父上、店が潰れそうです
大幅に改訂いたしました。
父上の店には、昔から妙な看板がある。
『本日の味方』
『明日は不明』
『急な寝返りにも対応』
初めて見た客は、大抵笑う。
二度目に来た客は、あまり笑わない。
三度目になると、黙って注文する。
俺の名前は弥一郎。
父、弥太郎の跡を継ぐ予定の、一応武士である。
「一応、って何だ」
父上が言った。
「父上だって、よく言ってるじゃないですか」
「俺はいいんだ」
「何でです?」
「長く生きたからな」
便利な理由だ。
俺も長生きしたら使おう。
◇
父上は、若い頃から旗を作ってきた。
戦が起これば旗を作り、戦が終われば旗を片づける。
味方が変われば塗り直し、昨日の敵が今日の客になれば、何食わぬ顔で注文を受ける。
それで何十年も生きてきた。
俺は、その仕事を継ぐことになっている。
正直に言うと、少し不満だった。
武士の家に生まれたのに、毎日筆を握っている。
「俺だって、一度くらい立派な武功を」
そう言った時、父上は俺を見た。
「やめとけ」
「まだ何も言ってません」
「最後まで聞かなくても分かる」
「武士ですよ、俺たち」
「だから、やめとけ」
意味が分からない。
父上は、昔からこうだ。
何でも知っているような顔をして、肝心なことを教えてくれない。
◇
その日、店に三人の武士が来た。
注文は旗三十枚。
珍しくない数だった。
「どちらの御家中です?」
俺が聞くと、一人が答えた。
「細川」
なるほど、幕府の有力な家だ。
俺は帳面を開く。
「では、御紋と納期を――」
「それと、もう一つ」
武士が紙を差し出した。
「今後、この店では、我らと敵対する者の注文を受けるな」
俺は筆を止めた。
「……はい?」
「難しいことではない。細川に従う者の旗を作ればよい」
「ほかの家から注文が来たら?」
「断れ」
俺は父上を見る。
父上は奥で、古い旗を畳んでいた。
聞こえているはずなのに、こちらを見ない。
仕方なく、俺は答えた。
「申し訳ありませんが、それは困ります」
武士の顔が変わった。
「何?」
「うちは、いろいろな御家中から注文をいただいておりますので」
「つまり、細川に逆らうと?」
「そういう話では……」
「では、どういう話だ」
困った。
ただ旗を売りたいだけなのに、いつの間にか忠義の話になっている。
◇
武士が帳面に手を伸ばした。
「どこから注文を受けているか、見せてもらおう」
俺は反射的に帳面を押さえた。
「それは、お見せできません」
「なぜだ」
「お客様の注文ですから」
「我らも客だ」
「はい。ですから、皆様の注文も、ほかの方にはお見せしません」
武士が黙った。
俺も黙った。
言ってしまった。
これは、まずい。
父上が奥から出てきた。
「弥一郎」
「はい」
「筆を置け」
俺は、ほっとした。
父上が何とかしてくれる。
そう思った。
だが、父上は俺の横に立つと、武士に向かって頭を下げた。
「倅が失礼いたしました」
ほら、やっぱり。
「ただ、帳面はお見せできません」
……え?
◇
「この店は、旗を作っております」
父上は穏やかに続けた。
「旗を作る者が、注文主の名を勝手に漏らせば、次から誰も頼んでくれません」
「細川の注文でもか」
「もちろんです」
「それで商売ができなくなっても?」
父上は少し笑った。
「その時は、筆を売ります」
俺は思わず父上を見た。
初耳だ。
筆屋になるつもりだったのか。
武士たちは、しばらく父上を睨んでいた。
やがて一人が言った。
「後悔するぞ」
三人は、旗を注文せずに帰っていった。
◇
俺は父上に詰め寄った。
「何で断ったんです!」
「お前も断っただろ」
「俺は勢いです!」
「それが一番危ない」
「じゃあ、父上は?」
「考えて断った」
「もっと危ないでしょう!」
父上は笑わなかった。
「弥一郎。旗屋が一つの家だけに従えば、ほかの家からは敵と見なされる」
「はい」
「その家が負ければ、店も終わりだ」
「でも、従わなければ今すぐ終わるかもしれません」
父上は、少しだけ俺を見る目を変えた。
「そうだな」
その答えが、意外だった。
父上なら「何とかなる」と言うと思っていた。
でも、言わなかった。
◇
三日後、注文が減った。
五日後、いつもの客が来なくなった。
七日後、材料を卸してくれる商人まで、困った顔をするようになった。
「弥太郎殿、悪いが、しばらく掛け売りは……」
父上は何も言わず、代金を払った。
俺は帳面を見る。
このままでは、店がもたない。
「父上」
「何だ」
「どうするんです?」
「考えている」
「何を?」
「筆屋になるかどうか」
「冗談を言ってる場合ですか!」
父上は笑った。
俺は笑えなかった。
◇
その夜、俺は一人で帳面を開いた。
注文主。
枚数。
代金。
材料費。
見れば見るほど、嫌になる。
父上は何十年も、この店を続けてきた。
なのに俺が仕事を任され始めた途端、店が潰れそうになっている。
腹が立った。
あの武士たちにも。
何もしない父上にも。
そして、何もできない自分にも。
俺は帳面を閉じた。
「……旗屋なんて、継ぐんじゃなかった」
口にしてから、少し後悔した。
◇
翌朝、新九郎が来た。
幼い頃からの付き合いで、口が軽く、足が速く、余計な話をよく持ち込む男だ。
父上は以前、こう言った。
「孫七に似ているから気をつけろ」
孫七おじさんがどういう人だったのか、詳しくは知らない。
ただ、新九郎に似ているなら、相当うるさかったのだろう。
「弥一郎、聞いたぞ」
「何を」
「細川と揉めたんだって?」
「揉めてない。注文を断っただけだ」
「それを揉めたって言うんだよ」
新九郎は帳面を覗き込んだ。
「うわ、ひどいな」
「見るな」
「店、潰れる?」
「縁起でもないこと言うな」
「じゃあ、何とかしようぜ」
俺は顔を上げた。
「どうやって?」
新九郎は、にやりと笑った。
「将軍に売り込む」
◇
俺は新九郎を見た。
「……何を?」
「旗を」
「誰に?」
「将軍に」
「お前、頭は大丈夫か?」
新九郎は不満そうに腕を組んだ。
「幕府の有力な家に睨まれたなら、もっと偉い人に買ってもらえばいいだろ」
「そんな簡単に将軍に会えるわけないだろ!」
「会えるかもしれない」
「何で?」
「最近、若い将軍がいろいろ見て回ってるらしい」
若い将軍、足利義満。
父上は、あの人を子どもの頃から知っている。
まだ将軍としての力が十分ではなく、周囲の大人たちに支えられている頃から。
俺は少し考えた。
「父上に頼めば……」
そこまで言って、口を閉じた。
また、父上だ。
困れば父上。
分からなければ父上。
俺は、いつまで父上の後ろに立っているつもりなんだろう。
◇
「新九郎」
「何?」
「将軍に会う方法、探してくれ」
「お、やる気になった?」
「ただし、父上の名前は使わない」
新九郎が目を丸くした。
「無理じゃない?」
「そこを何とかしろ」
「お前、無茶言うな」
「いつもお前が言ってることだ」
新九郎は笑った。
「分かった。面白くなってきたな」
俺は、まったく面白くなかった。
◇
数日後、俺たちは、義満様の目に留まる機会を得た。
正式な謁見というほど立派なものではない。
幕府に出入りする者たちの間で、品物を見せることを許されたのだ。
俺は旗を三枚持っていった。
一枚は、見事な出来の旗。
一枚は、雨に強いよう工夫した旗。
そして最後の一枚は、何も描いていない白い旗だった。
新九郎が小声で言う。
「何で白いの?」
「考えがある」
「何の?」
「まだ言わない」
「絶対、何も考えてないだろ」
半分、当たっている。
◇
義満様は、思っていたより若く見えた。
いや、実際に若い。
それなのに、周囲の人間は皆、その一言を待っている。
俺は緊張した。
父上が話していた義満様は、もっと気軽な人のように思えたのに。
義満様は三枚の旗を眺めた。
「これを作ったのは?」
「弥一郎と申します」
「弥太郎の息子か」
俺は心の中で叫んだ。
もう知られている!
父上の名前を使わずに来たのに、向こうから出てきた。
「はい」
「父は元気か」
「元気すぎるくらいです」
義満様は笑った。
「それはよかった」
そして、白い旗を指した。
「これは?」
来た。
俺は息を吸った。
◇
「まだ、誰の旗でもありません」
周囲が静かになる。
義満様は白い旗を見た。
「誰の旗でもない?」
「はい。御紋を描けば、どなたの旗にもなります」
「当たり前ではないか」
「そうです」
俺は続けた。
「ですが、うちの店は、その当たり前を守りたいんです」
義満様が、俺を見る。
「どういうことだ」
「誰か一人の旗しか作らない店になれば、ほかの方の旗は作れません」
俺は白い布を広げた。
「でも、旗が必要なのは、勝つ人だけじゃありません。負けそうな人にも、逃げる人にも、昨日まで敵だった人にも必要です」
新九郎が横で固まっている。
俺も、自分が何を言っているのか分からなくなりかけていた。
それでも続けた。
「うちは、誰が勝つかを決める店じゃありません。頼まれた旗を、きちんと作る店です」
◇
義満様は、しばらく黙っていた。
やがて、尋ねた。
「では、私と敵対する者が注文しても作るのか」
しまった。
一番聞かれたくないことを聞かれた。
周囲の視線が集まる。
俺は喉を鳴らした。
ここで「作りません」と言えば、助かるかもしれない。
でも、それでは細川の武士に言ったことと同じになる。
父上なら、どう答えるだろう。
そう考えてから、やめた。
これは、俺の仕事だ。
「……ご注文を受けるかどうかは、状況によります」
義満様の眉が、わずかに動いた。
「ほう」
「ですが、どなたの注文を受けたかは、義満様にも勝手にはお教えできません」
新九郎が小さく息を呑んだ。
俺も、心の中では同じことをしていた。
終わった。
今度こそ。
◇
義満様は、白い旗を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「弥太郎に似ているな」
俺は反射的に答えた。
「似ていません」
言ってから、後悔した。
義満様が顔を上げる。
「なぜだ?」
「父上なら、もっと上手く言います」
「そうかもしれんな」
「それに、父上は何十年も店を守ってきました。俺はまだ、何も守れていません」
気づけば、本音が出ていた。
義満様は、俺をじっと見た。
その目が、急に鋭くなった気がした。
「では、何を守りたい?」
俺は答えた。
「店です」
「それだけか」
少し考える。
父上。
新九郎。
旗を縫う職人たち。
材料を届けてくれる商人。
そして、旗を頼みに来る客たち。
「……店に関わる人たちです」
義満様は、静かに頷いた。
◇
「よい答えだ」
俺は、ようやく息を吐いた。
ところが、義満様は続けた。
「だが、一つ覚えておけ」
「はい」
「誰の旗でも作るということは、誰からも疑われるということだ」
俺は黙った。
「お前の父は、それを知っている」
義満様は白い旗を持ち上げた。
「お前は、まだ知らぬな」
悔しかった。
その通りだったからだ。
◇
義満様は、近くの者に何かを命じた。
しばらくして、幕府で使う旗の注文が出された。
枚数は多くない。
それでも、今の店には十分ありがたい仕事だった。
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「礼は、旗ができてからでよい」
義満様は笑った。
「それと、弥一郎」
「はい」
「次に来る時は、白い旗ではなく、お前自身の旗を持ってこい」
俺は顔を上げた。
「俺自身の?」
「父の旗ではないものだ」
そう言って、義満様は去っていった。
◇
帰り道、新九郎が興奮していた。
「すごいじゃないか!」
「何が?」
「将軍から注文を取った!」
「うん」
「しかも、あんなこと言って!」
「うん」
「お前、よく生きてたな!」
「本当にそう思う」
二人で笑った。
でも、俺の頭には別の言葉が残っていた。
――お前自身の旗を持ってこい。
父上の旗ではないもの。
そんなもの、あるんだろうか。
◇
店に戻ると、父上がいつもの場所に座っていた。
「どうだった」
俺は注文書を見せた。
父上は少し驚いた顔をした。
「ほう」
「義満様からです」
「見れば分かる」
「父上の名前は使いませんでした」
「向こうは知っていただろう」
「……はい」
父上が笑った。
腹が立つ。
「それで?」
「何がです?」
「何を言われた」
俺は、少し迷ってから答えた。
「自分自身の旗を持ってこい、と」
父上の笑顔が消えた。
◇
「そうか」
父上は、しばらく何も言わなかった。
それから、古い旗の入った箱を見た。
俺が子どもの頃から、店の奥にある箱だ。
中には、父上が昔作った旗が入っている。
尊氏様。
直義様。
師直殿。
もう、この世にはいない人たちの旗。
父上は言った。
「義満様は、よく見ているな」
「何をです?」
「お前をだ」
俺は黙った。
父上は続けた。
「気をつけろ、弥一郎」
「何に?」
「人をよく見る者は、人の弱いところもよく見える」
その言葉が、妙に胸に残った。
◇
数日後、店には少しずつ客が戻ってきた。
幕府から注文を受けたという話が広まったらしい。
現金なものだ。
昨日まで来なかった客が、何食わぬ顔で注文を持ってくる。
新九郎が笑った。
「本日の味方、増えたな」
「明日は?」
「不明」
俺たちは顔を見合わせた。
そして笑った。
◇
ただ、一つ気になることがあった。
最初に来た細川の武士たちが、まだ姿を見せない。
それどころか、細川家の中でも、誰に従うべきかをめぐって不穏な話があるという。
幕府を支える大きな家。
その家が揺れれば、将軍も揺れる。
新九郎が言った。
「若い将軍、これから大変そうだな」
俺は頷いた。
「そうだな」
「お前は?」
「何が?」
「また巻き込まれるんじゃない?」
俺は即答した。
「嫌だよ」
その時、店の外から声がした。
「弥一郎殿はおられるか!」
俺は新九郎を見る。
新九郎も俺を見る。
嫌な予感がした。
◇
店先に立っていたのは、細川家の使いだった。
以前の三人とは違う男だ。
男は丁寧に頭を下げた。
「細川頼之様より、お話がある」
俺は固まった。
頼之様。
若い義満様を支える、幕府の重臣。
その人が、俺に?
「何のお話でしょうか」
使いは答えた。
「先日の、白い旗についてだ」
背筋が冷たくなった。
あの旗。
義満様の前で広げた、何も描いていない旗。
どうして頼之様が知っている?
使いは、さらに言った。
「頼之様は、あの旗を作った者と話がしたいと仰せだ」
俺は店の奥を見た。
父上は、こちらを見ていなかった。
ただ、静かに古い旗を畳んでいる。
助けてくれるつもりは、ないらしい。
俺は小さく息を吐いた。
父上。
第二部が始まって早々、店が潰れかけました。
ようやく助かったと思ったら、今度は幕府の重臣に呼ばれています。
……やっぱり、旗屋なんて継ぐんじゃなかった。
それでも俺は、使いに向かって頭を下げた。
「分かりました。参ります」
父上の後ろに隠れていては、自分の旗は作れない。
それくらいは、もう分かっていた。
――ただし、自分の旗を作る前に、首が飛ばなければの話だが。




