第36話「ゴミ拾い、鈴を調べる」
潰れた小さな鈴を前に、女性職員はすぐには答えなかった。
入口広場では封鎖の縄が張られ、討伐班の怒鳴り声がダンジョンの奥から響いている。その騒がしさの中で、俺の手のひらにある黒ずんだ鈴だけが重く感じた。
「魔物避けの鈴って壊れると危ないものなのか?」
「普通に壊れただけなら、音が出なくなるだけです。ですが、壊れ方が悪いと、本来とは違う鳴り方を残すことがあります」
女性職員は鈴に触れないまま眉を寄せた。
「魔物避けの鈴は人にはほとんど聞こえない音で魔物を遠ざけます。本来なら魔物はその音を嫌がって離れるはずです」
「でも、これは遠ざける音じゃない」
音は聞こえないが俺には分かった。
鈴の周りには歪んだ音の残りが薄く絡みついているのが見える。
「この鈴、ただ止まったんじゃない。壊れたまま、嫌な形で残ってる」
女性職員の目が細くなる。
「……近くに魔物の群れがいれば、この鈴が原因で混乱が広がる可能性はあります。特に《石毛鼠》のように数で動く魔物は影響を受けやすいと思います」
セラが杖を抱える手に力を入れた。
「だから、あの《石毛鼠》たちは火を怖がっても奥へ戻らなかったんでしょうか」
「可能性はあります。ただ、この鈴だけで断定はできませんが……」
俺は鈴を指先で押した。
歪んだ金具の隙間には泥と焦げが詰まり、見た目だけならただの壊れたゴミにしか見えない。
だが、《分別》の感覚がそこで引っかかっている。
「職業レベルが上がったからか、おかしいことは分かる。前ならただの壊れた鈴として片づけてた」
女性職員は近くの若い職員を呼び止めた。
「魔道具の確認係を呼んでください。浅瀬用の支給品記録もお願いします」
「はい!」
若い職員が走っていく。
俺はもう一度ダンジョン入口を見た。
鈴が原因の一つだとしても、それだけであの数が入口側まで押し出されるだろうか。
火を嫌がっているのに戻らない。
入口近くの壁穴にまで逃げてきている。
まるで奥から何かに追われているようだった。
「ルーカさん」
セラが小さく呼んだ。
「前に私が浅瀬で襲われたときと少し似ていました」
声が震えている。
それでもセラはちゃんと言おうとしていた。
「あのときも弱い魔物が急に別の方向へ逃げていったんです。自分より強いものが来た……みたいに」
「言ってくれて助かる。俺だけだと鈴のことばかり見てた」
セラはほっとしたように小さく頷いたが、杖を握る指はまだ硬いままだった。
魔道具の確認係が駆けてきたのはそのすぐ後だった。
細い眼鏡をかけた中年の職員で、手袋をはめてから潰れた鈴を布の上に置く。
「これがギルドの支給品ですね。浅瀬用の魔物避け鈴です。ただ……潰れ方がおかしい」
「おかしい?」
「工具の跡でも刃物の跡でもありません。外から一気に押し潰されています。噛み潰されたか、踏み潰されたか……」
「魔物……か?」
「可能性は高いです。《石毛鼠》の牙では無理でしょう。この鈴は低ランク向けとはいえ魔道具ですからね」
確認係は鈴の割れ目から、黒っぽい硬毛を一本つまみ上げた。
「それとこれです」
「……何かの毛?」
「これは《石毛鼠》の硬毛よりかなり太いです。毛というより針に近いですね」
セラの顔から血の気が引いた。
杖を抱えていた指がぎゅっと柄に食い込む。
薄い碧色の外套の端が小さく揺れ、セラは一度だけ浅く息を吸った。
「……《針猪獣》」
その名前を口にした声はいつものセラよりずっと細かった。
「この前、セラを襲った魔物か」
ギルドの確認係が言う。
「浅瀬にいるはずがない魔物ですが、この落ちていた針毛からは《針猪獣》と判断できます」
セラは鈴ではなく、つまみ上げられた硬毛を見ていた。
目を逸らしたそうなのに逸らせないような顔だった。
「でも……あのときの《針猪獣》は《銀嶺》のリオーネさんが倒してくれました。これはあそこで見た針毛より……もっと太い気がします」
「太い?」
「はい。私を襲った《針猪獣》より、もっと重くて硬そうに見えます」
ギルド職員たちの表情がさらに険しくなった。
「もしそうなら、ただの《針猪獣》ではない可能性があります。少なくとも、この鈴を押し潰せるだけの牙か体重を持つ魔物が奥にいたと考えるべきです」
きっかけはこの鈴だったのかもしれない。
壊れた鈴の乱れた音で《石毛鼠》は落ち着きを失った。
さらに奥にはセラを一度殺しかけた《針猪獣》よりも重い針を持つ何かがいる。
火を怖がっても奥へ戻れない。
だから群れは入口側へ押し出されてきた。
考えがそこまで繋がったところで、入口側から討伐班の一人が戻ってきた。
槍の先には硬い体毛が絡み、防具には浅い噛み跡が残っている。
「浅瀬第一通路、《石毛鼠》の数が多すぎる! 奥からまだ出てくるぞ!」
「負傷者は?」
「軽傷が2人。だが、それより奇妙なものを見た。鼠どもが奥を怖がってる。俺たちの方が近いのに、奥で重い音がするたびにこっちへ跳ねるんだ。あの先に何かいる」
セラの指が杖の柄をぎゅっと握った。
そのとき、入口詰所の職員が薄い板状の魔道具を抱えて駆けてきた。
「3番定点、《小型実況盤》に出します!」
職員が板の縁に指を当てると、表面に浅瀬第一通路の薄暗い映像が浮かび上がった。
画面の端では俺たちが立てた《赤標旗》が揺れている。
その近くに人影が映った。
「おい、あれ……冒険者じゃないか?」
見覚えのある大柄な男だった。
朝、ギルドでセラをからかい、俺たちを笑っていた冒険者の一人だ。
男は通路の脇で膝をつき、片足を押さえている。
封鎖の補助に入ったのか、討伐班についていったのかは分からない。
だが、《赤標旗》の近くで動けなくなっているのは確かだった。
周りには《石毛鼠》の赤い目が集まり始めている。
女性職員が叫ぶ。
「討伐班、救助に回れますか!」
「無理だ! 柵前の群れを押さえるので手いっぱいだ。あそこまで今すぐ抜けられん!」
《小型実況盤》の中で男が何かを叫んでいる。
こちらに声は届かないが、片手を入口側へ伸ばす仕草だけで助けを求めているのは分かった。
ギルドで俺たちを笑っていた男。
ゴミ同士と呼んだ連中の一人。
その男が今、浅瀬の通路で動けなくなっている。
「ルーカさん……」
俺は熱が少し残る鞘を握った。まだ手首は痺れている。
もう一度入るのは無茶だと自分でも分かっている。
だが、画面の中で男のすぐ横に俺たちが立てた《赤標旗》が見えた。
あの場所なら、壁穴の位置も崩れた石の場所も入口へ戻る道も覚えている。
「……あそこなら道が分かる」
「行くんですか?」
「助けに行けるとは言わない。だが、邪魔なものを拾って戻る道を空けるくらいならできる」
俺は《小型実況盤》の中で倒れている男を見た。
落ちているものだけが拾うものじゃない。
取り残された声まで見えてしまったら、見ないふりはできなかった。
俺は女性職員へ向き直る。
「あの近くなら片づけられる。戻る道だけ作らせてくれ。……それも駄目か?」
女性職員は一瞬だけ言葉を失った。
その間にも《小型実況盤》の中で赤い目がまた一つ増えた。




