白い旗に、紋を描け
全面改訂しました。
白い旗を持って将軍のもとへ向かう道すがら、俺はずっと考えていた。
なぜ、義満様はあの旗をもう一度見たいと言ったのだろう。
何も描かれていない、ただの白い布だ。値段も高くないし、特別な技術を使ったわけでもない。
それなのに、義満様も細川頼之様も、あの旗に妙な関心を示している。
新九郎は、隣で気楽に歩いていた。
「弥一郎、将軍に会うのも三度目だろ。そろそろ慣れたんじゃないか?」
「慣れるわけないだろ。会うたびに寿命が縮んでる」
「父上みたいに長生きできないな」
「縁起でもないことを言うな」
新九郎は笑ったが、俺は笑えなかった。
父上は、何十年もこの時代を生き抜いてきた。尊氏様にも直義様にも、そして師直殿にも会ったことがあるという。
その父上が、昨夜は珍しく真剣な顔をしていた。
――若い将軍が自分の力を持とうとする時、一番邪魔になるのは、今までその将軍を守ってきた人間だ。
俺には、まだその意味が分からなかった。
◇
義満様は、白い旗を見るなり笑った。
「持ってきたか」
「はい。ご命令でしたので」
「命令した覚えはない。見せてほしいと言っただけだ」
「私には同じに聞こえます」
近くにいた側近が、わずかに顔をしかめた。
義満様は面白そうに俺を見た。
「相変わらず、口が減らぬな」
「父上にも毎日言われます」
「それなら直す気はないのだろう」
「……努力はしております」
「成果が出ておらぬな」
新九郎が隣で肩を震わせていた。
お前は後で覚えていろ。
義満様は白い旗を広げ、しばらく眺めた。
「弥一郎。この旗に、紋を描いてほしい」
俺は頷いた。
ようやく普通の注文だ。
「どちらの御紋でしょうか」
「足利だ」
俺は筆を取り出しかけた。
「ただし、細川の者には知らせるな」
手が止まった。
◇
「……それは、どういうことでしょうか」
「言葉の通りだ」
「将軍家の旗を作ることを、細川家に隠すのですか?」
義満様は、少しだけ表情を変えた。
「お前は、私が何かを決めるたびに、頼之へ知らせるべきだと思うか」
「いえ、そういうことでは……」
「では、何が問題だ」
俺は答えられなかった。
将軍家の旗を作る。
それ自体は何もおかしくない。
しかし、わざわざ頼之様に知らせるなと言われると、話が違ってくる。
義満様は白い旗を畳んだ。
「私は将軍だ、弥一郎」
「はい」
「それなのに、私の決めたことを、誰かの許しがなければ実行できぬと思われている」
静かな声だった。
怒鳴られるより、ずっと重かった。
◇
「頼之は、よく働いてくれた」
義満様は続けた。
「幼い私を支え、幕府を守り、諸将をまとめた。あの者がいなければ、今の幕府はなかったかもしれぬ」
俺は頷いた。
頼之様自身も、その責任の重さを知っているのだろう。
「だが、いつまで私を子どもとして扱うつもりなのだ」
義満様は、俺をまっすぐ見た。
「お前も、父の店を継ぐのだろう」
「はい」
「いつまでも父に決めてもらいたいか」
胸を突かれた。
俺は、白い旗を見つめた。
父上に頼れば、きっと店は守れる。
でも、それでは俺自身の店にはならない。
「……いいえ」
義満様は頷いた。
「私も同じだ」
その言葉を聞いた時、初めて義満様が少し近く感じられた。
◇
店へ戻ると、父上が待っていた。
「どうだった」
俺は注文書を見せた。
父上は目を通し、静かに言った。
「そうか。将軍が動くか」
「父上、これは普通の旗の注文ですよね?」
「お前は、そう思うか」
「……思いたいです」
父上は苦笑した。
「なら、作ればいい」
「いいんですか?」
「注文を受けたんだろう」
「でも、頼之様には知らせるなと」
父上は俺を見た。
「弥一郎。お前は誰の旗を作るんだ」
「義満様です」
「では、誰に頼まれた」
「義満様です」
「それなら、答えは出ている」
俺は少し安心した。
ところが、父上は続けた。
「ただし、その旗が何に使われるかまでは、俺にも分からん」
安心した分を返してほしかった。
◇
数日後、都の空気が変わった。
斯波や土岐などの有力武将たちが、細川頼之様に対して不満を強めているという。
頼之様は、長く幕府を支えてきた。
しかし、長く力を持てば、反発する者も増える。
誰を重く用いるか。
誰の領地を認めるか。
誰の言い分を退けるか。
政治とは、決めるたびに誰かを不満にさせる仕事らしい。
新九郎が、いつになく真面目な顔で言った。
「弥一郎、頼之様が危ないかもしれない」
「何があった」
「反対する連中が集まっている。将軍にも、頼之様を退けるよう迫るつもりらしい」
俺は作りかけの旗を見た。
白い布に、足利の紋が描かれている。
嫌な予感がした。
◇
その夕方、頼之様の使いが来た。
「弥一郎殿。頼之様がお呼びだ」
俺は筆を置いた。
新九郎が小声で言う。
「今日は、どっちの味方なんだ?」
「知らん」
「本日の味方、未定?」
「笑えないからやめろ」
◇
頼之様は、いつもと変わらず穏やかだった。
ただ、以前より少し疲れているように見えた。
「将軍から旗を頼まれたそうだな」
俺は背筋を伸ばした。
「……はい」
「足利の紋か」
「はい」
頼之様は静かに頷いた。
「よいことだ」
俺は驚いた。
「よいのですか?」
「将軍が自ら旗を作らせる。それの何が悪い」
「ですが……」
「私に知らせるなと言われたか」
俺は言葉を失った。
頼之様は、少し笑った。
「将軍は、昔から隠し事が下手だ」
意外だった。
義満様は、何でも見通しているように思えたのに。
「もっとも、最近は上手くなってきたがな」
頼之様の笑顔には、どこか寂しさがあった。
◇
「弥一郎。将軍を恨むな」
突然、頼之様が言った。
「……なぜ、そのようなことを?」
「近いうちに、私がこの職を離れることになるかもしれぬ」
俺は思わず顔を上げた。
「頼之様が?」
「ああ」
「義満様が、そう命じられるのですか?」
「まだ決まっておらぬ。しかし、そうなっても不思議ではない」
頼之様は庭へ目を向けた。
「将軍が成長すれば、私の役目も変わる。いつまでも同じ場所にいてはならぬのだろう」
俺は、何と言えばいいのか分からなかった。
頼之様は悪い人ではない。
義満様も悪い人ではない。
それなのに、二人が同じ場所に立ち続けることはできない。
「……お二人で話し合うことはできないのですか」
頼之様は、少しだけ笑った。
「何度も話している」
「それでも?」
「それでも、同じ答えにはならぬことがある」
俺は黙った。
◇
帰り道、俺は新九郎に言った。
「何か、変だと思わないか」
「何が?」
「義満様も頼之様も、相手を嫌っているわけじゃない」
「そうだな」
「それなのに、どうしてこうなるんだ」
新九郎は、しばらく考えた。
「お前と父上みたいなものじゃないか?」
「俺と父上?」
「店を守りたいのは同じだろ。でも、やり方は違う」
俺は足を止めた。
新九郎が続けた。
「お前は父上を尊敬してる。でも、いつまでも父上の言う通りにはしたくない」
「……そうだな」
「義満様も、そうなんじゃないか」
俺は何も言えなかった。
普段は余計なことばかり言う男なのに、たまに核心を突いてくる。
腹が立つ。
◇
やがて、都に緊張が走った。
康暦元年。
有力武将たちが兵を動かし、細川頼之様の失脚を求めた。
世にいう、康暦の政変である。
俺は、その名前を後から知った。
その時は、ただ怖かった。
店の前を武装した兵が通る。
人々は戸を閉め、商人たちは店を休む。
旗の注文が、急に増えた。
しかも、どれも急ぎだ。
「明日の朝までに二十枚!」
「こちらは三十枚だ!」
「先に頼んだのは我らだぞ!」
俺は叫んだ。
「順番にお願いします!」
誰も聞いていない。
父上が奥から出てきた。
「弥一郎、落ち着け」
「落ち着けるわけないでしょう!」
「旗は逃げん」
「客が逃げます!」
「それなら、代金を先にもらえ」
父上。
こういう時だけ、商売人として頼もしい。
◇
しかし、その日の午後。
もっと厄介な客が来た。
以前、細川の名を出して帳面を見せろと迫った武士だった。
「弥一郎」
俺は身構えた。
「何でしょう」
「将軍家の旗を作ったそうだな」
「はい」
「それを、こちらに渡せ」
俺は耳を疑った。
「……はい?」
「今、都は混乱している。旗の扱いを間違えれば、大事になる」
「ご注文主にお渡しするものです」
「今は、そのようなことを言っている場合ではない」
武士は、店の奥へ目を向けた。
そこには、完成した足利の旗が置いてある。
俺は一歩前に出た。
「お渡しできません」
武士の顔が険しくなった。
「また逆らうのか」
「逆らっているのではありません。注文を守っているだけです」
「同じことだ!」
武士が俺の胸倉を掴んだ。
◇
「弥一郎!」
新九郎が叫んだ。
俺は武士の腕を掴んだが、振りほどけない。
怖かった。
相手は武士だ。
俺も一応武士だが、普段握っているのは刀より筆である。
勝てる気がしない。
その時、父上の声がした。
「そこまでにしていただこう」
武士が振り返った。
父上は、いつもの穏やかな顔ではなかった。
「その旗は、将軍家からの注文だ」
「だから、今は――」
「将軍の許しなく持ち出すなら、それは将軍の命に背くことになる」
武士の手が緩んだ。
父上は続けた。
「細川の名を使って、将軍の品を奪うおつもりか」
武士の顔色が変わった。
しばらくして、乱暴に俺を突き放す。
「……覚えておけ」
そう言い残し、武士は去った。
◇
俺は、その場に座り込んだ。
新九郎が駆け寄る。
「大丈夫か!」
「……何とか」
父上は俺を見た。
「怪我はないか」
「はい」
「そうか」
それだけ言うと、奥へ戻ろうとした。
俺は思わず呼び止めた。
「父上!」
「何だ」
「……ありがとうございました」
父上は少し驚いた顔をした。
そして、笑った。
「礼を言うのは、旗を届けてからにしろ」
義満様と同じことを言う。
この人たちは、どうしてこうなのだろう。
◇
その夜、頼之様が政務の中心から退くことになったという知らせが届いた。
義満様は、頼之様を守りきらなかった。
いや、守らなかったのかもしれない。
その違いは、俺には分からない。
ただ、幕府を長く支えてきた人が、都を離れることになった。
俺は、頼之様の言葉を思い出した。
――将軍を恨むな。
どうして、あの人はそんなことを言ったのだろう。
自分が退けられることを、覚悟していたのだろうか。
◇
数日後、俺は完成した旗を義満様のもとへ届けた。
義満様は、旗を広げた。
足利の紋が、白い布に鮮やかに描かれている。
「よい出来だ」
「ありがとうございます」
「何か言いたそうだな」
俺は黙った。
義満様は、こちらを見ている。
逃げられない。
「……頼之様は、悪い人ではありませんでした」
義満様の表情が変わった。
周囲の者たちが、息を呑む。
俺は続けた。
「俺には、よくしてくれました」
「そうか」
「だから、少し……残念です」
義満様は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「私もだ」
俺は顔を上げた。
◇
「頼之は、私を育ててくれた」
義満様は旗を見つめた。
「将軍として何をすべきか、何をしてはならぬか、何度も教えられた」
「はい」
「だが、いつまでも教えられるだけでは、将軍にはなれぬ」
その声には、迷いがなかった。
「頼之が守ってきた幕府を、今度は私が守る」
俺は、何も言えなかった。
義満様は、俺を見た。
「弥一郎。お前も、父の店を継ぐのだろう」
「はい」
「ならば、覚えておけ」
義満様は、完成した旗を持ち上げた。
「誰かから受け継ぐということは、その人と同じことを続けるという意味ではない」
俺は、深く頭を下げた。
◇
店へ戻ると、父上が待っていた。
「旗は届けたか」
「はい」
「そうか」
俺は、少し迷ってから言った。
「父上」
「何だ」
「俺、店を継ぎます」
父上は、きょとんとした。
「前からそういう話だろう」
「そうですけど、今度は自分で決めました」
父上は、しばらく俺を見た。
それから、ゆっくり頷いた。
「分かった」
たった一言だった。
でも、俺には十分だった。
◇
その夜、俺は店の看板を一枚増やした。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
『味方でも、考えは違う』
そして、新しい板にはこう書いた。
『守るために、離れることもある』
新九郎が読んだ。
「また長いな」
「うるさい」
「でも、今回は悪くない」
俺は少し笑った。
頼之様は、義満様を守るために長く働いてきた。
義満様は、自分の力で幕府を守るために、その頼之様から離れた。
どちらが正しかったのか。
俺には、まだ分からない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
味方同士でも、同じ場所に立ち続けられるとは限らない。
◇
数日後。
新九郎が、また妙な話を持ってきた。
「弥一郎、聞いたか?」
「今度は何だ」
「将軍が、今まで以上に自分で物事を決め始めたらしい」
「いいことじゃないか」
「そうなんだけどな」
新九郎は、少し声を落とした。
「将軍が強くなると、困る人も増えるらしい」
俺は、完成した旗を畳む手を止めた。
「……どういうことだ」
「今まで自由にやっていた連中が、自由にできなくなるってことだよ」
なるほど。
義満様が強くなれば、幕府はまとまる。
しかし、力を失う者もいる。
その者たちが、黙って従うとは限らない。
俺は店の壁を見た。
『本日の味方』
『明日は不明』
父上が作った看板。
この言葉は、まだまだ必要らしい。
◇
その頃、京の外では、ある大きな家が勢力を伸ばしていた。
山名氏。
いくつもの国に力を持ち、幕府の中でも無視できない存在になりつつある一族だ。
まだ、俺は知らなかった。
この山名という名が、やがて店の帳面を埋め尽くすことになるとは。
そして、義満様が次に向き合う相手が、頼之様とはまったく違う種類の難しさを持っていることも。
その日、俺は何も知らず、いつものように帳面を開いた。
「さて、次の注文は……」
新九郎が覗き込む。
「どこから?」
俺は、書かれた名を読んだ。
「山名」
新九郎が笑った。
「また大きなところだな」
俺も笑った。
この時は、まだ。
大きな家ほど、旗の注文が面倒になることを、十分には分かっていなかった。




