第7話 卒業
春になり、僕たちは五年生になった。クラスは三人とも別々で、最初の頃は放課後になると校門の近くで二人を探した。
ある日、先に見つけたひなたへ声をかけると、同じクラスの女子二人が追いかけてくる。三人とも、手には色違いの細い糸を持っていた。
「ひなた、続きやろう。今日、途中だったじゃん」
「今?」
「歩きながらでもできるって。ほら、もうここまで編めたよ」
一人が指にかけた糸を広げる。ひなたもランドセルの横から青と白の糸を取り出した。
「僕、なおき待ってるから、先に帰っていいよ」
「そっか。じゃあ、また明日」
ひなたは昇降口を振り返らず、二人の間に入った。絡まった糸をほどきながら校門を出ていく。
しばらくして直樹が来た。
「ひなた、先に帰ったよ」
「そっか」
それだけ答えた直樹は、校庭から男子たちに呼ばれると、「ゆうともやろうぜ」と僕の腕を引いた。
「今日はいい。帰る」
「なんだよ。誰か待ってたんじゃないのか?」
「二人を待ってたんだよ」
直樹は一瞬黙り、「変なの」と笑って校庭へ走った。
別の日に直樹だけを見つけても、同じだった。僕がひなたを待っている間に、直樹は友達とサッカーを始める。
「ひなた来るまで待たないの?」
「別に。来たら来たでいいだろ」
ひなたが遅れて出てきた頃には、今度は僕の方が同じクラスの友達から呼ばれる。
直樹と二人で帰る日もまだあった。けれど、校庭から名前を呼ばれるたび、直樹は「また明日」と手を上げて友達の方へ走っていく。僕も自分のクラスの友達を待たせることが増え、いつからか、二人きりで帰ることもなくなった。
それでも最初のうちは、直樹がいなくても、ひなたと二人で帰る日があり、新しい担任が黒板の端へ小さな猫を描くことや、隣の席の女子が授業中に消しゴムを落としすぎることを話した。僕も自分のクラスのことを話し、土手で別れるときには、どちらからともなく「また明日」と言った。
その少し後、帰り道でひなたが急に足を止める。
「ゆうと、あのときなおきが来なかった理由、知ってるんでしょ」
「……なんで?」
「だって、前にも何か言いかけたじゃん」
僕は答えられなかった。直樹から聞いたことを話せば、約束を破ることになる。
「言えない」
ひなたはしばらく僕を見ていた。
「そっか。ゆうとは、なおきの味方なんだね」
「そういう意味じゃないよ」
「じゃあ、どういう意味?」
答えを探しているうちに、ひなたは先に歩き出し、その日は別れる場所まで「また明日」を言わなかった。
ある日の放課後、昇降口で会ったひなたへ、秘密基地に寄るか聞く。
「ごめん。今日はみんなで文房具屋に行くの。係で使う紙、見に行くことになってて」
「そっか。じゃあ明日は?」
「明日は習字。でも、ゆうとも金曜日は友達と本屋行くって言ってなかった?」
「あ、言ってた」
「じゃあ、また今度ね」
ひなたは申し訳なさそうにしたあと、すぐいつものように笑う。僕も頷き、次に会ったとき決めればいいと思った。
翌日、廊下の向こうにひなたを見つけたけれど、同じクラスの友達から呼ばれ、そのまま階段を下りる。次の日も、その次の日も、秘密基地へ行く日は決めなかった。
二人とも、僕とは普通に話す。
昇降口で会ったひなたは、僕が傘を持っていないことに気づき、「三年生のときも忘れてたよね」と笑った。校庭から転がってきたボールを蹴り返せば、腹で受けた直樹が「わざとだろ!」と追いかけてきた。
それでも、ひなたは直樹を待たず、直樹もひなたを探さない。二人のどちらかと話したあと、三人目まで呼びに行くことも僕にはなく、三人とも別の友達と帰る日が増えるうちに、校門で二人を待たなくなった。
*
梅雨に入ったある日の放課後、急な雨が降った。
一緒に帰っていた友達と角で別れ、僕だけが土手へ続く道に残る。家へ向かうより先に、秘密基地が浮かんだ。
斜面を駆け下り、久しぶりに扉を開ける。中には湿った木の匂いがこもり、丸められた青い敷物にも、棚の小さな箒にも薄く土が積もっている。
壁には、三人で撮った写真が残っていた。
片方の角は剥がれかけ、写真の中では、直樹の頬がひなたの肩に押しつけられ、僕とひなたは互いの方を見て笑っている。
僕は壁際に座ってその写真を見つめていた。どれくらいそうしていたのか分からない。気づけば、もう雨音はしなかった。
僕は、その小屋を後にした。
*
六年生になってからは、三人が同じ場所にいることさえほとんどなくなった。
そして翌年の春、僕たちは卒業式の日を迎えた。
体育館では、名前を呼ばれた卒業生が一人ずつ壇上へ上がっていく。
隣のクラスの列から、ひなたが立った。紺色の上着に白い襟。後ろでまとめた髪についた白い飾りが、歩くたび小さく揺れている。
しばらくして、別の列から直樹の名前が呼ばれた。返事だけは体育館の端まで届いたのに、壇上へ上がる直前、前の男子との間が詰まって足を止める。保護者席から小さな笑いが起き、直樹は何もなかったように背筋を伸ばした。
自分の番になり、僕も壇上へ上がる。
見下ろした体育館には黒や紺の服が並び、ひなたも直樹もその中にいるはずなのに、もうどこに座っているのか見つけられなかった。
式が終わると、六年生の教室は一気に騒がしくなった。机の上には卒業証書の筒とアルバムが並び、最後のページが友達の文字や絵で埋まっていく。
担任に校庭へ移動するよう促され、廊下へ出る。隣のクラスからも人が溢れ、階段の前で流れが止まっていた。
女子二人と話していたひなたが、こちらを見る。
「あ、ゆうと。それ貸して」
僕の返事を待たず、自分のアルバムを押しつけてきた。
「ここで書くの?」
「このあと写真撮るでしょ。次いつ会えるか分かんないし、今しかないじゃん」
「春休みあるだろ」
「あるけど、会う約束してないでしょ」
廊下の窓枠を机代わりにして、二冊のアルバムを開く。ひなたのページは丸い文字や小さな絵でほとんど埋まっていた。
「どこに書けばいいの」
「その辺。ゆうと、字小さいから入るでしょ」
ひなたは僕のアルバムへ迷わずペンを走らせた。僕がまだ一行目を考えているうちに、その手が止まる。
「まだ?」
「今考えてる」
「長くてもいいよ。私はもう書いたけど」
「急かされたら短くなるよ」
「じゃあ待つ。十秒」
「短いって」
ひなたが声を立てずに笑う。その顔は写真の中より大人びて見えたけれど、僕の反応を待つ目だけは、昔と同じだった。
ようやく短い言葉を書いてアルバムを返したとき、階段の方から直樹の声がした。
「何してんだ?」
「アルバム。なおきも書く?」
「書く。貸せよ」
男子たちと歩いていた直樹は自分のアルバムを窓枠へ置き、僕のページへ大きな文字を書き込む。
「短っ」
「ちゃんと意味あるだろ。長けりゃいいってもんじゃないし」
直樹はひなたの方を見て、自分のアルバムを顎で示した。
「そっちも書いといて」
ひなたは一瞬だけ直樹を見て、「……分かった」と答えた。
その直後、階段の方から声が飛んできた。
「ふじい、先行くぞ!」
直樹はそちらへ卒業証書の筒を上げ、自分のアルバムをひなたへ預け、そのまま男子たちを追っていく。
「あとで見るから、二人とも書いといて!」
ひなたは置いていかれたアルバムを開いたが、すぐに後ろからも名前を呼ばれた。
「ひなた、校門のとこで撮るよ!」
「今行く!」
返事をしたあと、僕のアルバムを手のひらで二度叩く。
「あとでちゃんと見てね」
「見るよ」
「絶対だよ。じゃあ、またね」
「うん。また」
ひなたは女子二人のもとへ走り、階段を下りていった。
直樹のアルバムへ短い言葉を書いて昇降口へ持っていくと、本人は男子たちに囲まれて笑っていた。
「これ」
「やっぱり短いじゃん」
「なおきのよりは長いよ」
「一文字くらいしか変わんねえだろ」
直樹はアルバムを閉じ、そのまま友達に肩を組まれる。
「じゃあな、ゆうと!」
「またな」
僕も同じクラスの友達に呼ばれ、桜の木の前へ向かった。直樹の笑い声は校庭の反対側から聞こえ、ひなたは校門の近くで女子たちと並んでいる。
それぞれの間を、幾人もの卒業生が行き交っていた。
帰りは同じクラスの友達と途中まで一緒だった。中学で何部に入るか、春休みにどこへ行くかを話しながら、学区の境になる大通りまで歩く。
僕が進む中学は、この道をまっすぐ行った先にある。学区の境目が僕の家の手前で分かれていて、ひなたと直樹とは別の中学になる。
二人には、そのことをまだ話していなかった。話そうと思ったことは何度かある。でも、どちらか一人にだけ言うのは変な気がして、三人が揃ったときでいいと思っているうちに、卒業式まで来てしまった。
友達と別れ、一人になってからアルバムを開く。ひなたの文字は、僕が書いたものよりずっと長かった。
『これからもよろしく。今度は傘、忘れないでね!』
その下には、開いた傘の絵が描かれている。
少し離れたところには、直樹の大きな文字があった。
『またな』
結局、春休みになってもひなたと直樹には会わず、そのまま中学生になってからも二人に会うことはなかった。
会えば普通に話せたはずなのに、もう三人でいることはなかった。
あの頃、僕が何かしていれば、今とは違っていたのかもしれない。
どうすればよかったのかは分からなかった。何とかしたかった。でも、何かを選ぶたび、別の何かが遠くなっていく気がした。それが怖くて、僕は動けなかった。
そうしているうちに、三人だった時間は、いつの間にか過去になっていた。




