俺の旗で、人が死ぬ
俺は、旗を作る仕事が好きだった。
正確には、好きになろうとしていた。
父上から受け継ぐ店だから、という理由だけではない。白い布に紋を描き、縫い合わせ、一本の旗に仕上げていく。その仕事には、思っていた以上の面白さがあった。
旗は、人を集める。
遠くにいても、誰がどこにいるのか分かる。道に迷った者は旗を目指し、散り散りになった兵は旗の下へ戻ってくる。
だから、旗は人を守るものだと思っていた。
少なくとも、そう思いたかった。
だが、明徳二年の冬。
俺は、自分の考えがどれほど甘かったのかを知ることになる。
◇
「弥一郎、山名が動いたぞ」
新九郎が店へ飛び込んできたのは、朝のことだった。
俺は筆を置いた。
「どこの山名だ?」
「山名氏清だ。山名満幸も一緒らしい」
嫌な名前だった。
氏清。
以前、俺たちの店に旗を注文した家中の主。
そして、佐吉を連れ去った者たちが属していた家でもある。
「どこへ向かっている?」
「京だ」
俺は帳面を閉じた。
山名氏は、かつて幕府を支える大きな一族だった。しかし、将軍・足利義満様との関係は、年を追うごとに悪くなっていた。
山名の力を抑えようとする将軍。
それを、自分たちへの脅威と受け取る山名。
どちらも引かなかった。
そして今、ついに兵が動いた。
◇
「将軍は?」
「迎え撃つらしい」
「そうか」
俺は短く答えた。
義満様なら、そうするだろう。
頼之様が政務の中心から退いて以来、義満様は自らの判断で幕府を動かしてきた。
かつてのように、誰かの後ろに隠れる将軍ではない。
そのことを、俺は何度も見てきた。
だからこそ、怖かった。
義満様が強くなれば、幕府はまとまる。
だが、従わない者はどうなる。
その答えが、今まさに京へ向かっている。
◇
店には、朝から注文が殺到した。
幕府方の旗。
足利の紋。
細川の紋。
畠山の紋。
次々に注文が入り、職人たちは休む暇もなかった。
「若旦那、布が足りません!」
佐吉が叫んだ。
「奥の棚にある!」
「それは昨日使い切りました!」
「じゃあ、何で昨日言わないんだ!」
「言いました!」
そうだった。
聞いた覚えがある。
忙しすぎて忘れていた。
新九郎が横から口を挟む。
「父上なら忘れないぞ」
「うるさい!」
店は、いつものように騒がしかった。
だが、誰も笑っていなかった。
◇
昼過ぎ、父上が俺を呼んだ。
「弥一郎、少し休め」
「そんな暇ありません」
「休めと言っている」
珍しく強い声だった。
俺は筆を置いた。
父上は、店の奥にある古い箱を開けていた。
尊氏様や直義様の時代から残る旗が、そこに収められている。
「覚えているか」
父上が言った。
「何をです?」
「昔、お前に言ったことだ」
「父上は、いろいろ言いますから」
「旗は、作った者の思い通りには動かん」
俺は黙った。
父上は、古い旗を一枚取り出した。
「この旗を作った時、俺は味方を助けるつもりだった」
「はい」
「だが、その旗を目印に敵が集まり、大勢が死んだ」
父上は、布を静かに畳んだ。
「旗は人を集める。だから、人を殺す場所も教えてしまう」
俺は何も言えなかった。
◇
「父上」
「何だ」
「俺、山名に旗を作りました」
父上は頷いた。
「知っている」
「四十枚です」
「ああ」
「その旗が、今度の戦で使われるかもしれません」
父上は俺を見た。
「そうだな」
「もし、あの旗の下で人が死んだら……」
言葉が続かなかった。
父上は、すぐには答えなかった。
やがて静かに言った。
「弥一郎。お前は佐吉を助けたかったんだろう」
「はい」
「ならば、その時のお前の決断まで否定するな」
俺は顔を上げた。
「ただし」
父上は続けた。
「その決断が、ほかの誰かを傷つけるかもしれん。そのことからも逃げるな」
俺は、深く頷いた。
◇
戦は、京の近くまで迫った。
山名の軍勢が進み、幕府方も兵を集める。
人々は戸を閉め、商人たちは荷を隠した。
店の前を通る武士の数が増えるたび、胸の奥が重くなった。
その日の夕方。
佐吉が俺のところへ来た。
「若旦那、お願いがあります」
「何だ?」
「しばらく、店を休ませていただけませんか」
俺は驚いた。
佐吉は、誰よりも真面目な職人だった。
忙しい時に休みたいなどと言う男ではない。
「どうした。具合でも悪いのか?」
佐吉は首を振った。
「……家族を、京の外へ逃がしたいんです」
俺は、すぐに頷いた。
「分かった。行ってこい」
佐吉は頭を下げた。
「ありがとうございます」
その顔を見て、俺は少し安心した。
少なくとも、佐吉とその家族は守れる。
そう思った。
◇
翌朝、佐吉は妻のお春と娘を連れて出発した。
俺と新九郎は、店先で見送った。
「気をつけろよ」
俺が言うと、佐吉は深く頭を下げた。
「若旦那も」
お春が娘の手を引いている。
まだ幼い娘は、何も分かっていないのだろう。
俺たちに向かって、無邪気に手を振った。
俺も手を振り返した。
その時は、これでよかったと思っていた。
◇
ところが、昼過ぎ。
新九郎が血相を変えて戻ってきた。
「弥一郎!」
「どうした!」
「佐吉が戻ってきた!」
俺は驚いた。
「何でだ!」
「道が塞がれているらしい。兵が行き交っていて、家族を連れて通れないそうだ」
俺は、思わず立ち上がった。
「今、どこにいる?」
「京の外れだ。お春さんと娘は、知り合いの家に預けたらしい」
「佐吉は?」
新九郎は、少し言いにくそうに答えた。
「……荷車を取りに戻った」
嫌な予感がした。
◇
俺は店を飛び出した。
父上が呼び止める。
「弥一郎!」
「佐吉を迎えに行きます!」
「待て。今は危ない」
「分かっています!」
俺は振り返った。
「でも、佐吉は俺の店の人間です!」
父上は、しばらく俺を見た。
そして、静かに言った。
「新九郎を連れていけ」
「はい」
「無理だと思ったら戻れ」
「……はい」
父上は、最後に一つだけ言った。
「人を助けようとして、自分まで死ぬな」
その言葉が、胸に刺さった。
◇
京の外れは、すでに混乱していた。
逃げる人々。
荷を運ぶ商人。
武装した兵。
どこへ向かえば安全なのか、誰にも分からない。
俺と新九郎は、人の流れをかき分けて進んだ。
「佐吉!」
俺は叫んだ。
「佐吉、どこだ!」
返事はない。
新九郎が、少し先を指した。
「あれじゃないか!」
見ると、荷車のそばに人影があった。
佐吉だ。
俺は駆け寄った。
「何をしてるんだ!」
佐吉は驚いた顔をした。
「若旦那!」
「荷車なんて置いて逃げろ!」
「でも、これがないと家族の荷物が……」
「命より大事な荷物があるか!」
俺は佐吉の腕を掴んだ。
その時だった。
遠くで、怒号が上がった。
◇
「山名勢だ!」
誰かが叫んだ。
人々が、一斉に走り始めた。
俺は振り返った。
道の向こうに、武装した兵が見える。
そして、その頭上には旗があった。
山名の紋。
俺は、息を呑んだ。
見覚えのある布。
見覚えのある縫い目。
旗の端に施した、小さな補強。
俺たちの店で使う縫い方だった。
「……嘘だろ」
新九郎が俺を見る。
「弥一郎?」
俺は、旗から目を離せなかった。
あの四十枚のうちの一枚。
そう断言できるわけではない。
だが、あまりにも似ていた。
◇
兵たちが近づいてくる。
俺は、佐吉を引っ張った。
「走れ!」
三人で駆け出した。
背後から、怒号が聞こえる。
人々が押し合い、転び、泣き叫ぶ。
俺は何度も振り返った。
あの旗が、近づいてくる。
俺が作ったかもしれない旗。
佐吉を助けるために渡した旗。
その旗の下で、兵が進んでくる。
俺は初めて、旗が怖いと思った。
◇
角を曲がったところで、佐吉が転んだ。
「佐吉!」
俺は振り返った。
佐吉は足を押さえている。
「若旦那、先に行ってください!」
「馬鹿を言うな!」
新九郎が肩を貸した。
俺も反対側から支える。
「立てるか!」
「……何とか」
三人で歩き始めた。
だが、遅い。
背後の足音が近づいてくる。
その時、道の先に幕府方の兵が現れた。
「止まれ!」
俺たちは立ち止まった。
「何者だ!」
俺は叫んだ。
「旗屋です!」
兵が怪訝な顔をした。
「旗屋?」
「京で旗を作っています!」
「どちらの旗だ!」
俺は、答えに詰まった。
どちらの旗。
そんなことを聞かれても。
俺は、両方の旗を作っている。
◇
「足利の旗も、山名の旗も作っています!」
正直に答えた。
兵の顔色が変わった。
「山名の間者か!」
しまった。
正直に言いすぎた。
新九郎が叫ぶ。
「違います! この男は、ただの旗屋です!」
「ただの旗屋が、なぜ戦場にいる!」
それは俺も聞きたい。
俺は、佐吉を支えながら言った。
「職人を迎えに来たんです!」
兵は疑わしそうに俺たちを見た。
その時、背後から別の声がした。
「その者たちを通せ」
振り返ると、年配の武士が立っていた。
見覚えがある。
以前、幕府の注文を届けた時に会ったことのある男だった。
「弥一郎殿だな」
「はい!」
「将軍家の旗を作った者だろう」
「はい!」
武士は頷いた。
「通してやれ」
俺は、深く頭を下げた。
助かった。
そう思った。
◇
だが、その直後。
背後で、激しい音がした。
兵がぶつかり合う。
怒号が上がる。
俺は振り返った。
山名の旗が揺れていた。
その下で、男が一人倒れた。
続いて、別の男が倒れる。
旗を目印に、兵が集まる。
旗を目指して、敵も押し寄せる。
俺は、父上の言葉を思い出した。
――旗は人を集める。だから、人を殺す場所も教えてしまう。
その意味が、ようやく分かった。
◇
「弥一郎、行くぞ!」
新九郎が叫んだ。
俺は、佐吉を支え直した。
三人で走った。
何度も転びそうになりながら、ようやく安全な場所へたどり着いた。
佐吉は、その場に座り込んだ。
「若旦那……申し訳ありません」
俺は首を振った。
「謝るな」
「でも、俺のせいで……」
「違う」
俺は、佐吉の肩を掴んだ。
「お前が無事なら、それでいい」
佐吉は、泣きそうな顔をした。
俺も、少し泣きそうだった。
◇
その夜、俺たちは店へ戻った。
父上は、何も言わずに迎えてくれた。
佐吉の足を手当てし、新九郎にも休むよう言った。
俺は、店の奥に座り込んだ。
体中が痛い。
それ以上に、胸の奥が重かった。
父上が隣に座った。
「見たか」
俺は頷いた。
「……はい」
「旗を」
「はい」
父上は、何も言わなかった。
俺は、しばらくしてから口を開いた。
「俺の旗でした」
父上が俺を見る。
「確かか」
「……分かりません。でも、同じ縫い方でした」
父上は静かに頷いた。
「そうか」
「その旗の下で、人が死にました」
声が震えた。
「俺が作った旗の下で……」
父上は、しばらく黙っていた。
◇
「弥一郎」
「はい」
「お前は、あの旗を何のために作った」
「佐吉を助けるためです」
「そうだな」
「でも……」
「その時、お前は佐吉を助けた」
俺は頷いた。
「今日も、お前は佐吉を助けた」
「……はい」
父上は、俺の肩に手を置いた。
「ならば、まずそのことを忘れるな」
俺は、父上を見た。
「ただし」
父上は続けた。
「旗を作った責任まで、消えるわけではない」
俺は、ゆっくり頷いた。
父上は、俺を慰めようとしているのではなかった。
俺が選んだことを、俺自身に引き受けさせようとしているのだ。
◇
明徳の乱は、やがて幕府方の勝利に終わった。
山名氏清は討たれ、山名一族の勢力は大きく削がれた。
義満様は、また一つ大きな力を抑えた。
幕府は、以前より強くなった。
人々は、将軍の手腕を称えた。
俺も、そう思った。
義満様は、確かに強い。
だが、その強さの陰で、どれほどの人が死んだのだろう。
俺には、分からなかった。
◇
戦が終わって数日後、義満様に呼ばれた。
俺は、いつものように頭を下げた。
義満様は、静かに言った。
「弥一郎。戦場へ行ったそうだな」
「はい」
「何を見た」
俺は、少し迷った。
そして答えた。
「旗を見ました」
義満様は頷いた。
「そうか」
「俺が作ったかもしれない旗です」
「山名のか」
「はい」
義満様は、しばらく黙っていた。
◇
「後悔しているか」
義満様が聞いた。
俺は答えた。
「……はい」
「旗を作ったことをか」
「それもあります」
「ほかには?」
俺は、少し考えた。
「旗を作れば、誰かを助けられると思っていたことです」
義満様は、俺を見つめた。
「旗は、人を集めます」
俺は続けた。
「でも、その下で人が死ぬこともあります」
「そうだな」
「俺は、そのことを知っていたつもりでした」
義満様は、静かに頷いた。
「知ることと、見ることは違う」
その言葉に、俺は顔を上げた。
◇
義満様は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「私も、戦を知らぬわけではない」
「はい」
「だが、将軍の座にいると、戦は報告として届く」
俺は黙った。
「何人が討たれ、どこを押さえ、誰が降ったか。紙に書かれた言葉だけでは、見えぬものもある」
義満様は、俺を見た。
「お前は、それを見たのだな」
「……はい」
「ならば、忘れるな」
俺は深く頭を下げた。
◇
店へ戻ると、佐吉が待っていた。
足は、まだ少し痛むらしい。
それでも、仕事に戻ろうとしていた。
「若旦那」
「何だ」
「俺、また旗を作ってもいいでしょうか」
俺は驚いた。
「怖くないのか」
佐吉は、少し考えた。
「怖いです」
「そうか」
「でも、俺にはこれしかありません」
俺は、何も言えなかった。
佐吉は続けた。
「旗を作る仕事が、悪い仕事だとは思いたくないんです」
その言葉が、胸に刺さった。
俺も、同じだった。
◇
その夜、俺は新しい看板を作った。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
『味方でも、考えは違う』
『守るために、離れることもある』
『売れない旗もあります』
そして、その下に一枚。
『旗の下にも、人がいます』
新九郎が読んだ。
珍しく、何も言わなかった。
俺は、少し不安になった。
「……長いか?」
新九郎は首を振った。
「いや」
そして、静かに言った。
「今回は、そのままでいいと思う」
俺は頷いた。
◇
数日後、父上が店の奥で古い旗を整理していた。
俺は、その隣に座った。
「父上」
「何だ」
「俺、ようやく少し分かった気がします」
「何をだ」
「父上が、どうして戦を嫌うのか」
父上は、少しだけ笑った。
「そうか」
「でも、まだ全部は分かりません」
「全部分かる必要はない」
父上は、古い旗を一枚畳んだ。
「お前は、お前の時代を生きればいい」
俺は、ゆっくり頷いた。
◇
その頃、義満様の力は、さらに強くなっていた。
細川頼之様を退け、山名氏清を討ち、幕府の中で将軍に逆らえる者は少なくなっていく。
だが、義満様が本当に目指していたものは、それだけではなかった。
京の外には、まだ二つの朝廷がある。
北朝。
南朝。
長く続いた争いを、終わらせること。
それが、次に義満様が向き合う大きな仕事だった。
俺は、まだ知らなかった。
この戦の後に訪れるのが、ただの平和ではないことを。
そして、義満様が戦ではなく言葉によって、歴史を大きく動かす日が近づいていることも。
◇
店の壁には、新しい看板が増えた。
『旗の下にも、人がいます』
俺は、その言葉を眺めた。
旗を作ることは、やめない。
だが、もう何も考えずには作れない。
誰の旗か。
何のための旗か。
その下に、どんな人が立つのか。
俺は、これからも考え続ける。
父上がそうしてきたように。
ただし、父上と同じ答えを出すとは限らない。
それが、俺の選んだ道だ。
その時、店の外から新九郎の声がした。
「弥一郎! 注文だ!」
俺は振り返った。
「どこから?」
新九郎が答えた。
「南朝方だって!」
俺は、しばらく黙った。
そして、思わず天井を見上げた。
父上。
どうやら、今度は戦ではなく、朝廷が相手になりそうです。
……旗屋の仕事って、いつになったら普通になるんでしょうか。




