第8話「ゴミ拾い、小さな声を拾う」
最初の声が聞こえてから、俺はしばらく動けなかった。
鉄べらを握ったまま、ダンジョン入口の黒い通路を見つめる。
外は朝の光で明るいのに、入口の奥だけは別の場所みたいに暗かった。
聞き間違いかもしれない。
そう思いかけた時、奥からもう一度、細い声が落ちてきた。
「……誰か、助けて」
今度ははっきり聞こえた。
俺は息をのむ。
清掃依頼票に書かれている範囲は、入口付近だけだ。
俺は冒険者ではない。レベル0の清掃員だ。中へ入って魔物に遭えば、それだけで終わる。
本当なら、すぐギルドへ走って誰かを呼ぶべきだった。
「誰かいるのか!」
入口から声を張る。
返事はない。
ただ、石床の奥で、ずずずっ――と何かを引きずる音がした。
そのあと掠れた声がまた聞こえた。
「お⋯⋯願い……こっち……」
近い。
おそらく入口から少し入った通路だろう。
だが、だんだん声が遠のいている気がする。
俺は後ろを振り返った。
入口前の広場には荷車が数台置かれているだけで、冒険者たちは誰もいない。
このダンジョンは、入口に門番が立っているわけではない。
浅い範囲なら誰でも入れる。
だからこそ、こういう時に助けを呼びにくい。
街まで呼びに戻れば、誰かを連れて来られるかもしれない。
だが、それまでに大丈夫な保証はなかった。
「行くしかない……浅瀬なら⋯⋯見るだけだ。もし助けられそうなら助ける。無理なら、場所を見たらすぐ戻る」
自分に言い聞かせた。
ここには例の壊れた鞘こそあるが、僕は清掃員なので武器と言えるものは持っていない。
あるのは採取用のナイフくらいだ。
それでも、何も持たないよりはましだった。
俺は入口の境目を越えた。
冷たい空気が肌に触れる。
周囲の音が背中で遠ざかり、水滴の落ちる音と自分の足音だけがやけに大きく響いた。
通路の端に、割れた木片のようなものが落ちている。
その先には、床を引きずった跡。
壁には鋭利なもので引っかいたような傷があった。
「どこだ……?」
声を抑えて慎重に進んでいくと、その奥で誰かが倒れていた。
革製の軽鎧の上に、魔術師用の短い外套を羽織った女の子だ。
俺より少し年下に見える。
淡い白色の髪が肩からこぼれ、片側だけ細く編み込まれている。その編み込みには小さな魔石の飾りが結ばれていたが、今は土と血で汚れていた。
腰の横には細い杖が折れて落ちている。
その先端からは、消えかけの赤い光がかすかに漏れていた。
より白くなった頬には泥が跳ね、長い睫毛は汗で濡れている。
それでも、苦しげに顔を上げた時の淡い青の瞳だけは妙に目に残った。
首元を押さえた指の隙間から血が滲んでいる。
左膝もひどくやられているらしく、足を動かそうとするたびに体が小さく震えた。
かなりの血が流れている。
このまま放っておける状態じゃない。
「大丈夫か!」
駆け寄ろうとした瞬間、女の子が顔を上げる。
「あ⋯⋯だめ……」
通路の奥で、低い唸り声が響いた。
俺は足を止める。
暗がりの中に黄色い目が2つ浮かんでいた。
最初は壁の影が動いたのかと思った。
だが違う。
奥から現れたのは、巨大な猪のような魔物だった。
俺の知っている浅層の小型魔物とは、まるで大きさが違う。
肩の高さだけでも俺の胸近くまであり、太い首の奥から低い唸り声を漏らしている。
背中には針みたいな毛がびっしりと逆立ち、裂けるほど大きく開いた口から黒い涎が糸を引いていた。
前脚の爪が石床を擦るたび、ガリガリと嫌な音が鳴る。
「あ、あなた、冒険者じゃ⋯⋯ない?――逃げ⋯⋯て……」
女の子の声が震えた。
だが、もう逃げるには遅いことくらいわかる。
巨大な猪のような魔物の注意が、完全に自分に向いているのだから。
今さら彼女を置いて逃げたとしても、もう二人とも助からない。
俺は震える手で《廃品収納》から壊れた鞘を取り出した。
もちろん、剣はない。
あるのは誰かが失敗して捨てた3つの壊れた術式だけだ。
風の残りで前へ押す。
火の残りで勢いを足す。
最後に、欠けた斬撃をその先へ乗せる。
昨日、ようやく分かりかけた順番を思い出す。
鞘に入れようとしたとき――
――低く身を沈めた針毛の魔物が、一度大きく口を開けた。
次の瞬間、魔物が床を蹴っていた。




