第3話 地図の外
「そこ、曲がってないよ。橋のところは、もっとまっすぐだった」
僕が指でなぞると、ひなたは青い色鉛筆を止めた。
「曲がってるよ。歩いたとき、ちゃんと右に行ったもん」
「紙が足りなくなったから曲げたんでしょ。それだと、なおきの橋が川の中だよ」
「地図なんだから、紙に入ればいいの。ほら、こっちへ寄せれば橋も――」
「橋、沈んでるだろ!」
四枚の紙を貼り合わせた地図の上で、川は大きく曲がり、直樹の描いた橋を半分ほど飲み込んでいた。
直樹が紙を引き寄せると、ひなたも反対側を掴んで離さない。真ん中に深い皺が寄ったので、僕は二人の手を慌てて押さえた。
「破れるって。ひなたが川を少し戻せばいいじゃん」
「じゃあ、なおきも橋を動かしてよ。私だけ直すのはずるい」
「動かしたら道につながらねえんだよ!」
秘密基地を見つけた翌日から、僕たちは放課後になるたび物を持ち寄った。何日か経った今では、空だった棚に三人のランドセルが並び、床にはひなたの青い敷物が広がっている。直樹の懐中電灯と僕の小さな箒も増え、三人の名前を書いた紙は棚の上の壁へ画鋲で留められていた。
今日はその下で、町の地図を作っていた。
ひなたは見つけたものを描き、直樹は気に入った場所へ勝手に赤い丸を足す。僕が道をつなぎ直しても、二人がすぐに別のものを足すせいで、町は少しずつ本物と違う形になっていく。
「ここ、まだ真っ白。橋を渡ったあとも、道は続いてたよね?」
ひなたが指差した地図の右上では、川沿いの道が小さな橋の先で途切れ、その向こうに紙の白だけが残っていた。
「僕たちが行ったことないから、その先が分からないんだよ」
「だったら今から見に行こうよ。写真も撮れば、忘れないでしょ」
直樹は、ひなたの横に置かれた銀色のカメラを勝手に持ち上げた。
「それ、落とさないでよ! お母さんのなんだから。なおきは持ったあと、すぐ走るでしょ」
「まだ持っただけだって。写真撮るなら使うんだろ?」
「使うけど、なおきには渡さない。撮りたいものがあったら私に言って」
ひなたはカメラを取り返すと、首から提げた小さな袋へしまった。地図にないものを見つけたら撮るつもりで、家から借りてきたらしい。
僕たちは紙を折り畳んで秘密基地を出た。地図の端までは、土手を上がって橋を渡り、川沿いをしばらく歩く。三人で通ったことのある駄菓子屋を過ぎると、家の数が減る代わりに、見覚えのない塀や畑が増えてきた。
「この辺から白いとこだよ」
ひなたが僕の持つ地図を横から覗き込む。紙の上では何もない場所にも道は続き、少し先で二つに分かれていた。
左は木陰を下り、奥から水の流れる音が聞こえる。右には錆びた手すりがあり、細い坂が上へ伸びている。
「私は左。こんなに水の音がするんだから、川があるかもしれないし、カニだっているかもしれない」
「こんなとこにカニなんかいないって。それより右へ行こうぜ。あの坂を上れば、町が全部見えるかもしれない」
直樹が坂の上へ顎を向けると、ひなたは水音のする方を向いたまま聞いた。
「『かもしれない』なんだ。見えなかったらどうするの?」
「見えるって。もし見えなくても、もっと上まで行けばいいだろ」
「やっぱり戻ってこないじゃん」
ひなたが左、直樹が右へ立ったまま、二人とも動こうとしない。やがて、示し合わせたわけでもないのに同時に僕を見た。
「ゆうとは?」
「どっちでもいいよ」
水があるなら見てみたいし、高い場所からなら地図の続きも探せるかもしれない。本当に、どちらでもよかった。
ひなたは左の道から一歩戻り、僕の前に立った。
「どっちでもいいは禁止。ゆうとが決めて」
「なんで僕が決めるの?」
「私となおきは、もう決めたでしょ。あとはゆうとだけ」
直樹は腕を組み、「別にゆうとが決めてもいいけど、早くしろよ。暗くなるぞ」と急かしてくる。
「今ゆうとが考えてるんだから、なおきは黙って待つの」
僕は二つの道を見比べた。左の水音も気になったが、坂の上からなら、その川がどこへ続いているのかまで見えるかもしれない。
「右にしよう」
直樹がすぐに坂へ足をかける。
「ほらな、やっぱり右だろ!」
「なおきが勝ったわけじゃないからね。川が見えなかったら、次は絶対に左だから」
ひなたは念を押してから僕の横へ戻った。
「うん。次は左」
それで決まりだった。
坂は下から見たより長く、乾いた土に浮いた小石が、踏むたび靴の下で転がった。先頭を歩く直樹は曲がり角のたびに「もうすぐ上だ」と言ったが、先に現れるのはまた同じような坂ばかりだった。
「なおき、さっきからずっと『もうすぐ』って言ってるけど、全然着かないじゃん」
「今度こそだって。ほら、さっきより急になってるし、坂を見れば分かるだろ」
「ずっと坂しか見えてないけど」
息を切らしたひなたは、跳ねるカメラの袋を胸元で押さえている。僕も暑くなった帽子を脱ぎ、ランドセルの上へ引っかけた。
もう一度坂が曲がった先で、道は緑色の金網に塞がれていた。向こうには丸い建物が見えるものの、入口には太い鎖がかかっている。
「行き止まりじゃん。しかも町なんて、金網しか見えないよ」
ひなたはその場へしゃがみ込み、直樹は鎖を一度だけ持ち上げて、何もなかったように戻した。
「でも、一番上までは来ただろ」
「これが一番上って、なおきが勝手に言ってるだけでしょ。ゆうとの右、はずれだったね」
「そうみたい。じゃあ、戻って左に――」
「あっさり認めるなよ。もう少し探そうぜ」
直樹の抗議を聞きながら僕もしゃがむ。来た坂を戻っても、まだ左へ行く時間はありそうだった。そのとき、ひなたが顔を上げた。
「待って。風、こっちから来てる」
金網の右端と斜面の間には、人一人が通れるほどの隙間があり、その先に細い石段が続いていた。
「まだ上ある!」
今まで疲れていたのが嘘のように、ひなたは立ち上がって駆け出した。
「そっちは道じゃないだろ!」
「階段なら道だよ。ほら、二人とも早く!」
前にも聞いたようなことを言いながら、石段を上っていく。僕と直樹もその後を追い、十段ほど進んだところで、急に空が広がった。
草に囲まれた小さな高台の端には低い柵があり、その向こうに町の屋根が重なっている。学校の白い校舎、川に架かる橋、遠くを走る赤い電車。秘密基地のある土手は草に隠れて見えなかったが、歩いてきた道は細い線になって足元まで続いていた。
「見えた! ほら、あれ、さっきの川じゃない? 右にしてよかったね」
ひなたが指差した先では、木の間から細い水面が光っていた。左の道を下ったところから流れ、町の川へ合流している。
「さっき、はずれって言ったじゃん」
「金網までは、はずれ。でもここを見つけたから、今は当たり」
「最初に右って言ったのは俺だけどな」
「なおきは右って騒いでただけでしょ」
直樹は何か言い返そうとして、代わりに柵の向こうを指差した。
「それより、カニはどこにいるんだよ。全然見えないぞ」
「遠いから見えないだけ。絶対いるよ」
高台を抜ける風に、坂で汗ばんだ背中が少し冷えた。僕たちは柵の前へ並んで知っている場所を探したが、直樹が自分の家だと言い張った屋根は、見るたび違う場所にあった。ひなたも似た色の屋根を三つ指し、そのたびに銀色のカメラが小さな音を立てる。
「三人でも撮ろうよ。基地で地図の横に貼ろう」
ひなたは高台の入口にあった平たい石の台へカメラを置き、柵と町が一緒に入るよう何度も画面を覗いて向きを直した。
「このボタンを押したら十秒くらいで撮れるから、走ってここまで来るんだよ。途中で転ばないでね」
「押すだけなら俺にもできる。貸せって」
「最後まで話を聞いてた? 押したらすぐ走るんだよ」
直樹は返事をせず、カメラの前へしゃがみ込んだ。教えられたボタンを押すと赤いランプがゆっくり点滅し始め、僕とひなたは先に柵の前へ並ぶ。
「なおき、もう光ってる! 早く!」
「まだ余裕だって!」
画面をもう一度覗いてから、直樹がこちらへ走ってくる。その間にも赤い光は速くなっていた。
「そこ、俺の場所!」
「場所なんて決めてな――ちょっと!」
直樹がひなたの横へ無理やり飛び込んだ。肩で押されたひなたが僕の腕にぶつかり、直樹の頬はひなたの肩へ押しつけられる。
「せまっ!」
「なおきが無理に入るからでしょ!」
ぶつかったひなたが僕を見上げ、僕もそちらへ顔を向けた瞬間、白い光が弾けた。
三人でカメラへ駆け寄ると、小さな画面の中で、直樹の頬はひなたの肩に押しつけられて潰れていた。僕はその向こうを見ており、ひなたの顔もカメラではなく横を向いている。
「撮り直し! こんなの絶対やだ!」
「面白いからこれでいいよ。私だって髪ぐちゃぐちゃだし」
「ひなたは顔潰れてないだろ!」
直樹が二枚目を撮ろうとしたものの、ひなたはカメラを取り上げ、大事そうに袋へ戻す。
帰りは約束通り左の道へ回り、水音の先にあった細い水路を覗いたが、カニは一匹もいない。それでもひなたは小さな貝殻のようなものを拾い、直樹は帰り道まで「それ石だぞ」と言い続けていた。
翌日の放課後、ひなたは母親に印刷してもらった一枚の写真を秘密基地へ持ってきた。
壁の地図には昨日歩いた二本の道が増え、右の坂の先には四角い金網。その横から伸びる石段の上には、ひなたが緑の色鉛筆で大きな丸を描いている。
『ゆうとがきめた道』
「これ、場所じゃなくて道の名前みたいになってる」
「ゆうとが決めた道なんだから、これで合ってるでしょ」
「俺も最初から右って言ってたぞ。半分くらい俺の道だろ」
「なおきの道にしたら、ずっと坂が続きそうだからだめ」
「どういう意味だよ!」
ひなたは笑いながら、昨日より大きくなった写真を三人の名前を囲んだ紙の隣へ留めた。直樹は潰れた自分の顔を見て、まだ文句を言っている。
僕はひなたを見ていた。
写真の中のひなたも、カメラではなく僕を見て笑っていた。




