第5話 また明日
「ゆうと、遅い!」
神社の鳥居の下で、ひなたが巾着を振った。鳥居脇の時計は、まだ七時の少し前を指している。
「遅れてないよ」
「私となおきは、もうずっと待ってたもん」
「俺は今来た」
隣にいた直樹があっさり裏切ると、ひなたは振り上げた巾着でその腕を叩いた。
直樹はいつもと同じ半袖と短パンだったが、ひなたは深い青の浴衣を着ている。袖と裾には赤い金魚が泳ぎ、動くたび布の波へ隠れては、また違う場所から現れた。いつも下ろしている髪も今日は後ろでまとめられ、耳の上に黄色い花がついている。
黄色い帽子をかぶっていないせいか、知っているはずのひなたが少し違って見えた。
「何?」
見すぎたらしい。ひなたは自分の袖を左右へ広げ、僕の前で一度回った。浴衣の裾が遅れて揺れる。
「変?」
「変じゃない」
「それだけ?」
「……似合ってるよ」
言ったあとで、提灯の赤い光が急に近くなった気がした。
ひなたも少しだけ目を丸くしたが、すぐ直樹へ向き直る。
「ほら。なおきもそれくらい言えないの?」
「走りにくそう」
「もういい!」
先に境内へ入ったひなたを追い、僕と直樹も人の隙間を抜けた。
参道の両側には屋台が並び、呼び込みの声に太鼓の音、鉄板で何かがはぜる音まで重なっている。焼けた醤油の匂いがしたかと思えば、次の人とすれ違ったときには綿あめの甘さに変わり、そのたびひなたが左右の屋台へ顔を向けた。
「あれやる!」
ひなたが足を止めたのは輪投げだった。
台の上には菓子の箱や小さなおもちゃが段違いに並び、その一番奥で、水色の鈴が提灯の光を返している。ほかの景品より小さいのに、ひなたは迷わずそこを指した。
「あの鈴、基地の入口につけようよ。扉を開けたら鳴るようにするの」
「どうやってつけるんだよ」
「取ってから考える」
「遠すぎるって」
「なおきには無理かもね」
「貸せ!」
直樹が先に三百円を出した。受け取った輪は三つ。ひなたがまだ自分の巾着を開けている間に、一つ目を投げる。
輪は鈴のずっと手前に落ち、菓子の箱に当たって転がった。
「今の練習」
「三回しかないよ。あと二回も練習するつもり?」
「次は本番だって。今ので距離分かったから」
二つ目は鈴を越え、最後の一つは棒の先に触れただけで弾かれた。直樹は空になった手を見てから、台の幅を確かめるように横へ回ろうとする。
「置き方が悪い。あれだけ棒が短かったら入らないだろ」
「負けたからって屋台のせいにしないの」
「負けてねえし。鈴が取れなかっただけだし」
「それを負けたって言うんでしょ」
今度はひなたが輪を受け取り、浴衣の袖を反対の手で押さえながら台へ身を乗り出した。一つ目は手前へ落ち、二つ目は鈴の横まで飛んだものの、隣の箱にぶつかる。
「惜しい!」
ひなたは最後の輪を両手で持ち、しばらく動かなかった。
「それじゃ投げられないよ」
「分かってる。今、お願いしてるの」
「誰に?」
「輪っかに。今度こそちゃんと入ってって」
ようやく放った輪は鈴の上へまっすぐ飛んだが、ほんの少しだけ手前へ落ちる。
「ああっ!」
ひなたはその場へしゃがみ込み、落ちた輪をいつまでも睨んでいた。
「今のは惜しかったよ」
僕が言うと、しゃがんだまま顔を上げる。
「ゆうと、取って」
「僕が?」
「さっき似合ってるって言ったから、取れる気がする」
「関係ないじゃん」
「言ったんだから最後までやってよ。ほら、三百円」
ひなたが自分の巾着から硬貨を出そうとするので、僕は先にポケットの小銭を屋台のおじさんへ渡した。
一つ目は、直樹の輪より手前に落ちた。
「全然だめじゃん」
「なおきよりは届いてた」
「届いてねえよ。今の俺より下手だったぞ」
二人の声を聞きながら二つ目を投げると、輪は鈴の横を通り、台の奥へ消えた。
残りは一つ。
ひなたが投げた位置に立ち、さっきより少しだけ上を狙う。手から離れた輪は鈴の上へ落ち、入ったと思った瞬間に縁に当たって傾いた。そのまま横へ滑っていくのを、三人で息を止めて追う。
「あっ!」
輪が引っかかったのは、鈴の隣に積まれた鈴カステラの袋だった。
屋台のおじさんは笑いながら、それを僕へ差し出した。
「まあ、こっちも鈴だな」
「鈴じゃない……」
ひなたは残念そうに言ったくせに、袋を開けた途端、一番に手を入れた。
「それ、僕が取ったんだけど」
「三人で食べた方がおいしいよ。基地の決まりにも、持ってきたものは三人で使うって書いたでしょ」
「ここ基地じゃないぞ」
そう言いながら、直樹も反対側から手を突っ込む。
鈴カステラは一口で食べられた。直樹が二つまとめて取ろうとするたび、ひなたが手の甲を叩いて一つ戻させる。僕も同じことをされながら歩いているうちに、袋はすぐ軽くなった。
途中で祭り囃子の列が参道を横切り、僕たちは人垣の後ろで足を止めた。小さな太鼓を叩く子供たちに合わせて大人の笛が鳴り、直樹は口だけで真似し始める。ひなたまで加わったものの、二人とも違う音を出すので、隣にいた人が笑いながら振り返った。
「なおき、全然違う。こうでしょ」
「ひなたの方が変だろ。ゆうと、どっちが似てた?」
「どっちも笛には聞こえなかった」
「ちゃんと聞いてなかっただけじゃん。もう一回やるよ」
二人が息を吸ったところで人垣が動き、僕は先に空いた隙間へ逃げた。追ってきた直樹が肩をぶつけ、ひなたは笑いながら僕の背中に巾着を押しつける。
袋の中には、もう一つしか残っていなかった。
ひなたと直樹の指が同時に伸びる。
「私、鈴取れなかった」
「俺も取れてねえ」
「なおきは全然惜しくなかったでしょ」
二人が言い合っている隙に、僕は横から最後の一つをつまみ、口へ放り込んだ。
「あっ!」
「ゆうと!」
二人が同時にこっちを向く。
僕は反射的に踵を返したが、境内はさっきより混んでいて、三歩も行かないうちに人の波へ引っかかった。
「捕まえた!」
追いついたひなたに背中を叩かれ、直樹には空の袋を頭からかぶせられる。
「取った人のだから」
「三人で食べた方がおいしいって言ったじゃん!」
「最後だけ別」
「ずるっ!」
袋を外すと、ひなたはまだ怒った顔を作っていた。それでも僕と目が合うと先に吹き出し、直樹もつられて笑った。
境内のスピーカーから、花火の開始を知らせる声が流れる。
周りの人たちは一斉に川の方へ動き出し、僕たちも流れに押されながら鳥居を出た。けれど、川沿いの道へ入る手前で列が詰まり、ほとんど前へ進めない。大人たちの隙間から覗いても、見えるのは提灯と後頭部ばかりだった。
「これ、花火見えないじゃん」
ひなたが背伸びをするたび、下駄の歯が石へ当たり、身体が危なそうに揺れる。前から押し戻されてきた人を避けた途端、三人の間へ別の家族が入り込んだ。
「なおき、そっちいる?」
「いる! 河原まで行けば見えるだろ!」
声は聞こえるのに、直樹の頭は大人の肩に隠れていた。ひなたが僕の袖を掴み、人の流れに逆らうように鳥居の方を指す。
「一回戻ろう。ここだと三人とも離れちゃう」
僕が先に身体の向きを変えると、ひなたは袖を離さないままついてきた。直樹も人の間を横切り、空いた方の手首を掴んでくる。
「そっちじゃなくて川だろ!」
「河原はもっと混んでるよ。基地の近くの土手から見よう。ここより高いし、川の曲がるところまで何もないから」
「見えるの?」
ひなたが僕の顔を覗き込む。
「たぶん」
「じゃあ、そこ行こう。ゆうとが決めたなら、見えなくても戻ればいいし」
ひなたは答えを聞くと、僕が動くより先に袖を引く。
人の列を抜けて祭りの明かりから離れると、呼び込みも太鼓も少しずつ後ろへ残っていく。代わりに草むらの虫の声が近くなり、暗い道には、直樹の靴と僕の靴、ひなたの下駄がそれぞれ違う音を響かせる。
土手へ着く直前、最初の花火が上がった。
白い線が夜空へ伸び、少し遅れて赤い光が丸く開く。
「始まった!」
ひなたが走り出しかけ、下駄でうまく地面を蹴れずによろけた。僕が後ろから腕を掴むのと、先に斜面へ上がった直樹が手を伸ばすのが同時だった。
「だから走りにくいって言っただろ」
「今それ言う!?」
僕が背中を支え、直樹が手を引く。三人で斜面を上りきったところで、二つ目の花火が川の向こうに開いた。
土手の上には誰もいない。少し下には黒い小屋の屋根、その反対側には川が広がり、赤い光が向こう岸の空からゆっくり落ちていった。
「ここ、すごい!」
ひなたが草の上へ座り、直樹はその隣へ倒れ込む。僕も反対側に腰を下ろすと、三つ目の青い花火が空へ広がった。
光がひなたの浴衣を照らし、裾の金魚まで同じ青に染めていく。消えると、横顔も暗闇へ沈んだ。
ひなたは親指と人差し指で輪を作り、片目を閉じる。
「今度は入った」
「それなら誰でも入るだろ」
直樹も両手で大きな輪を作り、その中へ次の花火を収めようとした。けれど、開いた光は指の外まで広がっていく。
「でかすぎ!」
ひなたが笑い、その手で直樹の輪を横から潰した。
二人の声に笑っていると、次は低い音が腹まで響いた。いくつもの光が続けて開き、川の上に赤や緑の線を落とす。
ひなたが空を指す。
「ゆうと、見て!」
指の先で、大きな金色の花火が夜空いっぱいに広がった。垂れた光の粒が、消える直前にもう一度明るくなり、ひなたの顔まで照らす。
僕が横を向いたときには、ひなたもこちらを見ていた。
「今の、すごかったね!」
「うん」
「……なに?」
「何が?」
「今、花火じゃなくて私見てたでしょ」
見られていたことに気づいて、急に答えが出なくなった。
「ひなたもこっち見てたじゃん」
「私は、ゆうとがちゃんと見たか確かめただけ」
「僕も同じ」
「それ、同じじゃない気がする」
ひなたは少し首を傾げたものの、次の打ち上げ音に空へ顔を戻した。
白い花火が開くたび、ひなたの横顔が浮かんでは消える。隣で草が擦れ、ひなたが座り直す。その拍子に浴衣の袖が僕の腕に触れた。
直樹は少し前へ寝転がり、両手の輪に何個の花火を入れられるか数えている。ひなたの袖が触れていることには気づいていないらしい。
僕も何も言わなかった。
しばらくして、直樹が急に身体を起こす。
「今の、写真の俺みたいじゃなかった?」
「自分で言うの?」
「顔が横に広かっただろ。あの高台で撮ったやつ」
ひなたが声を上げて笑い、僕もつられた。
「あれ、地図に描こうよ」
「何て書くんだ?」
「なおきの顔花火」
「やめろ!」
「もう地図いっぱいだよ」
僕が言うと、ひなたは少し考えてから両手を打った。
「じゃあ、紙を増やそう。明日、私が持ってくるから、ゆうとは貼るものね」
「また四枚?」
「もっと大きくする。今日見えた花火、全部描けるくらい」
「俺は?」
「なおきは今日の花火、忘れないで」
「それだけ? 俺が一番大事じゃん」
直樹は不満そうに言いながら、すぐに「あれは赤だった」と指を折り始めた。ひなたが「青もあった」と言い返し、どれを描くかで二人の声が重なる。
僕は二人の間へ手を伸ばし、草の上に指で大きな丸を描いた。
「全部入れればいいじゃん」
ひなたと直樹が同時に黙り、足元の丸を見る。
「それ、でかすぎない?」
「紙を増やすんでしょ」
ひなたが先に笑った。
「じゃあ、ゆうとが描いてね」
花火が終わって神社へ戻る頃には、境内の明かりも少し減っていた。鳥居の前で迎えに来たひなたの母親と合流し、僕と直樹も途中まで一緒に歩く。三人の帰り道が分かれる場所で足を止めた。
「明日、基地ね。私、紙持ってくるから、二人も忘れないでよ」
「ひなたが一番忘れそう」
「忘れないし! なおきは花火、ゆうとはテープ。ちゃんと覚えた?」
「俺は覚えてるだけでいいんだろ」
直樹が笑いながら手を上げた。
「じゃあな。また明日」
「また明日!」
ひなたも手を振り、母親と歩き出しかけてから、もう一度こちらへ顔を向けた。
「ゆうとも、また明日」
「うん。また明日」




