雅
再投稿です。重要な箇所を追加しました
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10時5分。あたしは『特に変わったことはないわ』と偽りを綴ってスマホを仕舞った。偽りといっても騙す意図はない、不慣れな環境で忸怩ってしまった刃がさらに気を配らねばならない事項を増やさぬよう、仮置きをしたまでである。
この行いも、いずれ報告を終えれば伝播するのだから──あたしはビルとビルが成す日の当たらない路地裏へと入る。
あたしは片手に一輪の花を摘んでいる。暑さに助長されたこの路地裏の悪臭を打ち消すように、馨しい香りを顔の間近に寄せた。
「不安ね、朝から昼まで、躓いては躓いて。……でも仕方がないわ。あなたが触れているのは、為霊者にとっては見えているだけの平行世界のようなもの」
あたしは通勤中の歩行者のような足取りで──逃げ惑う為霊者の男を追っていた。
「あたしたちの本分は……こっち」
「く……くるな、組織の犬が!! ワタシは自由なのだ! ただ天賦の才を賜っただけで、人類のために尽くしてやる了見などない!」
男は転んだ。彼の服装は赤一色のクルタだった。頭皮にも、眉にも、口元にも深い毛を生やして、ありもしない権威を顕示しているのかもしれない。ただし発した言葉は下賤だ、あたしはそのすべてをひっくるめて「いいえ」と真っ向から否定して、さらに男に迫る。男は立ち直し、死に物狂いで逃げた。
彼は一般人に不可視な為霊者の異能を、一般人を従わせる目的で使役した。あたしがある廃墟ビルの中を散策していると、怖じ気づいた複数人に頭を垂れさせる彼を目撃したのだ。
彼はその一般人にこう呼びかけていた、「我という神の使徒よ」。
「──あたしたちは神ではないわ。私欲を満たすために力を授かった不平等の象徴でもない」
ガン、とあたしは瞬間的に移動し男の横手にある換気扇の上に足を乗せた。どこからともなく先回りされた男は愕然として、疾走にブレーキをかけた。
あたしは蔑視のまま──男の顔面を蹴った。
「ぐはぁっ!」
後方のゴミ箱に男は突っ込む。あたしは換気扇を降りて近づいた。
「お誂え向きよ、とても」
「──チッ、愚かな傀儡が! 貴様はわかっておらん! 為霊者の性質を踏まえれば、ワタシのように一般人を恐怖させ、従わせることがいかに合理的かを! これは生存戦略だ! 一般人はワタシの餌を製造する供物にすぎない!」
言いながら、男は両手をバッと広げた。──その背後に、地獄の番犬を連想させる外見の怪物が現れる。巨大だ、路地裏の壁に四肢を這わせなければいけないほどに。
「……相違ないわ。あなた、組織の未解決任務で指名手配されていた人物よ。ここで拾えるなんて僥倖ね」
男の等身大を撮れるうちに、無言でスマホのカメラに収める。彼は追い詰められて正気ではないのだろう、焦点の定まらない目をして、さして気にする様子もなかった。
「──そうだ! そうだ今から、貴様をここの壁に磔にする! 身ぐるみをはいで、貴様の命が続く限り毎日暴力と恥辱を与えるのだ! それを、置いてきてしまった信徒たちにも見せよう! 組織めに見せしめにしてみるのもどうだ? 一石二鳥ではないか!」
悪者たらしい、男の笑顔だった。こういった奴と出くわすのは食傷であった。
「約三年前。あなたよりも高尚な考えで、あなたよりも残酷なことをした連続殺人犯がいたの」
「あぁ……知っているぞ。それがどうした、ワタシは殺人犯ほど甘くはない! 死にたくても死なせてやらんぞ!」
「その為霊者も、"恒久的な恐怖機構"を掲げて、自らを神と自称していたわ」
「何が言いたい! 時間稼ぎか?」
「……思い出した、というだけの話よ」
あたしは、手首をくるりと、花を相手に差し出すように動かす。
「この花はね、甘いの」
「──ガハハハッ! 捕らえるのだ、【煉獄犬】よ!」
「でも……匂いだけ」
建物の外壁を壊す勢いで、番犬が肉薄してきた。
あたしの花は、その瞬間に肥大化する。──番犬の口よりも遥かに大きく開き、番犬の牙よりも遥かに鋭利な歯を剝いて、番犬の三つ首よりも遥かに多量の首で──迎え撃った。
番犬はひとたまりもなかった。肥大化した花のそれぞれが意志を持って齧り付き、高速で身をえぐるのだ。
男は二度目の愕然を晒した。今度は、顔面を蒼白にして。
「ワタシの……獄犬が、……」
「悲観は束の間で終わらせてあげる。けれど、最後にあたしの言いたいことを押し付けるわ」
番犬が無惨にも食い殺されるのをただ強張って傍観することしかできず、男は地面にひざまずく。あたしはしゃがんで、塞がらないその口に──花を差し込んだ。
「あたしたちはね……無謀に死ぬのが嫌で、生きるために生きるだけの生き物よ。ほんとうは、一般人と同じように、弱ければよかった」
「そ、そんなはずはない……ワタシはこの力を使い新世界の神に──」
「花が怒るわよ」
次の瞬間、男の口内の花が膨張し──耳をつんざくような高い叫び声で、彼を突き破った。
男の顔は跡形もなく消し飛ぶ。それさえも許さず、自律した花がすぐさま残る身を喰らいはじめた。
「為霊者は自由とは無縁なの。……彼女を除いて」
あたしは立ち上がって、スマホを操作した。組織が設けているウェブサイトの投稿欄に、先程撮った画像と補足説明を載せた。
『From:東京支部所属一ノ瀬みやび
場所:新宿歌舞伎町1丁目東宝ビル付近
為霊者組織の規定に基づき追跡対象となっていた澤乃井賢治57歳を発見及び殺処分。同任務において保護対象に指定されていた一般人の大人子供計4人を併せて発見。前者の死体はなく、後者は心傷保健班に連絡済。解決済として東京支部から上層部への通達を求める』
入り組んだ路地裏を抜けあたしは旭光を浴びた。地面には捨てられたゴミが無法に散乱していてどこか鼻が嫌がる臭いもあるけれど、路地裏よりかは幾分かマシだった。
その足で、澤乃井賢治が拠り所としていた建物へと赴く。
あたしは建物の内部に入り、5階のドアを開ける。心傷保健班の到着まで──この人たちを保護するのもあたしの努めだ。
監禁され、余程杜撰に扱われていたのだろう。保護対象の4人とも、部屋の隅で竦然と身を寄せあっていた。だが……来訪者があたしだと知って、僅かに震えを治める。
「若い人……もしかして、教祖様から僕たちを救ってくれたのか……?」
若く気力があるためか、一人の男が先導して言う。けれどその姿だって、痩せこけていることにかわりなかった。
あたしの愛想で足りるだろうか、それでもあたしは当たり障りのない、慈しみの微笑を湛えた。
「もう大丈夫よ。それと、あの男は教祖じゃないわ。……視えない脅威に晒されているのに、対処が遅ればせになってごめんなさい。警察に通報しておいたわ」
「あなたが……警察ではないか?」
「あぁ……この服装は……お仕事で使う隊服なのよ」
4人は現状を飲み込めていないようだが、助かったという事実に現実感を得たためか涙しはじめた。近くに歩み寄り、あたしは全員の頭を撫でる。太陽が正午の高さに昇るまで、精神の傷を掘り起さない範囲で話を聞き続けた。




