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弟のいない朝

直義様が負けた。


その知らせの後、しばらくは、何も起きなかった。


いや、正確には何も起きていないように見えた。


戦は続いていたし、使者も走っていた。


旗も作った。


命令も変わった。


いつも通り。


でも、俺はずっと気になっていた。


直義様が、今どこにいるのか。


何をしているのか。


生きているのか。


そればかり。


孫七が言う。


「気になるなら聞けばいいだろ」


「誰に」


「六郎殿」


俺は見る。


六郎殿は少し離れた場所で、武具を確認している。


「聞きにくいんですよ」


「何で」


「六郎殿、最近ずっと顔が怖いから」


孫七。


「いつもだろ」


六郎殿。


「聞こえている」


俺たちは黙った。


          ◇


結局、俺は聞いた。


「六郎殿」


「何だ」


「直義様は」


六郎殿の手が止まる。


「鎌倉にいる」


「生きてるんですね」


「ああ」


俺は少し安心した。


本当に、少しだけ。


「尊氏様とは?」


六郎殿。


「会っている」


「じゃあ」


俺は思った。


もしかして和解。


ようやく兄弟が。


でも六郎殿は言った。


「楽観するな」


俺は顔をしかめる。


「何でです」


「一度壊れたものは」


少し間。


「元に戻ったように見えても、同じではない」


嫌な言葉だった。


俺は言う。


「でも兄弟でしょう」


六郎殿は俺を見る。


「だから何だ」


答えられない。


「兄弟だから戻れる」


そう言いたかった。


でも、孫七の兄の話を思い出した。


血が近いから、分かり合える。


そんな簡単なものじゃない。


          ◇


数日後、俺は尊氏様を見かけた。


以前より、さらに疲れていた。


でも、兵の前では笑う。


それは変わらない。


一人の若い兵に。


「傷はどうだ」


「もう大丈夫です」


「そうか」


「はい」


「無理をするなよ」


尊氏様は肩を叩く。


兵は嬉しそうだった。


本当に、人に好かれる人だ。


俺は思った。


この人が、弟とだけは、うまく話せない。


いや話せないんじゃない。


話しても戻れない。


その方が正しいのかもしれない。


尊氏様が俺に気づく。


「弥太郎」


「はい」


「最近、旗屋らしくなったな」


俺は少し笑った。


「もう否定する元気もなくなりました」


「武士はどうした」


「一応続けてます」


尊氏様も笑う。


前ならそのまま終わった。


でも、俺は聞いた。


「直義様と会ったんですよね」


笑顔が消える。


ほんの少し。


「会った」


「何を話したんです」


尊氏様は答えない。


俺は慌てる。


「言えないならいいです」


「いや」


尊氏様は遠くを見る。


「昔の話をした」


「昔?」


「まだ」


少し笑う。


「こんなに偉くなる前の話だ」


俺は何となく想像する。


兄と弟。


今みたいに、何千人も動かして。


国のことを決めて。


敵味方に分かれる前。


ただの兄弟だった頃。


「楽しかったですか」


尊氏様。


「楽しかった」


即答だった。


その答えが余計につらかった。


          ◇


「じゃあ」


俺は言う。


「戻ればいいじゃないですか」


尊氏様が俺を見る。


子どもみたいなことを言った。


自分でも分かる。


でも、言いたかった。


「前みたいに」


俺は続ける。


「尊氏様が勝手に土地をあげて」


「おい」


「直義様が怒って」


尊氏様が少し笑う。


「それは戻りたい形なのか」


「俺は好きでした」


尊氏様はしばらく笑っていた。


でもやがて、


「俺もだ」


と小さく言った。


          ◇


その日の夜、孫七が言う。


「弥太郎」


「何です」


「直義様、戻ってきたら」


「はい」


「また帳簿やるのかな」


俺は想像した。


直義様。


山のような書類。


前例。


証文。


訴え。


土地。


尊氏様が勝手に約束する。


直義様が怒る。


俺が巻き込まれる。


「……やってほしいですね」


「嫌がってたじゃないか」


「嫌でした」


「じゃあ何で」


「今なら」


少し考える。


「帳簿くらいなら手伝います」


孫七が笑う。


「成長したな」


「戦よりましです」


「結局そこか」


俺も笑った。


本当にそんな未来が来る気がした。


          ◇


来なかった。


          ◇


知らせは、朝だった。


使者ではなかった。


六郎殿だった。


俺を呼んだ。


「弥太郎」


その声で分かった。


前にも同じことがあった。


師直殿の時。


「何です」


聞きたくない。


でも聞く。


六郎殿は言った。


「直義様が亡くなった」


世界が一瞬静かになった。


「……病気ですか」


自分でもなぜそんなことを聞いたのか分からない。


六郎殿は少し間を置く。


「そう伝えられている」


その言い方が、妙に引っかかった。


でも、俺は聞かなかった。


聞けなかった。


「いつ」


「昨日」


昨日。


昨日まで生きていた。


まただ。


師直殿の時と同じ。


昨日までいた人が、今日いない。


          ◇


孫七は、しばらく黙っていた。


そして言う。


「弥太郎」


「何です」


「帳簿」


「はい」


「もう手伝わなくていいな」


俺は笑えなかった。


孫七も冗談で言ったわけじゃない。


分かっている。


俺は直義様の屋敷を思い出した。


山のような文書。


握り飯。


「飯は飯だろう」


あの言葉。


尊氏様に。


「ないものは出せません」


と言っていた顔。


師直殿と向き合って、


「決まりがなければ国とは呼べぬ」


と言った声。


全部頭に残っている。


          ◇


その日、旗の注文は来なかった。


珍しく何も作らなかった。


俺は古い旗を整理していた。


その中に直義様のものがあった。


手が止まる。


捨てるのか。


燃やすのか。


師直殿の旗は燃やした。


でもこれは。


俺は持ったまま立っていた。


六郎殿が来る。


「どうした」


「これ」


俺は旗を見せる。


六郎殿も見る。


「処分するんですか」


六郎殿はしばらく答えない。


「……今は置いておけ」


俺は少し驚く。


「いいんですか」


「ああ」


それだけ。


でも、俺は少し安心した。


          ◇


夕方、尊氏様を見た。


誰も近くにいない。


座っている。


俺は声をかけられなかった。


いつもの尊氏様なら向こうから笑う。


「弥太郎」


と。


でもその日は、ずっと下を向いていた。


俺は離れた場所に立った。


何を言えばいい。


分からない。


弟を失った人に。


「大丈夫ですか」


なんて聞けない。


大丈夫なわけがない。


しばらくして、尊氏様が気づいた。


「弥太郎」


「はい」


声が少しかすれていた。


「旗か」


「違います」


「そうか」


また沈黙。


俺は思い切って言った。


「直義様」


尊氏様の目が少し動く。


「はい」


「俺」


言葉が出ない。


何を言いたい。


少し考えて。


「好きでした」


それしか出なかった。


尊氏様は長い間、何も言わなかった。


それから。


「ああ」


と一言。


「俺もだ」


俺はそれ以上何も言えなかった。


          ◇


帰り道。


孫七が待っていた。


「何話した」


「直義様のこと」


「うん」


「尊氏様も好きだったって」


孫七が黙る。


俺は言う。


「だったら」


「うん」


「何でこうなるんですかね」


孫七は答えない。


六郎殿が後ろから来る。


俺は振り返る。


「六郎殿」


「何だ」


「人って」


俺は言う。


「好きな相手とも戦うんですね」


六郎殿は少し考えて。


「ああ」


「何で」


「好きだけでは」


六郎殿は言う。


「守れないものもあるからだ」


また難しい。


でも今までで一番、分かる気がした。


尊氏様には、守るものがあった。


直義様にも。


師直殿にも。


直冬殿にも。


南朝にも。


皆、違うものを守ろうとした。


だから、ぶつかった。


          ◇


翌朝、俺はいつものように起きた。


飯。


水。


筆。


布。


何も変わらない。


空も昨日と同じ。


孫七が来る。


「弥太郎」


「何です」


「今日の味方は?」


いつもの質問。


俺は答えようとした。


でも、少し止まった。


直義様はいない。


師直殿もいない。


正成殿も。


義貞殿も。


少し前までこの世界にいた。


今はいない。


それでも戦は続く。


尊氏様はいる。


直冬殿もいる。


南朝も。


北朝も。


そして俺たちも。


「今日は」


俺は言う。


「尊氏様です」


孫七。


「明日は」


俺は少し笑った。


「知りません」


孫七も笑う。


でも前と同じ笑いではなかった。


          ◇


俺は旗を広げる。


筆を持つ。


白。


赤。


家紋。


印。


何度も塗った。


何度も消した。


何度も作り直した。


昔、俺はどっちが正しいのか知りたかった。


正しい方についていれば間違えないと思っていた。


でも今は違う。


正しい人が一人だけいるわけじゃない。


間違っている人が一人だけいるわけでもない。


人には、立場がある。


守りたいものがある。


恩がある。


恨みがある。


家がある。


土地がある。


家族がいる。


だから今日の味方は変わる。


そしてそのたびに、誰かが失われる。


俺は筆を置く。


壁を見る。


そこにはいつからか一枚の板が掛かっていた。


俺が書いた。


たった一行。


『本日の味方』


その下。


『今日は、足利尊氏。』


俺は少し考えて。


その横に、


小さく書き足した。


『明日は不明』


孫七がそれを見る。


「何だそれ」


「必要でしょう」


「縁起悪くないか」


「今さらです」


六郎殿が通りかかる。


板を見る。


しばらく何も言わない。


そして、


「消すなよ」


と言った。


俺は頷いた。


「はい」


多分これは、これからも必要になる。


この国がまだまだ落ち着かない限り。


そして俺たちの仕事も、まだ終わらない。

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