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17/62

旗屋にも、売れない旗がある

全面改訂しました。

山名。


その名前を聞いて、父上は筆を置いた。


「どこの山名だ」


俺は帳面を見直した。


「……山名です」


「それは聞いた」


「山名の御家中としか」


父上は、少し困った顔をした。


「弥一郎。山名というのは、一人ではない」


「知っていますよ」


「なら、どこの家中か確かめろ」


俺は頷いた。


大きな一族になると、同じ名字でも考え方が違う。


父上は、昔からそれを嫌というほど見てきたらしい。


足利家など、その代表だ。


同じ足利なのに、何度も争っている。


「大きな家ほど、内側は複雑だ」


父上はそう言って、再び筆を動かした。


俺は帳面の『山名』という二文字を見つめた。


嫌な予感がした。


          ◇


その頃、山名一族は西国を中心に大きな勢力を持っていた。


多くの国の守護を務め、その力は幕府にとっても無視できないものになっている。


人々は、山名氏の勢力を誇張も交えて「六分一殿」と呼んだ。


全国の国々の六分の一ほどを押さえている、という意味らしい。


新九郎がその話を聞いて、感心した。


「六分の一か。すごいな」


「そうだな」


「じゃあ、六分の五は誰のものなんだ?」


「知らん」


「将軍?」


「そんな単純な話じゃないだろ」


新九郎は首を傾げた。


「面倒だな、政治って」


その点だけは、完全に同意した。


          ◇


注文主は、山名氏清(やまなうじきよ)の家中に属する武士だった。


氏清殿は、山名一族の中でも力を持つ人物だという。


注文は旗四十枚。


数だけなら、珍しくない。


しかし、武士は旗の紋様を指定した後、声を落とした。


「納品先は、帳面に書かないでいただきたい」


俺は顔を上げた。


「なぜです?」


「事情がある」


「事情を教えていただけなければ、こちらも困ります」


武士は不快そうに眉を寄せた。


「旗屋が、そこまで知る必要はなかろう」


以前の俺なら、そこで引き下がったかもしれない。


だが、細川の武士に胸倉を掴まれて以来、少し考え方が変わった。


知らないまま引き受ける方が、怖い。


「申し訳ありません。納品先が分からないご注文は、お受けできません」


武士は俺を睨んだ。


「山名の注文を断るのか」


「山名様だからではありません。どなたでも同じです」


しばらく沈黙が続いた。


やがて武士は、小さく舌打ちした。


「……後日、改めて参る」


そう言って帰っていった。


俺は、ようやく息を吐いた。


          ◇


奥から父上が出てきた。


「断ったか」


「はい」


「理由は?」


「納品先を隠そうとしたので」


父上は頷いた。


「それでいい」


珍しく、素直に褒められた。


少し嬉しかった。


ところが、父上は続けた。


「ただし、これで終わりとは思うな」


嬉しさが消えた。


「……どういうことです?」


「本当に必要な旗なら、別の者が買いに来る」


「別の者?」


「名前を変えてな」


俺は帳面を閉じた。


父上。


商売って、こんなに面倒なものでしたっけ。


          ◇


翌日、別の客が来た。


注文は旗四十枚。


俺は嫌な予感を覚えた。


「どちらの御家中でしょうか」


「個人で頼みたい」


「四十枚を?」


「ああ」


「何にお使いで?」


「祭りだ」


俺は客を見た。


客も俺を見た。


「……祭りですか」


「そうだ」


「何のお祭りで?」


「大きな祭りだ」


「どこで?」


「西の方だ」


雑だ。


あまりにも雑だ。


俺は丁寧に頭を下げた。


「申し訳ありませんが、お受けできません」


客は何か言いかけたが、結局そのまま帰っていった。


          ◇


新九郎が腹を抱えて笑った。


「大きな祭り!」


「笑い事じゃない」


「西の方!」


「だから笑うな!」


「もう少し考えて嘘をつけばいいのにな」


俺も、そう思う。


ただ、笑っていられたのはそこまでだった。


その日の夕方、店の前に見慣れない男が立っていた。


男は店には入らず、こちらをじっと見ている。


俺が声をかけると、何も答えず立ち去った。


翌朝もいた。


その次の日も。


新九郎が言った。


「見張られてるんじゃないか?」


俺は否定したかった。


だが、否定する理由がなかった。


          ◇


三日後、今度は幕府の使いが来た。


「弥一郎殿。将軍がお呼びだ」


俺は、思わず天井を見た。


またですか。


義満様。


最近、旗を作っている時間より、偉い人に呼ばれている時間の方が長い気がします。


          ◇


義満様は、以前より落ち着いた雰囲気をまとっていた。


細川頼之様が政務の中心を離れてから、将軍自身が決めることが増えている。


若い頃の義満様は、周囲の大人たちの話を聞きながら判断していた。


今は違う。


まず自分で考え、必要な話だけを聞く。


そんな印象だった。


「弥一郎。山名から注文が来たそうだな」


俺は頭を下げた。


「はい」


「受けたか」


「いいえ」


「なぜだ」


「納品先を隠されたからです」


義満様は頷いた。


「そうか」


そして、何気ない調子で聞いた。


「ほかには?」


俺は黙った。


「ほか、とは?」


「山名に関わる者から、何か頼まれていないか」


俺は少し迷った。


帳面に書かれていない客のことを、どこまで話していいのだろう。


義満様は、俺の顔を見て笑った。


「また、客の秘密か」


「申し訳ありません」


「謝ることではない」


義満様は、しばらく俺を眺めた。


「お前の父は、もっと上手く隠すぞ」


「……まだ修業中ですので」


「ならば、早く覚えろ」


褒められているのか、叱られているのか。


相変わらず分からない。


          ◇


義満様は、山名氏について話し始めた。


「大きな家だ」


「はい」


「力もある」


「はい」


「幕府を支えてきた功もある」


俺は頷いた。


「では、よいことでは?」


義満様は、少し笑った。


「力があること自体は、悪くない」


「はい」


「だが、その力を誰のために使うかが問題だ」


俺は、以前聞いた言葉を思い出した。


味方であることと、同じ考えであることは違う。


頼之様が言っていた言葉だ。


「山名は、幕府の味方ではないのですか」


義満様は答えた。


「今はな」


短い言葉だった。


それなのに、妙に重かった。


          ◇


「弥一郎」


「はい」


「お前は、白い旗を覚えているか」


俺は頷いた。


忘れるわけがない。


あの旗のおかげで店は助かり、同時に面倒なことへ巻き込まれた。


「はい」


「誰の旗にもなれる、と言ったな」


「はい」


義満様は静かに言った。


「では、誰の旗にもならぬことはできるか」


俺は顔を上げた。


「……どういう意味でしょうか」


「注文を断ることだ」


俺は黙った。


義満様は続けた。


「お前は旗屋だ。注文を受けて旗を作る。それが仕事だろう」


「はい」


「だが、作ってはならぬ旗もある」


俺は、何も言えなかった。


          ◇


店に戻ってからも、その言葉が頭を離れなかった。


作ってはならぬ旗。


旗屋にとって、それは妙な言葉だ。


注文があれば作る。


代金をもらう。


それが仕事のはずなのに。


父上に話すと、父上は静かに頷いた。


「そうだな」


「父上も、そう思いますか」


「ああ」


「では、どういう旗が売れない旗なんです?」


父上は少し考えた。


「売った後で、自分がその旗の下に立ちたくないと思う旗だ」


俺は首を傾げた。


「……難しくありません?」


「難しいから、考えるんだ」


父上はそう言って、古い旗の箱を開いた。


          ◇


箱の中には、昔の旗が何枚も入っている。


尊氏様。


直義様。


師直殿。


父上は、そのうち一枚を取り出した。


「昔、俺も同じことを考えた」


「父上が?」


「ああ。頼まれた旗を作って、それが何に使われるのか分からなかった」


父上は布を広げた。


色褪せた旗だった。


「後になって、あの旗を作らなければよかったと思ったこともある」


俺は驚いた。


父上は、そんな話をしたことがなかった。


「でも、作らなければ戦がなくなったわけでもない」


父上は静かに続けた。


「だから、正しい答えは今でも分からん」


俺は、父上を見た。


何でも知っていると思っていた人が、分からないと言った。


それが、少し嬉しかった。


          ◇


数日後。


新九郎が、血相を変えて店へ飛び込んできた。


「弥一郎!」


「どうした」


「お前のところの職人が、帰ってきてないらしい!」


俺は筆を落とした。


「誰だ!」


「佐吉(さきち)だ!」


佐吉。


店で旗の縫製を手伝っている若い職人だ。


真面目で、口数が少ない。


妻と幼い娘がいる。


昨日、材料を買いに出たまま戻っていないという。


俺は急いで店を出た。


          ◇


佐吉の家には、妻のお春がいた。


幼い娘を抱き、青ざめた顔で俺を見る。


「弥一郎様……」


「佐吉は?」


お春は首を振った。


「帰ってきません」


「何か、変わったことは?」


お春は少し迷ってから、小さな紙を差し出した。


「今朝、戸口に……」


紙には、短い言葉が書かれていた。


『旗四十枚。明日の暮れまで』


俺は、背筋が冷たくなった。


          ◇


店へ戻ると、父上が待っていた。


俺は紙を見せた。


父上は、何も言わずに読んだ。


「……どうする」


父上が聞いた。


俺は答えられなかった。


旗を作れば、佐吉は戻るかもしれない。


だが、その旗が何に使われるのか分からない。


作らなければ、佐吉がどうなるか分からない。


義満様の言葉が頭をよぎる。


作ってはならぬ旗もある。


でも。


佐吉は、俺の店で働いている。


俺が守るべき人間だ。


          ◇


「作ります」


俺は言った。


父上は、黙って俺を見た。


「本当にいいのか」


「はい」


「何に使われるか、分からんぞ」


「分かっています」


「将軍に背くことになるかもしれん」


「それでも」


俺は、父上を見た。


「佐吉を見捨てることはできません」


父上は、しばらく黙っていた。


やがて、静かに頷いた。


「分かった」


俺は、少し驚いた。


「止めないんですか」


「お前が決めたんだろう」


父上は、古い箱から布を取り出した。


「ならば、手伝おう」


          ◇


その夜、店の灯りは消えなかった。


俺と父上、新九郎、そして残った職人たちで、旗を作り続けた。


四十枚。


一晩で仕上げるには、無理のある数だった。


それでも、誰も文句を言わなかった。


新九郎が布を運びながら言う。


「弥一郎」


「何だ」


「これ、どっちの旗なんだ?」


俺は答えた。


「分からん」


「分からない旗を作ってるのか」


「ああ」


新九郎は、少し黙った。


「……佐吉が戻るといいな」


俺は頷いた。


それだけを考えて、針を動かした。


          ◇


翌日の夕方、指定された場所へ、俺は旗を運んだ。


父上は同行しなかった。


代わりに、新九郎がついてきた。


「何で来たんだ」


俺が聞くと、新九郎は笑った。


「一人じゃ逃げられないだろ」


「逃げる前提なのか」


「念のためだ」


ありがたい友人だ。


本当に。


          ◇


待っていたのは、最初に注文を持ってきた山名家中の武士だった。


俺は荷を下ろした。


「四十枚です」


武士は旗を確認した。


「よく作ったな」


「佐吉は?」


「何のことだ」


俺は拳を握った。


「ふざけないでください」


武士の顔が険しくなる。


「口の利き方に気をつけろ」


「佐吉を返してください」


俺は、一歩も引かなかった。


武士は、しばらく俺を睨んでいた。


やがて、背後の者に合図した。


物陰から、佐吉が出てきた。


顔に痣がある。


だが、歩ける。


俺は、思わず駆け寄った。


「佐吉!」


「……若旦那」


佐吉は、申し訳なさそうに頭を下げた。


「ご迷惑を……」


「謝るな!」


俺は、佐吉の肩を掴んだ。


「帰ろう」


          ◇


その時、武士が言った。


「旗は置いていけ」


俺は振り返った。


「……はい」


「余計なことは話すな」


「分かっています」


「将軍にもだ」


俺は、少しだけ黙った。


そして答えた。


「お約束はできません」


武士の顔が変わった。


「何?」


「佐吉を連れ去ったことまで、黙っているつもりはありません」


新九郎が、俺の袖を引いた。


やめろ。


そういう顔だった。


でも、俺は続けた。


「旗の注文を秘密にすることと、人をさらったことを秘密にすることは違います」


武士は、しばらく俺を睨んでいた。


やがて、低い声で言った。


「後悔するぞ」


俺は答えた。


「もう、十分しています」


          ◇


店へ戻ると、父上が待っていた。


佐吉の姿を見た途端、父上はほっと息を吐いた。


「戻ったか」


「はい」


「よかった」


それだけだった。


だが、父上の手が少し震えていることに、俺は気づいた。


父上も、怖かったのだ。


何十年も戦乱を生き抜いた人でも、怖いものは怖い。


その当たり前のことを、俺は初めて知った気がした。


          ◇


佐吉が帰宅した後、俺は父上と二人で店に残った。


「父上」


「何だ」


「俺、間違えましたか」


父上は、すぐには答えなかった。


「何をだ」


「旗を作ったことです」


父上は、しばらく考えた。


「佐吉は戻った」


「はい」


「それは、よかった」


「でも、その旗が何に使われるか……」


「分からんな」


俺は俯いた。


父上は静かに言った。


「弥一郎。正しいことを選べば、必ずよい結果になるわけじゃない」


俺は顔を上げた。


「逆も同じだ。間違ったと思うことを選んでも、誰かを救うことがある」


父上は、俺の肩に手を置いた。


「だから、選んだ後も考え続けるんだ」


その言葉は、義満様の言葉より、ずっと重く感じられた。


          ◇


数日後、俺は義満様に呼ばれた。


嫌な予感しかしなかった。


義満様は、俺を見るなり言った。


「山名に旗を渡したそうだな」


俺は頭を下げた。


「はい」


「断ったはずではなかったか」


「……事情が変わりました」


「どのような事情だ」


俺は、佐吉のことをすべて話した。


連れ去られたこと。


旗を作るよう脅されたこと。


そして、佐吉が無事に戻ったこと。


義満様は、最後まで黙って聞いていた。


          ◇


「弥一郎」


「はい」


「お前は、私に背いたと思っているか」


俺は少し考えた。


「……分かりません」


義満様は、静かに頷いた。


「そうか」


「ただ、佐吉を助けたかったんです」


「それは分かる」


「でも、その旗が何に使われるかは……」


「私にも、まだ分からぬ」


俺は顔を上げた。


義満様は、少しだけ笑った。


「お前だけが、何も知らぬわけではない」


その言葉に、少し救われた気がした。


          ◇


「ただし」


義満様は続けた。


「次に同じことが起きたら、まず知らせよ」


俺は頷いた。


「はい」


「一人で抱え込むな」


「……はい」


「お前は旗屋だ。戦を止める役目まで背負う必要はない」


俺は、思わず聞いた。


「では、誰が止めるのですか」


義満様は、しばらく俺を見つめた。


そして答えた。


「私だ」


迷いのない声だった。


          ◇


店へ戻ると、新九郎が待っていた。


「どうだった?」


「生きて帰れた」


「よかったな」


「最近、そればっかりだ」


新九郎は笑った。


俺も、少しだけ笑った。


それから、壁の看板を見た。


『本日の味方』


『明日は不明』


『急な寝返りにも対応』


『味方でも、考えは違う』


『守るために、離れることもある』


俺は、新しい板を一枚掛けた。


『売れない旗もあります』


新九郎が読んだ。


「売ったじゃないか」


「……そうだな」


「じゃあ、違うだろ」


俺は少し考えた。


そして、板の下に小さく書き足した。


『それでも、売ってしまうことがあります』


新九郎がため息をついた。


「長い」


「うるさい」


          ◇


その夜、俺は一人で帳面を開いた。


山名氏清方。


旗四十枚。


納品済み。


代金は、受け取っていない。


佐吉が戻っただけで十分だった。


だが、帳面のその一行を見るたびに、胸の奥が重くなる。


あの旗は、今どこにあるのだろう。


誰が掲げるのだろう。


そして、誰に向けて振られるのだろう。


          ◇


数年後。


その答えを、俺は知ることになる。


山名一族の力はさらに大きくなり、義満様との間には、少しずつ溝が生まれていった。


そして、ある日。


山名氏清の名を掲げた兵たちが、京へ向かって動き始める。


俺が作った四十枚の旗が、その中にあったのかどうか。


最後まで確かめることはできなかった。


ただ、戦が近づいていることだけは、誰の目にも明らかだった。


俺は、父上の古い旗の箱を見た。


尊氏様。


直義様。


師直殿。


昔の戦で使われた旗が、静かに眠っている。


そこへ、また新しい旗が加わるのだろうか。


父上が、俺の隣に立った。


「弥一郎」


「はい」


「旗を作る覚悟はできたか」


俺は答えられなかった。


父上は、何も言わなかった。


ただ、俺と一緒に店の外を見ていた。


遠くで、兵の足音が聞こえる。


まだ、戦は始まっていない。


けれど、俺には分かっていた。


今度の戦では、旗を作るだけでは済まない。


そして、俺は初めて思った。


父上が何十年も守ってきたこの店を、俺の代で終わらせるわけにはいかない、と。

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