
「少々、お待ちください」
そう言って、店の奥へ向かった。
父上。
また面倒なことになりました。
◇
客は、吉野から来たという。
名を宗次と名乗った。
年は四十を少し過ぎた頃だろうか。日に焼けた顔に深い皺があり、着物は丁寧に繕われていた。
武士らしい身のこなしだったが、腰の刀は使い込まれている。
父上は宗次を見て、静かに尋ねた。
「旗は、何にお使いで?」
「お迎えのためです」
「誰を?」
宗次は、少し間を置いた。
「帝を」
俺は父上を見た。
父上も、宗次から目を離さなかった。
◇
北朝と南朝。
二つの朝廷が並び立つようになってから、すでに半世紀以上が過ぎていた。
父上が若かった頃には、まだ後醍醐天皇が生きていた。
尊氏様と争い、吉野へ移り、南朝を開いた帝だ。
それから長い年月が流れた。
将軍は代わり、武将は死に、子や孫が家を継いだ。
それでも、朝廷は二つのままだった。
俺が生まれた時から、そうだった。
だから、二つあること自体が、当たり前になっていた。
だが、宗次は違った。
「本来、朝廷は一つです」
宗次は、静かに言った。
「だからこそ、我らは吉野を守ってまいりました」
俺は頷いた。
ただ、北朝を支えてきた人々も、同じように考えているはずだった。
どちらも、自分たちこそ正しいと言う。
それが、何十年も続いてきた。
◇
「旗は、何枚ほど?」
父上が尋ねた。
「十二枚、お願いしたい」
「御紋は?」
宗次は懐から紙を取り出した。
そこには、菊の紋が描かれていた。
俺は思わず息を呑んだ。
「……これは」
「帝の旗です」
宗次は、まっすぐ俺を見た。
「戦のためではありません。吉野から京へ向かわれる、その道を飾るためです」
俺は、父上と顔を見合わせた。
「京へ?」
宗次は頷いた。
「まだ、正式に決まったわけではありません。しかし、近く大きな動きがあると聞いております」
大きな動き。
その言葉の意味を、俺はまだ知らなかった。
◇
宗次が帰った後、俺は父上に尋ねた。
「受けるんですか?」
父上は帳面を見つめていた。
「どう思う」
まただ。
最近、父上はすぐ俺に聞き返す。
昔なら、もっと簡単に答えてくれたのに。
「戦のためではないと言っています」
「ああ」
「なら、作ってもよいのでは?」
父上は頷いた。
「そうだな」
「でも、帝の旗です」
「そうだな」
「……どっちなんですか」
父上は、少し笑った。
「お前が決めろ」
俺はため息をついた。
父上。
最近、仕事を継がせるのが少し早すぎませんか。
◇
その日の夕方、新九郎が駆け込んできた。
「弥一郎! 大変だ!」
「今度は何だ」
「南朝と北朝が、一つになるらしい!」
俺は、思わず立ち上がった。
「本当か!」
「義満様が話をまとめているそうだ!」
俺は、宗次の顔を思い出した。
帝を迎えるための旗。
そういうことだったのか。
「これで戦が終わるんだな」
俺が言うと、新九郎は頷いた。
「そういうことになるな」
二人で顔を見合わせた。
そして、笑った。
長かった。
父上の若い頃から続いていた争いが、ようやく終わる。
これほどめでたいことが、ほかにあるだろうか。
◇
ところが、父上は笑っていなかった。
「まだ決まったわけではない」
「でも、話が進んでいるんでしょう?」
「ああ」
「なら、よいことでは?」
父上は静かに言った。
「戦が終わることは、よいことだ」
俺は頷いた。
「だが、戦が終われば、皆が納得するとは限らん」
俺は首を傾げた。
「どういう意味です?」
父上は、古い旗の箱を指した。
「負けた者にも、守りたかったものがある」
その言葉が、胸に残った。
◇
数日後、俺は義満様に呼ばれた。
最近は、将軍家からの使いを見るだけで胃が痛くなる。
新九郎は、楽しそうに言った。
「もう、将軍専属の旗屋になったらどうだ?」
「絶対に嫌だ」
「何で?」
「寿命が縮む」
新九郎は笑った。
俺は笑えなかった。
◇
義満様は、いつになく機嫌がよさそうだった。
「弥一郎。南朝から注文が来たそうだな」
俺は頭を下げた。
「はい」
「受けたか」
「まだです」
「なぜだ」
「少し、考えております」
義満様は笑った。
「お前も、ずいぶん慎重になったな」
「以前、慎重でなかったせいで、いろいろありましたので」
「山名の旗か」
俺は黙った。
義満様も、それ以上は聞かなかった。
◇
「近く、南北の朝廷を一つにする」
義満様は、静かに言った。
俺は深く頭を下げた。
「おめでとうございます」
「まだ早い」
「失礼いたしました」
義満様は、少し笑った。
「だが、ようやくここまで来た」
その顔には、これまで見たことのない安堵があった。
細川頼之様を退けた時も、山名氏清を討った時も、義満様はどこか張り詰めていた。
だが、今は違う。
長く背負っていたものを、ようやく下ろせる。
そんな表情だった。
◇
「弥一郎」
「はい」
「お前の父は、後醍醐帝の時代を知っているな」
「はい」
「ならば、この意味も分かるだろう」
義満様は庭へ目を向けた。
「半世紀以上続いた争いを、終わらせる」
俺は頷いた。
「大きなことだと思います」
「大きなことだ」
義満様は、静かに続けた。
「だが、終わらせるには、どちらかが譲らねばならぬ」
俺は、少し考えた。
「南朝が、譲るのですか」
義満様は、すぐには答えなかった。
「双方が納得できる形を探している」
俺は頷いた。
しかし、義満様の言葉には、どこか難しさが残っていた。
◇
「義満様」
「何だ」
「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「申せ」
俺は、少し迷った。
「南朝の人々は、喜んでいるのでしょうか」
義満様は、俺を見た。
「どういう意味だ」
「戦が終わるのは、よいことだと思います。でも、南朝を守ってきた人々は……」
言葉を探した。
「自分たちが守ってきたものを、失うように感じるかもしれません」
義満様は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「そうだろうな」
俺は驚いた。
否定されると思っていた。
◇
「だが、弥一郎」
義満様は続けた。
「誰もが満足するまで待っていては、争いは終わらぬ」
俺は黙った。
「南朝にも北朝にも、譲れぬものがある。それをすべて守ろうとすれば、また何十年も争うことになる」
義満様は、まっすぐ俺を見た。
「私は、終わらせる方を選ぶ」
迷いのない声だった。
俺は、深く頭を下げた。
その決断の重さを、少しだけ理解できた気がした。
◇
店へ戻ると、宗次が待っていた。
「旗の件、いかがでしょうか」
俺は、少し迷ってから答えた。
「お作りいたします」
宗次は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
俺は続けた。
「ただし、一つだけ確認させてください」
「何でしょう」
「その旗は、本当に戦のためではありませんね」
宗次は、まっすぐ俺を見た。
「はい」
俺は頷いた。
「ならば、喜んでお作りします」
◇
旗作りは、いつもより慎重に進めた。
菊の紋。
白い布。
金の糸。
佐吉が、一針ずつ丁寧に縫っていく。
「若旦那」
「何だ」
「今度の旗は、戦に使われないんですよね」
俺は、少し考えた。
「そのはずだ」
佐吉は、ほっとしたように笑った。
「よかった」
俺も、そう思った。
今度こそ、人を殺すためではない旗を作れる。
それが、嬉しかった。
◇
やがて、南北朝合一が実現した。
明徳三年。
南朝の後亀山天皇が京へ入り、三種の神器が北朝の後小松天皇へ渡された。
長く続いた二つの朝廷の並立は、ここで終わった。
京では、人々が喜んだ。
「これで戦がなくなる!」
「ようやく平和になる!」
新九郎も、嬉しそうだった。
「弥一郎、めでたいな!」
俺は頷いた。
「そうだな」
だが、その時。
俺は、宗次の姿を見つけた。
◇
宗次は、道の端に立っていた。
俺たちが作った旗を、静かに抱えている。
掲げてはいなかった。
俺は近づいた。
「宗次殿」
宗次は、ゆっくり顔を上げた。
「弥一郎殿」
「旗は、使われなかったのですか」
宗次は、少し笑った。
「使うつもりでした」
「では、なぜ?」
宗次は、抱えた旗を見た。
「掲げる場所が、なくなりました」
俺は、言葉を失った。
◇
「帝をお迎えする旗として、お願いしました」
宗次は静かに言った。
「しかし、京へ入られた帝は、もはや以前と同じお立場ではありません」
俺は黙った。
「我らは、長く吉野を守ってまいりました。父も、祖父も、そのために戦いました」
宗次は、旗を抱え直した。
「ようやく京へ戻れる。そう思っておりました」
「……はい」
「ですが、戻ってみれば、我らの居場所はありませんでした」
俺は、何も言えなかった。
◇
「戦が終わったのは、よいことです」
宗次は続けた。
「それは、分かっております」
「はい」
「ですが、弥一郎殿」
宗次は、俺をまっすぐ見た。
「我らが守ってきたものは、何だったのでしょうな」
その言葉が、胸に刺さった。
俺には、答えられなかった。
◇
店へ戻ると、父上が待っていた。
俺は、宗次との話を伝えた。
父上は、最後まで黙って聞いていた。
「父上」
「何だ」
「戦が終わったのに、喜べない人もいるんですね」
父上は頷いた。
「ああ」
「どうしてでしょう」
父上は、少し考えた。
「人は、戦に勝つためだけに戦うわけじゃない」
俺は顔を上げた。
「守りたいものがあるから戦う者もいる。その守りたいものが、戦の終わりと一緒に失われることもある」
俺は、宗次の顔を思い出した。
「……難しいですね」
「難しいな」
父上は、静かに答えた。
◇
数日後、宗次が再び店を訪れた。
手には、俺たちが作った旗を持っている。
「弥一郎殿」
「はい」
「お願いがございます」
俺は、少し身構えた。
「何でしょう」
宗次は、旗を差し出した。
「この旗を、預かっていただけませんか」
俺は驚いた。
「なぜです?」
「私には、もう掲げる場所がありません」
宗次は、静かに続けた。
「ですが、捨てることもできません」
俺は、旗を見た。
丁寧に縫われた菊の紋。
一度も掲げられなかった旗。
「……分かりました」
俺は、両手で受け取った。
「大切に、お預かりします」
宗次は、深く頭を下げた。
◇
その夜。
俺は、父上の古い旗の箱を開けた。
尊氏様。
直義様。
師直殿。
そして、山名の旗。
それぞれに、戦った人々の思いがある。
俺は、その隣に南朝の旗を置こうとした。
だが、手が止まった。
この旗は、戦に使われなかった。
誰も殺さなかった。
それでも、誰かを傷つけた。
俺は、しばらく考えた。
そして、別の箱を用意した。
新しい箱だ。
そこに、南朝の旗を丁寧に収めた。
◇
翌朝、新九郎が店に来た。
「弥一郎、何だその箱」
「南朝の旗だ」
「古い旗の箱に入れないのか?」
「入れない」
「何で?」
俺は、少し考えた。
「これは、戦わなかった旗だからだ」
新九郎は首を傾げた。
「戦わなかった旗?」
「ああ」
「なら、よかったじゃないか」
俺は頷いた。
「そうだな」
でも、それだけではない。
戦わなかったからこそ、残ってしまった思いもある。
俺は、そう感じていた。
◇
その日の午後、俺は義満様に呼ばれた。
またか。
最近、本当に多い。
新九郎が笑った。
「もう、将軍家の人間みたいだな」
「やめろ。縁起でもない」
「出世するかもしれないぞ」
「旗屋で十分だ」
俺は、ため息をついて店を出た。
◇
義満様は、以前より穏やかな表情をしていた。
「弥一郎。南朝の旗を作ったそうだな」
「はい」
「使われたか」
「いいえ」
義満様は、少しだけ目を細めた。
「そうか」
俺は、宗次のことを話した。
掲げる場所がなくなったこと。
旗を捨てられず、店に預けたこと。
そして、守ってきたものは何だったのかと尋ねられたこと。
義満様は、最後まで黙って聞いていた。
◇
「弥一郎」
「はい」
「私は、間違ったことをしたと思うか」
突然の問いだった。
俺は、すぐには答えられなかった。
「……分かりません」
義満様は、静かに頷いた。
「そうか」
「ただ、戦が終わったことは、よいことだと思います」
「うむ」
「でも、宗次殿のような人がいることも、忘れたくありません」
義満様は、しばらく俺を見つめた。
そして、静かに言った。
「それでよい」
俺は顔を上げた。
◇
「私は、将軍として争いを終わらせた」
義満様は続けた。
「だが、すべての者を喜ばせたわけではない」
「はい」
「それでも、私はこの道を選んだ」
その声には、迷いがなかった。
「お前は、お前の立場で見たことを覚えておけ」
俺は、深く頭を下げた。
義満様は、少し笑った。
「旗屋というのも、なかなか面倒な仕事だな」
俺は、思わず答えた。
「最近、特にそう思います」
義満様は声を出して笑った。
俺も、少し笑った。
◇
店へ戻ると、父上が待っていた。
「どうだった」
「義満様に、旗屋は面倒な仕事だと言われました」
父上は笑った。
「今さらだな」
「本当ですよ」
俺たちは、久しぶりに声を出して笑った。
◇
その夜、俺は看板を一枚増やした。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
『味方でも、考えは違う』
『守るために、離れることもある』
『売れない旗もあります』
『旗の下にも、人がいます』
そして、新しい板にはこう書いた。
『戦が終わっても、気持ちは終わりません』
新九郎が読んだ。
「長い」
「知ってる」
「でも、悪くない」
「そうか」
新九郎は、少し考えた。
「もっと短くできるぞ」
「何て?」
新九郎は、にやりと笑った。
『平和にも、事情あり』
俺は、思わず笑った。
「……それも、悪くないな」
結局、二枚とも掛けた。
◇
夜。
店の奥で、父上が古い旗を眺めていた。
俺は、その隣に座った。
「父上」
「何だ」
「南北朝が一つになりましたね」
「ああ」
「長かったですね」
父上は、少し笑った。
「本当にな」
俺は、父上の横顔を見た。
昔より、皺が増えている。
髪も白くなった。
それでも、父上は毎日店に出ている。
「父上は、嬉しいですか」
俺が尋ねると、父上はしばらく黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「嬉しいよ」
俺は、少し安心した。
「ただな、弥一郎」
「はい」
「俺が若い頃、一緒に戦った者たちは、もうほとんどいない」
父上は、古い旗を一枚手に取った。
「尊氏様も、直義様も、師直殿も、みんな死んだ」
俺は黙った。
「その者たちが生きていたら、この日をどう思っただろうな」
父上は、遠くを見るような目をした。
俺には、答えられなかった。
◇
しばらくして、父上が言った。
「弥一郎」
「はい」
「そろそろ、店を任せようと思う」
俺は、思わず顔を上げた。
「……本当ですか」
「ああ」
「でも、父上はまだ……」
「まだ生きてるぞ」
「そういう意味じゃありません!」
父上は笑った。
「分かってる」
そして、静かに続けた。
「俺の時代は、ようやく終わった」
俺は、何も言えなかった。
父上は、古い旗を箱へ戻した。
「これからは、お前の時代だ」
俺は、深く頷いた。
◇
翌朝。
俺は店の帳面を開いた。
表紙には、父上の字でこう書かれていた。
『旗屋 弥太郎』
俺は、しばらくその文字を見つめた。
そして、新しい帳面を取り出した。
表紙に、ゆっくり筆を走らせる。
『旗屋 弥一郎』
書き終えると、少しだけ手が震えた。
新九郎が覗き込む。
「お、ついに二代目か」
「ああ」
「じゃあ、今日からお前が親方だな」
「そうなるな」
新九郎は、にやりと笑った。
「親方、給金を上げてくれ」
「お前、うちの職人じゃないだろ」
「細かいことを言うな」
俺は笑った。
店の外では、朝の光が差している。
南北朝は一つになった。
戦は終わった。
少なくとも、長く続いた一つの争いは。
そして、俺の仕事は、ここから本当に始まる。
父上が守ってきた店を、今度は俺が守る。
そのために、何を選び、何を断るのか。
まだ、答えは分からない。
ただ、一つだけ決めた。
誰かが降ろした旗にも、そこまで生きてきた人の人生がある。そのことだけは、忘れない。




