面詰
数学において私と寧々のクラスの振り分けがベータであることは、受験生なのに弛緩していないかと指摘されればぐうの音も出ない欠点であるが、3年5組の教室のドア前に着いた今に限っては、遅刻度合いを御の字にしてくれる利点でもあった。
ベータにクラス移動はない。どちらにしろ、担当の菅谷先生のお怒りは免れないけれど。
「釈明はあるか?」
私たちは窓際の隣り合う座席でいつになく背筋をピンと伸ばしていた。黒板上に立てかけられた時計盤の9時00分の秒針を読む。
寧々が先手を打った。「菅谷先生ごめーん、遅れちゃった」とテヘペロ。
「遅刻ならいいだろう、と思ってるツラだな──萌々魑」
「先生ニヤけてら。寧々がかわいくてヘイト向けられなかったんだ」
「お前だけ遅刻か」
「ごめんなさい」
「まったく……転校生の子も初日だというのにまだ来てないのか……」
出席簿を見て頭を掻く先生に、クラス中がざわめきだした。転校生、というワードは耳寄りの情報だろう。
唯織刃はやはり教員の誰かしらに呼ばれていたようで、私と寧々が正面玄関の下駄箱に靴をぶち込んだとき彼だけ真っ先に職員室を目指していったのだ。
「まあ今回は甘く見てやろう。──お前らも、転校生が来て騒ぎ立てたりするなよ。……恐らく1時間目に来れるはずなんだがな」
生徒たちの興奮覚めやらぬ中、菅谷先生は毅然と授業を再開した。白いチョークで板書の音が鳴る。
こと数学には身が乗らない。私はノートと教科書のテキトーな項目を開いて、頬杖をつき、左の蒼空を眺めた。
(目がぽわぽわ。まだ頭痛いし……)
ぐで、と机に倒れ伏す。生活体系が悪さしているのだろうが、体調が万全という日はそう多くない。そんな私に寧々が「ねえねえ今日のニュース見た?」と私語をもちかけてきた。
「見てなーい。教えてちょ」
「オカルトの話に限らず時事ネタ全般無理じゃん……あ、でもあれは確か三年くらい前だから……。亜依ってあんまり中学生のときのこと覚えてないって話してたよね」
「うん、皆無」
「ある意味それって羨ましいかも。三年前のこのくらいの時期はね、みんな連続殺人犯が怖いって話でもちきりだったの。有名な女優さんが起こした事件で、東京は不要不急の外出を制限されてたレベルだったんだよ? 当時の経験を語る、みたいなニュース番組のコーナーで今日それが取り上げられてた──っていう話」
寧々は自身の両肩を抱いて小動物よろしく小刻みに震えた。
「そんな怖かったんだ」
朝の『滓』の出現に思い至る。
(だからあそこに『滓』が出た的な? もしうちの学校に負の感情の持ち主がいたら……って思ったりしてたけど、メンケアでなんとかなるタイプじゃなさそう)
こびりついた恐怖は拭いようがない。諦念してペン回しをした私──の後ろの席で、ドサッとバッグを置くような音がした。
目だけでそちらを見る。唯織刃が帰ってきていた。
クラスの皆もその登場に気がつき、口々に囃し立てる。
そんな中、彼は──
「先生、俺ってここの──那須愛瑠さんの席の後ろでいいですか?」
は?
私は硬直した。言った本人なのに、刃もまた口を滑らせたとばかりに手で口を塞いでいた。
「ん……? ──ようやく来たか。そこにいるのは萌々魑だが……お前の席は廊下側だぞ唯織刃」
「やべ、俺としたことが。萌々魑さんって言うんだこの子、あはは……」
「──おい唯織刃」
あっけらかんとする刃。私は彼を静かに睨めつけた。
「萌々魑亜依──な。間違えんな」
「ぜんぜん違う人の名前言っちゃった……亜依ちゃん、俺、思い浮かんだことすぐ口にしちゃうんだよ……! ごめん!」
白々しいにも程がある。手を合わせて神に祈るが如く平謝りしているが……許すまじ。
アンチの所業か、はたまたそれよりも危うい存在の謀略か。
今でこそ席が離れてしまっているが、コイツはあとで問いただす必要がありそうだった。
9:15『口が滑って那須愛瑠に目をつけられた……どうしよう動悸が止まらない、一ノ瀬どうすればいいかな。危機的状況に陥った』9:28『悪い、普通に考えてそこまで暇じゃないよな……』
◇
──9時42分。
学校の1階と2階を繋ぐ階段の踊り場にて耳にスマホを当てている俺は、馬鹿だ。愛瑠……ではなく亜依から逃げるようにここに来て頭を押さえつついる。
為霊者の家系に生まれて学校に通った経験がないから教養的に馬鹿だ、という筋の話ではなくて、どちらかといえば圧倒的に場馴れしていなくて愚直なのだ。
組織の大義を預かった身でありながらこのザマである。コール先の──相澤幹也にどう顔向けしたらいいだろうか。
『もしもし。東京支部の相澤です』
「あ──もしもし相澤さん。今ちょっとまずいことになってさ……」
よく耳に馴染んだ気怠げな低い声が安心をもたらしてくれる。それだけで呼吸が整えられた気がした。
『唯織か。つつがない状況ではないのは一ノ瀬から言伝に聞いている』
「聞いているであろう内容より一回り逼迫した状況になっちゃったんだ。誤って本人もいる教室の面前で那須愛瑠って名前を口にして本人に面詰されそうだよ……」
幹也が溜め息をついた。呆れられてしまうのは承知の上である。
『……現場で叱責することに意味はない。お前には実績に裏打ちされた信頼がある。だから単刀直入に言うぞ。──問い詰められても、口は割るな。それだけだ』
「了解。上手く誤魔化すな」
『那須愛瑠の能力情報を引き出すのなんかは二の次でいい、どうせお前と一ノ瀬は強いんだ』
「ありがとう、相澤さん。……なあ、やっぱりそれでも、今夜あたる人員を増やしたりはできないか?」
『すまない。一ノ瀬にも伝えてあるが、元よりこれは組織内での意見がわれた中で押し通した任務なんだ。他のやつを動員すればそいつらとの軋轢で那須愛瑠の捕獲どころではなくなるかもしれない』
(穏便派の俺でさえ、那須愛瑠に思い入れができないようにってあえて任務当日の入校にされたんだもんな)
中立に寄せるための組織の選択。ならば、俺もちょっとばかりの躓きでめげている場合ではなかった。自分の頬を叩いて、活を入れる。
「わかった。──頑張るわ、相澤さん」
『ああ。期待している』
通話の画面を切った。
ちょうど、というタイミングで、2階の階段の最上段にいる亜依がこちらを見下ろしていた。その目は冷徹なようで、容赦がなさそうだ。俺は息を呑んだ。
「──そんな踊り場で電話?」
「母さんに怒られたんだよ。さっきな、俺遅刻しただろ? それを担任の周防先生にチクられちまった」
「そう。なんでもいいけど……あんたさっき、あからさまに私を『那須愛瑠』とわかった上で呼んでたよね。何者?」
「……一つ教えておいてやるぜ。亜依ちゃんは"みやこおはらい"で実地に来るだろ? それが偶然盗撮されて、ネットユーザーの記事になったのが身バレの原因なんだ。よくSNSに食べログなんかもあげるよな。俺は魔が差してそれらを手繰ってしまった……ただのコアなファンだ」
(あえて真実を交えて話す……。印象がサイアクになるけど、やむなしだよな)
「"みやこおはらい"が何かわかってんの?」
「もちろん。具体的にどうしてるのかってのはわからないけど、俺ら一般人の晴らせない不可視の厄介をどうにかしてくれてるのは本当だと思うぜ」
ふぅん、と亜依は置いた。
「あんたがリテラシー教えてくれたからさ、私も同等のアドバイスしてあげるよ。──ファンならレッドラインを弁えろ。私はあんたを退けるために、どんな手だって使えるから」
どんな手だって──それは警察を呼ぶなりするといった意味合いだろうけれど、亜依の真の様相を垣間見た身からすれば、別のとてつもない脅し文句にもとれた。俺は満面の笑みを浮かべた。
「安心してくれよ、俺はこれ以降『那須愛瑠』と干渉しない。な? 美人なお顔を拝ませてもらうだけでいいからさ」
「厚かましい。朝から」
亜依にはわだかまりがありそうだった。けれどもっけの幸いが訪れた──チャイムが2限の開始を告げたのだ。
「……また遅れちゃったな、俺ら」
「…………」
抜き足差し足忍び足、そんな調子で俺は亜依とともに2限の言語文化の授業へと赴いた。
10:01『あっぶなかったあ……』
10:02『少し接していなかった隙に大わらわのようね。それで、難は逃れたの?』
10:02『うん。俺の方は上手いことやった。一ノ瀬は? 新宿は何かあったのか?』




