↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/62

白い旗に、紋を描け

全面改訂しました。

白い旗を持って将軍のもとへ向かう道すがら、俺はずっと考えていた。


なぜ、義満様はあの旗をもう一度見たいと言ったのだろう。


何も描かれていない、ただの白い布だ。値段も高くないし、特別な技術を使ったわけでもない。


それなのに、義満様も細川頼之様も、あの旗に妙な関心を示している。


新九郎は、隣で気楽に歩いていた。


「弥一郎、将軍に会うのも三度目だろ。そろそろ慣れたんじゃないか?」


「慣れるわけないだろ。会うたびに寿命が縮んでる」


「父上みたいに長生きできないな」


「縁起でもないことを言うな」


新九郎は笑ったが、俺は笑えなかった。


父上は、何十年もこの時代を生き抜いてきた。尊氏様にも直義様にも、そして師直殿にも会ったことがあるという。


その父上が、昨夜は珍しく真剣な顔をしていた。


――若い将軍が自分の力を持とうとする時、一番邪魔になるのは、今までその将軍を守ってきた人間だ。


俺には、まだその意味が分からなかった。


          ◇


義満様は、白い旗を見るなり笑った。


「持ってきたか」


「はい。ご命令でしたので」


「命令した覚えはない。見せてほしいと言っただけだ」


「私には同じに聞こえます」


近くにいた側近が、わずかに顔をしかめた。


義満様は面白そうに俺を見た。


「相変わらず、口が減らぬな」


「父上にも毎日言われます」


「それなら直す気はないのだろう」


「……努力はしております」


「成果が出ておらぬな」


新九郎が隣で肩を震わせていた。


お前は後で覚えていろ。


義満様は白い旗を広げ、しばらく眺めた。


「弥一郎。この旗に、紋を描いてほしい」


俺は頷いた。


ようやく普通の注文だ。


「どちらの御紋でしょうか」


「足利だ」


俺は筆を取り出しかけた。


「ただし、細川の者には知らせるな」


手が止まった。


          ◇


「……それは、どういうことでしょうか」


「言葉の通りだ」


「将軍家の旗を作ることを、細川家に隠すのですか?」


義満様は、少しだけ表情を変えた。


「お前は、私が何かを決めるたびに、頼之へ知らせるべきだと思うか」


「いえ、そういうことでは……」


「では、何が問題だ」


俺は答えられなかった。


将軍家の旗を作る。


それ自体は何もおかしくない。


しかし、わざわざ頼之様に知らせるなと言われると、話が違ってくる。


義満様は白い旗を畳んだ。


「私は将軍だ、弥一郎」


「はい」


「それなのに、私の決めたことを、誰かの許しがなければ実行できぬと思われている」


静かな声だった。


怒鳴られるより、ずっと重かった。


          ◇


「頼之は、よく働いてくれた」


義満様は続けた。


「幼い私を支え、幕府を守り、諸将をまとめた。あの者がいなければ、今の幕府はなかったかもしれぬ」


俺は頷いた。


頼之様自身も、その責任の重さを知っているのだろう。


「だが、いつまで私を子どもとして扱うつもりなのだ」


義満様は、俺をまっすぐ見た。


「お前も、父の店を継ぐのだろう」


「はい」


「いつまでも父に決めてもらいたいか」


胸を突かれた。


俺は、白い旗を見つめた。


父上に頼れば、きっと店は守れる。


でも、それでは俺自身の店にはならない。


「……いいえ」


義満様は頷いた。


「私も同じだ」


その言葉を聞いた時、初めて義満様が少し近く感じられた。


          ◇


店へ戻ると、父上が待っていた。


「どうだった」


俺は注文書を見せた。


父上は目を通し、静かに言った。


「そうか。将軍が動くか」


「父上、これは普通の旗の注文ですよね?」


「お前は、そう思うか」


「……思いたいです」


父上は苦笑した。


「なら、作ればいい」


「いいんですか?」


「注文を受けたんだろう」


「でも、頼之様には知らせるなと」


父上は俺を見た。


「弥一郎。お前は誰の旗を作るんだ」


「義満様です」


「では、誰に頼まれた」


「義満様です」


「それなら、答えは出ている」


俺は少し安心した。


ところが、父上は続けた。


「ただし、その旗が何に使われるかまでは、俺にも分からん」


安心した分を返してほしかった。


          ◇


数日後、都の空気が変わった。


斯波や土岐などの有力武将たちが、細川頼之様に対して不満を強めているという。


頼之様は、長く幕府を支えてきた。


しかし、長く力を持てば、反発する者も増える。


誰を重く用いるか。


誰の領地を認めるか。


誰の言い分を退けるか。


政治とは、決めるたびに誰かを不満にさせる仕事らしい。


新九郎が、いつになく真面目な顔で言った。


「弥一郎、頼之様が危ないかもしれない」


「何があった」


「反対する連中が集まっている。将軍にも、頼之様を退けるよう迫るつもりらしい」


俺は作りかけの旗を見た。


白い布に、足利の紋が描かれている。


嫌な予感がした。


          ◇


その夕方、頼之様の使いが来た。


「弥一郎殿。頼之様がお呼びだ」


俺は筆を置いた。


新九郎が小声で言う。


「今日は、どっちの味方なんだ?」


「知らん」


「本日の味方、未定?」


「笑えないからやめろ」


          ◇


頼之様は、いつもと変わらず穏やかだった。


ただ、以前より少し疲れているように見えた。


「将軍から旗を頼まれたそうだな」


俺は背筋を伸ばした。


「……はい」


「足利の紋か」


「はい」


頼之様は静かに頷いた。


「よいことだ」


俺は驚いた。


「よいのですか?」


「将軍が自ら旗を作らせる。それの何が悪い」


「ですが……」


「私に知らせるなと言われたか」


俺は言葉を失った。


頼之様は、少し笑った。


「将軍は、昔から隠し事が下手だ」


意外だった。


義満様は、何でも見通しているように思えたのに。


「もっとも、最近は上手くなってきたがな」


頼之様の笑顔には、どこか寂しさがあった。


          ◇


「弥一郎。将軍を恨むな」


突然、頼之様が言った。


「……なぜ、そのようなことを?」


「近いうちに、私がこの職を離れることになるかもしれぬ」


俺は思わず顔を上げた。


「頼之様が?」


「ああ」


「義満様が、そう命じられるのですか?」


「まだ決まっておらぬ。しかし、そうなっても不思議ではない」


頼之様は庭へ目を向けた。


「将軍が成長すれば、私の役目も変わる。いつまでも同じ場所にいてはならぬのだろう」


俺は、何と言えばいいのか分からなかった。


頼之様は悪い人ではない。


義満様も悪い人ではない。


それなのに、二人が同じ場所に立ち続けることはできない。


「……お二人で話し合うことはできないのですか」


頼之様は、少しだけ笑った。


「何度も話している」


「それでも?」


「それでも、同じ答えにはならぬことがある」


俺は黙った。


          ◇


帰り道、俺は新九郎に言った。


「何か、変だと思わないか」


「何が?」


「義満様も頼之様も、相手を嫌っているわけじゃない」


「そうだな」


「それなのに、どうしてこうなるんだ」


新九郎は、しばらく考えた。


「お前と父上みたいなものじゃないか?」


「俺と父上?」


「店を守りたいのは同じだろ。でも、やり方は違う」


俺は足を止めた。


新九郎が続けた。


「お前は父上を尊敬してる。でも、いつまでも父上の言う通りにはしたくない」


「……そうだな」


「義満様も、そうなんじゃないか」


俺は何も言えなかった。


普段は余計なことばかり言う男なのに、たまに核心を突いてくる。


腹が立つ。


          ◇


やがて、都に緊張が走った。


康暦(こうりゃく)元年。


有力武将たちが兵を動かし、細川頼之様の失脚を求めた。


世にいう、康暦の政変である。


俺は、その名前を後から知った。


その時は、ただ怖かった。


店の前を武装した兵が通る。


人々は戸を閉め、商人たちは店を休む。


旗の注文が、急に増えた。


しかも、どれも急ぎだ。


「明日の朝までに二十枚!」


「こちらは三十枚だ!」


「先に頼んだのは我らだぞ!」


俺は叫んだ。


「順番にお願いします!」


誰も聞いていない。


父上が奥から出てきた。


「弥一郎、落ち着け」


「落ち着けるわけないでしょう!」


「旗は逃げん」


「客が逃げます!」


「それなら、代金を先にもらえ」


父上。


こういう時だけ、商売人として頼もしい。


          ◇


しかし、その日の午後。


もっと厄介な客が来た。


以前、細川の名を出して帳面を見せろと迫った武士だった。


「弥一郎」


俺は身構えた。


「何でしょう」


「将軍家の旗を作ったそうだな」


「はい」


「それを、こちらに渡せ」


俺は耳を疑った。


「……はい?」


「今、都は混乱している。旗の扱いを間違えれば、大事になる」


「ご注文主にお渡しするものです」


「今は、そのようなことを言っている場合ではない」


武士は、店の奥へ目を向けた。


そこには、完成した足利の旗が置いてある。


俺は一歩前に出た。


「お渡しできません」


武士の顔が険しくなった。


「また逆らうのか」


「逆らっているのではありません。注文を守っているだけです」


「同じことだ!」


武士が俺の胸倉を掴んだ。


          ◇


「弥一郎!」


新九郎が叫んだ。


俺は武士の腕を掴んだが、振りほどけない。


怖かった。


相手は武士だ。


俺も一応武士だが、普段握っているのは刀より筆である。


勝てる気がしない。


その時、父上の声がした。


「そこまでにしていただこう」


武士が振り返った。


父上は、いつもの穏やかな顔ではなかった。


「その旗は、将軍家からの注文だ」


「だから、今は――」


「将軍の許しなく持ち出すなら、それは将軍の命に背くことになる」


武士の手が緩んだ。


父上は続けた。


「細川の名を使って、将軍の品を奪うおつもりか」


武士の顔色が変わった。


しばらくして、乱暴に俺を突き放す。


「……覚えておけ」


そう言い残し、武士は去った。


          ◇


俺は、その場に座り込んだ。


新九郎が駆け寄る。


「大丈夫か!」


「……何とか」


父上は俺を見た。


「怪我はないか」


「はい」


「そうか」


それだけ言うと、奥へ戻ろうとした。


俺は思わず呼び止めた。


「父上!」


「何だ」


「……ありがとうございました」


父上は少し驚いた顔をした。


そして、笑った。


「礼を言うのは、旗を届けてからにしろ」


義満様と同じことを言う。


この人たちは、どうしてこうなのだろう。


          ◇


その夜、頼之様が政務の中心から退くことになったという知らせが届いた。


義満様は、頼之様を守りきらなかった。


いや、守らなかったのかもしれない。


その違いは、俺には分からない。


ただ、幕府を長く支えてきた人が、都を離れることになった。


俺は、頼之様の言葉を思い出した。


――将軍を恨むな。


どうして、あの人はそんなことを言ったのだろう。


自分が退けられることを、覚悟していたのだろうか。


          ◇


数日後、俺は完成した旗を義満様のもとへ届けた。


義満様は、旗を広げた。


足利の紋が、白い布に鮮やかに描かれている。


「よい出来だ」


「ありがとうございます」


「何か言いたそうだな」


俺は黙った。


義満様は、こちらを見ている。


逃げられない。


「……頼之様は、悪い人ではありませんでした」


義満様の表情が変わった。


周囲の者たちが、息を呑む。


俺は続けた。


「俺には、よくしてくれました」


「そうか」


「だから、少し……残念です」


義満様は、しばらく黙っていた。


やがて、静かに言った。


「私もだ」


俺は顔を上げた。


          ◇


「頼之は、私を育ててくれた」


義満様は旗を見つめた。


「将軍として何をすべきか、何をしてはならぬか、何度も教えられた」


「はい」


「だが、いつまでも教えられるだけでは、将軍にはなれぬ」


その声には、迷いがなかった。


「頼之が守ってきた幕府を、今度は私が守る」


俺は、何も言えなかった。


義満様は、俺を見た。


「弥一郎。お前も、父の店を継ぐのだろう」


「はい」


「ならば、覚えておけ」


義満様は、完成した旗を持ち上げた。


「誰かから受け継ぐということは、その人と同じことを続けるという意味ではない」


俺は、深く頭を下げた。


          ◇


店へ戻ると、父上が待っていた。


「旗は届けたか」


「はい」


「そうか」


俺は、少し迷ってから言った。


「父上」


「何だ」


「俺、店を継ぎます」


父上は、きょとんとした。


「前からそういう話だろう」


「そうですけど、今度は自分で決めました」


父上は、しばらく俺を見た。


それから、ゆっくり頷いた。


「分かった」


たった一言だった。


でも、俺には十分だった。


          ◇


その夜、俺は店の看板を一枚増やした。


『本日の味方』


『明日は不明』


『急な寝返りにも対応』


『味方でも、考えは違う』


そして、新しい板にはこう書いた。


『守るために、離れることもある』


新九郎が読んだ。


「また長いな」


「うるさい」


「でも、今回は悪くない」


俺は少し笑った。


頼之様は、義満様を守るために長く働いてきた。


義満様は、自分の力で幕府を守るために、その頼之様から離れた。


どちらが正しかったのか。


俺には、まだ分からない。


ただ、一つだけ分かったことがある。


味方同士でも、同じ場所に立ち続けられるとは限らない。


          ◇


数日後。


新九郎が、また妙な話を持ってきた。


「弥一郎、聞いたか?」


「今度は何だ」


「将軍が、今まで以上に自分で物事を決め始めたらしい」


「いいことじゃないか」


「そうなんだけどな」


新九郎は、少し声を落とした。


「将軍が強くなると、困る人も増えるらしい」


俺は、完成した旗を畳む手を止めた。


「……どういうことだ」


「今まで自由にやっていた連中が、自由にできなくなるってことだよ」


なるほど。


義満様が強くなれば、幕府はまとまる。


しかし、力を失う者もいる。


その者たちが、黙って従うとは限らない。


俺は店の壁を見た。


『本日の味方』


『明日は不明』


父上が作った看板。


この言葉は、まだまだ必要らしい。


          ◇


その頃、京の外では、ある大きな家が勢力を伸ばしていた。


山名(やまな)氏。


いくつもの国に力を持ち、幕府の中でも無視できない存在になりつつある一族だ。


まだ、俺は知らなかった。


この山名という名が、やがて店の帳面を埋め尽くすことになるとは。


そして、義満様が次に向き合う相手が、頼之様とはまったく違う種類の難しさを持っていることも。


その日、俺は何も知らず、いつものように帳面を開いた。


「さて、次の注文は……」


新九郎が覗き込む。


「どこから?」


俺は、書かれた名を読んだ。


「山名」


新九郎が笑った。


「また大きなところだな」


俺も笑った。


この時は、まだ。


大きな家ほど、旗の注文が面倒になることを、十分には分かっていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。