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14/60

父上、店が潰れそうです

大幅に改訂いたしました。

父上の店には、昔から妙な看板がある。


『本日の味方』


『明日は不明』


『急な寝返りにも対応』


初めて見た客は、大抵笑う。


二度目に来た客は、あまり笑わない。


三度目になると、黙って注文する。


俺の名前は弥一郎。


父、弥太郎の跡を継ぐ予定の、一応武士である。


「一応、って何だ」


父上が言った。


「父上だって、よく言ってるじゃないですか」


「俺はいいんだ」


「何でです?」


「長く生きたからな」


便利な理由だ。


俺も長生きしたら使おう。


          ◇


父上は、若い頃から旗を作ってきた。


戦が起これば旗を作り、戦が終われば旗を片づける。


味方が変われば塗り直し、昨日の敵が今日の客になれば、何食わぬ顔で注文を受ける。


それで何十年も生きてきた。


俺は、その仕事を継ぐことになっている。


正直に言うと、少し不満だった。


武士の家に生まれたのに、毎日筆を握っている。


「俺だって、一度くらい立派な武功を」


そう言った時、父上は俺を見た。


「やめとけ」


「まだ何も言ってません」


「最後まで聞かなくても分かる」


「武士ですよ、俺たち」


「だから、やめとけ」


意味が分からない。


父上は、昔からこうだ。


何でも知っているような顔をして、肝心なことを教えてくれない。


          ◇


その日、店に三人の武士が来た。


注文は旗三十枚。


珍しくない数だった。


「どちらの御家中です?」


俺が聞くと、一人が答えた。


「細川」


なるほど、幕府の有力な家だ。


俺は帳面を開く。


「では、御紋と納期を――」


「それと、もう一つ」


武士が紙を差し出した。


「今後、この店では、我らと敵対する者の注文を受けるな」


俺は筆を止めた。


「……はい?」


「難しいことではない。細川に従う者の旗を作ればよい」


「ほかの家から注文が来たら?」


「断れ」


俺は父上を見る。


父上は奥で、古い旗を畳んでいた。


聞こえているはずなのに、こちらを見ない。


仕方なく、俺は答えた。


「申し訳ありませんが、それは困ります」


武士の顔が変わった。


「何?」


「うちは、いろいろな御家中から注文をいただいておりますので」


「つまり、細川に逆らうと?」


「そういう話では……」


「では、どういう話だ」


困った。


ただ旗を売りたいだけなのに、いつの間にか忠義の話になっている。


          ◇


武士が帳面に手を伸ばした。


「どこから注文を受けているか、見せてもらおう」


俺は反射的に帳面を押さえた。


「それは、お見せできません」


「なぜだ」


「お客様の注文ですから」


「我らも客だ」


「はい。ですから、皆様の注文も、ほかの方にはお見せしません」


武士が黙った。


俺も黙った。


言ってしまった。


これは、まずい。


父上が奥から出てきた。


「弥一郎」


「はい」


「筆を置け」


俺は、ほっとした。


父上が何とかしてくれる。


そう思った。


だが、父上は俺の横に立つと、武士に向かって頭を下げた。


「倅が失礼いたしました」


ほら、やっぱり。


「ただ、帳面はお見せできません」


……え?


          ◇


「この店は、旗を作っております」


父上は穏やかに続けた。


「旗を作る者が、注文主の名を勝手に漏らせば、次から誰も頼んでくれません」


「細川の注文でもか」


「もちろんです」


「それで商売ができなくなっても?」


父上は少し笑った。


「その時は、筆を売ります」


俺は思わず父上を見た。


初耳だ。


筆屋になるつもりだったのか。


武士たちは、しばらく父上を睨んでいた。


やがて一人が言った。


「後悔するぞ」


三人は、旗を注文せずに帰っていった。


          ◇


俺は父上に詰め寄った。


「何で断ったんです!」


「お前も断っただろ」


「俺は勢いです!」


「それが一番危ない」


「じゃあ、父上は?」


「考えて断った」


「もっと危ないでしょう!」


父上は笑わなかった。


「弥一郎。旗屋が一つの家だけに従えば、ほかの家からは敵と見なされる」


「はい」


「その家が負ければ、店も終わりだ」


「でも、従わなければ今すぐ終わるかもしれません」


父上は、少しだけ俺を見る目を変えた。


「そうだな」


その答えが、意外だった。


父上なら「何とかなる」と言うと思っていた。


でも、言わなかった。


          ◇


三日後、注文が減った。


五日後、いつもの客が来なくなった。


七日後、材料を卸してくれる商人まで、困った顔をするようになった。


「弥太郎殿、悪いが、しばらく掛け売りは……」


父上は何も言わず、代金を払った。


俺は帳面を見る。


このままでは、店がもたない。


「父上」


「何だ」


「どうするんです?」


「考えている」


「何を?」


「筆屋になるかどうか」


「冗談を言ってる場合ですか!」


父上は笑った。


俺は笑えなかった。


          ◇


その夜、俺は一人で帳面を開いた。


注文主。


枚数。


代金。


材料費。


見れば見るほど、嫌になる。


父上は何十年も、この店を続けてきた。


なのに俺が仕事を任され始めた途端、店が潰れそうになっている。


腹が立った。


あの武士たちにも。


何もしない父上にも。


そして、何もできない自分にも。


俺は帳面を閉じた。


「……旗屋なんて、継ぐんじゃなかった」


口にしてから、少し後悔した。


          ◇


翌朝、新九郎が来た。


幼い頃からの付き合いで、口が軽く、足が速く、余計な話をよく持ち込む男だ。


父上は以前、こう言った。


「孫七に似ているから気をつけろ」


孫七おじさんがどういう人だったのか、詳しくは知らない。


ただ、新九郎に似ているなら、相当うるさかったのだろう。


「弥一郎、聞いたぞ」


「何を」


「細川と揉めたんだって?」


「揉めてない。注文を断っただけだ」


「それを揉めたって言うんだよ」


新九郎は帳面を覗き込んだ。


「うわ、ひどいな」


「見るな」


「店、潰れる?」


「縁起でもないこと言うな」


「じゃあ、何とかしようぜ」


俺は顔を上げた。


「どうやって?」


新九郎は、にやりと笑った。


「将軍に売り込む」


          ◇


俺は新九郎を見た。


「……何を?」


「旗を」


「誰に?」


「将軍に」


「お前、頭は大丈夫か?」


新九郎は不満そうに腕を組んだ。


「幕府の有力な家に睨まれたなら、もっと偉い人に買ってもらえばいいだろ」


「そんな簡単に将軍に会えるわけないだろ!」


「会えるかもしれない」


「何で?」


「最近、若い将軍がいろいろ見て回ってるらしい」


若い将軍、足利義満(あしかがよしみつ)。


父上は、あの人を子どもの頃から知っている。


まだ将軍としての力が十分ではなく、周囲の大人たちに支えられている頃から。


俺は少し考えた。


「父上に頼めば……」


そこまで言って、口を閉じた。


また、父上だ。


困れば父上。


分からなければ父上。


俺は、いつまで父上の後ろに立っているつもりなんだろう。


          ◇


「新九郎」


「何?」


「将軍に会う方法、探してくれ」


「お、やる気になった?」


「ただし、父上の名前は使わない」


新九郎が目を丸くした。


「無理じゃない?」


「そこを何とかしろ」


「お前、無茶言うな」


「いつもお前が言ってることだ」


新九郎は笑った。


「分かった。面白くなってきたな」


俺は、まったく面白くなかった。


          ◇


数日後、俺たちは、義満様の目に留まる機会を得た。


正式な謁見というほど立派なものではない。


幕府に出入りする者たちの間で、品物を見せることを許されたのだ。


俺は旗を三枚持っていった。


一枚は、見事な出来の旗。


一枚は、雨に強いよう工夫した旗。


そして最後の一枚は、何も描いていない白い旗だった。


新九郎が小声で言う。


「何で白いの?」


「考えがある」


「何の?」


「まだ言わない」


「絶対、何も考えてないだろ」


半分、当たっている。


          ◇


義満様は、思っていたより若く見えた。


いや、実際に若い。


それなのに、周囲の人間は皆、その一言を待っている。


俺は緊張した。


父上が話していた義満様は、もっと気軽な人のように思えたのに。


義満様は三枚の旗を眺めた。


「これを作ったのは?」


「弥一郎と申します」


「弥太郎の息子か」


俺は心の中で叫んだ。


もう知られている!


父上の名前を使わずに来たのに、向こうから出てきた。


「はい」


「父は元気か」


「元気すぎるくらいです」


義満様は笑った。


「それはよかった」


そして、白い旗を指した。


「これは?」


来た。


俺は息を吸った。


          ◇


「まだ、誰の旗でもありません」


周囲が静かになる。


義満様は白い旗を見た。


「誰の旗でもない?」


「はい。御紋を描けば、どなたの旗にもなります」


「当たり前ではないか」


「そうです」


俺は続けた。


「ですが、うちの店は、その当たり前を守りたいんです」


義満様が、俺を見る。


「どういうことだ」


「誰か一人の旗しか作らない店になれば、ほかの方の旗は作れません」


俺は白い布を広げた。


「でも、旗が必要なのは、勝つ人だけじゃありません。負けそうな人にも、逃げる人にも、昨日まで敵だった人にも必要です」


新九郎が横で固まっている。


俺も、自分が何を言っているのか分からなくなりかけていた。


それでも続けた。


「うちは、誰が勝つかを決める店じゃありません。頼まれた旗を、きちんと作る店です」


          ◇


義満様は、しばらく黙っていた。


やがて、尋ねた。


「では、私と敵対する者が注文しても作るのか」


しまった。


一番聞かれたくないことを聞かれた。


周囲の視線が集まる。


俺は喉を鳴らした。


ここで「作りません」と言えば、助かるかもしれない。


でも、それでは細川の武士に言ったことと同じになる。


父上なら、どう答えるだろう。


そう考えてから、やめた。


これは、俺の仕事だ。


「……ご注文を受けるかどうかは、状況によります」


義満様の眉が、わずかに動いた。


「ほう」


「ですが、どなたの注文を受けたかは、義満様にも勝手にはお教えできません」


新九郎が小さく息を呑んだ。


俺も、心の中では同じことをしていた。


終わった。


今度こそ。


          ◇


義満様は、白い旗を見つめていた。


そして、ふっと笑った。


「弥太郎に似ているな」


俺は反射的に答えた。


「似ていません」


言ってから、後悔した。


義満様が顔を上げる。


「なぜだ?」


「父上なら、もっと上手く言います」


「そうかもしれんな」


「それに、父上は何十年も店を守ってきました。俺はまだ、何も守れていません」


気づけば、本音が出ていた。


義満様は、俺をじっと見た。


その目が、急に鋭くなった気がした。


「では、何を守りたい?」


俺は答えた。


「店です」


「それだけか」


少し考える。


父上。


新九郎。


旗を縫う職人たち。


材料を届けてくれる商人。


そして、旗を頼みに来る客たち。


「……店に関わる人たちです」


義満様は、静かに頷いた。


          ◇


「よい答えだ」


俺は、ようやく息を吐いた。


ところが、義満様は続けた。


「だが、一つ覚えておけ」


「はい」


「誰の旗でも作るということは、誰からも疑われるということだ」


俺は黙った。


「お前の父は、それを知っている」


義満様は白い旗を持ち上げた。


「お前は、まだ知らぬな」


悔しかった。


その通りだったからだ。


          ◇


義満様は、近くの者に何かを命じた。


しばらくして、幕府で使う旗の注文が出された。


枚数は多くない。


それでも、今の店には十分ありがたい仕事だった。


俺は深く頭を下げた。


「ありがとうございます!」


「礼は、旗ができてからでよい」


義満様は笑った。


「それと、弥一郎」


「はい」


「次に来る時は、白い旗ではなく、お前自身の旗を持ってこい」


俺は顔を上げた。


「俺自身の?」


「父の旗ではないものだ」


そう言って、義満様は去っていった。


          ◇


帰り道、新九郎が興奮していた。


「すごいじゃないか!」


「何が?」


「将軍から注文を取った!」


「うん」


「しかも、あんなこと言って!」


「うん」


「お前、よく生きてたな!」


「本当にそう思う」


二人で笑った。


でも、俺の頭には別の言葉が残っていた。


――お前自身の旗を持ってこい。


父上の旗ではないもの。


そんなもの、あるんだろうか。


          ◇


店に戻ると、父上がいつもの場所に座っていた。


「どうだった」


俺は注文書を見せた。


父上は少し驚いた顔をした。


「ほう」


「義満様からです」


「見れば分かる」


「父上の名前は使いませんでした」


「向こうは知っていただろう」


「……はい」


父上が笑った。


腹が立つ。


「それで?」


「何がです?」


「何を言われた」


俺は、少し迷ってから答えた。


「自分自身の旗を持ってこい、と」


父上の笑顔が消えた。


          ◇


「そうか」


父上は、しばらく何も言わなかった。


それから、古い旗の入った箱を見た。


俺が子どもの頃から、店の奥にある箱だ。


中には、父上が昔作った旗が入っている。


尊氏様。


直義様。


師直殿。


もう、この世にはいない人たちの旗。


父上は言った。


「義満様は、よく見ているな」


「何をです?」


「お前をだ」


俺は黙った。


父上は続けた。


「気をつけろ、弥一郎」


「何に?」


「人をよく見る者は、人の弱いところもよく見える」


その言葉が、妙に胸に残った。


          ◇


数日後、店には少しずつ客が戻ってきた。


幕府から注文を受けたという話が広まったらしい。


現金なものだ。


昨日まで来なかった客が、何食わぬ顔で注文を持ってくる。


新九郎が笑った。


「本日の味方、増えたな」


「明日は?」


「不明」


俺たちは顔を見合わせた。


そして笑った。


          ◇


ただ、一つ気になることがあった。


最初に来た細川の武士たちが、まだ姿を見せない。


それどころか、細川家の中でも、誰に従うべきかをめぐって不穏な話があるという。


幕府を支える大きな家。


その家が揺れれば、将軍も揺れる。


新九郎が言った。


「若い将軍、これから大変そうだな」


俺は頷いた。


「そうだな」


「お前は?」


「何が?」


「また巻き込まれるんじゃない?」


俺は即答した。


「嫌だよ」


その時、店の外から声がした。


「弥一郎殿はおられるか!」


俺は新九郎を見る。


新九郎も俺を見る。


嫌な予感がした。


          ◇


店先に立っていたのは、細川家の使いだった。


以前の三人とは違う男だ。


男は丁寧に頭を下げた。


「細川頼之(よりゆき)様より、お話がある」


俺は固まった。


頼之様。


若い義満様を支える、幕府の重臣。


その人が、俺に?


「何のお話でしょうか」


使いは答えた。


「先日の、白い旗についてだ」


背筋が冷たくなった。


あの旗。


義満様の前で広げた、何も描いていない旗。


どうして頼之様が知っている?


使いは、さらに言った。


「頼之様は、あの旗を作った者と話がしたいと仰せだ」


俺は店の奥を見た。


父上は、こちらを見ていなかった。


ただ、静かに古い旗を畳んでいる。


助けてくれるつもりは、ないらしい。


俺は小さく息を吐いた。


父上。


第二部が始まって早々、店が潰れかけました。


ようやく助かったと思ったら、今度は幕府の重臣に呼ばれています。


……やっぱり、旗屋なんて継ぐんじゃなかった。


それでも俺は、使いに向かって頭を下げた。


「分かりました。参ります」


父上の後ろに隠れていては、自分の旗は作れない。


それくらいは、もう分かっていた。


――ただし、自分の旗を作る前に、首が飛ばなければの話だが。

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