兄と弟は、もう戻れない
高師直殿が死んだ。
だから、俺は少しだけ、これで終わると思っていた。
直義様が嫌っていた相手は、もういない。
師直殿も、直義様と争うことはない。
なら、尊氏様と直義様は、また前みたいに戻るんじゃないか。
兄が前で戦い、弟が後ろを支える。
あの形に。
俺は、本気でそう思っていた。
でも、翌朝、六郎殿は言った。
「終わらんぞ」
俺は筆を止める。
「何がです」
「争いだ」
「師直殿、もういませんよ」
「分かっている」
「じゃあ何で」
六郎殿は少し黙る。
「師直殿だけが原因ではなかったからだ」
俺は嫌な顔をした。
「……またですか」
「何が」
「一つ解決したら、その下から別の問題が出てくるやつ」
六郎殿。
「そうだ」
孫七が言う。
「玉ねぎみたいだな」
俺は見る。
「何で玉ねぎ」
「剥いても剥いても出てくる」
「最後には何も残らないでしょう」
六郎殿が小さく言った。
「だから怖い」
俺は笑えなかった。
◇
しばらくして、直義様と会った。
以前より、明らかに疲れていた。
机には文書。
でも、前のように、淡々と処理している感じではない。
一枚読む。
止まる。
考える。
また読む。
俺は旗を置いた。
「直義様」
「何だ」
「少し休んだ方が」
「余計な心配だ」
「でも」
「仕事は残っている」
いつもの直義様。
でも、少し違う。
俺は思い切って聞いた。
「師直殿がいなくなったら」
直義様の手が止まる。
「はい」
「尊氏様と、もう一度一緒にやれるんじゃないですか」
沈黙。
長い。
俺は言ってはいけないことを言ったかと思った。
直義様は、しばらくして口を開く。
「私も」
一拍。
「そう思っていた時期はあった」
過去形。
それだけで、胸が重くなった。
「今は?」
直義様は俺を見る。
「兄上は、私を信用していない」
「そんな」
「私も」
直義様は続けた。
「以前のようには、兄上を信じられん」
俺は何も言えない。
尊氏様と直義様。
前は、普通に兄弟だった。
尊氏様が勝手に恩賞を約束して。
直義様が怒って。
尊氏様が笑って。
直義様がため息をつく。
あれが、ずっと続くものだと思っていた。
◇
「直義様」
「何だ」
「兄弟って」
俺は少し迷った。
「一回揉めたら、戻れないんですか」
直義様の表情が変わった。
「場合による」
「尊氏様とは」
直義様は答えない。
代わりに聞いた。
「弥太郎」
「はい」
「お前は兄弟がいるか」
「います」
「喧嘩は」
「します」
「翌日には」
「だいたい普通に」
直義様が少しだけ笑った。
「羨ましいな」
その言い方が、ものすごく寂しかった。
俺は初めて、直義様をかわいそうだと思った。
◇
一方、尊氏様も元気ではなかった。
いや、人前では笑っている。
兵に声をかける。
部下を褒める。
怪我人を気遣う。
いつもの尊氏様。
でも、二人きりに近い時、急に黙ることが増えた。
ある日、俺が旗を届けると、尊氏様は一人だった。
「弥太郎」
「はい」
「直義に会ったか」
俺は少し驚く。
「はい」
「元気だったか」
「……元気ではないと思います」
尊氏様が苦笑する。
「そうか」
「尊氏様」
「うん」
「気になるなら会えばいいじゃないですか」
言ってから、またやった。
俺、最近偉い人に失礼なこと言いすぎでは。
でも、尊氏様は怒らなかった。
「会えば済むならな」
「済まないんですか」
「済まん」
「何で」
尊氏様は少し考える。
「会えば、互いに譲れと言う」
「はい」
「どちらも譲れん」
「はい」
「だから会うほど悪くなる」
俺は頭を抱えた。
「最悪ですね」
「そうだな」
尊氏様は笑った。
でも、すぐに笑顔が消えた。
「弥太郎」
「はい」
「俺は」
一拍。
「直義と戦いたいわけではない」
「分かります」
「でも」
俺は続きが分かる気がした。
尊氏様は言う。
「戦わなければ、俺が守れんものもある」
まただ。
誰も、好きで戦っているわけじゃない。
なのに、戦う。
◇
その夜、俺は孫七に言った。
「もう嫌です」
「何が」
「どっちも戦いたくないって言ってるのに戦うの」
孫七。
「戦なんてそんなもんだろ」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃない」
珍しく、孫七の声が低い。
「俺も」
「何です」
「昔、兄貴と揉めた」
「兄いるんですか」
「いた」
その一言で、俺は黙った。
孫七は続ける。
「土地のことだった」
「……はい」
「親父が死んで」
「はい」
「どっちが継ぐか」
孫七は火を見る。
「結局」
少し間。
「兄貴は死んだ」
俺は何も言えない。
「戦で?」
「ああ」
孫七は笑った。
いつもの笑い方。
でも、目は笑っていない。
「だから分かる」
「何が」
「兄弟だから分かり合えるってのは、嘘だ」
俺は聞く。
「じゃあ兄弟って何なんです」
孫七は少し考える。
「分からん」
それだけだった。
◇
数日後、また使者。
もう、驚かない。
「急報!」
俺は反射的に聞く。
「今度は誰が誰と」
使者が答える。
「直義様が」
嫌な予感。
「尊氏様と」
もっと嫌な予感。
「再び対立」
俺は目を閉じた。
「またですか」
使者。
「またというより、今度こそ本格的に」
俺は言った。
「前も十分本格的でしたよ」
でも、使者の顔は笑っていない。
「直義様は軍を集めている」
孫七。
「尊氏様も?」
「ああ」
六郎殿が来る。
「旗は」
俺。
「何種類です」
六郎殿。
「両方」
「分かりました」
俺はもう、驚かなかった。
驚けなくなっていた。
◇
旗を作る。
尊氏様。
直義様。
同じ足利。
似た紋。
似た兵。
似た鎧。
でも、敵。
俺は筆を止める。
「孫七」
「何だ」
「これ」
「うん」
「見分けつきます?」
孫七が見る。
「……近くなら」
「戦場で近くになった時はもう遅いですよね」
「そうだな」
俺はため息。
「同じ家で戦うの、やめてほしい」
六郎殿。
「家が同じだから戦うこともある」
俺は振り返る。
「どういう意味です」
「近いからこそ」
「はい」
「譲れないこともある」
また、分かるような。分からないような。
◇
戦が始まる。
俺は、尊氏様の陣。
昨日まで、直義様のところにも出入りしていた。
その俺が、今日は尊氏様側。
理由。
命令。
それだけ。
孫七が聞く。
「弥太郎」
「何です」
「直義様の兵、斬れるか」
俺は止まる。
「……分かりません」
「俺もだ」
珍しい。
孫七も迷っている。
六郎殿が前を見る。
「迷うな」
俺たちは見る。
「戦になったら」
六郎殿。
「迷った方が死ぬ」
怖い。
でも、正しい。
俺は旗を握る。
敵陣を見る。
あの中に、俺が顔を知っている人がいるかもしれない。
昨日、一緒に飯を食べた人。
旗を渡した人。
話した人。
それでも、今日は敵。
俺は思った。
これが、この時代の一番嫌なところだ。
◇
戦の後。
死者。
怪我人。
俺は座り込む。
孫七も。
しばらく、何も言わない。
そこへ、一人の兵が運ばれてくる。
俺は顔を見る。
知っている。
直義様の屋敷にいた人だ。
何度か話した。
名前は、思い出せない。
でも、知っている。
「弥太郎」
孫七が言う。
俺は返事をしない。
その兵は、動かない。
俺は思った。
名前も知らない。
でも、昨日まで生きていた。
こうやって人が、どんどん「昔の人」になっていく。
嫌だ。
◇
数日後、直義様が敗れた。
知らせは、驚くほど短かった。
「直義様、敗走」
それだけ。
歴史は、いつも短い。
でも、その裏には何千人もいる。
何千人分の恐怖。
判断。
逃げる人。
追う人。
死ぬ人。
俺は、もう
「どっちが勝った」
だけでは聞けなくなっていた。
「直義様は」
俺が聞く。
使者。
「生きている」
少し安心する。
でも、六郎殿は顔を曇らせる。
「終わらん」
俺。
「またですか」
「ああ」
「今度は何です」
六郎殿。
「直義様が生きている限り」
「はい」
「まだ争いは続く」
俺は目を閉じた。
◇
その夜、尊氏様の陣。
俺は偶然、尊氏様を見た。
一人、火を見ている。
声をかけるか迷う。
でも、尊氏様が先に気づいた。
「弥太郎」
「はい」
「直義は」
俺は止まる。
「生きているそうです」
尊氏様が頷く。
「そうか」
嬉しいのか。
残念なのか。
分からない顔。
俺は聞いた。
「尊氏様」
「うん」
「直義様が死んだら」
尊氏様の顔が変わる。
俺は言ってから後悔した。
でも、もう遅い。
「楽になりますか」
長い沈黙。
尊氏様は、火を見る。
そして、小さく言った。
「ならん」
それだけ。
「絶対にならん」
俺は、何も言えなかった。
◇
翌朝、また旗。
尊氏様方。
五十。
俺は塗る。
でも、筆が重い。
孫七が言う。
「弥太郎」
「何です」
「今日の味方、誰」
昔なら笑った。
今は、少し考える。
「尊氏様」
「明日は」
「分かりません」
「直義様は」
俺は手を止める。
「敵」
言葉にすると、ものすごく変だった。
直義様。
あの、帳簿を見ていた人。
握り飯を食べた人。
俺に、国には決まりが必要だと言った人。
その人が、敵。
俺は、もう一度筆を動かす。
赤。
白。
印。
同じ。
いつもの仕事。
でも、前とは違う。
俺は知ってしまった。
旗の向こうに、人がいる。
正しい人も。
間違っている人も。
その間の人も。
全部。
人。
だからら塗り替えるたび、少しずつ嫌になる。
◇
そして。
その知らせは、まだ来ていなかった。
直義様の、最後の知らせ。
それが届くのは、もう少し後。
その時、俺は、また一つ知っている人を、
歴史の中へ送ることになる。




