明日の味方は、まだ知らない
直義様が亡くなって季節が変わった。
それでも世の中は、何もなかったように続いた。
朝が来る。
飯を食う。
人が走る。
命令が届く。
旗を作る。
戦が起きる。
誰かが勝つ。
誰かが負ける。
そしてまた旗を作る。
俺は思う。
歴史ってもう少し、一つの出来事が終わったら、静かになるものだと思っていた。
違った。
全然違った。
一つ終わると次が始まる。
それだけだった。
◇
「弥太郎」
孫七が来た。
「何です」
「客」
「誰です」
「武士」
「それは見れば分かるでしょう」
店先に若い武士が立っている。
そう、店。
俺はとうとう、旗を作る場所を、店と呼ぶようになった。
認めたくなかったけど、もうどう見ても店だった。
入口には以前作った板。
『本日の味方』
その下。
『明日は不明』
孫七が勝手にその下へ一行増やしていた。
『急な寝返りにも対応』
俺は見つけた日に消そうとした。
六郎殿に止められた。
「分かりやすい」
と言われた。
悔しい。
でも客が増えた。
もっと悔しい。
◇
若い武士が言う。
「旗を二十」
「どちら方です」
俺はもう、自然にそう聞く。
昔ならまず驚いていた。
今は聞かないと仕事にならない。
「足利方だ」
「どの足利です」
若い武士が止まる。
俺も止まる。
孫七が横で吹き出す。
若い武士。
「……尊氏様だ」
「最初からそう言ってください」
「足利方で通じると思った」
俺は遠い目をした。
「昔は俺もそう思ってました」
若い武士が首をかしげる。
孫七。
「この店では足利方だけじゃ注文できないぞ」
「何でだ」
「いろいろあった」
俺と孫七は同時にため息。
若い武士には、意味が分からないらしい。
それでいい、分からない方が多分幸せだ。
◇
旗を作る。
筆。
布。
染料。
俺の手は昔よりずっと早くなった。
迷わない。
線もぶれない。
孫七が言う。
「上手くなったな」
「何年やってると思ってるんです」
「武士は?」
俺は筆を動かしたまま答える。
「一応続けてます」
孫七が笑う。
「まだ言うのか」
「死ぬまで言います」
「じゃあ旗屋で死ぬんだな」
「何でそうなる」
店の奥、六郎殿が茶を飲んでいる。
最近少し老けた。
いや、俺もだろう。
戦ばかり見ていれば人は早く老ける。
六郎殿が言う。
「弥太郎」
「はい」
「旗屋でいいだろ」
「六郎殿まで」
「剣で食うより向いている」
「それ、褒めてます?」
「褒めている」
多分、本当に褒めている。
六郎殿はそういう人だ。
◇
夕方、珍しい客が来た。
尊氏様だった。
俺は思わず立ち上がる。
「尊氏様」
「久しぶりだな」
「どうしたんです、こんなところまで」
尊氏様が店を見る。
旗。
筆。
布。
板。
そして、
『本日の味方
明日は不明』
尊氏様が笑う。
「これはいい」
「笑い事じゃないです」
「誰が書いた」
「俺です」
「こちらは?」
尊氏様が指す。
『急な寝返りにも対応』
俺は孫七を見る。
孫七は逃げた。
尊氏様が声を上げて笑う。
その笑い方、昔と変わらない。
少し安心した。
◇
尊氏様は店の奥に座った。
俺は茶を出す。
「旗の注文ですか」
「いや」
「じゃあ何で」
「顔を見に来た」
俺は少し驚く。
「俺の?」
「そうだ」
「暇なんですか」
「忙しい」
「じゃあ仕事してください」
尊氏様が笑う。
でもしばらくして、店に並ぶ旗を見る。
「たくさん作ったな」
「作らされました」
「俺も?」
「かなり」
「悪かった」
「本当に思ってます?」
昔、直義様が同じことを言っていた。
胸が少し痛む。
尊氏様も気づいたのかもしれない。
一瞬笑顔が消えた。
でも何も言わなかった。
◇
尊氏様が一本の古い旗を見る。
俺が処分せず、奥に置いていたもの。
直義様の旗。
手を伸ばす。
触れない。
ただ、見る。
「残していたのか」
「はい」
「なぜ」
俺は少し考えた。
「分かりません」
本当に分からない。
捨てられなかった。
それだけ。
尊氏様はしばらく見ていた。
そして、小さく言った。
「ありがとう」
俺は何に対する礼か聞かなかった。
◇
少しして尊氏様が言う。
「弥太郎」
「はい」
「昔、お前はよく聞いていたな」
「何を」
「誰が正しいのか」
俺は思い出す。
そうだった。
正成殿。
義貞殿。
尊氏様。
直義様。
師直殿。
皆を見ながらどっちが正しい。
誰が間違っている。
ずっとそれを知りたかった。
「今はどうだ」
俺は少し考える。
「分かりません」
尊氏様が笑う。
「変わらんな」
「違います」
「何が」
「昔は」
俺は言う。
「分からないのが嫌だったんです」
尊氏様は黙って聞く。
「正しい人がいて」
「うん」
「間違ってる人がいて」
「うん」
「正しい方についていれば、自分も間違えないと思ってました」
尊氏様。
「今は?」
俺は店の旗を見る。
「そんなに簡単じゃないって分かりました」
尊氏様は何も言わない。
俺は続ける。
「正成殿は」
「うん」
「勝てないと思う戦にも行った」
「うん」
「義貞殿は前に出るしかできなかった」
「……ああ」
「師直殿は嫌われても勝とうとした」
尊氏様の目が少し動く。
「直義様は」
俺は少し止まる。
「決まりを守ろうとした」
尊氏様。
「ああ」
「尊氏様は」
「俺か」
「皆を大事にしようとした」
尊氏様が苦笑する。
「うまくできなかったがな」
俺は答えない。
それは俺が言うことじゃない。
◇
「だから」
俺は言う。
「正しい人を探すのはやめました」
「では何を見る」
尊氏様が聞く。
俺は少し考えた。
「その人が」
「うん」
「何を守ろうとしてるか」
尊氏様が俺を見る。
俺は続ける。
「それを見る方が」
「正しいかどうかより?」
「少し分かりやすいです」
尊氏様はしばらく何も言わなかった。
それから、
「お前」
と笑った。
「旗屋になった割に、難しいことを言うようになったな」
「まだ武士です」
「そこは変わらんのか」
「変わりません」
二人で笑った。
◇
帰り際、尊氏様が板を見る。
『本日の味方』
『明日は不明』
「弥太郎」
「はい」
「明日は本当に分からんか」
俺は尊氏様を見る。
「分かりません」
「そうか」
「尊氏様は分かるんですか」
尊氏様は笑う。
「分からん」
即答。
俺は驚く。
「将軍でも?」
「将軍でもだ」
「じゃあ俺に聞かないでください」
「聞いてない」
「そうでした」
尊氏様は笑いながら店を出た。
俺はその背中を見る。
昔より少し小さく見えた。
多分、尊氏様が小さくなったわけじゃない。
俺が偉い人も普通の人間なんだと知ったからだ。
◇
数年後、六郎殿は戦場へ出る回数が減った。
孫七は相変わらずだった。
「弥太郎!」
店へ入ってくる。
「何です」
「酒!」
「ここ酒屋じゃないです」
「じゃあ旗!」
「誰の!」
「まだ決まってない!」
「帰ってください!」
何も変わらない。
いや、少し変わった。
店が広くなった。
弟子もいる。
そして俺には息子ができた。
◇
息子は俺が旗を塗るのを、よく見ていた。
「父上」
「何だ」
「これ誰の旗?」
「今日は尊氏様」
「昨日は?」
俺は止まる。
「……違う人」
「明日は?」
俺は笑う。
「知らん」
息子は不思議そう。
「父上、旗作ってるのに?」
「旗を作ってるから分からないんだ」
「どういうこと?」
「大きくなったら分かる」
俺も昔、六郎殿に似たようなことを言われた気がする。
あの時はものすごく嫌だった。
今、自分が言っている。
年を取るってこういうことなのかもしれない。
◇
ある日、息子が壁の板を見る。
『本日の味方』
『明日は不明』
「父上」
「何だ」
「これ、消さないの?」
俺は少し考えた。
「消さない」
「何で」
店の奥に古い旗、何本も残してある。
正成殿の頃。
義貞殿の頃。
師直殿。
直義様。
尊氏様。
たくさん。
俺は言う。
「忘れないためだ」
「何を?」
俺は答える。
「昨日の敵が」
「うん」
「今日の味方になること」
息子。
「明日は?」
俺は笑う。
「知らん」
息子も笑った。
◇
その夜、六郎殿と孫七と三人で酒を飲んだ。
昔みたいに。
孫七が言う。
「弥太郎」
「何です」
「結局」
「はい」
「誰が正しかったんだ」
俺は酒を飲む。
考える。
正成殿。
義貞殿。
尊氏様。
直義様。
師直殿。
直冬殿。
南朝。
北朝。
たくさんの人。
たくさんの旗。
俺は答えた。
「知りません」
孫七が笑う。
「最後までそれか」
「でも」
「何だ」
俺は言う。
「皆、自分なりには正しかったんじゃないですか」
六郎殿が少し笑った。
孫七。
「便利な答えだな」
俺。
「師直殿にも言われました」
「懐かしいな」
「はい」
三人少し黙る。
もう会えない人が増えた。
◇
六郎殿が俺に言う。
「弥太郎」
「はい」
「息子に店を継がせるのか」
「分かりません」
「本人次第か」
「はい」
「いいのか」
俺は笑う。
「選ばせます」
六郎殿が頷く。
昔なら、家、主君、血。
そういうものが人の道を決めた。
今も多分そうだ。
でも少しくらい選べてもいい。
そんなことを俺は思うようになった。
◇
翌朝、店を開ける。
板を出す。
『本日の味方』
俺はその下へ。
今日の名を書く。
そしてその下。
『明日は不明』
これは消さない。
多分俺が死んでも。
息子が、その息子がこの店を続けるなら残してほしい。
世の中はきっとまた変わる。
将軍も。
主君も。
敵も。
味方も。
そしていつか、俺たちの知らない時代が来る。
その時この店の誰かがまた聞くんだろう。
「今日は誰の味方ですか」
そして誰かが答える。
「知らん」
たぶんそれでいい。
全部分かっている人なんてどの時代にもいない。
だから俺たちは今日の旗を作る。
今日、生きるために。
◇
店の外から、声。
「旗を頼む!」
俺は返事をする。
「どちら方です!」
男が答える。
俺は筆を取る。
孫七が横から聞く。
「弥太郎」
「何です」
「明日は?」
俺は笑った。
そしていつものように答えた。
「知りませんよ」
風が吹く。
店先の旗が揺れる。
白。
赤。
いくつもの印。
どれも今日だけは確かに誰かの旗だった。
――本日の味方。
明日はまだ知らない。
《第一部完》
これにて、第一部完です!
次回更新より第二部となります。




