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18/62

俺の旗で、人が死ぬ

俺は、旗を作る仕事が好きだった。


正確には、好きになろうとしていた。


父上から受け継ぐ店だから、という理由だけではない。白い布に紋を描き、縫い合わせ、一本の旗に仕上げていく。その仕事には、思っていた以上の面白さがあった。


旗は、人を集める。


遠くにいても、誰がどこにいるのか分かる。道に迷った者は旗を目指し、散り散りになった兵は旗の下へ戻ってくる。


だから、旗は人を守るものだと思っていた。


少なくとも、そう思いたかった。


だが、明徳(めいとく)二年の冬。


俺は、自分の考えがどれほど甘かったのかを知ることになる。


          ◇


「弥一郎、山名が動いたぞ」


新九郎が店へ飛び込んできたのは、朝のことだった。


俺は筆を置いた。


「どこの山名だ?」


「山名氏清(やまなうじきよ)だ。山名満幸(やまなみつゆき)も一緒らしい」


嫌な名前だった。


氏清。


以前、俺たちの店に旗を注文した家中の主。


そして、佐吉を連れ去った者たちが属していた家でもある。


「どこへ向かっている?」


「京だ」


俺は帳面を閉じた。


山名氏は、かつて幕府を支える大きな一族だった。しかし、将軍・足利義満(あしかがよしみつ)様との関係は、年を追うごとに悪くなっていた。


山名の力を抑えようとする将軍。


それを、自分たちへの脅威と受け取る山名。


どちらも引かなかった。


そして今、ついに兵が動いた。


          ◇


「将軍は?」


「迎え撃つらしい」


「そうか」


俺は短く答えた。


義満様なら、そうするだろう。


頼之様が政務の中心から退いて以来、義満様は自らの判断で幕府を動かしてきた。


かつてのように、誰かの後ろに隠れる将軍ではない。


そのことを、俺は何度も見てきた。


だからこそ、怖かった。


義満様が強くなれば、幕府はまとまる。


だが、従わない者はどうなる。


その答えが、今まさに京へ向かっている。


          ◇


店には、朝から注文が殺到した。


幕府方の旗。


足利の紋。


細川の紋。


畠山の紋。


次々に注文が入り、職人たちは休む暇もなかった。


「若旦那、布が足りません!」


佐吉が叫んだ。


「奥の棚にある!」


「それは昨日使い切りました!」


「じゃあ、何で昨日言わないんだ!」


「言いました!」


そうだった。


聞いた覚えがある。


忙しすぎて忘れていた。


新九郎が横から口を挟む。


「父上なら忘れないぞ」


「うるさい!」


店は、いつものように騒がしかった。


だが、誰も笑っていなかった。


          ◇


昼過ぎ、父上が俺を呼んだ。


「弥一郎、少し休め」


「そんな暇ありません」


「休めと言っている」


珍しく強い声だった。


俺は筆を置いた。


父上は、店の奥にある古い箱を開けていた。


尊氏様や直義様の時代から残る旗が、そこに収められている。


「覚えているか」


父上が言った。


「何をです?」


「昔、お前に言ったことだ」


「父上は、いろいろ言いますから」


「旗は、作った者の思い通りには動かん」


俺は黙った。


父上は、古い旗を一枚取り出した。


「この旗を作った時、俺は味方を助けるつもりだった」


「はい」


「だが、その旗を目印に敵が集まり、大勢が死んだ」


父上は、布を静かに畳んだ。


「旗は人を集める。だから、人を殺す場所も教えてしまう」


俺は何も言えなかった。


          ◇


「父上」


「何だ」


「俺、山名に旗を作りました」


父上は頷いた。


「知っている」


「四十枚です」


「ああ」


「その旗が、今度の戦で使われるかもしれません」


父上は俺を見た。


「そうだな」


「もし、あの旗の下で人が死んだら……」


言葉が続かなかった。


父上は、すぐには答えなかった。


やがて静かに言った。


「弥一郎。お前は佐吉を助けたかったんだろう」


「はい」


「ならば、その時のお前の決断まで否定するな」


俺は顔を上げた。


「ただし」


父上は続けた。


「その決断が、ほかの誰かを傷つけるかもしれん。そのことからも逃げるな」


俺は、深く頷いた。


          ◇


戦は、京の近くまで迫った。


山名の軍勢が進み、幕府方も兵を集める。


人々は戸を閉め、商人たちは荷を隠した。


店の前を通る武士の数が増えるたび、胸の奥が重くなった。


その日の夕方。


佐吉が俺のところへ来た。


「若旦那、お願いがあります」


「何だ?」


「しばらく、店を休ませていただけませんか」


俺は驚いた。


佐吉は、誰よりも真面目な職人だった。


忙しい時に休みたいなどと言う男ではない。


「どうした。具合でも悪いのか?」


佐吉は首を振った。


「……家族を、京の外へ逃がしたいんです」


俺は、すぐに頷いた。


「分かった。行ってこい」


佐吉は頭を下げた。


「ありがとうございます」


その顔を見て、俺は少し安心した。


少なくとも、佐吉とその家族は守れる。


そう思った。


          ◇


翌朝、佐吉は妻のお春と娘を連れて出発した。


俺と新九郎は、店先で見送った。


「気をつけろよ」


俺が言うと、佐吉は深く頭を下げた。


「若旦那も」


お春が娘の手を引いている。


まだ幼い娘は、何も分かっていないのだろう。


俺たちに向かって、無邪気に手を振った。


俺も手を振り返した。


その時は、これでよかったと思っていた。


          ◇


ところが、昼過ぎ。


新九郎が血相を変えて戻ってきた。


「弥一郎!」


「どうした!」


「佐吉が戻ってきた!」


俺は驚いた。


「何でだ!」


「道が塞がれているらしい。兵が行き交っていて、家族を連れて通れないそうだ」


俺は、思わず立ち上がった。


「今、どこにいる?」


「京の外れだ。お春さんと娘は、知り合いの家に預けたらしい」


「佐吉は?」


新九郎は、少し言いにくそうに答えた。


「……荷車を取りに戻った」


嫌な予感がした。


          ◇


俺は店を飛び出した。


父上が呼び止める。


「弥一郎!」


「佐吉を迎えに行きます!」


「待て。今は危ない」


「分かっています!」


俺は振り返った。


「でも、佐吉は俺の店の人間です!」


父上は、しばらく俺を見た。


そして、静かに言った。


「新九郎を連れていけ」


「はい」


「無理だと思ったら戻れ」


「……はい」


父上は、最後に一つだけ言った。


「人を助けようとして、自分まで死ぬな」


その言葉が、胸に刺さった。


          ◇


京の外れは、すでに混乱していた。


逃げる人々。


荷を運ぶ商人。


武装した兵。


どこへ向かえば安全なのか、誰にも分からない。


俺と新九郎は、人の流れをかき分けて進んだ。


「佐吉!」


俺は叫んだ。


「佐吉、どこだ!」


返事はない。


新九郎が、少し先を指した。


「あれじゃないか!」


見ると、荷車のそばに人影があった。


佐吉だ。


俺は駆け寄った。


「何をしてるんだ!」


佐吉は驚いた顔をした。


「若旦那!」


「荷車なんて置いて逃げろ!」


「でも、これがないと家族の荷物が……」


「命より大事な荷物があるか!」


俺は佐吉の腕を掴んだ。


その時だった。


遠くで、怒号が上がった。


          ◇


「山名勢だ!」


誰かが叫んだ。


人々が、一斉に走り始めた。


俺は振り返った。


道の向こうに、武装した兵が見える。


そして、その頭上には旗があった。


山名の紋。


俺は、息を呑んだ。


見覚えのある布。


見覚えのある縫い目。


旗の端に施した、小さな補強。


俺たちの店で使う縫い方だった。


「……嘘だろ」


新九郎が俺を見る。


「弥一郎?」


俺は、旗から目を離せなかった。


あの四十枚のうちの一枚。


そう断言できるわけではない。


だが、あまりにも似ていた。


          ◇


兵たちが近づいてくる。


俺は、佐吉を引っ張った。


「走れ!」


三人で駆け出した。


背後から、怒号が聞こえる。


人々が押し合い、転び、泣き叫ぶ。


俺は何度も振り返った。


あの旗が、近づいてくる。


俺が作ったかもしれない旗。


佐吉を助けるために渡した旗。


その旗の下で、兵が進んでくる。


俺は初めて、旗が怖いと思った。


          ◇


角を曲がったところで、佐吉が転んだ。


「佐吉!」


俺は振り返った。


佐吉は足を押さえている。


「若旦那、先に行ってください!」


「馬鹿を言うな!」


新九郎が肩を貸した。


俺も反対側から支える。


「立てるか!」


「……何とか」


三人で歩き始めた。


だが、遅い。


背後の足音が近づいてくる。


その時、道の先に幕府方の兵が現れた。


「止まれ!」


俺たちは立ち止まった。


「何者だ!」


俺は叫んだ。


「旗屋です!」


兵が怪訝な顔をした。


「旗屋?」


「京で旗を作っています!」


「どちらの旗だ!」


俺は、答えに詰まった。


どちらの旗。


そんなことを聞かれても。


俺は、両方の旗を作っている。


          ◇


「足利の旗も、山名の旗も作っています!」


正直に答えた。


兵の顔色が変わった。


「山名の間者か!」


しまった。


正直に言いすぎた。


新九郎が叫ぶ。


「違います! この男は、ただの旗屋です!」


「ただの旗屋が、なぜ戦場にいる!」


それは俺も聞きたい。


俺は、佐吉を支えながら言った。


「職人を迎えに来たんです!」


兵は疑わしそうに俺たちを見た。


その時、背後から別の声がした。


「その者たちを通せ」


振り返ると、年配の武士が立っていた。


見覚えがある。


以前、幕府の注文を届けた時に会ったことのある男だった。


「弥一郎殿だな」


「はい!」


「将軍家の旗を作った者だろう」


「はい!」


武士は頷いた。


「通してやれ」


俺は、深く頭を下げた。


助かった。


そう思った。


          ◇


だが、その直後。


背後で、激しい音がした。


兵がぶつかり合う。


怒号が上がる。


俺は振り返った。


山名の旗が揺れていた。


その下で、男が一人倒れた。


続いて、別の男が倒れる。


旗を目印に、兵が集まる。


旗を目指して、敵も押し寄せる。


俺は、父上の言葉を思い出した。


――旗は人を集める。だから、人を殺す場所も教えてしまう。


その意味が、ようやく分かった。


          ◇


「弥一郎、行くぞ!」


新九郎が叫んだ。


俺は、佐吉を支え直した。


三人で走った。


何度も転びそうになりながら、ようやく安全な場所へたどり着いた。


佐吉は、その場に座り込んだ。


「若旦那……申し訳ありません」


俺は首を振った。


「謝るな」


「でも、俺のせいで……」


「違う」


俺は、佐吉の肩を掴んだ。


「お前が無事なら、それでいい」


佐吉は、泣きそうな顔をした。


俺も、少し泣きそうだった。


          ◇


その夜、俺たちは店へ戻った。


父上は、何も言わずに迎えてくれた。


佐吉の足を手当てし、新九郎にも休むよう言った。


俺は、店の奥に座り込んだ。


体中が痛い。


それ以上に、胸の奥が重かった。


父上が隣に座った。


「見たか」


俺は頷いた。


「……はい」


「旗を」


「はい」


父上は、何も言わなかった。


俺は、しばらくしてから口を開いた。


「俺の旗でした」


父上が俺を見る。


「確かか」


「……分かりません。でも、同じ縫い方でした」


父上は静かに頷いた。


「そうか」


「その旗の下で、人が死にました」


声が震えた。


「俺が作った旗の下で……」


父上は、しばらく黙っていた。


          ◇


「弥一郎」


「はい」


「お前は、あの旗を何のために作った」


「佐吉を助けるためです」


「そうだな」


「でも……」


「その時、お前は佐吉を助けた」


俺は頷いた。


「今日も、お前は佐吉を助けた」


「……はい」


父上は、俺の肩に手を置いた。


「ならば、まずそのことを忘れるな」


俺は、父上を見た。


「ただし」


父上は続けた。


「旗を作った責任まで、消えるわけではない」


俺は、ゆっくり頷いた。


父上は、俺を慰めようとしているのではなかった。


俺が選んだことを、俺自身に引き受けさせようとしているのだ。


          ◇


明徳の乱は、やがて幕府方の勝利に終わった。


山名氏清は討たれ、山名一族の勢力は大きく削がれた。


義満様は、また一つ大きな力を抑えた。


幕府は、以前より強くなった。


人々は、将軍の手腕を称えた。


俺も、そう思った。


義満様は、確かに強い。


だが、その強さの陰で、どれほどの人が死んだのだろう。


俺には、分からなかった。


          ◇


戦が終わって数日後、義満様に呼ばれた。


俺は、いつものように頭を下げた。


義満様は、静かに言った。


「弥一郎。戦場へ行ったそうだな」


「はい」


「何を見た」


俺は、少し迷った。


そして答えた。


「旗を見ました」


義満様は頷いた。


「そうか」


「俺が作ったかもしれない旗です」


「山名のか」


「はい」


義満様は、しばらく黙っていた。


          ◇


「後悔しているか」


義満様が聞いた。


俺は答えた。


「……はい」


「旗を作ったことをか」


「それもあります」


「ほかには?」


俺は、少し考えた。


「旗を作れば、誰かを助けられると思っていたことです」


義満様は、俺を見つめた。


「旗は、人を集めます」


俺は続けた。


「でも、その下で人が死ぬこともあります」


「そうだな」


「俺は、そのことを知っていたつもりでした」


義満様は、静かに頷いた。


「知ることと、見ることは違う」


その言葉に、俺は顔を上げた。


          ◇


義満様は、少しだけ遠くを見るような目をした。


「私も、戦を知らぬわけではない」


「はい」


「だが、将軍の座にいると、戦は報告として届く」


俺は黙った。


「何人が討たれ、どこを押さえ、誰が降ったか。紙に書かれた言葉だけでは、見えぬものもある」


義満様は、俺を見た。


「お前は、それを見たのだな」


「……はい」


「ならば、忘れるな」


俺は深く頭を下げた。


          ◇


店へ戻ると、佐吉が待っていた。


足は、まだ少し痛むらしい。


それでも、仕事に戻ろうとしていた。


「若旦那」


「何だ」


「俺、また旗を作ってもいいでしょうか」


俺は驚いた。


「怖くないのか」


佐吉は、少し考えた。


「怖いです」


「そうか」


「でも、俺にはこれしかありません」


俺は、何も言えなかった。


佐吉は続けた。


「旗を作る仕事が、悪い仕事だとは思いたくないんです」


その言葉が、胸に刺さった。


俺も、同じだった。


          ◇


その夜、俺は新しい看板を作った。


『本日の味方』


『明日は不明』


『急な寝返りにも対応』


『味方でも、考えは違う』


『守るために、離れることもある』


『売れない旗もあります』


そして、その下に一枚。


『旗の下にも、人がいます』


新九郎が読んだ。


珍しく、何も言わなかった。


俺は、少し不安になった。


「……長いか?」


新九郎は首を振った。


「いや」


そして、静かに言った。


「今回は、そのままでいいと思う」


俺は頷いた。


          ◇


数日後、父上が店の奥で古い旗を整理していた。


俺は、その隣に座った。


「父上」


「何だ」


「俺、ようやく少し分かった気がします」


「何をだ」


「父上が、どうして戦を嫌うのか」


父上は、少しだけ笑った。


「そうか」


「でも、まだ全部は分かりません」


「全部分かる必要はない」


父上は、古い旗を一枚畳んだ。


「お前は、お前の時代を生きればいい」


俺は、ゆっくり頷いた。


          ◇


その頃、義満様の力は、さらに強くなっていた。


細川頼之様を退け、山名氏清を討ち、幕府の中で将軍に逆らえる者は少なくなっていく。


だが、義満様が本当に目指していたものは、それだけではなかった。


京の外には、まだ二つの朝廷がある。


北朝。


南朝。


長く続いた争いを、終わらせること。


それが、次に義満様が向き合う大きな仕事だった。


俺は、まだ知らなかった。


この戦の後に訪れるのが、ただの平和ではないことを。


そして、義満様が戦ではなく言葉によって、歴史を大きく動かす日が近づいていることも。


          ◇


店の壁には、新しい看板が増えた。


『旗の下にも、人がいます』


俺は、その言葉を眺めた。


旗を作ることは、やめない。


だが、もう何も考えずには作れない。


誰の旗か。


何のための旗か。


その下に、どんな人が立つのか。


俺は、これからも考え続ける。


父上がそうしてきたように。


ただし、父上と同じ答えを出すとは限らない。


それが、俺の選んだ道だ。


その時、店の外から新九郎の声がした。


「弥一郎! 注文だ!」


俺は振り返った。


「どこから?」


新九郎が答えた。


「南朝方だって!」


俺は、しばらく黙った。


そして、思わず天井を見上げた。


父上。


どうやら、今度は戦ではなく、朝廷が相手になりそうです。


……旗屋の仕事って、いつになったら普通になるんでしょうか。

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