旗屋にも、売れない旗がある
全面改訂しました。
山名。
その名前を聞いて、父上は筆を置いた。
「どこの山名だ」
俺は帳面を見直した。
「……山名です」
「それは聞いた」
「山名の御家中としか」
父上は、少し困った顔をした。
「弥一郎。山名というのは、一人ではない」
「知っていますよ」
「なら、どこの家中か確かめろ」
俺は頷いた。
大きな一族になると、同じ名字でも考え方が違う。
父上は、昔からそれを嫌というほど見てきたらしい。
足利家など、その代表だ。
同じ足利なのに、何度も争っている。
「大きな家ほど、内側は複雑だ」
父上はそう言って、再び筆を動かした。
俺は帳面の『山名』という二文字を見つめた。
嫌な予感がした。
◇
その頃、山名一族は西国を中心に大きな勢力を持っていた。
多くの国の守護を務め、その力は幕府にとっても無視できないものになっている。
人々は、山名氏の勢力を誇張も交えて「六分一殿」と呼んだ。
全国の国々の六分の一ほどを押さえている、という意味らしい。
新九郎がその話を聞いて、感心した。
「六分の一か。すごいな」
「そうだな」
「じゃあ、六分の五は誰のものなんだ?」
「知らん」
「将軍?」
「そんな単純な話じゃないだろ」
新九郎は首を傾げた。
「面倒だな、政治って」
その点だけは、完全に同意した。
◇
注文主は、山名氏清の家中に属する武士だった。
氏清殿は、山名一族の中でも力を持つ人物だという。
注文は旗四十枚。
数だけなら、珍しくない。
しかし、武士は旗の紋様を指定した後、声を落とした。
「納品先は、帳面に書かないでいただきたい」
俺は顔を上げた。
「なぜです?」
「事情がある」
「事情を教えていただけなければ、こちらも困ります」
武士は不快そうに眉を寄せた。
「旗屋が、そこまで知る必要はなかろう」
以前の俺なら、そこで引き下がったかもしれない。
だが、細川の武士に胸倉を掴まれて以来、少し考え方が変わった。
知らないまま引き受ける方が、怖い。
「申し訳ありません。納品先が分からないご注文は、お受けできません」
武士は俺を睨んだ。
「山名の注文を断るのか」
「山名様だからではありません。どなたでも同じです」
しばらく沈黙が続いた。
やがて武士は、小さく舌打ちした。
「……後日、改めて参る」
そう言って帰っていった。
俺は、ようやく息を吐いた。
◇
奥から父上が出てきた。
「断ったか」
「はい」
「理由は?」
「納品先を隠そうとしたので」
父上は頷いた。
「それでいい」
珍しく、素直に褒められた。
少し嬉しかった。
ところが、父上は続けた。
「ただし、これで終わりとは思うな」
嬉しさが消えた。
「……どういうことです?」
「本当に必要な旗なら、別の者が買いに来る」
「別の者?」
「名前を変えてな」
俺は帳面を閉じた。
父上。
商売って、こんなに面倒なものでしたっけ。
◇
翌日、別の客が来た。
注文は旗四十枚。
俺は嫌な予感を覚えた。
「どちらの御家中でしょうか」
「個人で頼みたい」
「四十枚を?」
「ああ」
「何にお使いで?」
「祭りだ」
俺は客を見た。
客も俺を見た。
「……祭りですか」
「そうだ」
「何のお祭りで?」
「大きな祭りだ」
「どこで?」
「西の方だ」
雑だ。
あまりにも雑だ。
俺は丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありませんが、お受けできません」
客は何か言いかけたが、結局そのまま帰っていった。
◇
新九郎が腹を抱えて笑った。
「大きな祭り!」
「笑い事じゃない」
「西の方!」
「だから笑うな!」
「もう少し考えて嘘をつけばいいのにな」
俺も、そう思う。
ただ、笑っていられたのはそこまでだった。
その日の夕方、店の前に見慣れない男が立っていた。
男は店には入らず、こちらをじっと見ている。
俺が声をかけると、何も答えず立ち去った。
翌朝もいた。
その次の日も。
新九郎が言った。
「見張られてるんじゃないか?」
俺は否定したかった。
だが、否定する理由がなかった。
◇
三日後、今度は幕府の使いが来た。
「弥一郎殿。将軍がお呼びだ」
俺は、思わず天井を見た。
またですか。
義満様。
最近、旗を作っている時間より、偉い人に呼ばれている時間の方が長い気がします。
◇
義満様は、以前より落ち着いた雰囲気をまとっていた。
細川頼之様が政務の中心を離れてから、将軍自身が決めることが増えている。
若い頃の義満様は、周囲の大人たちの話を聞きながら判断していた。
今は違う。
まず自分で考え、必要な話だけを聞く。
そんな印象だった。
「弥一郎。山名から注文が来たそうだな」
俺は頭を下げた。
「はい」
「受けたか」
「いいえ」
「なぜだ」
「納品先を隠されたからです」
義満様は頷いた。
「そうか」
そして、何気ない調子で聞いた。
「ほかには?」
俺は黙った。
「ほか、とは?」
「山名に関わる者から、何か頼まれていないか」
俺は少し迷った。
帳面に書かれていない客のことを、どこまで話していいのだろう。
義満様は、俺の顔を見て笑った。
「また、客の秘密か」
「申し訳ありません」
「謝ることではない」
義満様は、しばらく俺を眺めた。
「お前の父は、もっと上手く隠すぞ」
「……まだ修業中ですので」
「ならば、早く覚えろ」
褒められているのか、叱られているのか。
相変わらず分からない。
◇
義満様は、山名氏について話し始めた。
「大きな家だ」
「はい」
「力もある」
「はい」
「幕府を支えてきた功もある」
俺は頷いた。
「では、よいことでは?」
義満様は、少し笑った。
「力があること自体は、悪くない」
「はい」
「だが、その力を誰のために使うかが問題だ」
俺は、以前聞いた言葉を思い出した。
味方であることと、同じ考えであることは違う。
頼之様が言っていた言葉だ。
「山名は、幕府の味方ではないのですか」
義満様は答えた。
「今はな」
短い言葉だった。
それなのに、妙に重かった。
◇
「弥一郎」
「はい」
「お前は、白い旗を覚えているか」
俺は頷いた。
忘れるわけがない。
あの旗のおかげで店は助かり、同時に面倒なことへ巻き込まれた。
「はい」
「誰の旗にもなれる、と言ったな」
「はい」
義満様は静かに言った。
「では、誰の旗にもならぬことはできるか」
俺は顔を上げた。
「……どういう意味でしょうか」
「注文を断ることだ」
俺は黙った。
義満様は続けた。
「お前は旗屋だ。注文を受けて旗を作る。それが仕事だろう」
「はい」
「だが、作ってはならぬ旗もある」
俺は、何も言えなかった。
◇
店に戻ってからも、その言葉が頭を離れなかった。
作ってはならぬ旗。
旗屋にとって、それは妙な言葉だ。
注文があれば作る。
代金をもらう。
それが仕事のはずなのに。
父上に話すと、父上は静かに頷いた。
「そうだな」
「父上も、そう思いますか」
「ああ」
「では、どういう旗が売れない旗なんです?」
父上は少し考えた。
「売った後で、自分がその旗の下に立ちたくないと思う旗だ」
俺は首を傾げた。
「……難しくありません?」
「難しいから、考えるんだ」
父上はそう言って、古い旗の箱を開いた。
◇
箱の中には、昔の旗が何枚も入っている。
尊氏様。
直義様。
師直殿。
父上は、そのうち一枚を取り出した。
「昔、俺も同じことを考えた」
「父上が?」
「ああ。頼まれた旗を作って、それが何に使われるのか分からなかった」
父上は布を広げた。
色褪せた旗だった。
「後になって、あの旗を作らなければよかったと思ったこともある」
俺は驚いた。
父上は、そんな話をしたことがなかった。
「でも、作らなければ戦がなくなったわけでもない」
父上は静かに続けた。
「だから、正しい答えは今でも分からん」
俺は、父上を見た。
何でも知っていると思っていた人が、分からないと言った。
それが、少し嬉しかった。
◇
数日後。
新九郎が、血相を変えて店へ飛び込んできた。
「弥一郎!」
「どうした」
「お前のところの職人が、帰ってきてないらしい!」
俺は筆を落とした。
「誰だ!」
「佐吉だ!」
佐吉。
店で旗の縫製を手伝っている若い職人だ。
真面目で、口数が少ない。
妻と幼い娘がいる。
昨日、材料を買いに出たまま戻っていないという。
俺は急いで店を出た。
◇
佐吉の家には、妻のお春がいた。
幼い娘を抱き、青ざめた顔で俺を見る。
「弥一郎様……」
「佐吉は?」
お春は首を振った。
「帰ってきません」
「何か、変わったことは?」
お春は少し迷ってから、小さな紙を差し出した。
「今朝、戸口に……」
紙には、短い言葉が書かれていた。
『旗四十枚。明日の暮れまで』
俺は、背筋が冷たくなった。
◇
店へ戻ると、父上が待っていた。
俺は紙を見せた。
父上は、何も言わずに読んだ。
「……どうする」
父上が聞いた。
俺は答えられなかった。
旗を作れば、佐吉は戻るかもしれない。
だが、その旗が何に使われるのか分からない。
作らなければ、佐吉がどうなるか分からない。
義満様の言葉が頭をよぎる。
作ってはならぬ旗もある。
でも。
佐吉は、俺の店で働いている。
俺が守るべき人間だ。
◇
「作ります」
俺は言った。
父上は、黙って俺を見た。
「本当にいいのか」
「はい」
「何に使われるか、分からんぞ」
「分かっています」
「将軍に背くことになるかもしれん」
「それでも」
俺は、父上を見た。
「佐吉を見捨てることはできません」
父上は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに頷いた。
「分かった」
俺は、少し驚いた。
「止めないんですか」
「お前が決めたんだろう」
父上は、古い箱から布を取り出した。
「ならば、手伝おう」
◇
その夜、店の灯りは消えなかった。
俺と父上、新九郎、そして残った職人たちで、旗を作り続けた。
四十枚。
一晩で仕上げるには、無理のある数だった。
それでも、誰も文句を言わなかった。
新九郎が布を運びながら言う。
「弥一郎」
「何だ」
「これ、どっちの旗なんだ?」
俺は答えた。
「分からん」
「分からない旗を作ってるのか」
「ああ」
新九郎は、少し黙った。
「……佐吉が戻るといいな」
俺は頷いた。
それだけを考えて、針を動かした。
◇
翌日の夕方、指定された場所へ、俺は旗を運んだ。
父上は同行しなかった。
代わりに、新九郎がついてきた。
「何で来たんだ」
俺が聞くと、新九郎は笑った。
「一人じゃ逃げられないだろ」
「逃げる前提なのか」
「念のためだ」
ありがたい友人だ。
本当に。
◇
待っていたのは、最初に注文を持ってきた山名家中の武士だった。
俺は荷を下ろした。
「四十枚です」
武士は旗を確認した。
「よく作ったな」
「佐吉は?」
「何のことだ」
俺は拳を握った。
「ふざけないでください」
武士の顔が険しくなる。
「口の利き方に気をつけろ」
「佐吉を返してください」
俺は、一歩も引かなかった。
武士は、しばらく俺を睨んでいた。
やがて、背後の者に合図した。
物陰から、佐吉が出てきた。
顔に痣がある。
だが、歩ける。
俺は、思わず駆け寄った。
「佐吉!」
「……若旦那」
佐吉は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご迷惑を……」
「謝るな!」
俺は、佐吉の肩を掴んだ。
「帰ろう」
◇
その時、武士が言った。
「旗は置いていけ」
俺は振り返った。
「……はい」
「余計なことは話すな」
「分かっています」
「将軍にもだ」
俺は、少しだけ黙った。
そして答えた。
「お約束はできません」
武士の顔が変わった。
「何?」
「佐吉を連れ去ったことまで、黙っているつもりはありません」
新九郎が、俺の袖を引いた。
やめろ。
そういう顔だった。
でも、俺は続けた。
「旗の注文を秘密にすることと、人をさらったことを秘密にすることは違います」
武士は、しばらく俺を睨んでいた。
やがて、低い声で言った。
「後悔するぞ」
俺は答えた。
「もう、十分しています」
◇
店へ戻ると、父上が待っていた。
佐吉の姿を見た途端、父上はほっと息を吐いた。
「戻ったか」
「はい」
「よかった」
それだけだった。
だが、父上の手が少し震えていることに、俺は気づいた。
父上も、怖かったのだ。
何十年も戦乱を生き抜いた人でも、怖いものは怖い。
その当たり前のことを、俺は初めて知った気がした。
◇
佐吉が帰宅した後、俺は父上と二人で店に残った。
「父上」
「何だ」
「俺、間違えましたか」
父上は、すぐには答えなかった。
「何をだ」
「旗を作ったことです」
父上は、しばらく考えた。
「佐吉は戻った」
「はい」
「それは、よかった」
「でも、その旗が何に使われるか……」
「分からんな」
俺は俯いた。
父上は静かに言った。
「弥一郎。正しいことを選べば、必ずよい結果になるわけじゃない」
俺は顔を上げた。
「逆も同じだ。間違ったと思うことを選んでも、誰かを救うことがある」
父上は、俺の肩に手を置いた。
「だから、選んだ後も考え続けるんだ」
その言葉は、義満様の言葉より、ずっと重く感じられた。
◇
数日後、俺は義満様に呼ばれた。
嫌な予感しかしなかった。
義満様は、俺を見るなり言った。
「山名に旗を渡したそうだな」
俺は頭を下げた。
「はい」
「断ったはずではなかったか」
「……事情が変わりました」
「どのような事情だ」
俺は、佐吉のことをすべて話した。
連れ去られたこと。
旗を作るよう脅されたこと。
そして、佐吉が無事に戻ったこと。
義満様は、最後まで黙って聞いていた。
◇
「弥一郎」
「はい」
「お前は、私に背いたと思っているか」
俺は少し考えた。
「……分かりません」
義満様は、静かに頷いた。
「そうか」
「ただ、佐吉を助けたかったんです」
「それは分かる」
「でも、その旗が何に使われるかは……」
「私にも、まだ分からぬ」
俺は顔を上げた。
義満様は、少しだけ笑った。
「お前だけが、何も知らぬわけではない」
その言葉に、少し救われた気がした。
◇
「ただし」
義満様は続けた。
「次に同じことが起きたら、まず知らせよ」
俺は頷いた。
「はい」
「一人で抱え込むな」
「……はい」
「お前は旗屋だ。戦を止める役目まで背負う必要はない」
俺は、思わず聞いた。
「では、誰が止めるのですか」
義満様は、しばらく俺を見つめた。
そして答えた。
「私だ」
迷いのない声だった。
◇
店へ戻ると、新九郎が待っていた。
「どうだった?」
「生きて帰れた」
「よかったな」
「最近、そればっかりだ」
新九郎は笑った。
俺も、少しだけ笑った。
それから、壁の看板を見た。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
『味方でも、考えは違う』
『守るために、離れることもある』
俺は、新しい板を一枚掛けた。
『売れない旗もあります』
新九郎が読んだ。
「売ったじゃないか」
「……そうだな」
「じゃあ、違うだろ」
俺は少し考えた。
そして、板の下に小さく書き足した。
『それでも、売ってしまうことがあります』
新九郎がため息をついた。
「長い」
「うるさい」
◇
その夜、俺は一人で帳面を開いた。
山名氏清方。
旗四十枚。
納品済み。
代金は、受け取っていない。
佐吉が戻っただけで十分だった。
だが、帳面のその一行を見るたびに、胸の奥が重くなる。
あの旗は、今どこにあるのだろう。
誰が掲げるのだろう。
そして、誰に向けて振られるのだろう。
◇
数年後。
その答えを、俺は知ることになる。
山名一族の力はさらに大きくなり、義満様との間には、少しずつ溝が生まれていった。
そして、ある日。
山名氏清の名を掲げた兵たちが、京へ向かって動き始める。
俺が作った四十枚の旗が、その中にあったのかどうか。
最後まで確かめることはできなかった。
ただ、戦が近づいていることだけは、誰の目にも明らかだった。
俺は、父上の古い旗の箱を見た。
尊氏様。
直義様。
師直殿。
昔の戦で使われた旗が、静かに眠っている。
そこへ、また新しい旗が加わるのだろうか。
父上が、俺の隣に立った。
「弥一郎」
「はい」
「旗を作る覚悟はできたか」
俺は答えられなかった。
父上は、何も言わなかった。
ただ、俺と一緒に店の外を見ていた。
遠くで、兵の足音が聞こえる。
まだ、戦は始まっていない。
けれど、俺には分かっていた。
今度の戦では、旗を作るだけでは済まない。
そして、俺は初めて思った。
父上が何十年も守ってきたこの店を、俺の代で終わらせるわけにはいかない、と。




