第4話 練習相手
四年一組になって一週間が過ぎても、休み時間のたび、僕は教室の扉を見てしまった。
誰かが廊下を走る音がすると、今度こそひなたが来た気がする。けれど、飛び込んでくるのは知らない上級生だったり、隣の席の子を呼びに来た女子だったりした。
三年生のときは、振り向かなくてもひなたがいる場所は分かった。授業中なら消しゴムを落とす音がして、休み時間になれば、僕か直樹の机へ勝手に椅子を寄せてくる。
今は、そのどちらもない。
「ゆうと、さっきから廊下ばっか見てるけど、なんかあんの?」
前の席から直樹が振り返り、僕の机に両腕を載せた。
「別に。次、理科室だから時計見てただけ」
「時計、後ろだぞ」
つられて振り返ると、黒板の上ではなく、教室の後ろに丸い時計が掛かっている。
直樹が笑い出す前に予鈴が鳴り、僕は教科書を抱えて席を立つ。
四年二組は廊下を挟んだ隣。理科室へ行くなら階段側の扉の方が近いのに、僕は反対側から廊下へ出た。
開いた扉の向こう、窓際の席にひなたがいる。
同じクラスの男子が、指で弾いた紙のカエルをひなたの机へ跳ばす。筆箱にぶつかって横倒しになると、ひなたが何か言い、男子はもう一度紙を折り直した。
ひなたが笑う。
僕は、紙のカエルの片足だけが短いことや、その男子の袖に絵の具がついていることばかり気になった。廊下を通り過ぎてからも二組の声はしばらく聞こえていたが、何を話していたのかは分からない。
その日の放課後、直樹が机の横からランドセルを持ち上げた。
「校庭行こうぜ。四年のやつらでキックベースやるって。今なら二組より先にいい場所取れる」
「場所を取っても、チーム決めるのは先生じゃないの?」
「先生いないから早い方が決めていいんだよ。たぶん」
直樹が僕の返事を待たず腕を引っ張ったところで、教室の扉からひなたが顔を出した。
「ゆうと、ちょっと来て。今日だけ借りるね」
最後だけ直樹へ向けて言う。
「なんで俺に言うんだよ。ゆうとは物じゃねえぞ」
「さっき引っ張ってたのに?」
「早くしないと試合始まるからだって。で、どこ行くんだよ。俺も行く」
「なおきはだめ。途中で絶対笑うもん」
ひなたの背中に隠れていた紙が、ちらりと見えた。直樹も気づいたらしく、急に興味をなくした顔になる。
「作文かよ。じゃあ俺、校庭行くわ。ゆうと、終わったら来いよ。まだやってたら入れてやる」
「最初から入れてよ」
「活躍したら考える」
何を活躍するのか聞く前に、直樹は廊下へ駆け出した。ひなたはその背中を見送り、僕の袖を一度引く。
「ほら、行くよ。みんな帰る前に」
連れていかれたのは四年二組だった。
さっきまで人がいた教室には、まだ机を引く音や話し声の名残があり、黒板の端には日直が消し残した白い線が伸びている。窓際の机に紙のカエルが置かれていたので、どこがひなたの席かはすぐ分かった。
「来週、四年生の発表会あるでしょ。私、これ読むことになったの」
ひなたは机の上へ原稿用紙を広げた。何度も折ったのか、真ん中だけ白く毛羽立っている。
「代表って、一組にもいるよね」
「いるよ。体育館で一人ずつ読むんだって。お母さんたちも来るし、先生がマイク使うって言ってた」
そこまで言ってから、ひなたは開いた原稿をまた半分に折った。
「だから、練習聞いて。途中で変なところがあったら、ちゃんと言ってね」
「さっきの子に聞いてもらえばいいじゃん。同じクラスだし」
窓際の紙のカエルを見ると、ひなたはすぐ首を振った。
「同じクラスの子にはやだ。みんな、私なら平気って言うもん。途中で止まったら絶対びっくりする」
「僕ならいいの?」
「ゆうとは、私が坂で転んだのも、道を間違えたのも知ってるでしょ。それに、止まっても勝手に先を言わないから」
ひなたは折った紙をもう一度広げ、教室の前へ向かった。いつものように迷わず歩いているのに、教卓の前まで行くと、原稿用紙の端を両手で揃え始める。
僕は一番後ろの席へ座った。
「そんな遠くじゃなくていいよ」
「体育館なら、もっと遠いと思う」
「練習の最初から体育館にしなくてもいいじゃん。真ん中くらい」
言われた通り三列目へ移ると、ひなたは一度咳をしてから作文を読み始めた。
題は『三人で見つけた道』だった。
地図の空白を埋めるため、知らない坂を上ったこと。行き止まりだと思った場所で、風の先に石段を見つけたこと。高台から、いつも歩いている町が小さく見えたこと。
ひなたがあの日のことを書いていたのを、僕は初めて知った。
「なんでこれにしたの?」
「先生が、一番覚えてることを書いてって言ったから。あの写真を見たら、これがいいと思ったの。三人で見つけた道なら、紙を見なくても話せそうでしょ」
「今、ずっと紙見てるけど」
「練習だから! 本番はちゃんとみんなも見るよ」
読み始めは大きかった声が、原稿の二枚目に入ると少しずつ速くなる。石段を見つけたところで一行飛ばし、高台へ着く前に町が見えてしまった。
「今、階段のあと飛ばした」
「飛ばしてないよ。ちゃんと高いところまで行った」
「作文の中では行ってない。石段を見つけて、次の行でもう町を見てた」
ひなたは原稿へ顔を近づけ、僕の言った場所を指でたどった。
「……ほんとだ。でも、ちょっとくらい飛ばしても話は分かるよね?」
「直樹がいきなり消えてるよ」
「それはだめ。三人で見つけた道なのに」
急に真剣な顔になり、抜かした一文の頭へ鉛筆で丸をつけた。
もう一度最初から読む。今度は飛ばさなかったが、最後の一枚で言葉が止まった。原稿を持つ右手の親指だけが、同じ場所を何度も擦っている。
僕は続きを言わずに待った。
窓の外から、校庭でボールを蹴る音が届く。一度、二度。遠くで直樹らしい声が上がり、ひなたは原稿から目を離さないまま小さく息を吐いた。
「……分かんなくなった」
「一枚目には丸つけたよね。ここにもつければ?」
「丸だらけになったら、どれ見ればいいか分からなくならない?」
「文の最初だけなら大丈夫だと思う。止まったら、一個前の丸まで戻る」
ひなたは少し考え、言葉が長いところへ二つ目の丸を書いた。
「じゃあ、私が止まっても教えないでね。本番は、ゆうとが続き言ってくれないから」
「でも、止まったらどうするの?」
「丸を見る。見つからなかったら……ゆうとを見る」
顔を上げたひなたと目が合った。
「僕を見ても、続きは分からないよ」
「分かってる。でも、今みたいに待ってて。焦ったら、もっと忘れそうだから」
「じゃあ、見たら一回だけ頷く。それで丸に戻る」
ひなたはすぐに原稿を持ち直した。
「やってみる。今度はもっと遠くに座って。体育館くらい」
「さっき最初から体育館にしなくていいって言ったじゃん」
「今は練習の練習、終わったから」
僕が教室の一番後ろへ戻ると、ひなたは三度目の作文を読み始める。
それから発表会までの三日間、放課後になるたび二組の教室で練習を重ねた。同じ場所でつかえても、ひなたは毎回違う言い訳をする。廊下を誰かが走ったから、カラスが窓の近くを飛んだから、今日は教室が暑いから。僕が何も言わず原稿を見ると、最後には自分で丸を増やしていく。
日を追うごとに止まる場所は減り、それでも読み終えるたび、ひなたは拍手より先に僕の顔を見て「今のは?」と聞いてくる。
発表会の日、四年生全員が体育館の舞台前へクラスごとに並ぶ。一組は左側の前列で、僕は通路のすぐ横に座り、直樹は隣で後ろの保護者席から自分の母親を探して何度も振り返っている。
二組の番になると、舞台袖からひなたが出てくる。
朝、廊下で会ったときは普段と変わらず喋っていたのに、今は原稿を胸の前で揃え、歩くたび肩まで一緒に動く。演台の前で体育館を見渡した瞬間、その肩が少し上がる。
「ひなた、顔かたいな」
直樹が僕の耳元で囁く。
「聞こえるよ」
「ここから聞こえるわけないだろ。終わったら言ってやろ」
「言わなくていいって」
「なんでゆうとが決めるんだよ」
先生がマイクの高さを直し、ひなたは作文を読み始める。
声は教室で聞いたときより高く、体育館の壁に跳ね返って少し遅れて戻ってくる。それでも一枚目は止まらない。前に飛ばした一文も、高台へ続く石段も、今度は抜けずに進んでいく。
二枚目の終わりで、ひなたの声が途切れる。
静かな体育館に、マイクが拾った息だけが響く。ひなたは原稿へ目を落としたまま、次の声が出てこない。練習のときなら、丸を探すところだ。後ろの保護者席で誰かが咳をすると、ひなたの肩が一度大きく上下する。
やがてひなたが顔を上げる。視線が二組の列を越え、左側の一組へ動く。
僕のところで止まり、目が合ったまま、僕は一度だけゆっくり頷く。
ひなたは息を吸い、原稿へ目を戻す。少し前の丸から読み直す声は最初より大きく、もう一度、高台へ続く道を上っていく。
最後の言葉まで読み終えると、体育館いっぱいに拍手が広がった。直樹は誰より大きな音を出そうとして、掌を赤くしながら叩いている。
「やったじゃん、ひなた!」
舞台まで届かせるつもりらしい声で叫び、先生に肩を押さえられた。
ひなたは頭を下げ、担任に何か声をかけられながら舞台袖へ戻りかけた。けれど、その前にもう一度だけ客席を見る。
僕と目が合うと、ひなたは原稿で口元を半分隠して笑った。その顔を、僕は発表が終わったあとも何度も思い出した。
高台へ着いたときの笑顔とも、秘密基地を見つけたときの笑顔とも違う。みんなの前で声が出なくなり、それでも自分で続きを見つけたあとの顔だった。
今なら分かる。あの頃の僕は、もうひなたが好きだった。




