第6話 二人分
夏祭りからしばらくして、ひなたと直樹はほとんど話さなくなった。
何がきっかけだったのか、僕は知っていた。
けれど、その理由をひなたに話すことはできなかった。
秘密基地へ入ると、ひなたは青い敷物を二人が座れる分だけ広げていた。
「寒い。早く閉めて」
背中で扉を押す。外から吹き込んでいた風が途切れ、代わりに古い木と土の匂いが濃くなった。
夏には入口を隠していた草も、今は茶色く倒れている。隙間だらけの壁は風を止めきれず、吐いた息が白くなるほどではないけれど、じっとしていると指先から冷えてきた。
「はい、ゆうとの分」
ひなたが差し出したのは、少し小さなみかんだった。自分の膝にも一つ置いてある。
「なおきのは?」
「持ってきてない」
「来るかもしれないだろ」
「じゃあ、ゆうとの半分あげればいいじゃん。私のは甘そうだからあげないけど」
「見ただけで分かるのかよ」
「分かるよ。こっちの方が丸いもん」
そんな見分け方は聞いたことがなかった。僕が皮をむき始めると、ひなたも膝のみかんへ爪を立てる。細い汁が飛んだらしく、「目に入った!」と顔を背けたので、笑いながらティッシュを渡した。
「笑わないでよ。ゆうとの、酸っぱければいいのに」
「人の方を小さいのにしたくせに」
「だから甘いの選んであげたんでしょ」
一房食べる。酸っぱくはなかったけれど、ひなたに教えると負けた気がして黙っておいた。
向かいの壁には、何枚もつなげた地図が貼られている。夏祭りのあとにも道や店を書き足したせいで、最初の一枚だけだった頃よりずっと大きくなった。端を留めたテープには埃がつき、何度も開いた折り目が白くなっている。
その右下だけが、壁から少し浮いていた。
「テープ、剥がれてる」
道具箱から新しいものを取り、地図の端へ貼ろうとした瞬間、ひなたの手が横から伸びてきた。
「あ、そこだめ」
「なんで?」
「顔、消える」
僕の指の下には、花火の真ん中へ直樹が描いた丸い顔がある。口の部分だけが、ちょうど透明なテープに隠れかけていた。
「透明だから見えるだろ」
「見えるけど、なんかしゃべれなそうじゃん。もっと下にして」
ひなたは僕の手首を押して位置をずらした。二人で端を伸ばして貼り直すと、直樹の口だけでなく、歪んだ花火も全部見えるようになった。
「これ、なおきが見たら、まだ顔じゃないって言うかな」
「知らない」
ひなたは残っていたみかんを一房まとめて口へ入れ、地図を見たまま口を開く。
「来るって言ったのに来なかった人が、今日だけ来るわけないし」
「でも、なおきは――」
「なに?」
こちらを向いたひなたと目が合った。
その言い方は違う、と口を開きかける。けれど、理由まで聞かれたら、僕には続きを言えない。
「……顔、隠れなくなった」
「今それ?」
ひなたは少しだけ眉を寄せ、それ以上は聞かなかった。
しばらく地図の続きを描いた。ひなたが新しくできた店を思い出し、僕が道の位置を直す。前なら、そこへ直樹が勝手に怪獣や落とし穴を描き足して、二人で消せと言ったはずだった。
今日は鉛筆の音しかしない。
ひなたが立ち上がり、棚から色鉛筆の箱を取った。箱の蓋には直樹が書いた大きな「三人用」の文字が残っている。ひなたの指は一度その文字に触れたけれど、何も言わず、必要な色だけを抜き出した。
「青、短くなったね」
「川ばっかり描くからだろ」
「川が多い町なのが悪いんです。今度、新しいの持ってこようかな」
「なおきの家に、まだ一本あったと思う」
ひなたは短い青を指先で回し、地図の端に細い水路を描き始めた。線がかすれると、紙を押さえ直そうと地図の端を持ち上げる。その下から、三人で決めた秘密基地の決まりが現れた。
一番下には、少し潰れた字で三人の名前が並んでいる。
「学校で、なおきと話した?」
「ゆうとは?」
「僕は……少しだけ」
「じゃあ、聞けばよかったじゃん。今日来るのかって」
青鉛筆の先が折れ、ひなたは「あーあ」と小さく言って鉛筆削りへ入れた。何を聞けばよかったのか分かっていたのに、削られて短くなる青い鉛筆を見ているうちに、答える時間をなくした。
町内放送から五時の曲が流れると、ひなたはランドセルを背負う。
「帰らないの?」
「もう少しいる」
「暗くなるよ」
「分かってる。地図、ちょっとだけ直したら帰るから」
ひなたは何か言いかけたように僕を見たあと、「じゃあね」と扉を開けた。冷たい風が吹き込み、敷物の端に落ちていたみかんの皮が転がる。
扉が閉まると、小屋の中は急に暗くなった。
直樹が持ってきた黒い懐中電灯を手に取り、底を一度だけ床へ当てる。接触が悪いときはこうすればつく。白い光が細く伸びて、地図の上の「なおきの顔花火」を照らした。
僕はそれを消さずに待った。
外で風が鳴るたび、枯れ草を踏む音に聞こえて入口を見る。けれど扉は動かない。みかんの皮が乾き始めても、地図の隅に足す道がなくなっても、直樹は来なかった。
懐中電灯を棚へ戻し、立ち上がる。敷物を畳みかけて、三人で座れるところまで一度広げた。
青い布の上には、僕の膝の跡と、ひなたが落とした白い筋だけが残っている。
僕は元の折り目に沿って、二人分へ戻す。
*
その数日後、四年一組と二組は、合同で通学路の安全地図を作ることになった。
住んでいる地区ごとに分かれると、僕とひなたと直樹は同じ机へ集められた。先生が置いていった白い模造紙を挟み、僕の右側に直樹、向かいにひなたが座っている。
三人だけで一つの机を囲むのは、久しぶりだった。
「学校、どこに描く?」
僕が聞くと、直樹は紙の中央を指し、ひなたは左端を指した。
「真ん中だろ。そっちじゃ道、入らなくなるぞ」
「でも川がこっちにあるんだから、学校はここじゃない?」
二人とも説明しながら手を伸ばし、同じ赤鉛筆に触れた。先に指を離したのはひなただった。
「……赤、使わないし」
「俺も別に、これじゃなくていい」
直樹もすぐに手を引く。赤鉛筆だけが、二人の間に残った。
「先に学校を描いて、入らなかったら紙を足そう。川はひなた、橋はなおきが覚えてるだろ」
返事を待たずに学校の位置へ印をつけると、ひなたが紙をこちらへ回し、落ちそうになった角を直樹が押さえた。僕が定規を置けば、二人は何も言わずに端を持つ。
「ゆうと、そこ曲がってる」
「なおきが引っ張ってるからだよ。ひなたも急に回さないで」
「だって、この向きの方が描きやすいんだもん。ほら、もう一回」
三人で紙を戻し、今度は線がまっすぐ引けた。
青鉛筆をひなたへ、灰色を直樹へ滑らせる。ひなたは川を描き始め、直樹はその横へ橋を足した。僕が二人の線を道でつなぐうちに、白かった紙の上へ、見慣れた町が少しずつ出来上がっていく。
「そこ、橋もう一個あるぞ。公園の裏」
「あれ渡ったらだめなやつでしょ。板が割れてるし、先生に怒られるよ」
「だから危ない場所に描くんだろ。赤で囲んどけばいいじゃん」
直樹が赤鉛筆へ手を伸ばしかけ、ひなたの前で止めた。ひなたはしばらくそれを見てから、机の中央に残っていた一本を直樹の方へ転がす。
「囲むなら、ちゃんと目立つようにして。なおき、いっつも丸が途中でつながってないから」
「つながってるって。最後がちょっと離れてるだけだろ」
「それを、つながってないって言うんだよ」
僕が橋を描き足す間に、直樹は赤い丸を閉じた。ひなたは横から覗き込み、「今日はつながった」と言って、その隣へ小さく『わたらない』と書く。
直樹は消さなかった。
途中で、ひなたが通学路の角に茶色い犬を描いた。
「危ない場所の地図なのに、なんで犬?」
「ここの犬、いっつも吠えるじゃん。びっくりするから危ないでしょ」
「でかすぎだろ。道、半分なくなってるし」
直樹は笑いながら、犬の隣へ小さな家を描き足した。ところが犬よりずっと小さくて、今度はひなたが吹き出す。
「その家じゃ入れないよ。これ、犬が家を飼ってるみたい」
「家を散歩させんのかよ」
「なおきが連れてけば?」
「なんで俺が――」
直樹も途中で笑い、ひなたと目が合った。
二人の笑い声が止まる。
僕は紙の端に曲がった道を足した。少し待てば、どちらかが続きを言うと思ったけれど、教室の向こうから聞こえるほかの班の声だけが、机の上を通り過ぎていった。
「……犬の方、少し小さくすれば入るんじゃない?」
僕が言うと、ひなたは犬の背中を消しゴムで削り、直樹は空いた場所まで家の屋根を広げた。二人の線が触れないように、僕が間へ細い柵を描く。
「これなら犬の家に見える」
「最初から見えてたけどな」
「見えてない。ね、ゆうと?」
「家より犬の方が上手い」
「そこ聞いてない!」
ひなたが消しゴムを投げ、僕が受け損ねたそれを直樹が拾った。ほんの少し前までなら、きっとこのまま投げ合いになっていた。でも直樹は机の上へ置き、ひなたもすぐに地図へ視線を戻す。
三人で描いた町は、授業が終わる頃には紙の端までつながっていた。
放課後、昇降口を出たところで、ひなたが駅の方角を指した。
「今日、お母さんに頼まれたもの買って帰るんだ。文房具屋、駅の方だから」
「俺は土手から帰る。昨日、雨降ったから近道は使わねえけど」
直樹はいつもの帰り道へ身体を向け、ひなたも駅へ続く道を見る。それでも、二人ともすぐには歩き出さない。
「ゆうとは?」
「僕は……」
ひなたを見て、直樹を見る。どちらかへ足を向けようとして、やめた。
どちらかを選べば、もう一人を置いていく気がした。
「……ごめん。忘れ物した」
「何忘れたの?」
「プリント。たぶん教室」
「じゃあ、ここで待ってるよ。すぐ取ってくればいいじゃん」
「いや、どこに置いたか分かんないし、先生にも聞くから時間かかる。二人とも先に帰ってて」
「プリントって、帰りに配られたやつだろ。なくすの早すぎない?」
直樹がこちらを見た。僕はランドセルの肩紐を握り、昇降口へ一歩戻る。
「机の中に入れたままかも。じゃあ、またな」
それ以上何か言われる前に、校舎へ入った。
教室へ戻っても、机の中は探さなかった。自分の席に座り、窓から校庭を眺める。駅へ向かう門も、土手へ続く門もここからは見えない。
廊下の声が少なくなり、運動場の端まで校舎の影が伸びてから、僕は立ち上がった。
二人の下駄箱には、もう上履きが戻っている。
誰もいない帰り道を歩くたび、ランドセルの中で筆箱が跳ねた。
音は、一つしかなかった。




