第9話「ゴミ拾い、発動に賭ける」
魔物がすごい速さで突進してきた。
――逃げろ。
頭の奥で叫ぶ声がした。
だが、俺の後ろには首と足から血を流している女の子がいる。
いったい俺は何をしにここに来たんだ。
「くそっ……!」
倒れている彼女を抱えると、通路脇へ向けて思い切り転がった。
その横を大型の魔物が突き抜けて通路の奥へ行く。
――今しかない!
鞘の中に3つの『残式』を順番に入れる。
風の《疾風・残具》で前へ押す。
火の《暴炎・誤式》で勢いを足す。
最後に、斬撃の《断斬・欠技》をその先へ乗せる。
ただ混ぜるだけじゃない。
順番を間違えれば散る。
向きを外せば暴れる。
焦れば3つの残式はただの失敗に戻る。
通路の奥で方向を変えた魔物が、また近づいてくる――が、なぜかゆっくり歩いてくる。
――何だこいつは。もしかして遊ばれているのか?
口を大きく開けて吠えた。
腐った肉みたいな臭いが鼻を刺す。
魔物の目が嗤った気がした。
「あれ……中層の魔物、針猪獣……勝てない……」
彼女の声が震えた。
――中層の魔物。
その言葉だけで、俺にも相手の強さは分かった。
本来なら、入口付近にいていい魔物じゃないということだ。
そして、レベル0のただの清掃員が向き合う相手でもない。
だが、やるしかない。
『残式』がまだ手元に残っているということは、昨日の放出した木片を吹き飛ばしたスキルは「失敗」だったということ。
――術式は効果を発揮しない限り消えない。
つまり、成功すればもっと威力が出る可能性があるということ。
それに賭けるしかない。
俺は鞘口を敵に向ける。
「――出ろ!」
鞘の奥で3つの残式がぶつかり、細い光が走った。
それはまだ『奥義』と呼べるような形ではない。
鞘の先から噴き出したのは、熱を帯びた歪んだ突風。
その中に、途中で欠けた斬撃が混じっていた。
また『成功』ではない。
だが、ただの不発でもなかったようだ。
その歪んだ一撃は針猪獣の開いた口へ突っ込んだ。
ギャリリリ――、と嫌な音が鳴る。
敵の牙が1本折れ、裂けた口の端から黒い血が飛んだ。
「ぐっ……!」
だが、こちらへの突進の勢いまでは止めきれなかった。
巨体が俺の体を掠り、それだけで吹き飛ばされる。
背中から壁へ叩きつけられた。
壊れた鞘が手から離れかける。
俺は指に力を込め、どうにか握り直した。
息がうまくできない。
体全体にも激痛が走っている。
だが、まだ動かせる――!
針猪獣は口元から血を垂らしながら、爪で地面を掻いている。
ただ、開いた口の片側がうまく閉じないらしく、さっきより呼吸が荒い。
「今の……鞘から……魔道具……?」
彼女が呆然とつぶやいた。
「そんな感じのもの⋯⋯だな」
答えながら、視界の奥に浮かんだ文字を見る。
―――――
【スキルツリー】
■《廃式奥義》
・構成残式
《疾風・残具》
《暴炎・誤式》
《断斬・欠技》
・残式消耗度⋯⋯56%(部分発動)
・成功率⋯⋯36%
・補助器
▶壊れた鞘
・銘……一部判読
《廃式・疾――》
―――――
「部分発動……?」
『銘』が一部だけ見えるようになっている。
ただ、3つの残式はさっきより色が薄くなっていた。
完全に消えてはいないが、残式が大きく消耗したのが分かった。
何度もこんな撃ち方をすれば、成功する前に残式の方が消えてなくなるのは当たり前だろう。
「⋯⋯立てるか?」
「足が……ごめんなさい、無理……です」
彼女は唇を噛んだ。
肩を貸して走るには、魔物が近すぎる。
このまま背を向ければ、俺たちはまとめて噛まれる。
針猪獣が低く唸った。
怒っている。
今度はまっすぐ来ない。
壁へ身を寄せ、裂けた口をこちらへ向けたまま、じりじりと横へずれている。
さっきの一撃で口元を傷つけた。
なら、こちらとしては狙う場所はそこしかない。
「少しだけ下がれる?」
「あ、あなた……いつも、入口を掃除してる人……ですよね……?」
「そうだ」
俺は壊れた鞘を握り直した。
「声が聞こえたんだ。だから来た」
その瞬間、魔物が壁を蹴った。
斜めから飛び込んでくる。
目では追い切れない。
だが、血が滴る口元だけは見えた。
俺はもう一度、『残式』を鞘へ流す。
前へ押す力――風を先に通す。
暴れる熱――炎をその流れに乗せる。
最後に途切れた斬技を通して――針猪獣の口元の傷へ向けた。
押し込む量を増やしすぎるな。
鞘の中の溝から外すな。
全部を成功させようとするな。
今必要なのは、倒すことじゃない。
――逃げる時間を作ることだ。
「いけ――!」
鞘の先から先ほどよりも鋭い斬撃を伴った熱線が走る。
狙いだけは外さなかった。
それは魔物の裂けた口元へ入り、内側で爆ぜる。
針猪獣が歪な悲鳴を上げた。
巨体が壁へぶつかり、針毛が石を削る。
視界の端にまた文字が浮かんできた。
―――――
【スキルツリー】
■《廃式奥義》
・構成残式
《疾風・残具》
《暴炎・誤式》
《断斬・欠技》
・残式消耗度⋯⋯78%(部分発動)
・成功率⋯⋯46%
・補助器
▶壊れた鞘
・銘……一部判読
▶《廃式・疾焔――》
―――――
「今だ!」
俺は彼女の腕を自分の肩に回した。
体がとても軽い。
だが、足を引きずる彼女を支えようとすると、思ったようには進めなかった。
背後で爪が地面を掻く。
魔物はまだ死んでいない。
痛みで暴れているだけだ。
「ごめん……私のせいで……」
「謝るのは後だ。早くここから逃げるぞ!」
通路の角を曲がる。
入口まではそう離れていない。
壁の上で丸い定点実況カメラがかすかに光っていた。
ここからだと壁の陰が多い。
たぶん、俺が何を撃ったかまでは映っていないだろう。
だが、彼女を支えて逃げている姿くらいは見えたかもしれない。
ようやく外の光が見えてきた。
ーー入口だ。
俺は最後の力を振り絞り、倒れかけた彼女の体を抱え上げた。もうなりふり構っている余裕はなく、膝の裏と背中に腕を回し、そのままお姫様抱っこで走る。
背後から低い唸り声が追ってきた。
腕の中で彼女が小さく息を詰める。
魔術師用の短い外套が風で巻き込まれる。
「……すみ、ません」
「喋らなくていい、⋯⋯舌噛むぞ!」
彼女は小さく頷き、震える指で俺の服を掴んだ。
その拍子に、柔らかい感触が胸元へ押し当たる。
一瞬だけ足が乱れかけたが、背後で爪が石床を掻く音がして、余計なことを考える暇はすぐ消えた。
抱きかかえているせいで距離が近い。
だが、今はそんなことより急げ。
歯を食いしばり、入口へ向かってさらに足を速める。
入口の定点実況カメラが青白く光っているのが見えた。
同時にその向こうで誰かが俺たちを見ていることも、何となく分かった。




