師直、死す
高師直殿は、嫌われていた。
これはたぶん、本人も知っていた。
直義様には嫌われている。
直義様に近い人たちにも嫌われている。
南朝方には当然嫌われている。
戦場で負かされた相手にも嫌われている。
強引だと言う者もいる。
傲慢だと言う者もいる。
怖いと言う者もいる。
俺も怖いと思う。
でも不思議なことに、師直殿の下で戦った兵たちは、
必ずしも師直殿を嫌っていなかった。
「師直殿なら勝たせてくれる」
「無駄死にはさせない」
「決めるのが早い」
そんな言葉を何度も聞いた。
だから俺は、ずっと分からなかった。
師直殿は、
悪い人なのか。
いい人なのか。
ある日、本人に聞いてみた。
◇
「師直殿」
「何だ」
俺は旗を運んでいた。
師直殿は馬に乗る準備をしていた。
最近、どこへ行っても戦の匂いがする。
「一つ聞いていいですか」
師直殿が俺を見る。
「お前の質問は大抵ろくでもない」
「ひどくないですか」
「事実だ」
否定できない。
俺は少し迷った。
でも聞いた。
「師直殿って」
「うん」
「自分が嫌われてるの知ってます?」
師直殿の手が止まった。
周囲の兵たちも止まった。
孫七が遠くで俺を見ている。
ものすごい顔をしている。
多分、
「お前死ぬぞ」
と言っている。
遅い。
もう聞いた。
師直殿は俺を見た。
しばらく。
そして、
「知っている」
と答えた。
「知ってるんですか」
「知らないと思ったか」
「少し」
「馬鹿にしているのか」
「違います!」
師直殿は鼻で笑った。
「好かれることが仕事ではない」
「じゃあ何が仕事です」
「勝つことだ」
即答。
やっぱりこの人らしい。
「でも」
俺は言う。
「嫌われすぎたら困りません?」
師直殿の目が少し変わった。
「困る」
「困るんだ」
「当たり前だ」
意外だった。
もっと、
「知らん」
と言うかと思った。
「なら、もう少し優しくしたら」
「お前は俺の母親か」
「違います」
「なら放っておけ」
「はい」
俺は引き下がる。
でも、師直殿が続けた。
「弥太郎」
「はい」
「優しくして勝てるなら、そうする」
俺は振り返る。
「できない?」
「ああ」
師直殿は馬へ手をかける。
「戦では、誰かに嫌われる命令を出さねばならん」
「はい」
「退け」
「はい」
「捨てろ」
「はい」
「ここで死ね」
俺は黙った。
師直殿。
「全員に好かれる大将など、たぶん全員を殺す」
その言葉は、妙に重かった。
◇
その日の夕方。
俺は孫七に言った。
「師直殿って、変な人ですね」
「お前が言うな」
「何でです」
「本人に『嫌われてますよね』って聞く奴の方が変だ」
「気になったんですよ」
「気になっても聞かない」
「そうですか」
「普通はな」
俺は握り飯を食べる。
孫七も食べる。
少しして、孫七が言った。
「でも」
「何です」
「俺は師直殿、嫌いじゃない」
俺は孫七を見る。
「そうなんですか」
「ああ」
「何で」
「分かりやすいから」
なるほど。
確かに。
師直殿は、裏で何を考えているか分からない怖さではない。
怒れば怒る。
嫌なら嫌と言う。
戦うなら戦う。
孫七みたいな人間には、合うのかもしれない。
「弥太郎は?」
俺は少し考えた。
「怖いです」
「それは知ってる」
「でも」
「でも?」
「嫌いじゃないです」
自分で言って、少し驚いた。
そうか。
俺、師直殿のこと、嫌いじゃなかったんだ。
◇
その頃情勢は、さらに悪くなっていた。
直義様の勢力が強まる。
南朝との連携。
各地の武士たち。
尊氏様側。
師直殿。
戦。
戦。
また戦。
俺は相関図を作るのを、とうとうやめた。
理由。
意味がないから。
孫七が言う。
「諦めたか」
「はい」
「早かったな」
「三回作って三回無駄になりました」
「学習したな」
「こういう学習したくなかったです」
その日も、使者が来た。
「急報!」
俺は聞く。
「誰が裏切りました?」
使者が固まった。
「……まだ何も言ってないぞ」
「最近そのどちらかなので」
「今回は違う」
「じゃあ何です」
使者は答えた。
「師直殿の軍が敗れた」
俺は止まった。
孫七も。
六郎殿の顔が変わる。
「どの程度だ」
「大きく」
六郎殿。
「師直殿は」
「退いておられます」
俺は少し安心した。
生きている。
でも、六郎殿は安心していなかった。
俺は聞いた。
「六郎殿?」
「何だ」
「大丈夫ですよね」
六郎殿は答えない。
また。
この沈黙。
嫌だ。
「六郎殿」
「分からん」
それだけ。
◇
翌日。
さらに知らせ。
師直殿と、兄の高師泰殿らが、
追い詰められている。
尊氏様と直義様の間では、話し合いも進んでいるという。
俺には、詳しいことまでは分からない。
ただ、一つだけ分かる。
師直殿の立場が、急速に悪くなっている。
昨日まで、あれほど大勢が師直殿の命令で動いていた。
今日その人たちが、少しずつ離れている。
俺はそれを見ていた。
人が集まる時は、少しずつ。
でも、離れる時は、早い。
怖いくらい早い。
◇
師直殿と会った。
結果として、それが最後になった。
いつもの師直殿とは、少し違った。
疲れている。
でも、顔は変わらない。
俺は旗を届けた。
「師直殿」
「何だ」
「これ」
「そこへ置け」
置く。
帰ろうとする。
でも、足が止まった。
「師直殿」
「まだ何かあるのか」
俺は迷った。
何を言えばいい。
「大丈夫ですか」
馬鹿みたいな質問。
師直殿は少し笑った。
「何が」
「……いろいろ」
「便利な言葉だな」
前に六郎殿が使っていた。
師直殿は旗を見る。
「弥太郎」
「はい」
「お前」
「はい」
「本当に旗屋になった方がいいぞ」
俺は顔をしかめた。
「またそれですか」
「ああ」
「まだ武士です」
「向いてない」
「そんなに?」
「戦場で考えすぎる」
ひどい。
でも、師直殿は続けた。
「それに」
「はい」
「旗は、人を殺さん」
俺は何も言えなかった。
師直殿がそんなことを言うとは思わなかった。
「師直殿」
「何だ」
「戦、嫌いなんですか」
師直殿は少しだけ黙った。
「好きな奴がいるのか?」
「孫七とか」
遠くから。
「聞こえてるぞ!」
孫七の声。
師直殿が笑った。
俺も笑った。
本当に。
普通に。
笑った。
それが最後だった。
◇
知らせが来たのは、その翌日だった。
「弥太郎」
六郎殿が俺を呼んだ。
声で分かった。
嫌な話だ。
「何です」
六郎殿は少し黙る。
「師直殿が死んだ」
分かっていた。
多分、六郎殿に呼ばれた瞬間。
でも、聞くと違う。
「……どうして」
「捕らえられた後」
六郎殿はそこまで言った。
詳しくは聞かなかった。
聞きたくなかった。
孫七が横にいる。
いつもなら、何か言う。
でも何も言わない。
俺は聞いた。
「師泰殿も?」
「ああ」
短い答え。
俺は旗を見る。
昨日届けたものと、同じ印。
師直殿の旗。
もう、必要ない。
◇
その日の午後。
俺は、師直方の旗を集めた。
何十本。
たくさんある。
少し前まで、あれほど必要だった。
今は、使えない。
孫七が一本持つ。
「どうする」
俺は答えられない。
六郎殿が言った。
「焼け」
俺は顔を上げる。
「焼くんですか」
「ああ」
「全部?」
「ああ」
俺は嫌だった。
理由は分からない。
ただ、嫌だった。
でも、旗は、そのままにはしておけない。
俺たちは火を作った。
一本入れる。
布に火が移る。
師直殿の印が、少しずつ黒くなる。
俺は見ていた。
孫七も。
誰も話さない。
炎の中では。
尊氏方も。
直義方も。
南朝も。
北朝も。
最後には、全部同じ色になる。
黒。
俺は思った。
最初から全部この色だったら、楽だったのに。
もちろん、そんなことはない。
◇
「弥太郎」
孫七が言う。
「何です」
「師直殿」
「はい」
「悪い人だったのかな」
俺は火を見る。
「分かりません」
「分からない?」
「はい」
昔なら答えを探した。
正しい人。
間違っている人。
味方。
敵。
でも、もう簡単には分けられない。
「怖かった」
「うん」
「強引だった」
「うん」
「直義様と揉めた」
「うん」
「でも、兵を生かそうともしてた」
「うん」
「俺たちにも普通に話した」
孫七。
「うん」
俺は言った。
「だから分かりません」
孫七が少し笑う。
「それでいいんじゃないか」
「そうですかね」
「人間なんてそんなもんだろ」
珍しく孫七がまともなことを言った。
「孫七」
「何だ」
「たまにいいこと言いますね」
「たまにを付けるな」
俺たちは少し笑った。
◇
翌朝、また使者。
世界は止まらない。
師直殿が死んでも。
「弥太郎!」
「はい」
「旗を!」
俺は一瞬だけ、嫌になった。
「誰のです」
「直義様!」
答えを聞いた瞬間、胸の中に、妙なものが生まれた。
怒りではない。
直義様が師直殿を直接殺したわけでもない。
でも、昨日まで師直殿の旗を作っていた。
今日からは、その敵だった直義様の旗を作る。
これが、仕事。
これが、時代。
俺は筆を持った。
「何本です」
「五十」
「いつまで」
「明朝」
俺はいつものように言いかけた。
割増になります。
でも、言えなかった。
使者が不思議そうに見る。
「どうした」
「いえ」
俺は布を広げる。
「やります」
◇
夜、一人で旗を塗る。
筆の音。
布。
染料。
静か。
俺は思う。
歴史の本には、たぶんこう書かれる。
高師直。
敗北。
死。
数行。
もしかしたら、もっと短い。
でも、俺にとっては怖い人だった。
結果を出す人だった。
直義様と絶対に合わない人だった。
兵を生かそうとする人だった。
俺に旗屋になれと言った人だった。
昨日、笑った人だった。
それでいい。
俺は筆を置いた。
窓の外を見る。
空は暗い。
明日になれば、また新しい旗が上がる。
そして、高師直のいなくなった足利家が、
これで一つに戻る。
そう思うだろう。
普通なら。
俺も少しだけ、そう思った。
でもこの時代は、そんなに親切ではない。
師直殿がいなくなっても尊氏様と直義様の争いは、終わらなかった。
むしろ、次に戦うのは本当の意味で、兄と弟だった。




